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2020年07月05日00:42

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7月5日の日記

今日の出来事:1787年−天明の打ちこわし、1809年−ナポレオン戦争:ヴァグラムの戦い、1861年−第一次東禅寺事件、1863年−朔平門外の変:姉小路公知暗殺事件、1868年−会津戊辰戦争:第四次白河攻防戦、2015年−「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」が世界遺産に登録

今日は、天明の打ちこわしです。天明の打ちこわしは、1787年(天明7年)7月の同時期に江戸、大坂など当時の主要都市を中心に30箇所余りで発生し、翌月には石巻、小田原、宇和島などへと波及した「打ちこわし」の総称です。「打ちこわし」発生数は江戸時代を通じて最多であり、「江戸打ちこわし」は極めて激しいものでした。全国各地で同時多発的に発生した「打ちこわし」、幕府のお膝元の「江戸打ちこわし」によって当時、幕府内で激しい政争を繰り広げていた田沼意次政権派と、松平定信を押し立てようとする譜代派との争いに決着がつき、田沼派が没落して松平定信が老中首座となり「寛政の改革」が始まる事になりました。天明期は、老中と将軍の側近である側用人を兼任していた田沼意次が政治を主導していた「田沼時代」でした。田沼意次の嫡男・意知は奏者番から若年寄となり、父と同様に将軍側近も勤めて後継者としての地歩を固めていました。「天明の大飢饉」、「浅間山の大噴火」などの続発した災害が幕府収入を減少させ、支出の増加を招いた事で幕府財政は極度に悪化しました。幕府に運上金、冥加金の上納を餌に自らの利益を目論んで献策を行う町人が増え、そのような町人の献策を幕府内での出世を目当てに採用していく幕府役人が現れ、町人と幕府役人との癒着も目立つようになりました。東北地方の「天明の大飢饉」が深刻さを増していた1784年5月13日、若年寄・田沼意知は旗本・佐野政言に刃傷されて深手を負い、治療の甲斐なく死去しました。江戸町民は佐野政言を「世直し大明神」と称え、逆に死去した田沼意知の葬列に投石して悪口を投げつけました。大坂では全国的な米不足の中、米の移入が減少しているにも関わらず江戸への米の移送が行われ続け、その上で商人達による米の買い占めが行われていたため、米不足が深刻化していました。1787年6月25日夜、木津や難波に住んでいる人々を中心に木津村の米屋が打ちこわされました。この「打ちこわし」が天明7年の「大坂打ちこわし」の始まりとなり、そして「打ちこわし」は大坂から全国各地へと波及する事になります。翌26日には、多くの下層生活者が住んでいた大坂の周辺部に当たる玉造町、天満伊勢町、安治川新地などに広がりました。27日には、大坂中心部全域で激しい「打ちこわし」が発生しました。民衆達は店舗を破壊して商売道具を壊し、金銭や商品、帳面などを川に投棄するといった激しい「打ちこわし」が大坂中に広まりました。民衆達は米屋に安価での米の販売を要求し、拒否をしたら「打ちこわし」を行いました。28日には、大坂町中の搗米屋は一斉に売り切れの札を店先に掲げ、閉店状態となりました。