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2020年05月26日00:25

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5月26日の日記

今日の出来事:752年−東大寺盧舎那仏像の開眼供養、1592年−文禄の役:東莱城の戦い、1622年−宇都宮城釣天井事件、1805年−フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトがイタリア王として戴冠、1959年−1964年のオリンピック開催地が東京に決定、1983年−日本海中部地震(津波により死者104人)

今日は、東大寺盧舎那仏像の開眼供養です。通称「奈良の大仏」です。聖武天皇はまず、国ごとに「国分寺」と「国分尼寺」を造る事を命じました。「東大寺」は大和国の「国分寺」であると共に、日本の「総国分寺」と位置付けられました。聖武天皇は日本の隅々にまで「国分寺」を建て、釈迦像を安置して金光明最勝王経を安置する事によって、国家の安定を図ろうとしました。当時、政治の中枢にいた藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が、疫病で相次いでこの世を去りました。旱魃・飢饉が続き、大地震で大きな被害が出て、九州では「藤原広嗣の乱」が発生しました。このように、「天平時代」とは動乱の時代でした。そして聖武天皇は、近江国「紫香楽宮」にて「大仏造立の詔」を発しました。国中の銅を溶かして大仏を造り、山を削って「大仏殿」を造るという命令です。こうして9年に及ぶ大工事を経てこの日、「大仏開眼供養会」が盛大に開催されました。参列者は1万数千人に及んだといいます。こうして世界最大の木造建築といわれる「奈良の大仏」が完成しました。

次に、文禄の役:東莱城の戦いです。釜山を陥落させた後、日本軍は橋頭堡を確保する必要がありました。釜山の北方には東莱城という城塞があり、北の漢城へ通じる主要道を押さえる位置にありました。釜山で一晩休息した後、小西行長が率いる日本の第1軍は進軍し、東莱城を包囲しました。東莱府使の宋象賢は勇敢にも城門の上の階に陣取って、朝鮮の伝統に則り、大太鼓を打ち鳴らして兵士らを鼓舞しました。小西行長は、日本の要求として「戦いを望むなら戦おう。さもなくば、道を通過させよ」と、明への道を開くよう求めました。宋象賢の「死ぬのは簡単だが、道を通すのは難しい」という言葉により、日本側の要求は拒絶されました。こうして東莱城攻撃が開始されました。東莱城には「釜山鎮の戦い」で日本軍が火縄銃を使ったという情報が伝わっており、朝鮮軍は長い板の防弾盾を大量に作りました。しかし、日本の火縄銃に対しては役に立ちませんでした。日本軍は城壁に取り付いて梯子をかけて登ろうとし、朝鮮軍は弓矢や屋根瓦を投げるなどして応戦しました。日本軍は腰につけていた幟を長い棹に結びつけ、片手で高く掲げて朝鮮軍の狙いを狂わせ、城内に侵入する事に成功し、2時間ほどで制圧しました。宋象賢は戦死し、多くの人々が殺されました。日本軍は東莱城の武器・兵糧・牛馬などを接収し、兵の休養や負傷者の手当てのために2日間滞在した後、さらに進撃します。

その次に、宇都宮城釣天井事件です。宇都宮城釣天井事件は、下野国・宇都宮藩主で江戸幕府年寄の本多正純が、宇都宮城に釣天井を仕掛けて第2代将軍・徳川秀忠の暗殺を図った嫌疑を掛けられて本多家は改易、本多正純が流罪となった事件です。本多正純の父・正信は、将軍・徳川秀忠付の年寄、正純は駿府の大御所・徳川家康の側近でした。本多正信・正純父子は政敵・大久保忠隣を失脚させて、幕府内で強い影響力を持っていました。しかし、幕閣内では政敵も多くいました。本多正信の存命中は逆らえる者がおらず、徳川家康も正信の事を「自分の友」とまで言っていたほど信頼は厚く、その地位は揺るぎませんでした。1616年、徳川家康と本多正信が相次いで没すると、本多正純は2万石を加増されて下野・小山藩5万3000石となり、秀忠付の年寄(後の老中)に列せられました。しかし、本多正純は先代からの宿老である事を恃んで権勢を誇り、やがて徳川秀忠や側近から怨まれるようになりました。1619年、福島正則の改易後に本多正純は、亡き家康の遺命であるとして奥平忠昌を下野・宇都宮藩10万石から下総・古河藩11万石へ移封させ、自身を小山5万3000石から宇都宮15万5000石へと加増しました。これにより、本多正純はより一層の反感を周囲から買う事になりました。1622年、本多正純は徳川秀忠が家康の七回忌に日光東照宮を参拝した後、宇都宮城に1泊する予定であったため、城の普請や御成り御殿の造営を行わせました。5月26日に徳川秀忠が日光へ赴くと、秀忠の姉で奥平忠昌の祖母・加納御前から「宇都宮城の普請に不備がある」という密訴がありました。内容の真偽を確かめるのは後日として、5月29日に徳川秀忠は「御台所が病気である」との知らせが来たとして、予定を変更して宇都宮城を通過して壬生城に宿泊し、31日に江戸城へ帰還しました。その後、出羽・山形藩の最上家親改易に際して、本多正純は上使として山形城の受取りのため赴きました。その最中に徳川秀忠は、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて秀忠を圧死させようと画策したなど、11か条の罪状嫌疑を本多正純へ突きつけました。伊丹康勝と高木正次が使いとして本多正純の下に赴き、その11か条について問うと本多正純は一つ一つ明快に回答しました。しかし、伊丹康勝が追加で行なった3か条については回答する事ができなかったため、所領は召し上げられました。しかし、先代よりの忠勤に免じて改めて出羽由利郡に5万5000石を与えると命じました。謀反に身に覚えがない本多正純が、その5万5000石を固辞すると徳川秀忠は怒り、本多家は改易となりました。本多正純の身柄は久保田藩主・佐竹義宣に預けられ、出羽・横手への流罪となりました。後に本多正純は1000石の捨て扶持を与えられ、1637年に732歳で秋田・横手城の一角で寂しく生涯を終えました。本多正純謀反の証拠は何も無く、徳川秀忠も宇都宮城に不審点が無い事を井上正就に行なわせた調査で確認しました。これは、本多正純の存在を疎ましく思っていた土井利勝らの謀略であったとも、加納御前の恨みによるものとされています。加納御前は、本多正純が宇都宮に栄転したのに伴って格下の下総・古河への転封を命じられた奥平忠昌の祖母であり、加納御前の娘は本多正信・正純親子の陰謀で改易させられた大久保忠隣の嫡子・大久保忠常の正室でした。また、徳川秀忠自身も父・家康の代から幕閣の中で影響力を大きく持ち、自らの意に沿わない本多正純を疎ましく思っていたという説があります。徳川秀忠は、本多正純の処分について諸大名に個別に説明をするという異例の対応を行ないました。

