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2020年04月09日00:32

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4月9日の日記

今日の出来事:1241年−ワールシュタットの戦い、1643年−阿部一族の反乱、1788年−松平定信が将軍輔佐に就任、1858年−安政大地震:飛越地震、1863年−足利三代木像梟首事件、1865年−南北戦争終結、1942年−第二次世界大戦:バターン死の行進、日本軍がフィリピンのバターン半島を占領、1952年−もく星号墜落事故

今日は、ワールシュタットの戦いです。1241年4月9日、モンゴル帝国のヨーロッパ遠征軍とポーランド・ドイツ連合軍が激突した戦いです。ワールシュタットとは、ドイツ語で「死体の山」を意味します。モンゴル帝国の第2代皇帝・オゴデイは、1235年の「クリルタイ」で諸国への遠征を決議しました。当時、モンゴル軍はチンギス・ハンの時代に中央アジアのホラズム帝国を征服し、西は黒海沿岸のグルジアまで達していました。西方遠征軍の総大将となったジョチ家の当主・バトゥには5万の戦闘経験の豊かなモンゴル人と2万人の徴用兵、さらに中国人とペルシア人の専門兵が与えられました。モンゴル高原を出立したバトゥは、キプチャク草原やキエフ大公国をはじめとするルーシ諸国を征服しました(モンゴルのルーシ侵攻)。1241年3月12日にバトゥ率いる遠征軍は、ハンガリー王国をカルパティア山脈の東部から北部に掛けて侵攻しました。軍勢の4分の1がハンガリー軍を南ロシアの草原に誘き出すために送られ、バトゥ率いる主力部隊が黒海の北西沿岸にあるワラキアを破壊した後、ティサからペストへと接近しました。3月18日、「フミェルニクの戦い」でポーランド軍がモンゴル軍との戦闘で多数の死傷者を出して敗北しました。クラクフ侯ボレスワフ5世は、母と夫人とともにカルパティア山脈の麓の城塞に避難する事を決め、さらにモラヴィアへ退避しました。これによってクラクフの有力者は都市を放棄し、ドイツ方面などへ避難し、その他の住民たちは山林などへ逃亡しました。4月1日、モンゴル軍はクラクフに到着しましたが、ほぼ無人状態のこの都市に火を放ちました。その後さらに北上し、シロンスクに入りました。モンゴル軍はオドラ川を筏や泳いで渡りました。ポーランド軍は兵力が足りなかったため後退し、モンゴル軍はシロンスクの州都・ヴロツワフまで直進しました。その時、北部諸侯を召集したシロンスク公・ヘンリク2世の軍勢が、レグニツァでヴァーツラフ1世が率いるボヘミア軍の到着を待っていました。そこでモンゴル軍は攻撃目標を切り替え、レグニツァで各地の軍勢が集結した「ドイツ・ポーランド連合軍」を討つ事にしました。ヘンリク2世が中心となった「ドイツ・ポーランド連合軍」には、優れた兵と劣った兵が混在していました。軍を構成しているのは民兵や徴用された歩兵、封建騎士と従者、ホスピタル騎士団とテンプル騎士団からの少数の騎士、そしてドイツ騎士団でした。ヘンリク2世が集めた軍は、2万5千人でした。ヘンリク2世は軍を4つの大きな部隊に編成し、主力のドイツ騎士団と他の騎士たちを中央に前衛と後詰めに配し、民兵や徴用された歩兵はまとめて一つの部隊として騎士の後方に配置しました。一方、モンゴル軍が動員した兵力は2万人でした。前列中央に陽動戦術の訓練を積んだ軽装騎兵を配置し、両側面には騎射や槍での接近戦を行う事のできる軽装騎兵が、後方には正面からの騎馬攻撃を得意とする重装騎兵が控えていました。1214年の「ブーヴィーヌの戦い」のように、当時のヨーロッパにおける騎士の戦術は、敵の中心への猛攻撃でした。まず前衛の騎士たちが軽装騎兵に攻撃を仕掛けて、蹴散らされました。しかし、前衛の騎士たちは後詰めの騎士たちと共に態勢を建て直すと再び攻撃しました。するとモンゴル軍は中央の軽装騎兵を偽装撤退させて連合軍の主力である騎士団を誘い込み、両翼の軽装騎兵による騎射で混乱に陥れました。そして騎士団の背後に煙幕を焚いて後方の歩兵と分断すると、完全に混乱状態にある敵軍をモンゴルの重装騎兵が打ち破りました。煙幕の向こうにいた歩兵は逃げ惑う騎士とそれを追うモンゴル軍の姿を見ると、恐怖に駆られて敗走しました。逃げる「ドイツ・ポーランド連合軍」をモンゴル軍は容赦なく追撃し、おびただしい数の兵が殺戮されました。その後、モンゴル軍はオドラ川に沿った地域を掃討していき、当初の目標であったヴロツワフを完全に破壊しました。この戦いで総司令官のヘンリク2世は戦死、その公家であるシロンスク・ピャスト家が支配していたシロンスクとクラクフの公領は分裂し、ポーランドは統一から遠のきました。モンゴル軍はこの戦いの翌日には別の部隊がヘルマンシュタットでトランシルヴァニア軍を、3日後にはバトゥ本隊が「モヒの戦い」でハンガリー軍を撃破しました。この3つの戦いと掃討戦で15万人が殺戮されました。ポーランドを席捲したバトゥは一時オーストリアのウィーン近くまで迫りましたが、モンゴル皇帝・オゴデイが急死した事によって撤退しました。「ワールシュタットの戦い」はモンゴルの侵攻に対するヨーロッパの命運を決したと言われる悲劇的敗戦でしたが、モンゴル軍にとっては騎兵戦術の常道によって行われた局地戦の勝利に過ぎませんでした。

