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2020年05月31日01:11

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5月31日の日記

今日の出来事:1183年−源平合戦:般若野の戦い、1223年−チンギス・ハンの西征:カルカ河畔の戦い、1520年−等持院の戦い、1730年−享保の改革:上米の制を停止、1868年−戊辰戦争:八王子千人頭・石坂義礼が「日光」を戦禍から救うため切腹、1869年−箱館戊辰戦争:第三次木古内の戦い、1869年−戊辰戦争:関宿藩家老・杉山対軒暗殺、1909年−両国国技館が完成、1916年−第一次世界大戦:ユトランド沖海戦、1945年−台北大空襲、2002年−FIFAワールドカップ 韓国・日本大会が韓国・ソウルで開幕

今日は、源平合戦:般若野の戦いです。「養和の大飢饉」が一段落した1183年、平家は各地で起きた反乱鎮圧に乗り出しました。まずは、北陸の制圧に定められました。平維盛を総大将とした平氏軍は、京より北上して越前、加賀を制して越中へ軍を進めようとしました。平維盛は越中、越後国境にある寒原の険(現・親不知)を占領して、木曾義仲軍が越中へ進軍して来るのを迎え撃つ作戦を立てました。越中の地理に詳しい越中前司・平盛俊に兵5000を与えて、先遣隊として越中へ進軍させました。越後の国府に居た木曾義仲は、平氏軍が越前、加賀を手中に収めて越中へ進軍するとの知らせを受け、平氏軍を撃破するために自ら軍を率いて越中へ兵を進める事にしました。今井兼平が木曾義仲軍の先遣隊として兵6000で越後を出発し、平氏軍より先に越中に入って御服山に布陣して迎え撃つ体勢を整えました。平氏軍の先遣隊・平盛俊軍は、5月30日に加賀より倶利伽羅峠を越えて越中へ入りました。平盛俊が般若野に軍を進めた時、源氏軍先遣隊・今井兼平軍が呉羽山を占領した事を知り、それ以上の進軍を行わずに般若野に留まる事にしました。夕刻に、平盛俊軍が般若野から前進しない事を察知した今井兼平軍は、敵の意表をつく夜襲を決断しました。闇に紛れて敵へ接近し、5月31日の明け方に攻撃を開始しました。平盛俊軍は善戦しましたが、午後2時頃に戦況不利に陥って退却しました。越中・浜街道を進軍し、六動寺(現・新湊市六渡寺)に宿営していた木曾義仲軍は、6月1日に般若野の今井兼平軍に合流しました。そして、6月2日朝、倶利伽羅峠へ向かって般若野を出発しました。こうして、木曾義仲と平家の決戦「倶利伽羅峠の戦い」となります。

次に、チンギス・ハンの西征:カルカ河畔の戦いです。モンゴル高原を統一したチンギス・ハンは周辺の「西夏「や「金」といった国への侵略を始め、中央アジア遠征を開始しました。中央アジアを支配していたホラズム・シャー朝は侵入してきたモンゴル軍に敗北し、国王アラーウッディーン・ムハンマドはアム河を越え西へと逃走しました。チンギス・ハンはこれに対し、優秀な8人の側近「四駿四狗」の内「四狗」の二人、ジェベとスブタイにムハンマドの追討を命じました。命令を受けたジェベ・スブタイ両将軍は二つのテュメン(万人隊)を率いて西進を始め、グルジアまで進みました。しかし、ムハンマドはカスピ海中の島で客死しました。しかし、両将軍はさらに進撃を続け、カフカース北麓の遊牧民アス族、チュルケス族などを破ってキプチャク草原に入りました。この事態にキプチャク草原の遊牧民クマン人は北西方面に避難を始め、そのうちコチャン・カンが妻の父であるガリチ公を説得し、キプチャク・ルーシ連合軍を組織しました。キプチャク・ルーシ連合軍はアゾフ海の北岸、カルカ河畔でモンゴル軍を迎え撃ちました。偽りの退却を始めたモンゴル軍に対し攻撃をしかけ、戦線が延びきったところで逆にモンゴル軍に包囲されて大敗を喫しました。モンゴル軍は敗走する連合軍を追ってなおも進みますが、「ヴォルガ・ブルガール攻め」に失敗した後、チンギス・ハンの率いる本隊がモンゴル高原への帰還を始めたのに合わせて、キプチャク草原を去りました。指揮官・ジェベはモンゴル高原に帰還する途中病没しました。スブタイはこの後に始まる「バトゥの西征」(モンゴル帝国のヨーロッパ侵攻)で副将格として再びキプチャク草原に戻り、ルーシの征服に取り掛かる事になります。

