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2020年03月31日00:17

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3月31日の日記

今日の出来事:1668年−追腹一件、1841年−茸山騒動、1854年−日米和親条約が結ばれ、開国、1877年−西南戦争:中津隊蜂起、1889年−エッフェル塔が完成、1924年−村山貯水池(多摩湖)完成、1944年−海軍乙事件、1970年−赤軍派が日本航空機よど号をハイジャック(よど号事件)、1981年−ピンク・レディーが解散、2000年−SPEEDが解散、2001年−ユニバーサル・スタジオ・ジャパンがオープン、2012年−アナログ放送完全終了、2014年−お昼の番組「笑っていいとも!」が最終回(放送期間:1982年〜2014年、回数:8054回)

今日は、追腹一件です。追腹一件は、宇都宮藩で起こった殉死事件です。1668年3月31日、宇都宮藩の藩主・奥平忠昌が江戸・汐留の藩邸で病死しました。世子で長男・奥平昌能は、奥平忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対して「いまだ生きているのか」と詰問しました。これが原因で、杉浦右衛門兵衛は直ちに切腹しました。当時は家臣が主君の死後、その後を追う事は「追腹」と称されていました。家臣が主君に殉じる事は、「一生二君に仕えず」とする武家社会のモラルに由来していました。当初は、討死の場合に限られていましたが、後に病死であっても「追腹」が盛行し、江戸時代初期に全盛期を向かえました。しかし、第4代将軍・徳川家綱の下で文治政治への転換を進めていた江戸幕府は、1663年に「殉死禁止令」を発布しました。そのため、奥平昌能と杉浦右衛門兵衛の行為を「殉死禁止令」に対する挑戦行為とみなしました。幕府は、奥平家に対して2万石を減封して出羽・山形藩9万石への転封に処し、殉死した杉浦右衛門兵衛の子・2人を斬首、婿二人と外孫を追放刑に処するなど厳しい態度で臨みました。これにより、殉死者の数は激減しました。奥平忠昌の没後14日目には、奥平内蔵允が法要への遅刻を「腰抜け」となじった奥平隼人を、「武士の一分」を立てるためと斬りつけた事件「興禅寺刃傷事件」が起こります。これが元で、奥平内蔵允の子・奥平源八らによって「江戸三大仇討ち」の一つ「浄瑠璃坂の仇討」が後に起こる事になります。

次に、茸山騒動です。茸山騒動は、肥後・人吉藩で1841年に起こった百姓一揆です。当時の人吉藩は、大風・洪水・旱魃・虫入などにより、田畑・民家・橋・城石垣などが被害に見舞われ、藩財政が窮乏していました。藩士・田代政典は、家老の菱刈典膳へ窮乏の打開案を記した建白書を提出しました。それが認められて、1821年に第14代藩主・相良頼之に家老職を命ぜられました。田代政典は、藩政改革を推進しました。その一環として、豊後国より椎茸栽培を導入して座(特権商人制度)を設けました。田代政典が「飢饉の際は荒糠を煎じて、その汁を飲めば、一日二日は命を長らえられる」と述べた事を、農民らは「百姓どもは荒糠を食え」と述べたと聞き違えました。それらを門葉派である相良頼直につけこまれ、1841年3月31日から4月4日まで続く「茸山騒動」と呼ばれる百姓一揆を煽動される事となりました。作物への課税や椎茸山への入山禁止などに不満を抱いた藩内一円の農民約1万人が、一揆を起こしました。一揆衆は茸山を打ち壊し、さらに鉄砲を放って鯨波を上げると人吉町へ打ち入って特権商人宅を打ち壊し、町人1人を殺害しました。人吉藩は、相良頼直を通じて出された一揆側の要求を受け入れる事で、一揆を終息させました。4月1日、田代政典は自ら責めを負って自害し、座が廃止されました。田代政典の責任を追及したのが、門葉の相良左仲頼直でした。このため、相良頼直は悪政を行なった田代政典を成敗した正義の味方として、領民から信望を集めました。しかし、4月1日、登城すると同時に藩主・相良長福の命令で一揆を煽動したとして、切腹を命じられました。享年33でした。信任していた田代を自害に追いやった事を相良長福が恨んでいたためと言われています。相良頼直切腹の背景には、次期藩主・長福の擁立をめぐって、擁立支持の家老派と擁立反対の門葉派との対立がありました。

