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2020年06月07日00:16

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6月7日の日記

今日の出来事:1541年−第二次佐東銀山城の戦い、1576年−安土城天守閣が完成、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が白河に到着、1868年−明治政府が、長崎・浦上で発見されたキリシタンを流罪にする(浦上四番崩れ)、1942年−第二次世界大戦:ミッドウェー海戦、1945年−第二次世界大戦:第三回大阪空襲

今日は、第二次佐東銀山城の戦いです。毛利元就の台頭と対照的に、安芸・武田氏の衰退は深刻化していました。1533年の「横川表の戦い」で熊谷信直が武田方から離反し、1540年7月12日に武田光和が病没しました。若狭・武田氏から養子に迎えた武田信実が安芸・武田氏を引き継ぎましたが、大内氏との講和を巡る家臣団の対立を解消できませんでした。品川左京亮が香川光景の居城・八木城を攻撃しましたが、毛利方になった熊谷勢などの援軍を得た香川軍に、品川軍は撃退されました。これにより、佐東銀山城から退去する家臣が続出したため、武田信実は城を捨てて出雲、さらには若狭への逃亡を余儀なくされました。武田信実は、勢力を拡大する毛利元就を攻略しようと動き出していた尼子詮久(後の尼子晴久)に、安芸・武田氏復興の支援を要請しました。尼子詮久はこれに応えて牛尾幸清に兵2000を与えて、武田信実とともに佐東銀山城に入城させました。そして、自らは3万の大軍を擁して出陣し、毛利氏の居城・吉田郡山城近くに着陣しました(吉田郡山城の戦い)。尼子軍に呼応して動いた武田信実勢は、般若谷で国司元相が率いる毛利軍と戦いましたが敗退しました。吉田郡山城の攻略が進まないまま、大内義隆から陶隆房(後の陶晴賢)が率いる援軍が安芸に到着しました。武田信実と牛尾幸清は、3000余りの軍勢で大内軍の動きを牽制しましたが、毛利・大内軍の優勢を変える事はできませんでした。1541年2月8日の戦いで決定的な敗北を被った尼子軍は、出雲に退却しました。尼子氏の敗走を聞いた武田信実と牛尾幸清は、その夜の内に城から脱出して大雪に紛れて出雲へ逃亡しました。孤立した佐東銀山城には、武田氏の一族である武田信重が残されました。大内軍は、「吉田郡山城の戦い」に乗じて大内に反旗を翻した桜尾城を攻める一方で、佐東銀山城には毛利元就を差し向けました。武田信重と残る家臣たちは守兵300余で抗戦しましたが、佐東銀山城は6月7日に落城しました。毛利元就は、火を点けた草鞋1000足を夜の太田川に流し、籠城する武田軍に動揺を与えました。難攻不落と言われる佐東銀山城を、搦め手(裏)から攻める事を計画しました。毛利元就は、山の裏手側にある長楽寺が毛利軍の動きを鐘で籠城側に知らせないよう調略しました。さらには、城兵の注意を大手(表)に引きつけるため、油に浸して火を付けた多数の草鞋を太田川から流しました。これにより、毛利軍は佐東銀山城を背後から急襲する事に成功し、城兵は総崩れとなりました。1000足の草鞋が流された太田川岸には、「千足(広島市東区戸坂)」という地名が残されています。この時、大内軍は矢賀・中山・尾長3村の境界の峠を越えて、武田氏に属する白井氏を攻略しました。以後この峠は「大内越峠」と呼ばれるようになりました。武田信重は自害しました。こうして、安芸・武田氏は滅亡しました。その後、この城は大内氏のものとなり、大内方の城番・冷泉隆豊が置かれる事となりました。その後、安芸・武田氏の旧臣で親類でもある伴氏が、安芸・武田氏復興のために挙兵しましたが敗北しました。1551年に、毛利元就は「厳島の戦い」の前哨戦として、大内氏城番の守る佐東銀山城を攻略しました。「厳島の戦い」の後に毛利方の城番が置かれ、以降は毛利氏が佐東銀山城を支配下に治めました。武田光和の庶子で生き残った武田小三郎(後の武田宗慶)は毛利氏に従い、毛利元就の影武者として仕えました。毛利氏の周防移封に伴って、周防・武田氏の祖となりました。