その次に、等持院の戦いです。等持院の戦いは、山城国・等持院(現・京都府京都市北区)で細川高国軍と三好之長軍との間で行われた戦いです。細川氏の家督は、細川高国と細川澄元(及び家老・三好之長)が奪い合っていましたが、1511年の「船岡山合戦」で敗北した細川澄元・三好之長主従は本拠地・阿波へ逃れました。細川高国は、家督と管領職を確保して幕府の実権を握り、9年間は畿内最大の大名として勢力を誇りました。しかし、1518年に幕府の軍事力の要だった大内義興が中国地方へ戻った事から、情勢は不穏になりました。この機会を捉えた細川澄元・三好之長が細川高国の地盤である摂津・国人衆の調略を行いました。1519年、下田中城主・池田信正が寝返り、迎え撃った細川高国軍を「田中城の戦い」で破りました。細川澄元・三好之長は兵庫に上陸し、細川高国派の瓦林正頼が籠もる越水城を包囲しました。3ヵ月後の1520年に越水城が落とされると、動揺した細川高国は近江・坂本へ亡命しました。将軍・足利義稙は、細川高国と別れて細川澄元の支持を表明しました。このため、細川澄元らは上洛を図りました。しかし、細川澄元は伊丹城に留まり、三好之長が先鋒部隊を連れて京都へ進軍しました。これは、三好之長が足場を固めて安全に上洛出来るようにするためとも、細川澄元の体調が良くなかったとも言われています。1520年4月14日に上洛を果たした三好之長は、細川澄元の代理として寺社への禁制発給や細川高国派の追討命令などを発しました。足利義稙から細川澄元の家督承認の御礼を述べるなど、順調に処置を進めました。その頃、細川高国は敗れはしましたが健在で、近江で逆襲の機会を伺っていました。5月29日、近江守護・六角定頼の支援を取り付けて万全の準備を整えた細川高国は、京都の東郊外の如意ヶ嶽に進軍、援軍の六角軍は更に西へ進んだ京都東の吉田に待機しました。北から丹波守護代・内藤貞正が率いる7000人の援軍も船岡山に到着し、合計4万の細川高国軍は北と東から三好軍を挟み撃ちにしました。対する三好軍は4000人〜5000人と圧倒的に劣勢で、大将・細川澄元が不在で士気が上がらずに敗北が確実となってました。5月31日の正午に戦闘が開始され、京都西端の等持寺に待機した三好軍は少数ながら奮戦しましたが、麾下の阿波・讃岐・国人衆が細川高国側に次々と寝返り、午後8時頃に勝敗は決しました。三好之長は京都から脱出出来ずに潜伏していましたが、細川高国の追討で捕らえられ、6月6日に処刑されました。甥・新五郎も同日に、2人の息子・芥川長光や三好長則も翌日に処刑されました。細川澄元は、三好之長の敗北を知ると伊丹城を抜け出しました。摂津と阿波の海路が瓦林正頼らに封鎖されていたため、播磨へ進路を変えて阿波へ戻りましたが、既に病身だった細川澄元は体調が悪化し、6月24日に死去しました。三好氏と阿波・細川氏の家督は三好之長の孫・元長と細川澄元の子・晴元が受け継ぎましたが、「等持院の戦い」で受けた打撃から立ち直れず、再度逼塞を余儀無くされました。将軍・足利義稙は細川澄元に鞍替えして家督を承認した事実から、当主に復帰した細川高国との間が気まずくなり、1521年に淡路へ出奔し、再挙を図りましたが果たせずに1523年に没しました。細川高国は、足利義晴を次の将軍に立てると、自らは管領として実権を握りました。こうして細川高国は細川氏当主の座を固め、13年にも及ぶ家督争い「両細川の乱」の決着を付け、室町幕府管領として権勢を振るう事になります。対抗勢力を駆逐した細川高国の政権は安泰となりましたが、6年後の1526年に起こった些細な衝突に不公平な裁定を下した事から丹波国人衆の反感を買い、彼らと阿波の細川晴元達との結託と政権崩壊を招く事になります。「桂川原の戦い」です。

その次の次に、享保の改革:上米の制を停止です。「上米の制」とは、大名に石高1万石に対して100石の米を納めさせる代わりに、参勤交代の際の江戸在府期間を半年(従来は1年)とする制度です。幕府の増収に貢献しましたが、参勤交代の緩和策は江戸藩邸での経費削減につながり、大名の経済力の拡大をもたらすものでした。この制度が徳川吉宗の「享保の改革」にて廃止されました。