大坂町奉行所の「打ちこわし」取締り、町々での番人設置、生活困窮者に対する組織的な安価な米の販売が開始された事により、大坂での「打ちこわし」は沈静化に向かいました。しかし、大坂町中の搗米屋の営業休止によって民衆達が近隣へ米を買い求める行動に出た事により、大坂近郊の都市を中心として騒動が広がる事になりました。兵庫で江戸に向けて回米を行っていた米屋など、6軒の米屋が打ちこわされました。「打ちこわし」は大和郡山、奈良、枚方、茨木、尼崎、伏見、岸和田などへ波及し、京都も不穏な情勢となりました。その後、「打ちこわし」は瞬く間に各地へと広がっていきました。和歌山、熊本、岩槻、広島、駿府、長崎、神奈川、下関、博多、久留米など当時の主要都市30カ所余りで「打ちこわし」が発生しました。さらに「打ちこわし」は石巻、小田原、宇和島などへと広まりました。大坂に始まった「打ちこわし」が全国各地へと広まった事は、幕府のお膝元である江戸で発生した大規模な「江戸打ちこわし」と共に幕府に大きな衝撃を与えました。
江戸打ちこわし:江戸では1786年に、江戸始まって以来と言われる大洪水に見舞われて、物価が上がって米価の高騰が始まりました。そして、全国的に米が不作で、米価高騰に拍車が掛かりました。米価の高騰に対して江戸町奉行は、1786年12月3日から著しく生活に困窮している貧民に対して、「お救い米」の支給を行いました。しかし、この施策は小規模かつ限定的なもので、多くの人々には支援の手が届きませんでした。幕府は1787年6月24日、三度目となる「米穀売買勝手令」を公布しました。これまでの二回の公布時と同じく、決められた業者以外が米の流通、販売を行う事を認め、江戸に持ち込まれた米を問屋を通さないで自由販売を認めて、米の流通を活性化させて米価の引き下げを目論みました。しかし、全くの逆効果に終わりました。米価高騰で一儲けを企む商人達によって多くの米が持ち込まれていましたが、投機目的で米は買い占められて市場には流通していませんでした。「米穀売買勝手令」の公布によって米商人以外の多くの商人が米を買い占めて、更なる高値を期待して米の売り惜しみに走る事になり、武家に賄賂を贈って武家宅に預かってもらう例が多発しました。物価高騰によって都市貧民の生活は追い詰められ、家賃未払いで借家を追い立てられ、更に米価高騰によって食糧の入手困難となった貧民達の中から餓死者や自殺者が現れました。1787年6月30日頃から、隅田川にかかる両国橋、永代橋、新大橋などから身を投げる人が急増したため、身投げを行う人が出ないように橋番人を増強して監視を強化しました。すると今度は、隅田川などの渡船から身を投げる人が続出したため、1787年7月3日以降、渡船の運行が中止されました。こうして、自らの生命の危機を感じた人々は「打ちこわし」に立ち上がる事になりました。7月5日の夕方から夜にかけて、赤坂の米屋、揚米屋、三十軒が打ちこわされました。これが江戸中を荒れ狂い、一時は無政府状態に陥れるほどの大規模な「打ちこわし」の始まりでした。同日夜、深川でも「打ちこわし」が始まりました。明けて翌日、「打ちこわし」は江戸の中心部から周辺部にかけての全域に広まりました。打ちこわし勢は鳴り物として鐘、半鐘、鉦鼓、太鼓、拍子木、金盥などを鳴らしながら人々を集め、棒や斧、鋤、鍬、そして鳶口などを持ち、鳴り物や掛け声で合図をし、時々休憩を取りながら「打ちこわし」を行いました。