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2020年06月02日00:22

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6月2日の日記

今日の出来事:907年−朱全忠が大梁国(後梁)を建国、五代十国時代の始まり、1183年−源平合戦:倶利伽羅峠の戦い、1469年−応仁の乱:西岡の戦い、1868年−秋田戊辰戦争:入間森畑の戦い、1986年−衆議院解散(死んだふり解散)、1989年−竹下登内閣が総辞職

今日は、朱全忠が大梁国(後梁)を建国、五代十国時代の始まりです。朱温は「黄巣の乱」に参加し、頭角を現しました。黄巣軍が長安を落とした後、夏州節度使であった諸葛爽を投降させました。南陽を攻め落とすなど軍功を立てましたが、黄巣から派遣された監軍使の厳實を斬り、唐の王重栄に投降しました。その後、朱温は唐側として黄巣軍を諸侯軍とともに長安から追い落としました。この戦功で、朱温は唐の皇帝・僖宗から感謝され、左金吾衛大将軍、河中行営副招討使の地位を与えられ「全忠」の名前を賜り、朱全忠と呼ばれるようになりました。朱全忠は節度使に昇進した後、黄巣に対し共に戦った李克用と唐朝内部での主導権争いが発生しました。朱全忠はこの抗争に勝利し、唐の実権を掌握しました。その後、朱全忠は昭宗を殺害し、昭宣帝(哀帝)を帝位に即け、禅譲の準備を整えました。腹心の李振・蒋玄暉らの進言によって唐の高官らを黄河へ沈めるべきとの建言を受けて、唐の高官であった裴枢・独孤損・崔遠・王溥・趙崇ら30余人を一斉に左遷して、任地に向かわせる途中の白馬駅で処刑し、その遺体を黄河に放棄しました。朱全忠は昭宣帝から禅譲を受け国号を「梁」と定め、新しい王朝を開きました。山東の済陰王に降格された昭宣帝は、曹州で朱全忠によって毒殺されました。こうして「唐」は滅亡し、「五代十国」時代の幕開けとなりました。唐の滅亡から北宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した5つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した地方政権(十国)とが興亡した時代です。その後、朱全忠は後継者を養子の博王・朱友文に継がせようとしました。それを不満に思った子の朱友珪に殺害されます。

次に、源平合戦:倶利伽羅峠の戦いです。以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃国で挙兵した木曾義仲は、平家方の城助職の大軍を「横田河原の戦い」で破り、その勢力を北陸道方面に大きく拡げました。平家は平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向けました。平家軍は越前国の「火打城の戦い」で勝利し、木曾義仲軍は越中国へ後退をしました。しかし、加賀国より軍を進め、般若野で兵を休めていた平氏軍先遣隊・平盛俊の軍が、木曾義仲軍の義仲四天王の一人・今井兼平軍に奇襲され、平盛俊軍は退却しました「般若野の戦い」。後退した平家軍は、能登国志雄山に平通盛、平知度の3万余騎、加賀国と越中国の国境の砺波山に平維盛、平行盛、平忠度らの7万余騎の二手に分かれて陣を敷きました。木曾義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ向けて牽制させ、木曾義仲本隊は砺波山へ向かいました。木曾義仲は、今井兼平の兄で義仲四天王の一人・樋口兼光の一隊を、ひそかに平家軍の背後に回り込ませました。平家軍が寝静まった夜間に、木曾義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けました。浮き足立った平家軍は退却しようとしましたが、退路は樋口兼光に押さえられていました。大混乱に陥った平家軍7万余騎は唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとしましたが、そこは倶利伽羅峠の断崖でした。平家軍は将兵が次々に谷底に転落し、壊滅しました。平家は木曾義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は命からがら京へ逃げ帰りました。木曾義仲軍はこの戦いで数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つという、有名な「火牛の計」を使いました。この戦いに大勝した木曾義仲は京へ向けて進撃を開始し、上洛を果たします。

