mixiユーザー(id:48382454)

2020年06月01日00:11

75 view

6月1日の日記

今日の出来事:前195年−前漢の初代皇帝・劉邦没、1569年−掛川城の戦い、1794年−栄光の6月1日、1823年−千代田の刃傷、1808年−近思録崩れ、1877年−西南戦争:人吉攻防戦、1941年−クレタ島の戦い(メルクール作戦)が、ドイツ軍のクレタ島全島占拠により終結、1945年−第二次世界大戦:第二回大阪空襲、尼崎空襲、1948年−東京急行電鉄(通称・大東急)が解体され、小田急電鉄・京王帝都電鉄(現・京王電鉄)・京浜急行電鉄が設立、1955年−現行の一円硬貨発行、日本初のアルミ硬貨、1959年−「ヤン坊マー坊天気予報」放送開始、1971年−立山黒部アルペンルート全通

今日は、前漢の初代皇帝・劉邦没です。劉邦は、前漢の初代皇帝です。「垓下の戦い」で項羽を討ち、前漢を興しました。正式には廟号が「太祖」、諡号が「高皇帝」ですが、通常は「高祖」と呼ばれています。劉邦が前漢の初代皇帝に即位する時、楚王・韓信、韓王・信、淮南王・英布、梁王・彭越、元の衡山王・呉芮、趙王・張耳、燕王・臧荼と共に漢王・劉邦に「皇帝」の尊号を奉りました。その年に、燕王・臧荼が漢に対して反乱を起こしましたが、劉邦が征伐に出向いてこれを降しました。臧荼は捕らえられて処刑されました。臧荼に代わって、盧綰(高祖の幼馴染)が燕王に封建されました。その中で劉邦は、次第に部下や諸侯に猜疑の目を向けるようになりました。特に韓信・彭越・英布の3人は領地も広く、百戦錬磨の武将であったため、最も危険な存在でした。韓信は、旧知であった楚の将軍・鍾離昧を匿っていました。ある時、「韓信が反乱を企んでいる」と讒言する者がありました。群臣たちは韓信に対する妬みもあり、これを討伐するべきだと言いましたが、陳平は軍事の天才・韓信と戦うのは危険であると説き、騙して捕らえる事を提案しました。劉邦はこれを受け入れて、巡幸に出るから韓信も来るようにと言いつけました。鍾離昧は「漢王が私を血眼に探すのは私が恐ろしいからです。次は貴方の番ですぞ」と言い残し、自ら首を撥ねました。匿っていた鍾離昧の首を持参した韓信がやって来た所を虜にし、楚王から格下げして淮陰侯にしました。翌年、匈奴の冒頓単于に攻められて降った韓王・信が、そのまま反乱を起こしました。劉邦は再び親征して、これを降しました。陳武との戦いに敗れた韓王・信は斬られました。翌紀元前200年、匈奴の冒頓単于を討つために、更に北へ軍を動かしました。しかし、冒頓単于は弱兵を前方に置いて負けたふりをして後退を繰り返しました。追撃を急いだ劉邦軍の戦線が伸び、少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲されました。この時、劉邦は7日間食べ物がなく窮地に陥りましたが、陳平の策略によって冒頓単于の妃に賄賂を贈り、脱出に成功しました(白登山の戦い)。その後、劉邦と冒頓単于は匈奴を兄、漢を弟として毎年貢物を送る条約を結び、以後は匈奴に対して手出しをしない事を約束しました。紀元前196年、鉅鹿太守・陳豨が反乱を起こし、劉邦は親征しました。この時、韓信は反乱を起こそうと目論みましたが、蕭何の策で捕らえられて誅殺されました。劉邦は陳豨を降して戻ると、韓信が誅殺された事を聞かされ、これを悲しみました。同年、反乱を起こすと嫌疑をかけられた梁王・彭越は、捕らえられて蜀に流される所を劉邦の妻・呂雉の策謀により誅殺されました。この事が淮南王・英布の反乱を招きました。劉邦はこの時、体調が悪く太子(恵帝)を代理の将にしようと考えていましたが、皇后・呂雉らにこれを諫められたため、親征して英布を降しました。この遠征から帰る途中で、故郷の沛に立ち寄って宴会を行い、この地の子供120人を集めて「大風の歌」を歌わせました。そして、沛に永代免租の特典を与えました。その後、沛の人たちから請われて故郷の豊にも同じ特典を与えました。しかし、この英布との戦いで受けた矢傷が元で更に病状が悪化した劉邦は、翌紀元前195年に呂雉に誰を丞相とするべきかの人事策を言い残しました。死期を悟った劉邦は、「死後どうすればよいのか」と問う呂雉に対して「丞相の蕭何に任せておけばよい。その次は曹参が良かろう」と言い、更に何度も「その次は?」と聞く呂雉に「その次は王陵が良いだろうが、愚直すぎるので陳平を補佐とするとよい。だが陳平は頭が切れすぎるから、全てを任せるのは危ない。社稷を安んじるものは必ずや周勃であろう」と言いました。そして、なおも「その次は?」と聞く呂雉に「お前はいつまで生きるつもりだ。その後はお前にはもう関係ない」と言いました。この遺言は、後に全て的中する事になります。こうして、劉邦は死去しました。死後、太子が即位して恵帝となりましたが、実権は全て呂雉に握られました。強大な諸侯は全て劉邦に粛清されており、対抗できる者がいなかったため、呂氏一族の時代がやって来る事になりました。呂雉は「中国三大悪女」の一人「呂太后」と呼ばれ、呂氏に有利な粛清を行ないます。しかし、呂雉の死後に周勃と陳平により呂氏は粛清され、文帝が迎えられて「文景の治」の繁栄がやって来る事になります。