次に、安土城天守閣が完成です。安土城は、織田信長によって現在の安土山に建造され、大型の天守を初めて持つなど威容を誇った城です。郭が琵琶湖に接していました。この城を築城した目的は、岐阜城よりも京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していた事から「越前・加賀の一向一揆に備えるため」、「上杉謙信への警戒のため」などと言われています。城郭の規模、容姿は天下布武を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂に天主・信長が起居しました。安土桃山時代(織豊時代)の「安土」とは、織田信長(安土城)の事で、桃山は豊臣秀吉(伏見城)の事です。しかし、「本能寺の変」で焼失してしまいました。城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域となっています。

その次に、奥の細道:松尾芭蕉が白河に到着です。芭蕉一行は那須から、いよいよ奥州へと入りました。白河の関を越える時、この句を詠みました。「心許なき日かず重るままに、白川の関にかかりて旅心定りぬ」:白河

その次の次に、浦上四番崩れです。長崎県で江戸時代末期から明治時代初期にかけて起きた大規模なキリスト教信徒への弾圧事件で、浦上地区で起こった隠れキリシタンへの4度目の弾圧です。1790年から起こった信徒の取調べ事件「浦上一番崩れ」、1839年にキリシタンの存在が密告され捕縛された事件「浦上二番崩れ」、1856年に密告によって信徒の主だったものたちが捕らえられ、拷問を受けた事件「浦上三番崩れ」、そしてこの「浦上四番崩れ」です。1864年、「日仏修好通商条約」に基づき、居留するフランス人のため長崎の南山手居留地内に、カトリック教会の大浦天主堂が建てられました。主任司祭であったパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父は、信徒が隠れているのではないかという密かな期待を抱いていました。そこへ浦上村の住民数名が訪れました。その中の1人でイザベリナと呼ばれた「杉本ゆり」という女性がプティジャン神父に近づき、「ワレラノムネ(旨)アナタノムネトオナジ」(私たちはキリスト教を信じています)とささやきました。神父は驚愕しました。これが世にいう「長崎の信徒の発見」です。彼らは聖母マリアの像を見て喜び、祈りをささげました。神父は彼らが口伝で伝えた典礼暦を元に「カナシミセツ」(四旬節)を守っていることを聞いて再び驚きました。以後、浦上のみならず、外海、五島、天草、筑後今村などに住む信徒たちの指導者が続々と神父の元を訪れて、指導を願いました。神父はひそかに彼らを指導し、彼らは村に帰って神父の教えを広めました。しかし、浦上村の信徒たちが仏式の葬儀を拒否した事で信徒の存在が明るみに出ました。この件は長崎奉行に届けられ、信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らははっきりとキリスト教信仰を表明しました。長崎奉行の報告を受けた幕府は、密偵に命じて浦上の信徒組織を調査しました。そして、秘密の教会堂を幕吏が急襲し、高木仙右衛門ら信徒ら68人が一斉に捕縛されました。捕縛された信徒たちは激しい拷問を受けました。江戸幕府が瓦解すると、「五榜の掲示」の第三条で再びキリスト教の禁止が確認されました。捕縛された信徒たちは流罪となりました。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑(水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなどその過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕府時代以上でした。)各国公使は、事の次第を本国に告げて、日本政府に繰り返し抗議を行ないました。岩倉具視以下、岩倉使節団一行が訪問先のアメリカ大統領のユリシーズ・S・グラント、イギリス女王のヴィクトリア、デンマーク王のクリスチャン9世らに、禁教政策を激しく非難されました。明治政府のキリスト教弾圧が、「不平等条約改正」の最大の障害である事を思い知らされました。こうして、日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放しました。配流された者の数3394名、うち662名が命を落としました。生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰をより強くし、故地・浦上に聖堂(浦上天主堂)を建てました。