その次に、日米和親条約が結ばれ、開国です。前年、アメリカの東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーは黒船を率いて来航し、フィルモア大統領の親書を持って幕府に開国・通商を求めました。幕府は1年の猶予を求めたため、退去しました(黒船来航)。翌年の1854年2月13日、再び来航して江戸湾(東京湾)へ入港しました。3月4日、幕府は武蔵国久良岐郡横浜村字駒形(神奈川県横浜市中区の神奈川県庁付近、現・横浜開港資料館所在地)に応接所を設置しました。約1ヶ月にわたる協議の末、3月31日に全12箇条からなる「日米和親条約」を締結し、調印しました。日本側の実務担当者は、林大学頭復斎でした。これにより、函館と下田が開港する事になり、200年以上続いた日本の鎖国体制に終止符が打たれました。その後、伊豆国下田の了仙寺へ交渉の場を移し、6月17日に和親条約の細則を定めた「下田条約(全13箇条)」を締結しました。なお、ペリー艦隊は6月25日に下田を去り、帰路に琉球へ立ち寄って琉球王国と「琉米修好条約」を締結しました。1857年6月17日、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスと下田奉行の井上信濃守清直、中村出羽守時万の間で「日米和親条約」を修補する全9箇条の「下田条約」が締結されました。しかし、この後にあの「不平等条約」と名高い「日米修好通商条約」を結ばされる事になります。

その次の次に、西南戦争:中津隊蜂起です。「中津隊」は、大分県中津市で増田宋太郎を中心とした旧中津藩士150名によって結成されました。増田宋太郎は国学を学び、尊王攘夷思想を持っていました。福澤諭吉の再従弟に当たり、住まいも近所で親しい交際がありました。1870年、福澤諭吉が帰郷した際、寝込みを襲おうと暗殺を企てました。福澤邸に乗り込んだものの、議論する内に福澤諭吉の価値観に魅せられ、慶應義塾へ入学しました。慶應義塾で学んだ後、自由民権運動に参加しました。中津に帰郷後、英学を教える一方で「田舎新聞」を創刊しました。「中津隊」は中津にて蜂起すると、中津城の御殿に放火して焼失させました。その後、大分市を目指して進軍し、現在の府内城に置かれていた県庁の攻略を目指しましたが、失敗しました。その後、県警などの追討を逃れながら熊本県入りし、西郷軍本隊に合流しました。「西南戦争」末期の「和田峠の戦い」で西郷軍が破れ、西郷隆盛が「解軍の令」を出した後も、増田宋太郎ら十数名は西郷軍と最後まで行動を共にし、最後は「城山の戦い」で戦死しました。「1日先生に接すれば1日の愛があり、3日接すれば3日の愛がある」は、増田宋太郎が西郷隆盛を絶賛した言葉です。

最後に、海軍乙事件です。海軍乙事件は、連合艦隊司令長官・古賀峯一海軍大将が、搭乗機の墜落により殉職した事件です。1944年2月の「トラック島空襲」の後、連合艦隊は新たな内南洋の拠点としてパラオを利用していましたが、3月に連合軍の大空襲を受けました。そのため、古賀峯一ら司令部の要員は3月31日、ミンダナオ島のダバオへ飛行艇(二式大艇)で移動を図りましたが、途中で低気圧に遭遇し、古賀峯一が乗っていた一番機が行方不明となりました。この事故で古賀峯一ら司令部要員7名を含む全搭乗員は「殉職」とされました。古賀峯一の殉職はすぐに国民には知らされず、5月5日に発表されました。古賀峯一は元帥府に列せられ、元帥の称号が与えられました。一方、二番機はセブ島沖に不時着し、搭乗していた福留繁参謀長以下の連合艦隊司令部要員3名(山本祐二作戦参謀、山形掌通信長)を含む9名は、泳いで上陸しましたがゲリラの捕虜となり、3月8日に作成したばかりの「新Z号作戦計画書」、「司令部用信号書」、「暗号書」といった数々の最重要軍事機密を奪われました。ゲリラに対して警戒心を抱かなかった福留繁らは拘束時に抵抗や自決、機密書類の破棄をしませんでした。前年に起きた「山本五十六撃墜事件」を「海軍甲事件」と言う事から、この事件は「海軍乙事件」と呼ばれます。日本海軍の連合艦隊司令長官は、連続して殉職しました。

今日の誕生日:足利義輝(室町幕府第13代将軍)、筒井順慶、横井庄一、永井路子、奥村公延、大島渚、毒蝮三太夫、舘ひろし、中野栄治、戸川純、鶴久政治(元チェッカーズ)、小川直也、宮迫博之(雨上がり決死隊)、筒井道隆、義家弘介、ホルスタイン・モリ夫(モリマン)、上原さくら、Toshiya(Dir en grey)、王建民、坂本真綾、宮脇里奈(元美少女クラブ31)、ドージマムテキ、ゴールデンジャック、クロフネ、ヴィクトワールピサ、カレンチャン、槇村香

今日の記念日:年度末、オーケストラの日、山菜の日、体内時計の日

今日の「今日訓」:本日は、「年度末」です。学校や役所、会社などの一年の期間である「年度」の最終日です。「み(3)み(3)に一番」、「み(3)み(3)にいい(1)ひ」の語呂合わせで「オーケストラの日」、「3(さん)3(さ)1(い)」の語呂合わせで「山菜の日」、入社や入学などの新生活の変わり目に 生活リズムを省みる日として、新年度が始まる前日を「体内時計の日」となりました。
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