そのまた次に、戊辰戦争:八王子千人頭・石坂義礼が「日光」を戦禍から救うため切腹です。「八王子千人同心」は、江戸幕府の職制の一つで、武蔵国多摩郡八王子(現・八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団の事です。その任務は、甲州口(武蔵・甲斐国境)の警備と治安維持でした。徳川家康の江戸入府に伴って、1600年に発足しました。当初は代官頭・大久保長安が統括しました。甲斐・武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などで組織されました。甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは、武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためでした。甲斐が天領に編入され、太平が続いて国境警備としての役割が薄れると、1652年からは交代で徳川家康を祀る日光東照宮を警備する「日光勤番」が主な仕事となりました。江戸中期以降は文武に励むものが多く、荻原重秀のような優秀な経済官僚や、昌平坂学問所で「新編武蔵風土記稿」の執筆に携わった人々や、天然理心流の剣士などを輩出しました。1800年に集団で北海道・胆振の勇払などに移住し、苫小牧市の基礎を作りました。天然理心流は家元の近藤家が「八王子千人同心」だった事で、組織内に習う者がいました。この事から、「八王子千人同心」の中から後の「新選組」に参加する者が多く現れる事になりました。1868年、日光勤番中の八王子千人頭・石坂義礼は、「戊辰戦争」で板垣退助の率いる新政府軍が日光に迫って来るのを知りました。日光を戦禍から守るため、旧幕府軍の大鳥圭介らに相談の上、日光を新政府軍に明け渡しました。八王子に帰還した石坂義礼に対し、一戦も交えずに日光を新政府軍に明け渡した責任追及の声が強かったため、老父の介錯により切腹して果てました。享年60でした。菩提寺・興岳寺(八王子市千人町)に葬られました。この石坂義礼の決断が、世界遺産「日光」を今に伝える事になりました。その縁もあって日光市と八王子市は姉妹都市となりました。境内には、石坂義礼の顕彰碑が建てられ、墓の前には日光市から贈られた香炉が置いてあります。石坂義礼の墓は八王子市の指定史跡となっています。

そのまた次の次に、箱館戊辰戦争:第三次木古内の戦いです。旧幕府軍は、松前方面から引揚げてきた伊庭八郎等と合流しました。5月31日、新政府軍が総攻撃を開始し、昼頃まで激戦が続きました。「額兵隊」隊長・星恂太郎や伊庭八郎の「遊撃隊」が奮戦して最後まで踏み止まっていましたが、70名以上の死傷者を出して泉沢まで後退しました。その後、本多幸七郎が率いる「伝習隊」などの援軍を加え、知内に孤立した彰義隊など300名を救うために再び木古内へ向かいました。孤立していた部隊も木古内に突入し、新政府軍を挟撃する形となり、木古内奪還に成功しました。しかし、旧幕府軍は木古内を放棄し、地形的に有利な矢不来まで後退し、砲台と胸壁を構築して布陣しました。この戦いで伊庭八郎が、胸部に被弾して瀕死の重傷を負いました。

さらに次に、戊辰戦争:関宿藩家老・杉山対軒暗殺です。関宿藩主・久世広周は、藩士・船橋随庵を登用して利根川の洪水防止と農業用水確保のために新たな水路「関宿落とし」を建設して、領内の水害を防ぎました。1851年に老中へ就任して、幕末期の幕政に参与しました。久世広周は開明的な開国派であったため、1858年の「日米修好通商条約」の調印に賛成していました。しかし、大老・井伊直弼が「安政の大獄」を行なうと、これに反対したために怒りを買って老中と外国御用取扱を罷免させられました。藩政は、久世広周が新たに登用した杉山対軒らによって統治が行なわれました。1860年に井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺されると、久世広周は安藤信正と共に再度老中に就任し、幕政を執行しました。この時、1万石を加増されて6万8000石となりました。久世広周は、井伊直弼の強硬路線から一転して安藤信正と共に公武合体運動を推進し、1862年に孝明天皇の妹・和宮を降嫁させる事に尽力しました。これら一連の動きは、過激な尊皇攘夷派や幕府内でも憤激を生みました。「坂下門外の変」により安藤信正が失脚すると、久世広周も老中を罷免されました。さらに1万石を削減されて家督を10歳の嫡男・広文に譲らされて、蟄居謹慎処分となりました。後に永蟄居処分となり、さらに1万石を削減されました。こうして、久世広周は失意のうちに1864年に死去しました。久世広周の死後、関宿藩では佐幕派と尊皇派が対立し、これが原因で「戊辰戦争」では、若年の藩主を差し置いて藩の主導権をめぐっての抗争が起こりました。さらに藩内から「彰義隊」に加わる者が続出して藩内は混乱し、久世広文は新政府から5000石を削減され、強制隠居を命じられました。万字(卍)が久世家の家紋であった事から、関宿藩士60人は「万字隊(卍隊)」と称して奥原秀之助が隊長となり、「彰義隊」の近藤武雄が指揮をとりました。「上野戦争」で奥原秀之助、篠崎松三郎、丹羽十郎左衛門、百瀬雄二郎、渡辺彦十郎らが戦死し、敗れた佐幕派藩士19名は会津若松城へ向かい、新政府軍に抵抗しました。しかし、会津が落城すると山中に逃れましたが大部分が捕らえられ、長州藩に預けられました。そして、「罪科一等を減ぜられ、居宅謹慎」を命ぜられ、関宿藩へ引き渡されました。1869年5月31日、関宿藩勤皇派の中心人物であった杉山対軒は、新政府の取り調べを受けた後に江戸から関宿へ帰る途中の関宿道(通称・四里八丁)並塚(現・埼玉県北葛飾郡杉戸町)で、2名の関宿藩士に襲われて暗殺されました。刺客は、反対派の井口小十郎と冨山匡之助でした。亨年39でした。顕彰碑が、市内の浄土宗光岳寺にあります。一方、佐幕派の中心人物であった木村正右衛門は、「上野戦争」の敗北後に藩主・久世広文と上野山内を脱走して佐倉に逃げました。そして、沼津市へ移って沼津兵学校教頭となりました。氏名を山田大夢と改め、静岡県師範学校の初代校長も務めました。