そのまた次に、第二次世界大戦:ミッドウェー海戦です。ミッドウェー島の攻略をめざす日本海軍を、アメリカ海軍が迎え撃つ形で発生しました。空母機動部隊同士の航空戦の結果、日本海軍が敗退しました。日本海軍は機動部隊の中核をなしていた航空母艦4隻とその艦載機を一挙に喪失する損害を被り、戦争における主導権を失いました。ここで奮戦したのが山口多聞中将の「飛龍」でした。主力四空母中「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の三空母が敵急降下爆撃により大被害を受けると、第八戦隊旗艦「利根」と機動部隊全艦に対し、「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」と発光信号を発し、指揮継承順上位の第八戦隊司令官・阿部弘毅少将に通信しました。また、「飛龍」艦内には「赤城・加賀・蒼龍は被爆した。本艦は今より全力を挙げて敵空母攻撃に向かう」と通報し、乗艦「飛龍」とともに全力を挙げてアメリカ機動部隊への反撃に移りました。二次にわたる航空攻撃の結果、敵主力空母「ヨークタウン」を大破させましたが、第三次攻撃を前に「飛龍」が被弾しました。作戦能力喪失と判断すると速やかに総員退艦を命じ、自らは艦長・加来止男と共に「飛龍」と運命を供にしました。この際、部下は再三にわたって山口多聞と加来止男に対して退艦を懇請しましたが、これを拒否しました。また、別な部下が帯同を申し出るとこれも断固として許可しませんでした。総員退去の際、退艦する主席参謀・伊藤清六中佐が「何かお別れに戴くものはありませんか?」と頼むと黙って自分の被っていた戦闘帽を渡しました。日本軍の被害は、航空母艦4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)と重巡洋艦1隻(三隈)が沈没、 重巡洋艦1隻(最上)が大破、駆逐艦1隻(荒潮)が中破、戦死3057名(山口多聞少将(二航戦司令官、戦死後中将に特進)、岡田次作大佐(「加賀」艦長、戦死後少将に特進)、柳本柳作大佐(「蒼龍」艦長、戦死後少将に特進)、加来止男大佐(「飛龍」艦長・戦死後少将に特進)、崎山釈夫大佐(「三隈」艦長、戦死後少将に特進))です。アメリカ軍は、航空母艦1隻(ヨークタウン)、駆逐艦1隻(ハンマン)が沈没、戦死307名でした。
航空母艦「加賀」:岡田次作艦長以下約811人が犠牲となり、その多くは艦内の火災で脱出不可能となった機関部員で生存者は40名程でした。加賀搭乗員は機上で8名が戦死しました。米軍機の攻撃と誘爆により搭乗員13名が戦死し、「加賀」搭乗員は機上・艦上と合わせ楠美正飛行隊長以下21名(戦闘機6名、艦爆6名、艦攻9名)が戦死しました。少なくとも7機の零戦が「加賀」戦闘不能後も空母「飛龍」に着艦して戦闘を継続しましたが、「飛龍」の沈没と共に全機が失われました。
航空母艦「蒼龍」:柳本柳作艦長以下准士官以上35名、下士官兵683名、計718名が戦死しました。その多くは、艦内の火災で脱出不可能となった機関部員でした。一部の乗組員は、駆逐艦「磯風」や「浜風」に救助されました。機関科の脱出者は定員300名中、30名弱でした。乗組員達は艦長・柳本柳作に脱出するよう懇願しましたが、柳本は拒否して艦と運命を共にしました。搭乗員戦死者は機上6名、艦上4名の合わせて10名(戦闘機4名、艦爆1名、艦攻5名)でした。直衛隊の零戦数機が「飛龍」に着艦して戦闘を続けましたが、「飛龍」の沈没と共に全機が失われました。
航空母艦「赤城」:定員は1630名、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名が戦死しました。機関科員が閉じ込められた「加賀」、「蒼龍」と異なり、その多くが駆逐艦「嵐」や「野分」に救出されました。海戦での「赤城」搭載機搭乗員の戦死者は機上3名、艦上4名の合わせて7名(戦闘機4名、艦爆1名、艦攻2名)でした。「赤城」炎上後も、数機の零戦が空母「飛龍」に着艦しましたが、その後の戦闘や「飛龍」沈没によって全機が失われました。
重巡洋艦「三隈」:第七戦隊(旗艦「熊野」を先頭に「鈴谷」、「三隈」、「最上」)はミッドウェー島砲撃中止命令により、「大和」以下の連合艦隊主力部隊と合流するため反転しました。アメリカ海軍潜水艦「タンバー」を発見して、緊急回頭を行った際に三番艦「三隈」と最後尾艦「最上」が衝突事故を起こしました。「三隈」に衝突した「最上」は、砲塔前部の艦首を切断しました。潜水艦「タンバー」の報告を受けた米軍は、ミッドウェー島の航空戦力で「三隈」と「最上」を攻撃しました。米軍攻撃隊により、重巡洋艦「三隈」は集中攻撃を受けて沈没しました。艦長・崎山釈夫以下、700名が戦死しました。駆逐艦「荒潮」は、240名程を救助した段階で退避を余儀なくされ、人力操舵で「三隈」から離れました。駆逐艦「朝潮」は、内火艇やカッターを降ろして海面を漂流する「三隈」乗組員の救助を行ないましたが、米軍機の攻撃で被弾して戦死者22名、重傷者35名を出しました。「最上」は大破して91名が戦死しましたが、「三隈」の生存者150名程を救助し、救援に駆け付けた第二艦隊(近藤信竹中将の旗艦「愛宕」以下)と合流して脱出しました。「最上」は帰国後、佐世保工廠で後部砲塔を撤去し、水上偵察機繋止用航空甲板を設置する改修工事が行なわれます。これにより、水上機11機を搭載可能な「航空巡洋艦」となります。
航空母艦「飛龍」:「飛龍」の戦死者は、司令官・山口多聞、艦長・加来止男ら准士官以上30名、下士官兵387名の計417名ですが、機関科兵34名が米軍の捕虜となりました。2度の「ヨークタウン」攻撃で多くの損害を出した「飛龍」搭載機搭乗員の戦死者は、機上64名、艦上8名の合わせて72名(戦闘機11名、艦爆27名、艦攻34名)に上りました。生存者は第十駆逐隊の駆逐艦「巻雲」、「風雲」に移りました。