次に、掛川城の戦いです。掛川城は、守護大名・今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕に命じて築城されました。そのまま、朝比奈氏が城代を務め、朝比奈泰煕の子・朝比奈泰能、孫・朝比奈泰朝が代々城を預かりました。朝比奈泰能は、今川氏親、氏輝、義元の今川氏3代に渡って仕えた宿老です。1526年に制定された「今川仮名目録」に、三浦氏満と並ぶ重臣として記されています。今川氏の外交文書などでは、太原雪斎とともに名を連ねています。また、寿桂尼の兄・中御門宣秀の娘を娶る事で主君・今川氏の姻戚となりました。遠江の要衝・掛川城を居城として今川義元の遠江・三河への戦略を常に助ける働きをしました。1548年の「小豆坂の戦い」では、総大将・太原雪斎を補佐する副将として出陣しました。1549年には、岡崎城主・松平広忠の横死により、岡崎城接収の任にも当たりました。朝比奈泰能の死後、子・泰朝が家督を継承しました。1560年の今川義元の尾張侵攻で、井伊直盛と織田氏の鷲津砦を攻略、窮地に陥った大高城を救いましたが、本隊の今川義元が「桶狭間の戦い」で討死すると撤退しました。今川義元の死で動揺が拡大し、離反する諸将が相次ぐ中で今川氏真を支えました。1562年には、謀反の疑いのある井伊直親を今川氏真の命により成敗しました。三浦氏満と越後の上杉氏との交渉に当たりました。1568年、甲斐の武田信玄が同盟を破棄して駿河に侵攻、今川氏が三河の徳川家康から挟み撃ちに遭いました。今川氏真は本拠・駿府館を捨てて、朝比奈泰朝の掛川城に逃げ延びました。このため、掛川城は徳川勢の包囲に遭いました。今川氏の重臣の大半が今川氏真を見限って武田氏や徳川氏に寝返りましたが、朝比奈泰朝は今川氏に最後まで忠義を尽くしました。朝比奈泰朝が城を守ったため、掛川城は落城しませんでした。5ヶ月に亘って奮戦しましたが、援軍の無い中での戦いには限りがありました。和議で主君・今川氏真の身の無事を徳川家康に認めさせると、朝比奈泰朝は開城を決断しました。今川氏真と共に、相模の小田原城へ退去しました。今川氏真は伊豆に退去する事となり、朝比奈泰朝も供奉して伊豆へ同行しました。掛川城には城代として徳川家康の重臣の石川家成・康通親子が入りました。間もなく駿河に入った武田信玄が徳川家康と敵対し、掛川城に近い牧之原台地に諏訪原城を築きます。掛川城の南方にある高天神城では、武田・徳川両氏の激しい攻防戦の舞台となります。

その次に、フランス革命における最大の海戦、「栄光の6月1日」です。ハウ提督の率いるイギリス海峡艦隊とルイ・トマス・ヴィラレー・ド・ジョワイユーズが指揮するフランス大西洋艦隊が、フランス領・ウェサン島の西、大西洋上で激突しました。フランス軍は7隻の戦艦と4000名を失いましたが、穀物輸送船団が安全に目的地に達する十分な時間を稼ぐ事ができました。イギリス軍は1200名を失いました。イギリスの戦術的勝利、フランスの戦略的成功となりました。両国の「海軍能力と勇敢さの輝かしい現われ」として称揚されました。