次に、阿部一族の反乱です。阿部一族の反乱は、江戸時代に肥後・熊本藩で起きた家中の重職・阿部一族が上意討ちで全滅した事件です。1641年、熊本藩主・細川忠利の病状が悪化し、側近達は次々と殉死を願い出ました。老臣・阿部弥一右衛門も殉死の許可を乞いましたが、謹厳な彼を昔から煙たがっていた細川忠利は「生きて新藩主を助けよ」と遺言し、許可が出ないまま死去しました。そのため、旧臣達(大塚喜兵衛、原田十二郎、本庄喜介、太田小十郎、内藤長七郎、野田喜兵衛、伊藤太左衛門、小林理左衛門、宮永少左衛門、橋谷市蔵、井原十三郎、津崎五介、南郷与左衛門、右田因幡、寺本八左衛門、宗像嘉兵衛、宗像吉太夫、田中意徳)が次々と殉死して逝く中で、阿部弥一右衛門は以前どおり勤務していました。しかし、彼が命を惜しんでいるかのような家中の評判を耳にし、一族を集めて彼らの面前で切腹を遂げました。しかし、遺命に背いた事が問題となり、阿部家は新藩主・細川光尚から殉死者の遺族として扱われず、家格を落とす処分が出されました。鬱憤を募らせた嫡子・権兵衛は、細川忠利の一周忌法要の席上で髻を切りました。そのため、非礼を咎められて捕縛され、盗賊同様に縛り首とされました。藩から一族に加えられた度重なる恥辱に、次男・弥五兵衛はじめ一族は覚悟を決して屋敷に立て籠もりました。こうして、阿部一族は細川光尚の差し向けた討手と死闘を展開して全滅しました。

その次に、松平定信が将軍輔佐に就任です。江戸幕府第10代将軍・徳川家治が死去して田沼意次が失脚した後、第11代将軍・徳川家斉の下で松平定信は老中首座・将軍輔佐になりました。松平定信は幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・徳川吉宗の「享保の改革」を手本に、幕政再建を目指す事になりました。「寛政の改革」の始まりです。

その次の次に、安政大地震:飛越地震です。飛越地震は、1858年4月9日午前1時頃、越中・飛騨国境(現・富山と岐阜県境)の跡津川断層を震源に発生したM7.1と推定される地震です。「飛越」とは「飛騨」と「越中」を指す言葉です。北陸地方や飛騨国を中心に大きな被害をもたらし、死者426人、負傷者646人、家屋の全半壊・流失2190戸とされています。家屋の倒壊も著しく、飛騨では700戸余りが損壊し、200〜300人の死者が出ました。富山藩士の体験記には「地面が階段状に隆起した」、「水や砂が噴き出した」などと被害状況が描かれています。立山連峰では「鳶山崩れ」が発生し、鳶山が崩壊しました。これにより「立山カルデラ」に大量の土砂が流れ込み、常願寺川に河道閉塞が起きて堰止め湖が形成されました。この堰止め湖は4月23日と6月8日の余震及び近隣で発生した誘発地震により二度にわたり決壊し、下流の平野部に大きな被害をもたらしました。3万石以上に相当する田地が土砂に埋まり、多数の死者と流失家屋が出ました。一度目の洪水で農業用水が埋まり、その復旧工事にあたっていた人が二度目の洪水に襲われて溺死したところもありました。他にも神通川や黒部川など、各地で河道閉塞が発生しました。この地震は岐阜県北部、富山県境に近い跡津川断層の活動によるものと推定され、この断層沿いでは家屋の倒壊率が50%を越え、中沢上および森安では100%の倒壊率でした。この「飛越地震」により発生した立山連峰・鳶山の山体崩壊である「鳶山崩れ」は、1707年に静岡県で起きた「大谷崩れ」、1911年に長野県で起きた「稗田山崩れ」とともに「日本三大崩れ」の一つとなりました。鳶山には大鳶山と小鳶山の二つのピークがありましたが、山体崩壊により大鳶山と小鳶山は完全に消滅し、立山カルデラに大量の土砂が流れ込みました。カルデラ内の立山温泉では温泉客と従業員が土石流に巻き込まれて死亡しました。その後も土砂の流出で度々、土砂災害が発生しています。立山カルデラでは、現在も砂防工事が行われています。カルデラ内に残存している土砂の量は21世紀初頭の時点で約2億m3で、これは仮にすべて流出したとすると富山平野が厚さ2mの土砂で覆われてしまう程の量です。

