mixiユーザー(id:48382454)

2020年03月26日00:25

268 view

3月26日の日記

今日の出来事:1681年−徳川綱吉が護国寺を創建、1709年−寛永寺事件、1868年−戊辰戦争:偽官軍事件「相楽総三処刑」、1877年−西南戦争:小川の戦い、1945年−第二次世界大戦:硫黄島の戦い終結、2011年−ヴィクトワールピサがドバイワールドカップを制覇、2016年−北海道新幹線「新青森駅−新函館北斗駅」間が開業

今日は、徳川綱吉が護国寺を創建です。護国寺は、東京都文京区大塚五丁目にある真言宗豊山派の寺です。1681年3月26日、江戸幕府第4代将軍・徳川綱吉は母・桂昌院の願いをうけ、高崎の大聖護国寺住持・亮賢に高田薬園の地を与えて、桂昌院の祈願寺・護国寺の建立を命じました。本尊は桂昌院念持仏の琥珀如意輪観音(絶対秘仏)です。本堂(観音堂)本尊は堀田正虎の母・栄隆院尼寄附の如意輪観世音菩薩です。江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所です。護国寺に隣接して存在した「護持院」(筑波山大御堂の別院)は、新義真言宗で最も格式の高い寺院でした。護持院は明治時代に護国寺に合併されました。

次に、寛永寺事件です。織田信長の弟・織田長益(有楽斎)の5男・尚長は、「大坂冬の陣」の終結に際して豊臣家から徳川家に人質に出されました。1615年、大坂城を退去した父と共に、徳川家康に御目見しました。父・長益から大和国式上郡・山辺郡内で1万石を分与されました。はじめは大泉村、次いで柳本村に陣屋を構えて、大和・柳本藩の初代・藩主となりました。1637年に子・長種が2代藩主、1643年にその子・秀一が3代藩主となりました。その後、1687年に秀一の子・秀親が大和・柳本藩の第4代藩主を相続しました。織田秀親は、1709年2月24日の前将軍・徳川綱吉の葬儀に際し、朝廷からの使者の御馳走役を命じられました。同役は前田利昌でした。「関ヶ原の戦い」後、前田利家の長男・利長が加賀・越中・能登の3ヶ国合わせて122万5千石を支配する、日本最大の藩・加賀藩の初代藩主となりました。1605年、前田利長は隠居し、前田利家の4男・利常が家督を継いで第2代藩主となりました。1639年に前田利常が隠居するにあたり、3男・利治が江沼郡を中心に7万石を分封されて加賀・大聖寺藩の初代藩主となりました。1660年に前田利治が死去すると、前田利常の5男・利治が2代藩主となりました。1692年に前田利治が死去すると長男・利直が第3代藩主となりました。この時、弟・利昌に1万石を分与して、支藩・大聖寺新田藩を立藩させました。大聖寺新田藩の初代藩主となった前田利昌は、1709年2月24日に東叡山・寛永寺で行われた5代将軍・徳川綱吉の葬儀に際し、中宮使饗応役を命じられました。1709年3月25日、翌日の将軍・徳川家宣の参詣の行事について書かれた老中の奉書が、織田秀親に届けられました。その際、饗応役はそれを回覧することになっていましたが、織田秀親は前田利昌に見せようとしませんでした。その場で前田利昌は小刀に手を掛けましたが、1703年に起こった「赤穂事件」の事を考えて一旦は踏み止まりました。前田利昌は、家老・木村九左衛門に「赤穂事件」について感想を求めました。木村九左衛門は「浅野内匠頭は斬らずに刺せば本懐を遂げられた」と返答しました。その翌日、徳川綱吉の法会が寛永寺で行なわれている時に、織田秀親は寛永寺・吉祥院の宿坊で前田利昌の木村九左衛門に後ろから羽交い絞めされ、前田利昌に刺殺されました。享年48でした。織田秀親は体格が相当あり、武芸も達者でありましたが、厠に行った隙を突かれて殺害されました。幕府は、弟で養子の成純に大和・柳本藩の家督相続を認めました。その後、前田利昌は山城国・淀藩主の石川義孝に預けられ、3月28日に切腹となりました。大聖寺新田藩は廃藩となり、幕府に一旦収公されましたが、すぐに大聖寺藩に還付されました。