その次の次に、千代田の刃傷です。松平忠寛、通称・外記は11代将軍・徳川家斉に仕える旗本でした。当時、旗本の風紀は大いに乱れており、新人、古参の区別が厳しく、新参者は奴隷のように酷使虐待されていました。松平外記は古参の本多伊織、戸田彦之進、沼間左京の度重なる侮罵と専横を受け、ついに鬱憤を抑える事ができず、江戸城殿中で刀傷に及び、3人を斬り殺し、間部源十郎、神尾五郎三郎の2人に傷を負わせました。その後、自刃して果てました。老中・水野忠成が厳重詮議を行ない、殺害された3人の所領は没収、神尾五郎三郎は改易、間部源十郎は隠居となりました。松平家は外記の子・栄太郎が相続を許されました。

そのまた次に、近思録崩れです。近思録崩れは、薩摩藩で勃発したお家騒動です。「近思録」(朱子学の教本で、儒教の実践に重きを置く)の学習会によって同志を募った事から「近思録崩れ」と命名されました。薩摩藩主・島津重豪は、家督を長男・斉宣に譲ると隠居し、上総介に遷任されましたが実権は握り続けました。島津斉宣が樺山主税、秩父太郎ら「近思録党」を登用して緊縮財政政策を行なおうとしました。しかし、華美な生活を好む島津重豪は、斉宣の政策に反対しました。定例の参勤交代で江戸へ出発する月となり、藩主・島津斉宣は秩父季保を江戸に同行させる事にしました。しかし、秩父季保の長男が急逝したため、同行は不可能となりました。そのため、島津斉宣も「病気」と称して参勤交代を遅らせました。しかし、島津重豪は先手を打って樺山久言、秩父季保の両名へ隠居を命じました。これにより、島津斉宣が参勤交代で江戸に向かうと、両名が島津重豪の命により処分される可能性が非常に高くなったため、島津斉宣は「重病」と称して参勤交代を引き延ばす作戦に出ました。しかし、これが島津重豪に付け入る隙を与える結果となり、「重病」の島津斉宣の代理と称して薩摩藩の政務に介入するようになりました。そして、島津斉宣が参勤交代で江戸に向かう事が決定すると、「近思録党」に属していた藩士に順次、遠島・蟄居などの処分が下されました。処分者の中には、その報を聞いただけで自害した者もいました。処分者は切腹13名、遠島25名、剃髪42名、逼塞23名、謹慎など12名に上りました。その後、廃止されていた鷹場などの施設の復活が決定し、市田盛常の長男・義宜が勘定奉行に任命されました。更に島津重豪は樺山久言・秩父季保らの関係した政務書類の全焼却を命じ、「近思録党」の改革は存在すら抹殺される事となりました。秩父季保、樺山久言は切腹しました。翌年、島津斉宣も「近思録党」を取り立てた責任を問われて隠居に追い込まれ、家督を長男・斉興に譲らされました。こうして、島津重豪は斉宣を隠居させて孫・斉興を擁立し、自らはその後見人となって政権を握ったのです。以下が主な処分者です。島津斉宣・隠居、樺山久言・蟄居閉門(後に内命で切腹)、秩父季保・喜界島に家族と共に遠島(後に内命で切腹)、伊地知季安・喜界島に流刑、清水源左衛門・役儀罷免、謹慎(謹慎中に切腹)、黒葛原周右衛門・高隅郷の寺に蟄居、奈良原助左衛門・喜界島遠島、島津彦大夫・日向国馬関田郷の威徳院に蟄居、その後、下級藩士の間で「近思録党」は「藩に殉じた悲劇の士」として語られ、西郷隆盛や大久保利通など多くの藩士が「近思録」を読み、結党するようになりました。これらの藩士が後に、島津重豪が寵愛した曾孫・島津斉彬の擁立に活躍する事になります。