そのまた次に、足利三代木像梟首事件です。幕末の1863年に京都等持院にあった室町幕府初代将軍・足利尊氏、二代将軍・義詮、三代将軍・義満の木像の首と位牌が持ち出され、賀茂川の三条河原に梟首されて晒されました。犯人は平田篤胤の平田派国学の門人で、会津藩士・大庭恭平も関与しました。足利将軍三代を逆賊とする罪状が掲げられました。それまでの「天誅」は、開国派や公武合体派である個人を狙ってのものが大半でしたが、この事件では足利将軍の木像を梟首する事で暗に倒幕の意味を持つものとして重要視されました。江戸で公募された「浪士組」の上洛直前で、挑発的行為とも言われています。京都守護職・松平容保は、この事件に激怒し、尊攘過激派に対抗する強い組織を作るという決心を強めました。後に「新選組」が生まれるきっかけとなりました。以下、「足利三代木像梟首事件」の犯人達のその後です。
大庭恭平:会津藩士、捕縛され信濃国上田藩に流罪、「戊辰戦争」が始まると釈放され「衝鋒隊」に加わり各地で戦功を立てる。会津藩が劣勢になると、仙台藩や庄内藩に赴いて援軍を願い出る。会津藩が敗れると死者の埋葬など戦後処理をし、会津藩の再興に尽力する。
師岡節斎:国学者、捕縛され遠島
三輪田元綱:伊予・神宮、捕縛され百日押込
仙石佐多雄:鳥取新田藩士、幕吏に追われて自刃
高松平十郎:信濃豪農、幕吏に追われて奮闘するが闘死
青柳健之助:国学者、捕縛され遠島
建部建一郎:牛久藩士、捕縛され遠島
長尾郁三郎:京都の商人、捕縛され永牢、「禁門の変」による火災が六角牢にせまると斬殺
宮和田雄太郎:尊皇家、捕縛され洛中洛外追放
長沢真事:陸奥、捕縛され遠島
野呂久左衛門:岡山藩士、捕縛され洛中追放
岡元太郎:岡山藩士、長州に逃れる、新選組の松山幾之助を殺害し、遊説中に包囲され自刃
西川吉輔:近江の商人、捕縛され山城国中構い・江戸十里四方追放
角田忠行:神官、伊那に潜伏し後に、熱田神宮大宮司
中島錫胤:徳島藩士、逃亡し徳島藩に自首、維新後に兵庫県令などを歴任し貴族院議員
小室信夫:丹後宮津豪商、逃亡し徳島藩に自首、維新後、民撰議院設立建白書を起草して自由民権運動に参加、品川弥二郎らと共同運輸会社(のちの日本郵船)を創立
北村義貞:播磨の農民、逃亡後に「天誅組の挙兵に」参加、「池田屋事件」では難を逃れ、「禁門の変」では長州軍に従う
梅村真一郎:島原藩士、逃亡後に下関で「馬関戦争」に参加、江戸にて鈴木重胤を暗殺し、「天狗党の乱」に加わり自害
伊藤嘉融:島原藩士、逃亡後に下関で「馬関戦争」に参加、江戸にて鈴木重胤を暗殺し、「天狗党の乱」に加わり自害
石川貞幹:鳥取新田藩士、逃亡後に「天誅組の挙兵」に参加して捕えられ処刑
水郡善之祐:河内の大庄屋、逃亡後に「天誅組河内勢」の首魁となり、捕えられ処刑
中村慎吾:常陸郷士・豪農、逃亡
野城廣助:上総市原郡・庄屋、逃亡
大楽源太郎:長州藩士、その後、「冷泉為恭暗殺事件」や「禁門の変」、高杉晋作の「功山寺決起」に参加、「大村益次郎暗殺事件」や「奇兵隊脱退騒動」の首謀者とされ処刑