「打ちこわし」の標的の商家の門戸を破る時は大八車を用い、2階に登る時には段梯子を用いるなどし、門塀、壁、障子、畳、床など家屋を破壊し、米を搗く道具である臼や杵、酒樽や桶、帳面などの商売道具、箪笥、長持などの家具、呉服などの家財道具などを壊し、更に米、麦、大豆、酒、醤油、味噌などを路上にぶちまけたり、川に投げ込むなどしました。しかし、「打ちこわし」に乗じた盗賊行為などは見られませんでした。これは「打ちこわし」の目的が民衆の苦しみを省みずに米の買占めを行い、米価高騰を引き起こした商人達へ社会的制裁を加える事にあったためでした。しかし、7日頃からは「打ちこわし」の混乱に乗じた盗みが見られるようになりました。これは、「打ちこわし」の混乱に乗じて盗賊が米や金銭、衣類などを奪うという事態が起こったためでした。7月8日、もはや事態が町奉行の手には負えないと判断されたため、長谷川平蔵ら先手組頭10名に市中取り締まりを命じました。7月10日には「打ちこわし」は、ほぼ沈静化しました。「天明の江戸打ちこわし」の参加者は、総勢5000人ほどで、逮捕者42名、逃走中の指名手配者が5名でした。これは、町奉行所が「打ちこわし」に乗じて盗みを行う者を中心に取り締まった事と、米の買い占めや売り惜しみに走った米屋も拘束し、「打ちこわし」は米屋と打ちこわし勢との喧嘩であると処理されたためでした。1787年7月22日、関東郡代・伊奈忠尊は「勘定所吟味役上首格」から「小姓番頭格」に昇格し、江戸町方の救済を行うよう命じられました。代々、関東郡代として実績を挙げていた伊奈氏が米不足が続く江戸に、大量の米を集める最適任者であると判断されました。伊奈忠尊は、江戸町中の名主を召集して町方救済の支援を要請し、更に町方救済のために交付された20万両で、関東地方のみならず甲斐、信濃、そして奥州まで部下を派遣して米を買い集めて、大量の米を迅速に江戸に集めました。町奉行・曲淵景漸は、打ちこわし発生前の町方からの嘆願に真摯な対応を行わずに大騒動のきっかけを作った事と、打ちこわし発生時の対応が及び腰であった事を咎められて、江戸城西丸御留守居役に左遷されました。また南町、北町両奉行所の与力の総責任者である年番与力に対し、共に江戸追放、お家断絶の処分が下されました。御用御側取次・本郷泰行が解任され、続いて同じく御用御側取次をしていた田沼意次の甥・意致が病気により免職となりました。そして、将軍・徳川家斉に「江戸打ちこわし」の実情を正しく伝えなかったとして横田準松が御用御側取次から解任されました。結局4人の御用御側取次のうち、残ったのは譜代派の小笠原信喜のみでした。全国を席巻した「打ちこわし」、その中でも特に激しかった「江戸打ちこわし」を背景に攻勢を強めた譜代派に対して、最強の牙城であった将軍側近役人から田沼派は全て排除されました。そして、1787年8月2日、松平定信が老中に就任する事になります。「天明の打ちこわし」の結果、政権の座に就く事が可能となった松平定信は、将軍の権威が失墜した事を認めて「戦国よりも危うき時節」と評し、危機感を露にして「寛政の改革」に取り組む事になります。松平定信は「打ちこわし」を起こした総責任者とされた田沼意次の所領及び相良城を没収し、永蟄居を申し渡した上で嫡孫・田沼意明に1万石を与え、辛うじて大名家としての存続を認めるという措置を言い渡しました。