その次に、応仁の乱:西岡の戦いです。西岡の戦いは、現在の京都府乙訓郡西岡で東軍と西軍が衝突した戦いです。山城西部の乙訓郡は丹波・摂津に近い地域で、国人は2ヶ国守護の細川氏と深い繋がりを持っていました。この縁で「応仁の乱」では細川勝元が率いる東軍に味方して、野田泰忠ら国人衆は西岡を始めとする乙訓郡で上洛する西軍の軍勢と戦っていました。しかし、戦闘が京都から周辺地域に移ると西岡が狙われる状況になり、東西両軍が入り乱れて合戦を繰り返すようになりました。5月30日、谷の堂(京都市)を根拠とする西岡国人衆は、鶏冠井城(向日市)に籠城する西軍を襲撃しました。3日後の6月2日に畠山義就が出撃、谷の堂は落とされて西岡国人衆は丹波へ逃亡しました。西岡を含む乙訓郡は西軍が制圧、畠山義就は勝竜寺城で乙訓郡及び山城の支配に取り掛かりました。この後、大内政弘も摂津へ向かって東軍の拠点を殆ど奪い取り、山城周辺は西軍に押さえられました。西岡を失った野田泰忠らは奪還のため山名是豊を山崎に迎え入れ、勝竜寺城の義就と交戦を続けましたが、山名是豊が領国備後へ下向してからは小競り合いとなり、終戦まで乙訓郡は畠山義就の占領下にありました。また、大内軍も南山城へ遠征し、山城と大和の境界付近にある木津を巡って、両軍が攻防戦を繰り広げました。

その次の次に、秋田戊辰戦争:入間森畑の戦いです。天童を焼討ちした酒井吉之丞が率いる庄内軍は、本道寺に布陣しました。新政府軍は入間境、岩坂、松ノ木平で水沢の庄内軍と交戦しました。庄内軍は横岫に陣営して、新政府軍は寒河江川を隔てて吉川村に布陣しました。その後。入間村字森畑に進出して砲撃戦を始めました。庄内軍は渡河して水沢村字宿下に進み攻勢に出ました。また、本道寺にいた庄内軍の一隊が寒河江川を渡り、月岡から山越えして小山道を通って森畑の新政府軍を背後から奇襲しました。この結果、新政府軍は甚大な損害を蒙り敗走しました。その際に、綱取付近にいた庄内軍の伏兵の待ち伏せで、新政府軍はさらに損害を出しました。夕暮れに新政府軍300人が綱取から進撃し、字山崎に着いたので、庄内軍は退却しました。その時、新政府軍は庄内軍の営所である横岫を焼払いました。新政府軍は追撃し、本道寺伽藍および月岡の民家を焼討ちしました。一方、庄内軍は六十里越を通って庄内領に退却しました。

最後に、1986年の衆議院解散(死んだふり解散)、1989年の竹下登内閣総辞職です。衆議院解散(死んだふり解散)は、中曽根康弘が高い支持率を得ている時に内閣を解散し、自民党圧勝を呼び込んで、再び総理大臣に復帰した事で「死んだふり解散」と呼ばれました。竹下登内閣総辞職は、「消費税導入」と「リクルート事件」で信を失った竹下登内閣が総辞職しました。

今日の誕生日:朝倉孝景、カリオストロ、中山みき、千代の山雅信、飯干晃一、チャーリー・ワッツ(ローリング・ストーンズ)、平泉成、三沢あけみ、鷲尾真知子、富田京子(プリンセス・プリンセス)、ロベルト・ペタジーニ、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、政井マヤ、柳沼淳子、末續慎吾、又吉直樹(ピース)

今日の記念日:イタリア共和国記念日、イタリアワインの日、横浜港開港記念日・長崎港記念日、横浜カレー記念日、路地の日、甘露煮の日、ローズの日、おむつの日、裏切りの日、オムレツの日、むずむず脚症候群の日、CEの日、ロープの日

今日の「今日訓」:本日は、1946年にイタリアの国民投票により「王制」に代わって「共和制」を政体とする事を決定した「共和国記念日」、イタリアの祝日「共和国記念日」に合わせて日本では「イタリアワインの日」、1859年に「日米修好通商条約」により横浜港・長崎港が開港した事から「横浜港開港記念日・長崎港記念日」、横浜港の開港とともにカレーが日本に入って来た事から「横浜カレー記念日」、1582年に明智光秀が織田信長を裏切って「本能寺の変」を起こした事から「裏切りの日」、1987年に臨床工学技士が国家資格として公布された日で「CEの日」、「ろ(6)じ(2)」の語呂合わせで「路地の日」、「ロー(6)ズ(2)」の語呂合わせで「ローズの日」、「ろ(6)に(2)」の語呂合わせで「甘露煮の日」、「お(0)む(6)つ(2)」の語呂合わせで「おむつの日」、「0(オ)6(ム)レ(0)ツ(2)」の語呂合わせで「オムレツの日」、「む(6)ず(2)む(6)ず(2)」の語呂合わせで「むずむず脚症候群の日」、「ロー(6)プ(2)」の語呂合わせで「ロープの日」、5月の第2日曜日の「母の日」と6月の第3日曜日の「父の日」の間にあたる日、6月の第1日曜日で「ベビーデイ」となりました。
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