そのまた次の次に、南北戦争終結です。アメリカの「南北戦争」で、南軍のリー将軍が降伏宣言し、戦争が終結しました。奴隷制の拡張に反対するリンカーンが大統領に就任した事により、アメリカ合衆国を二分する「南北戦争」が起こりました。奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退し、「アメリカ連合国」を結成しました。この「アメリカ連合国」と「アメリカ合衆国」に留まった北部23州との間で戦争となりました。戦争は4年間続き、ついに南軍の首都リッチモンドが陥落しました。そしてリー将軍が降伏し、南北戦争は終了しました。両軍合わせて62万人もの死者を出したアメリカ史上最悪の戦争となりました。

さらに次に、第二次世界大戦:バターン死の行進です。1941年12月23日、台湾から派遣されたフィリピン攻略の主力部隊である本間雅晴中将が率いる第十四軍が、ルソン島リンガエン湾に上陸しました。フィリピン防衛の任に当たっていたのは、ダグラス・マッカーサーが率いるアメリカ極東陸軍(米比軍)でした。マッカーサーは12月24日にマニラの「無防備都市宣言」を行った後にマニラから撤退、バターン半島とコレヒドール要塞に立て籠もりました。米軍は撤退途中、人影があれば撃ち殺し、村があれば機銃掃射して皆殺しにしました。日本軍は翌1月2日にマニラの無血占領に成功しました。その後、日本軍はコレヒドール要塞を攻撃しました。3月12日に、マッカーサーはコレヒドール島を脱出しました。4月9日、日本軍はバターン半島を死者130名、負傷者6808名を出して占領しました。降伏したエドワード・P・キング少将が率いるバターン半島の米比軍は、約7万6千名もの多数が捕虜となりました。米軍部隊は、日本兵に使われるのは業腹だからと、多くのトラックを破壊しました。壊さなかった部隊は「死の行進」を歩む事なくそれで収容所まで行きました。なお、コレヒドール要塞はその後も籠城戦を続けていました。全捕虜がトラックで輸送されるはずでした。しかし、トラックの大部分が修理中で、米軍から鹵獲したトラックも、継戦中のコレヒドール要塞攻略のための物資輸送に当てねばなりませんでした。結局、マリベレスからサンフェルナンドの区間88キロを、将軍も含めた捕虜の半数以上が徒歩で行進する事になりました。この区間の行軍が「死の行進」と呼ばれる事になります。米兵達は降伏した時点で、既に激しく疲弊していました。戦火に追われて逃げ回り、極度に衰弱した難民達も行進に加えられました。日米ともにコレヒドールではマラリアやデング熱、赤痢が蔓延していました。また、食料調達の事情などから日本軍の河根良賢少将は、タルラック州カパスのオドンネル基地に収容所を建設しました。米比軍のバターン半島守備隊の食料は降伏時には尽きており、日本軍も捕虜にまわす食料の余裕はありませんでした。さらに炎天下で行進が行われたため、約60kmの道のりで多くの捕虜が倒れました。この時の死亡者の多くは、マラリア感染者と言われています。トラックで運ばれた者や行進の先頭にいた者以外に対し、多くの虐待行為があったと言われています。この背景として、捕虜になる事を恥ずべきものとする風潮が影響していました。また日本軍では元々、戒告のために殴打する事が日常的にあり、不服従とみると捕虜にも暴力を行っていました。死者が増えた要因には、現地の指導的立場にあった辻政信にありました。辻政信はこの戦争は人種間戦争であるとして、アメリカ人兵士は白人であるから、フィリピン人兵士は裏切り者だから処刑しろと扇動し、独断で「大本営から」のものとする捕虜の処刑命令を出していました。4月9日午前11時頃、第65旅団司令部から電話で、大本営命令と称して米比軍捕虜を射殺せよという命令が届きました。この命令には文書がなく本物かどうか疑わしいため、現場では無視したり逆に捕虜を釈放したとの証言もあります。しかし、命令は絶対であるとして、実行した者もいました。本間雅晴中将は、これらの事情をまったく知りませんでした。収容所にたどり着いたのは約5万4千人で、約7千人〜1万人がマラリアや飢え、疲労、その他殴打、処刑などで死亡したと見られています。米軍の死亡者は2300人と記録されています。監視の日本兵は少なく、逃亡は容易でした。フィリピン人の場合は、現地の民衆の間に紛れ込めばわからないので、脱走者が多くいました。戦後の「マニラ軍事裁判」等において、本間雅晴や捕虜移送の責任者であった第14軍兵站監・河根良賢少将は「死の行進」の責任者として有罪の判決が下されて処刑されました。