次に、ナポレオン戦争:ヴァグラムの戦いです。ウィーン北東15キロメートルにあるドナウ川北岸の町ヴァグラムの周辺地域で、皇帝・ナポレオンが率いるフランス軍と、カール大公が率いるオーストリア軍とが戦いました。フランス軍18万、オーストリア軍15万という大軍同士が激突し、合わせて7万以上の死傷者を出しました。戦いはフランス軍が勝利し、オーストリアは「シェーンブルンの和約」を結んで屈服しました。

その次に、第一次東禅寺事件です。イギリス公使・オールコックは長崎から江戸へ向かう際、幕府が警備上の問題から海路での移動を勧めたのに対し、条約で定める国内旅行権を強硬に主張して陸路で江戸へ旅し、イギリス公使館が置かれていた江戸高輪・東禅寺に入りました。この行動に対し、尊攘派の志士らは「神州日本が穢された」と憤激しました。水戸藩脱藩の攘夷派浪士・有賀半弥ら14名は東禅寺のイギリス公使館内に侵入し、オールコック公使らを襲撃しました。外国奉行配下で公使館の警備に就いていた旗本や郡山藩士・西尾藩士らが応戦し、邸の内外で攘夷派浪士と戦闘し、双方が死傷者を出しました。オールコックは危うく難を逃れましたが、書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷しました。外国御用出役・江幡吉平が闘死しました。攘夷派浪士は公使らの殺害に失敗して逃走しました。有賀半弥、小堀寅吉、古川主馬之介の3名が討取られ、榊鉞三郎が現場で捕縛されました。逃げた浪士は品川の旅館虎屋で包囲され、中村貞介、山崎信之介の2名は切腹、石井金四郎が捕えられました。前木新八郎も逃げ切れずに切腹しました。浪士らはいずれも襲撃の趣意書を携帯しており、それには「尊攘の大義のため」実行した旨が記されていました。逃走した黒沢五郎、高畑総次郎はその後、「坂下門外の変」に参加して闘死しました。岡見留次郎は西国に逃走して「天誅組の変」に参加、敗走後に捕えられて斬首されました。事件後、オールコックは幕府に対して厳重に抗議し、イギリス水兵の公使館駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いという条件で事件は解決しました。
以下が「第一次東禅寺事件」の関係者です。(実行犯14人+計画1人)
有賀半弥:闘死
小堀寅吉:闘死
古川主馬之介:闘死
榊鉞三郎:捕縛後、斬首
中村貞介:品川で自刃
山崎信之介:品川で自刃
石井金四郎:捕えられ獄死
前木新八郎:逃亡するが自刃
森半蔵:逃亡するが自刃
中村乙次郎:逃亡後、捕えられ斬首
池田為吉:逃亡後、捕えられ獄死
黒沢五郎:その後「坂下門外の変」に参加し、闘死
高畑総次郎:その後「坂下門外の変」に参加し、闘死
岡見留次郎:その後「天誅組の変」に参加し捕えられ、斬首
千葉昌平:襲撃計画に加わるが、発病し参加せず、筑波山に潜伏中捕えられ、獄死

その次の次に、朔平門外の変:姉小路公知暗殺事件です。「猿ヶ辻の変」とも言われるこの事件は、「八月十八日の政変」が起きるきっかけにもなりました。尊王攘夷を唱える過激派公家として知られた姉小路公知は、朝議を終えて宜秋門から退出して帰宅の途中、禁裏の築地を北周りに通り、朔平門外の猿ヶ辻で覆面をした刺客3人に襲われ、顔や胸部に重傷を負いました。ただちに自邸に搬送されましたが、絶命しました。事件現場には、犯行に使われた刀と犯人のものと思われる木履が遺棄されていました。姉小路公知は破約攘夷派の若手公家で、長州藩・土佐藩などの出身志士から盟主として仰がれ、政局の中心に躍り出ていた人物でした。薩摩藩とつながりが深く、親幕府的な公武合体派の前関白・近衛忠煕や、親長州的な過激尊攘思想を好まない右大臣・二条斉敬らと対立していました。事件現場に残された刀の所有者を割り出す事から捜査が始められました。凶器の刀は「奥和泉守忠重」の銘があり、薩摩風の拵であったため、当初から薩摩藩関連者の犯行とされました。薩摩藩側は逆に犯行現場にわかりやすい凶器を遺すというのは薩摩藩を陥れる謀略であると主張し、薩摩犯人説を否定しました。事件2日後、薩摩藩邸に潜伏していた土佐浪士の那須信吾が姉小路邸を訪れ、遺棄された刀が薩摩藩士・田中新兵衛のものであると証言しました。京都守護職・会津藩は東洞院蛸薬師の田中新兵衛の寓居を急襲し、田中新兵衛とその場に居合わせた仁礼源之丞、下僕の太郎を逮捕し、坊城邸へ連行しました。しかし、田中新兵衛は隙を見て奉行所内で自決してしまい、真相究明は不可能となりました。田中新兵衛はそれまで、島田左近・本間精一郎らの暗殺に関わり、土佐藩の岡田以蔵と並ぶ過激派の刺客でした。田中新兵衛の自刃により、薩摩藩の立場が危うくなりました。疑念の目で見られた薩摩藩は禁裏九門の一つである乾御門警備の任から外され、薩摩藩関係者の九門内往来が禁じられるなど次第に京都政局から排除されていきました。こうして孝明天皇と公武合体派の連絡が遮断された結果、三条実美らに牛耳られた朝廷では攘夷親征・大和行幸計画が企図され、天皇にとって本意ではない勅書が濫発される事になりました。これに対し、孝明天皇は島津久光に対し「上京して姦人(三条実美ら)を排除せよ」との密勅を下しました。こうして薩摩藩士・高崎正風と尊融親王を中心に、孝明天皇の周囲から破約攘夷派を排除する計画が立てられ、京都守護職を務める会津藩を巻き込んで「八月十八日の政変」につながっていく事になります。