最後に、第三回大阪空襲です。1945年6月7日11時9分から12時28分の約1時間20分、「Bー29」爆撃機250機により行なわれました。米軍の照準点は、都島区高倉町、鶴橋駅付近、天王寺駅付近でした。また、城東の大阪陸軍造兵廠を狙って大型爆弾を投下しました。この空襲では、都島区を中心とした大阪市東部と兵庫県尼崎市が被害を受けました。大阪陸軍造兵廠を狙った爆弾は、目標を大きく外れて市街地に落下しました。この空襲では長柄橋に爆弾が直撃し、さらに機銃掃射が加えられたため、橋の下に避難していた市民約400人が犠牲となりました。また、柴島浄水場が破壊され、上水道供給機能が停止しました。この空襲で、死者1594名、負傷者4967名、焼失5万6千戸の被害を出しました。

今日の誕生日:一条兼良、ポール・ゴーギャン、若山セツ子、岸部四郎(元ザ・タイガース)、村本善之、プリンス、小林武史(元MY LITTLE LOVER、Bank Band)、荒木飛呂彦、手塚理美、徳永善也(元チェッカーズ)、カフー、穴井夕子(元東京パフォーマンスドール)、松田純、矢部美穂、三浦敦子、塩谷瞬、浅見れいな、カレン・ロバート、西田汐里(BEYOOOOONDS)

今日の記念日:母親大会記念日、緑内障を考える日、むち打ち治療の日、計量記念日、ムダ毛なしの日

今日の「今日訓」:本日は、1951年6月7日、それまでの「度量衡法」を全面的に改正した「計量法」が公布された事を記念して「計量記念日」、1955年に「第1回母親大会」が東京で開催された事を記念して「母親大会記念日」、「りょく(6)ない(7)しょう」の語呂合わせで「緑内障を考える日」、「む(6)ちうちをな(7)おそう」の語呂合わせで「むち打ち治療の日」、「6(ムダ毛)と7(なし)」の語呂合わせで「ムダ毛なしの日」となりました。
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