そのまた次の次に、西南戦争:人吉攻防戦です。4月30日、「常山隊」は中村、「遊撃隊」の春田吉次は頭治などそれぞれ要地を守備しましたが、5月3日〜7日までの「宮藤の戦い」、5月10日〜14日までの「平瀬の戦い」で、政府軍は中村中佐の活躍によりこれらを敗走させる事に成功しました。中村中佐は5月21日、横野方面の薩摩軍を襲撃して岩野村に敗走させました。一方、尾八重を守っていた「干城隊」は岩野村を守備し、5月22日に前面の政府軍を襲撃して敗走させました。別働第2旅団は7つの街道から球磨盆地に攻め入る作戦をたて、5月1日〜9日までこの作戦を遂行しました。前衛隊は球磨川道、佐敷道から攻めました。街道は大部隊が通るには困難な地形であったため、政府軍は各地で薩摩軍に敗退しました。しかし、人員・物資の不足によって薩摩軍は勢いがなくなると、5月12日に別働第2旅団は北部の五家荘道等の5つの街道から南下しました。薩摩軍の球磨川北部の守りが薄かったので、別働第2旅団は12日〜25日までの13日間に五木荘道の頭治・竹の原、球磨川道の神瀬、種山道、仰烏帽子岳など多くの要地を陥落させました。この頃、桐野利秋は宮崎から鹿児島方面および豊後等の軍を統監していましたが、ここを根拠地とするために宮崎支庁を占領し、5月28日に軍務所と改称しました。5月29日、別働第2旅団の侵攻で危険が目前に迫った人吉では、村田新八らが安全のために池上四郎を随行させて、2000名の護衛で西郷隆盛を宮崎の軍務所へ移動させました。西郷隆盛が軍務所に着くと、新たな薩摩軍の本営となり、軍票(西郷札)などが作られて財政の建て直しをはかりました。山田顕義少将が指揮する別働第2旅団の主力部隊は5月30日、五家荘道・照岳道などから人吉に向かって進撃しました。これと戦った薩摩軍は各地で敗退し、五家荘道の要地・江代も陥落しました。また神瀬口の河野主一郎、大野口の淵辺群平は共に人吉にいましたが、薩摩軍が敗退して人吉が危機に陥った事を聞き、球摩川に架かる鳳凰橋に向かいました。しかし、政府軍の勢いは止められず、橋を燃やしてこれを防ごうとした淵辺群平は銃撃を受けて重傷を負い、吉田に後送されましたが亡くなりました。6月1日早朝、照岳道の山地中佐隊に続いて政府軍が次々と人吉に突入しました。そして村山台地に砲台を設置し、薩摩軍本営のあった球磨川南部を砲撃しました。村田新八が率いる薩摩軍も人吉城二ノ丸に砲台陣地を設けて対抗しました。この戦いは3日間続きました。薩摩軍本隊は大畑などで大口方面の雷撃隊と組んで戦線を構築し、政府軍の南下を防ごうとしましたが失敗し、堀切峠を越えて飯野へと退却しました。こうして人吉は政府軍が占領する事となりました。6月4日、薩摩軍「人吉隊」隊長・犬童治成らが部下とともに別働第2旅団本部に降伏し、その後も本隊に残された部隊が政府軍の勧告を受け入れて次々と降伏しました。「人吉隊」の中には、後に政府軍に採用されて軍務に服した者もいました。