その次に、戊辰戦争:偽官軍事件「相楽総三処刑」です。相楽総三は、関東方面の各義勇軍に参加し、1864年の「天狗党の乱」に参戦しました。その後、西郷隆盛、大久保利通らと交流を持ち、1867年に西郷の命を受け、江戸近辺の「倒幕運動」に加わりました。相楽総三らの「倒幕運動」は、江戸市中への放火や掠奪・暴行などの蛮行を繰り返した事です。これは「大政奉還」によって徳川家を武力討伐するための大義名分を失った「薩摩・長州」が、江戸の幕臣達を挑発し、戦端を開く口実を作るためでした。西郷隆盛の策は成功し、屯所を襲撃された庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ちする「江戸薩摩藩邸の焼討事件」が起こりました。これが、「鳥羽・伏見の戦い」のきっかけとなりました。こうして、「戊辰戦争」が勃発すると「赤報隊」を組織して東山道軍先鋒として活躍しました。隊の名前は「赤心を持って国恩に報いる」から付けられました。新政府軍に年貢半減令の建白書を提出して認められたため、これを掲げて京都から江戸を目指して進軍しました。「赤報隊」一番隊は信濃国へ進むと、中山道と甲州街道の分岐点である下諏訪宿を拠点としました。しかし、新政府軍の方針変更によって「赤報隊」が偽官軍とされました。新政府軍は信濃各藩に「赤報隊」逮捕の命令を下し、3月10日に追分宿で小諸藩などに襲撃され惨敗しました(追分戦争)。相楽総三は下諏訪宿で捕縛されました。手を下したのは新政府軍参謀・進藤帯刀でした。3月26日、下諏訪宿の外れで相楽総三ら幹部8名(大木四郎、小松三郎、竹貫三郎、渋谷総司、西村謹吾、高山健彦、金田源一郎)は処刑されました。相楽総三は、享年30でした。しかし、「赤報隊」に加わっていた公家(綾小路俊実、滋野井公寿)は処刑から外されました。「赤報隊」は、新政府によって使い捨てにされたのでした。妻・照はこれを聞き、息子の河次郎を相楽総三の姉に託し、後を追って自殺しました。後に相楽総三の首級は、地元出身の国学者で親交があった飯田武郷の手によって盗み出され、秘かに葬られました。1870年、下諏訪に相楽塚(魁塚)が建立されました。長い間、偽官軍の汚名を受けていましたが、孫の木村亀太郎の努力により名誉が回復され、1928年に「正五位」が贈られました。翌1929年、靖国神社に合祀されました。青山霊園立山墓地に墓所があります。

その次の次に、西南戦争:小川の戦いです。政府軍は、薩摩軍の鹿児島と熊本間の補給・連絡を遮断すること、薩摩軍を腹背から挟撃すること等の企図を持った軍が派遣される事になりました。黒田清隆中将が参軍となり、この上陸衝背軍を指揮する事になりました。最初の衝背軍は3月18日、長崎を出発して八代に向かった高島鞆之助大佐が率いる別働第2旅団でした。この旅団は3月19日、艦砲射撃に援護されて日奈久南方の州口及び八代の背後に上陸し、薩摩軍を二面から攻撃して八代の占領に成功しました。20日には黒田清隆が率いる1箇大隊半と警視隊500名余が日奈久に上陸しました。薩摩軍では二番大隊一番小隊が日奈久、二番大隊五番小隊が松崎西南の亀崎、二番大隊六番小隊が熊本西北の白浜で海岸警備をしていましたが、効果的な防御ができませんでした。政府軍の八代上陸の報を得た薩摩軍は、熊本長囲軍の一部を割き、三番大隊指揮長・永山弥一郎が率いる5箇中隊・都城隊・二番砲隊を八代に派遣しました。薩摩先遣隊と高島鞆之助が率いる政府軍は氷川を挟んで激戦となり、薩摩軍は対岸に進出しました。しかし、翌21日には増援を得た政府軍が押し返し、薩摩軍を砂川に退却させました。22日、黒田清隆は八代から宮の原に出て、薩摩軍と戦闘をしました。増援を得た薩摩軍と政府軍の戦闘は24、25日と続き、戦況は一進一退でした。3月24日、長崎を出発した別働第2旅団(山田顕義少将)・別働第3旅団(川路利良少将)は25日午後、八代に上陸しました。3月26日、黒田清隆は別働第1旅団を左翼、別働第2旅団を中央、警視隊を右翼に配し、艦砲射撃の援護のもと三方から小川方面の薩摩軍を攻撃しました。激戦の末、薩摩軍を撃退して小川を占領しました。この時、薩摩軍の猛将・永山弥一郎は「諸君何ぞ斯(かく)の如く怯なる、若し敵をして此地を奪はしめんか、熊本城外の我守兵を如何にせん、大事之に因て去らんのみ、生きて善士と称し、死して忠臣と称せらるゝは唯此時にあり、各死力を尽し刀折れ矢竭(つ)き而して後已(やまん)」と激励しましたが、戦況を逆転する事はできませんでした。