最後に、もく星号墜落事故です。もく星号墜落事故は、日本航空羽田発名古屋、伊丹経由福岡行の便が伊豆大島に墜落した航空事故です。事故が発生したのは1952年4月9日、羽田空港を午前7時42分に離陸した「もく星号」は直後に消息を絶ち、翌日の朝に捜索活動を行っていた同僚機の「てんおう星号」によって、伊豆大島の三原山山腹に墜落しているのが確認されました。この飛行機には、活弁士・漫談家の大辻司郎や八幡製鐵社長の三鬼隆などの著名人も搭乗していました。また当時、飛行機は運賃が他の公共交通に比べて高い乗り物だったため、「もく星号」の乗客も社会的地位が比較的高い人間ばかりでした。日立製作所の取締役や石川島重工の役員、ハワイのホテル支配人、炭鉱主、国家公務員などがいました。彼らを含む乗客・乗務員37名全員死亡という、当時としては大規模な航空事故となりました。なお、講談師の五代目一龍斎貞丈も大辻司郎と同じ仕事のため飛行機で向かう予定でしたが、東京での仕事があったために1日遅れの出発となり、命拾いをしました。また、ロイヤル社長の江頭匡一も、東京での仕事が長引いて出発が1日遅れたため、難を逃れました。しかし、消息を絶ってから残骸となって発見されるまでの間は、マスコミや警察等の関係当局も情報をほとんど手に入れる事が出来ず、そのため多くの未確認情報が錯綜して「海上に不時着」、「アメリカ軍機が生存者を発見」、「乗客全員無事」などの誤報が次々に打たれました。特に長崎県の地方紙「長崎民友新聞」は、事故の翌日の紙面で「危うく助かった大辻司郎氏」という写真付きの記事を掲載しました。「漫談の材料が増えたよ−かえって張り切る大辻司郎氏」という見出しで大辻の談話を載せていました。当時はまだ[フライトレコーダー」や「ボイスレコーダー」が装備されていなかった上、当時の航空管制や事故捜査は連合国軍(実質的には在日アメリカ軍)の統制下にあったため、墜落事件の詳細は今も不明な点が多くあります。推測される主な墜落原因は、アメリカ人パイロットによる操縦ミス説や、当時同区域の管制を行なっていたアメリカ軍の管制ミス説があります。また、後に機長を空港まで送ったタクシー運転手による証言から機長飲酒説も挙げられていますが、最終的に墜落原因は特定されないまま捜査が終了しました。これは、アメリカ軍の管制ミスなどアメリカ人のミスが事故の主因となっていた事から、アメリカ軍を中心とした連合国軍の占領下の日本人の「反米感情」を煽らない為にあえて「原因不明」としたのが真相と言われています。

今日の誕生日:ティムール、大川橋蔵、三谷昇、天宮良、伊藤美紀、伊藤さおり(北陽)、ミラクルひかる、山下智久(元NEWS)、厚切りジェイソン、坂本花織、ヒカルタカイ、メジロラモーヌ、ムービースター、サクラキャンドル、エアジハード、エイシンプレストン、テイエムオーシャン、エイシンデピュティ、クィーンスプマンテ

今日の記念日:大仏の日、左官の日、反核燃の日、よいPマンの日、子宮頸がんを予防する日、フォークソングの日

今日の「今日訓」:本日は、天平勝宝4年4月9日、「奈良の大仏」の開眼供養が行われた事で「大仏の日」、1985年、青森県知事・北村正哉が、県議会の全員協議会で核燃料サイクル施設の推進を表明した事で「反核燃の日」、「しっ(4)く(9)い」の語呂合わせで「左官の日」、ピーマンの主産地である茨城県、高知県、鹿児島県、宮崎県が制定した、Pと9の形が似ている事から「よい(4)P(9)マン」、「4県のP(9)マン」の語呂合わせで「よいPマンの日」、「子(4)宮(9)」の語呂合わせで「子宮頸がんを予防する日」、「フォー(4)ク(9)」の語呂合わせで「フォークソングの日」となりました。
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