さらに次に、クレタ島の戦い(メルクール作戦)です。イタリア軍がギリシャ本土に侵攻した時に、イギリス軍はクレタ島に進駐しました。イタリア軍はギリシャ軍に撃退されましたが、援軍に来たドイツ軍がギリシャを攻略し、連合軍兵士57000人はギリシャ本土から撤退しました。イギリス海軍は彼らをクレタ島に輸送し守備隊としました。ギリシャ本土からのドイツ空軍の頻繁な空襲により、クレタ島のイギリス空軍はエジプトに退避しました。飛行場制圧のためドイツ軍パラシュート部隊が降下しました。降下に先立ちドイツ空軍の3時間に渡る激しい爆撃により、ほとんどの対空兵器が破壊されました。しかし、ドイツ軍の降下部隊は大打撃を受けました。敵部隊の激しい銃撃のなかに降下し、共に降下した重火器を回収できず被害が拡大しました。また、降下地点がひどい岩場のせいで多くの死傷者が出ました。降下した兵士は、防衛軍による激しい抵抗に遭遇しました。ドイツ軍は海路侵攻を開始しました。イタリア海軍から駆逐艦2隻と小艦艇約20隻の増援を受け、クレタ島に向かわせました。同時にドイツ空軍の地上支援と、イギリス海軍への攻撃がはじまりました。イギリス艦隊は撃沈され、ドイツ軍の上陸が開始されました。イギリス軍の司令部は絶望的な情勢であると判断し、クレタ島からの撤退を決定しました。こうしてドイツ軍はクレタ島全域を占領し、クレタ政府は降伏しました。しかし、ドイツ軍の損害も非常に大きく、パラシュート兵の4分の1にあたる6600人が戦死しました。この戦いで両軍が導き出した結論は異なっていました。連合軍は、ドイツ軍の大規模な空挺作戦が鮮やかに成功した印象を受け、空挺部隊を育成して後の「シチリア島上陸作戦」、「ノルマンディー上陸作戦」、「マーケット・ガーデン作戦」、「ルール降下作戦」などで多用・活用される事となります。一方、ヒトラーはドイツ軍の多すぎる犠牲に衝撃を受け、決して再び大規模な空挺作戦を実施する事はありませんでした。その後ドイツのパラシュート部隊は、実質上エリート地上部隊として扱われるようになりました。イギリス地中海艦隊は、上陸船団の阻止と撤退の過程で軽巡洋艦2隻、旧式巡洋艦1隻、駆逐艦6隻が撃沈されました。アレキサンドリアで修復できない損傷を受けた艦も多く、無傷で地中海艦隊に残ったのは、戦艦「クイーン・エリザベス」、軽巡洋艦「フィービ」、「コヴェントリー」の3隻のみでした。クレタ島を掌握したヒトラーは、次にソ連侵攻に踏み切る事となります。

さらに次の次に、第二次世界大戦:第二回大阪空襲、尼崎空襲です。
第二回大阪空襲:1945年6月1日9時28分から11時までの約1時間30分、「B−29」爆撃機による大阪への空襲が行なわれました。大阪港と安治川右岸の臨港地区や城南の陸軍施設周辺を攻撃目標とし、計509機が来襲しました。米軍の照準点は、福島駅近辺、福島区大開町、安治川口駅近辺、港区・大阪市立運動場(現・八幡屋公園)、大正区福町(現・鶴町5丁目)、東区上町(現・中央区)、東雲町、森之宮・玉造周辺でした。大阪市西部を中心に8.2平方キロメートルに被害を及ぼしました。この空襲で、港区と大正区に壊滅的な被害が出ました。死者3150名、焼失6万戸でした。また、「P51」が初めて来襲し、機銃掃射を行ないました。
尼崎空襲:第二回大阪空襲がありましたが、尼崎も空襲を受けました。「B−29」爆撃機により、西長洲、金楽寺、開明、杭瀬、梶ヶ島などが爆撃を受けて、死者231人、全焼3451戸の被害が出ました。

さらにまた次に、東京急行電鉄(通称・大東急)の解体です。太平洋戦争後、「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)」および「過度経済力集中排除法」が公布されましたが、鉄道事業者である大東急は適用対象外となりました。しかし、大東急の路線は私鉄の中でとりわけ空襲による被害が大きく、これをすべて復旧する資金を一企業が調達するのには限界がありました。会社を分けることで東急各線の復旧が早まると判断し、再編成されました。京王(東京八王子鉄道)・小田原急行鉄道(小田急)・京急(京浜急行電鉄)の3社が分離独立し、東京横浜電鉄の路線のみが東京急行電鉄(東急)の路線として残り、現在の形となりました。その他、井の頭線が京王の所属となり、バス路線では旧東横乗合の路線の京王線以北が京王に、東海道本線より海側が京浜急行電鉄の所属となりました。