そのまた次に、第二次世界大戦:硫黄島の戦い終結です。「硫黄島の戦い」は、小笠原諸島の硫黄島で日本軍とアメリカ軍との間で行われた戦いです。アメリカ軍側の作戦名は「デタッチメント作戦」です。1944年8月、「グアムの戦い」でグアム島を制圧し終えたアメリカ軍は、日本本土攻略に向けた次の攻撃予定として、12月20日にフィリピンのレイテ島に上陸しました(レイテ島の戦い)。「レイテ沖海戦」で、日本海軍は大敗北を喫したため戦闘能力がなくなりました。日本本土への戦略爆撃が可能になる事から「硫黄島攻略」という基本戦略が「沖縄上陸(沖縄戦)」への前提として、アメリカ軍全体の方針となりました。これを受けて、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が、艦載機と艦艇の砲撃支援のもと開始されました。上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする日本軍の激しい抵抗を経て、アメリカ軍は硫黄島を制圧しました。3月21日、日本の大本営は硫黄島守備隊が玉砕したと発表しました。しかし、その後も残存日本兵の散発的な遊撃戦は続いていました。3月26日、栗林忠道大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行して壊滅、これにより戦闘は終結しました。「国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」 これが、栗林忠道の大本営への訣別電報です。日本軍は、守備兵力20129名が戦死または行方不明となりました。アメリカ軍は戦死6821名・戦傷21865名の損害を受けました。あの史上最大の上陸作戦「ノルマンディー上陸作戦」の戦死傷者数を上回り、「沖縄戦」とともに「第二次世界大戦」屈指の最激戦地となりました。硫黄島陥落により、アメリカ軍は日本本土爆撃が可能になりました。そして、あの「沖縄戦」が始まる事になります。

そのまた次の次に、ヴィクトワールピサがドバイワールドカップを制覇です。ヴィクトワールピサが日本馬としては史上初となる、ドバイワールドカップを制覇しました。あのホクトベガの「ドバイの悲劇」、トゥザヴィクトリーの2着(史上唯一の牝馬の入着)、カネヒキリ、ヴァーミリアンの4着入着と多くの実力馬が参戦しました。そして、ついにヴィクトワールピサとトランセンドの日本馬ワンツーフィニッシュの日を迎えたのです。

最後に、北海道新幹線「新青森駅−新函館北斗駅」間が開業です。新青森駅と新函館北斗駅の間が開業し、東京−新函館北斗間が最短4時間2分で結ばれました。これにより、海峡線・津軽今別駅が廃止され、奥津軽いまべつ駅が開業しました。海峡線・木古内駅は新駅舎となり、江差線の木古内駅〜五稜郭駅がJR北海道から経営分離され、第三セクター・道南いさりび鉄道に移管されました。函館本線・渡島大野駅は新駅舎となり、新函館北斗駅と改称されました。新函館北斗駅から札幌駅までは、2031年春に開業予定です。

今日の誕生日:エルンスト・エンゲル、内村鑑三、李承晩(韓国初代〜3代大統領)、今東光、公文公、柴田錬三郎、野村沙知代、ダイアナ・ロス(元シュープリームス)、いしだあゆみ、スティーヴン・タイラー(エアロスミス)、加納竜、京極夏彦、安野モヨコ、マックン(パックンマックン)、後藤久美子、丸山桂里奈、石塚義之(アリtoキリギリス)、YUI、高木雄也(Hey!Say!JUMP)、柳楽優弥、渡辺麻友(元AKB48、元渡り廊下走り隊7、NO NAME)、宮原知子、相川茉穂(元アンジュルム)、アイリッシュダンス、ホクトベガ、チョウカイキャロル、ヒシアマゾン、冴羽僚、牡羊座のムウ

今日の記念日:カチューシャの唄の日、楽聖忌、犀星忌

今日の「今日訓」:本日は、1914年に島村抱月と松井須磨子が起こした芸術座が、トルストイの「復活」の初演を行い、この中で歌われた「カチューシャの唄」が大流行した事で「カチューシャの唄の日」、1827年に「楽聖」と呼ばれたベートーベンの命日で「楽聖忌」、1962年に詩人で小説家の室生犀星の命日で「犀星忌」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する