そのまた次に、会津戊辰戦争:第四次白河攻防戦です。列藩同盟軍は、「第三次白河攻防戦」で大敗し、白河城を奪われました。新政府軍は、板垣退助が「今市の戦い」で勝利し、北関東を制圧しました。江戸では「彰義隊」が壊滅しました。大総督府は白河に増援を派遣しました。列藩同盟軍は、2000の兵力で白河城奪還のために攻撃をかけました。白河城は伊地知正治が率いる700で守りました。しかし、列藩同盟軍は撃退されました。

最後に、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」が世界遺産に登録です。西洋から非西洋世界への技術移転と日本の伝統文化を融合させ、1850年代〜1910年(幕末〜明治時代)までに急速な発展をとげた炭鉱、鉄鋼業、造船業に関する文化遺産です。2015年7月5日の第39回世界遺産委員会にて「世界文化遺産」に登録されました。稼働遺産を含む資産の世界遺産への推薦は、日本では初めてです。範囲も広く、山口・福岡・佐賀・長崎・熊本・鹿児島・岩手・静岡の8エリア23資産に及びます。各資産は次の通りです。
萩エリア:「萩反射炉」、「恵美須ヶ鼻造船所跡」、「大板山たたら製鉄遺跡」、「萩城下町」、「松下村塾」
鹿児島エリア:「旧集成館」、「寺山炭窯跡」、「関吉の疎水溝」
韮山エリア:「韮山反射炉」
釜石エリア:「橋野鉄鉱山・高炉跡」
佐賀エリア:「三重津海軍所跡」
長崎エリア:「小菅修船場跡」、「三菱長崎造船所 第三船渠」、「長崎造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン」、「長崎造船所 旧木型場」、「長崎造船所 占勝閣」、「高島炭坑」、「端島炭坑」、「旧グラバー住宅」
三池エリア:「三池炭鉱、三池港」、「三角西(旧)港」
八幡エリア:「官営八幡製鐵所」、「遠賀川水源地ポンプ室」

今日の誕生日:孫権、会沢正志斎、梅津栄、金城哲夫、仲本工事(ザ・ドリフターズ)、川藤幸三、藤圭子、戸城憲夫(元ZIGGY)、江本晃一、赤松健、ワッキー(ペナルティ)、小杉竜一(ブラックマヨネーズ)、エルナン・クレスポ、杉山愛、須藤公一、小椋久美子、山田優、内野謙太、 野田洋次郎(RADWIMPS)、唐川侑己、佐久間大介(Snow Man)、大谷翔平

今日の記念日:江戸切子の日、穴子の日、名護の日、ビキニスタイルの日、セコムの日、プラチナエイジの日

今日の「今日訓」:本日は、1946年、フランスのルイ・レアールがビキニスタイルの水着を発表した事で「ビキニスタイルの日」、7月5日の誕生石がプラチナである事から60歳以上の世代「プラチナエイジの日」、「魚子(ななこ)」から「なな(7)こ(5)」の語呂合わせで「江戸切子の日」、「あな(7)ご(5)」の語呂合わせで「穴子の日」、「な(7)ご(5)」の語呂合わせで「沖縄県名護市の日」、7月5日、6日で「7(セ)5(コ)6(ム)」の語呂合わせで「セコムの日」となりました。
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