その次の次に、1964年のオリンピック開催地が東京に決定です。東京は、1940年のオリンピック開催地に決定していましたが「日中戦争」のため、開催権を返上しました。東京と争ったヘルシンキでの代替開催が決定しましたが、「第二次世界大戦」のため中止となりました。その後、敗戦して急速な復活を遂げた日本が、再び国際社会の中心に復帰するために1960年の開催地として、再び立候補しました。しかし、投票でローマに敗れました。次に1964年の開催地に立候補しました。そして、この日に念願の「東京オリンピック」の開催が決定しました。同時に、日本及びアジア地域で初めて開催されるオリンピックという事で世界的に注目される事になりました。開催の決定した日本では「東京オリンピック組織委員会」が組織され、国家予算として「国立競技場」をはじめとした施設整備に約164億円、大会運営費94億円、選手強化費用23億円を計上した「国家プロジェクト」となりました。「東京オリンピック」の開催にむけて、競技用施設から選手村、公共交通機関などのインフラストラクチャーや観戦客を受け入れるためのホテルに至るまで、東京都内のみならず日本各地において種々の建設・整備がなされました。
以下はこの時、建設・整備された施設や交通機関です。
・国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場、秩父宮ラグビー場、国立代々木競技場、国立西が丘サッカー場)
・日本武道館
・駒沢オリンピック公園
・岸記念体育会館(日本体育協会本部ビル)
・織田フィールド(当時の選手練習場、現在の代々木公園陸上競技場)
・選手村(現在の国立オリンピック記念青少年総合センター)
・東海道新幹線開業
・東京モノレール開業
・東京国際空港のターミナルビル増築、滑走路拡張
・首都高速道路の整備
・名神高速道路の整備
・環七通り、六本木通りの拡幅、整備
・ホテルニューオータニ
・ホテルオークラ
・東京ヒルトンホテル
・東京プリンスホテル
・コープオリンピア

最後に、日本海中部地震です。1983年5月26日11時59分57秒に、秋田県能代市西方沖80kmの地点で発生した逆断層型の地震です。マグニチュードは7.7でした。当時、日本海側で発生した最大級の地震で、秋田県・青森県・山形県の日本海側で10mを超える津波による被害が出ました。国内での死者は104人に上り、そのうち100人が津波による犠牲者でした。家屋の全半壊3049棟、船舶沈没または流失706隻、被害総額は約1800億円でした。

今日の誕生日:惟康親王(鎌倉幕府7代将軍)、千姫、村田清風、荒木貞夫、遠山一(ダークダックス)、東海林のり子、モンキー・パンチ、黛ジュン、荻野真、トミーズ健(トミーズ)、西川隆宏(元DREAMS COME TRUE)、岩井由紀子(「ゆうゆ」、元おニャン子クラブ・元うしろゆびさされ組)、和月伸宏、大和さくら、木佐彩子、TAKURO(GLAY)、つるの剛士、伊東美咲、小平奈緒、伊藤かりん(元乃木坂46)

今日の記念日:秋田県民防災の日、源泉かけ流し温泉の日、風呂カビ予防の日、ラッキーゾーンの日、東名高速道路全通記念日、ル・マンの日、竹内洋岳・8000m峰14座登頂の日

今日の「今日訓」:本日は、秋田県では79人の犠牲者を出した「日本海中部地震」の日を「秋田県民防災の日」とし、防災訓練が毎年行われています。「極上(5)な風呂(26)」の語呂合わせで「源泉かけ流し温泉の日」、「日本気象協会」の調査で5月26日を境に気温と湿度がカビ発生の条件に合致し、お風呂のカビが生えやすくなる事から「風呂カビ予防の日」、1923年にフランスのル・マンで第1回ル・マン24時間レースが開催された事で「ル・マンの日」、1969年に大井松田IC〜御殿場ICが開通し、東京から愛知県小牧市まで346kmに及ぶ「東名高速道路」が全線開通しました。小牧ICで名神自動車道と接続し、関東・中京・関西を結ぶ日本の大動脈となった事で「東名高速道路全通記念日」、2012年にプロ登山家の竹内洋岳が14座目となるダウラギリに登頂し、日本人初・世界で29人目の世界8000m峰14座の完全登頂を達成した事で「竹内洋岳・8000m峰14座登頂の日」となりました。
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