さらに次の次に、第一次世界大戦:ユトランド沖海戦です。ユトランド沖海戦は、「第一次世界大戦」で最大の海戦となりました。デンマークのユトランド半島沖、北海でドイツ海軍(帝国海軍)の大洋艦隊(ラインハルト・シェア中将指揮)とイギリス海軍の本国艦隊(サー・ジョン・ジェリコー大将指揮)が戦いました。ドイツはフランツ・フォン・ヒッパー中将が指揮する巡洋戦艦5隻からなる索敵部隊を用い、サー・デイビッド・ビーティー中将指揮下の巡洋戦艦戦隊をドイツ艦隊本隊の進路へと誘導し、それを撃滅する計画を立てました。しかしイギリスは、すでに通信傍受によって主力艦隊の作戦行動を予想しており、ジェリコーは本国艦隊をビーティーの艦隊と合流すべく出撃しました。ビーティーとヒッパーは互いに遭遇し、南へと向かう戦闘によってヒッパーはイギリス艦隊をドイツ大洋艦隊の進路に引き込みました。ビーティーは本国艦隊の方向へ引き返し、英独の2つの大艦隊(151隻のイギリス艦隊、99隻のドイツ艦隊)が激しく交戦しました。14隻のイギリス艦と11隻のドイツ艦が沈没し、多大な人命が失われました(イギリス軍:6094名、ドイツ軍:2551名)。戦死者には日本海軍の観戦武官・下村忠助中佐が含まれています。ジェリコーは翌朝の戦闘再開を望んでドイツ艦隊の基地への退路を絶とうとしました。しかしシェアは夜陰に乗じてイギリス艦隊の航跡を横切り、港へと帰還しました。双方とも勝利を主張しました。イギリスはドイツより多くの艦船と乗員を失いましたが、ビーティーの艦隊を殲滅しようとするシェアの作戦も失敗に終わりました。ドイツの戦術的勝利、イギリスの戦略的勝利と言われています。その後、ドイツ海軍は潜水艦を用いた通商破壊作戦(無制限潜水艦戦)に注力する事になります。

最後に、台北大空襲です。日本統治下の台湾・台北市を米軍機が無差別爆撃しました。合計117機のB−24を投入した波状攻撃により、市民約3000人が死亡しました。

今日の誕生日:楠本イネ、土方歳三、クリント・イーストウッド、東八郎、日高のり子、枝野幸男、田村明浩(スピッツ)、鈴木京香、フランキー為谷、有吉弘行(元猿岩石)、マック鈴木、眞鍋かをり、土岐田麗子、TOMOMI(SCANDAL)、ケンブリッジ飛鳥、コバトン

今日の記念日:世界禁煙デー、青峰忌、古材の日、藻岩山の日
今日の「今日訓」:本日は、世界保健機関(WHO)が1989年に制定した国際デーの一つ「世界禁煙デー」、新興俳句弾圧事件の犠牲になった俳人・嶋田青峰が1944年に亡くなった事で「青峰忌」、北海道札幌市の山「藻岩山」、標高531メートルから「藻岩山の日」、「こ(5)ざ(3)い(1)」の語呂合わせで「古材の日」となりました。
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