最後に、立山黒部アルペンルートの開通です。立山黒部アルペンルートは、富山地方鉄道の電鉄富山駅からJR東日本大糸線信濃大町駅までを結ぶ交通路で、国際的にも大規模な山岳観光ルートです。全区間が中部山岳国立公園内にあり、飛騨山脈・立山連峰を貫き、黒部ダムなどのいくつもの景勝地を通ります。最高地点は、立山登山の基点ともなる室堂で標高2450M、富山県側の立山から黒部ダムまでの区間は山岳観光や立山の登山客の便を図る為に作られました。黒部ダムから扇沢の区間(途中に富山県、長野県の県境)は黒部ダム建設の資材運搬の為に建設され、ダム完成後に一般の旅客に開放されました。富山県と長野県とを直接結ぶ唯一の交通路でもあります。立山駅から扇沢駅までは、東西に25km 足らずの直線距離ですが最大高低差は1975mあり、ルート内の交通機関として立山連峰の景観を望む立山ロープウェイ、全線地下式のケーブルカー、黒部ダム建設に用いられたトンネルを通るトロリーバス、国内一の堤高を持つ黒部ダムの堰堤上の徒歩での移動など、様々な乗り物を乗り継いで移動します。
立山黒部アルペンルートは以下のように構成されています。
電鉄富山駅 − 立山駅:富山地方鉄道本線・立山線
立山駅 − 美女平駅:立山黒部貫光立山ケーブルカー
美女平駅 − 室堂駅:立山黒部貫光立山高原バス
室堂駅 − 大観峰駅:立山黒部貫光無軌条電車線(立山トンネルトロリーバス)
大観峰駅 − 黒部平駅:立山黒部貫光立山ロープウェイ
黒部平駅 − 黒部湖駅:立山黒部貫光黒部ケーブルカー
黒部湖駅 − 黒部ダム駅:黒部ダム堰堤上を徒歩連絡
黒部ダム駅 − 扇沢駅:関西電力(関電トンネルトロリーバス)
扇沢駅 − 信濃大町駅:川中島バス・北アルプス交通(大町アルペンライン路線バス )

今日の誕生日:徳川慶篤、西郷従道、マリリン・モンロー、ロン・ウッド(ローリング・ストーンズ)、浅野孝已(ゴダイゴ)、習近平、九重親方(千代の富士)、山下泰裕、つまみ枝豆、坂上忍、夏川結衣、HIRO(元EXILE)、黄川田将也、蓮見孝之、中澤さえ、玉置成実、前田亜美(元AKB48)、長谷川芹奈(Little Glee Monster)、宮武祭(元bump.y)、本田望結、神敬介(仮面ライダーX)
今日の記念日:国際子供の日、電波の日、気象記念日、バッジの日、写真の日、チーズの日、世界牛乳の日、麦茶の日、氷の日、チューインガムの日、梅肉エキスの日、ねじの日、真珠の日、景観の日、NHK国際放送記念日、人権擁護委員の日、衣替え、善意の日、マリリン・モンローの日、ムヒの日、総務の日、TUBE DAY

今日の「今日訓」:本日から「水無月」です。語源は、「田植が終わって田んぼに水を引く月」、「梅雨で天の水がなくなる月」と言われています。本日は、冬服から夏服へ着替える日「衣替え」です。1925年にジュネーブの「子供の福祉世界会議」で「国際子供の日」と制定されました。2001年に国際連合食糧農業機関が制定した「世界牛乳の日」、1841年に上野俊之丞が薩摩藩主・島津斉彬を撮影、俊之丞の息子・上野彦馬の口述による記事「日本写真の起源」により、日本初の写真撮影を記念して「写真の日」、写真を撮る時の掛け声「はいチーズ」をかけて「チーズの日」、1875年に東京気象台(現・気象庁)が気象観測を始めた事を記念して「気象記念日」、「気象記念日」の「気象」を「徽章」にかけて「バッジの日」、1926年のマリリン・モンローの誕生日から「マリリン・モンローの日」、1935年にNHKが短波による海外向けラジオ放送「ラジオ日本」の本放送を開始した事で「NHK国際放送記念日」、1949年に「日本工業規格(JIS)」の基本法である「工業標準化法」が公布された事を記念して「ねじの日」、1950年に「電波三法」が施行された事で「電波の日」、1963年に「兵庫県善意銀行」が設置された事で「善意の日」、1963年に日本で唯一の総務専門誌「月刊総務」が発行された事で「総務の日」、1981年に「人権擁護委員法」が施行された事で「人権擁護委員の日」、1985年6月1日に「TUBE」がデビューした事を記念して「TUBE DAY」、2005年に「景観法」が全面施行された事を記念して「景観の日」、6月は麦茶の原料である大麦の収穫始めで、その1日目を記念日とした「麦茶の日」、6月の誕生石が真珠である事からその1日目を記念日とした「真珠の日」、平安時代に元日と6月1日に餅などの固いものを食べて健康を祈る「歯固めの儀式」があった事で「チューインガムの日」、江戸時代の6月1日に加賀藩が将軍家に氷を献上して「氷室の日」として祝っていた事から「氷の日」、梅の実が熟す最初の日と言われている事から「梅肉エキスの日」、「ム(6)ヒ(1)」の語呂合わせで池田模範堂「ムヒの日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する