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2020年03月24日00:34

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3月24日の日記

今日の出来事:1185年−源平合戦:志度合戦、1336年−南北朝動乱:豊島河原合戦、1439年−永享の乱、1603年−徳川家康が征夷大将軍に就任、1860年−桜田門外の変、1863年−長州藩直目付・長井雅楽切腹、1882年−ロベルト・コッホが結核菌の発見、1953年−国際電信電話株式会社 (KDD)設立

今日は、源平合戦:志度合戦です。1185年3月22日の「屋島の戦い」で源義経の奇襲を受け、平氏は本陣・屋島を捨てて海上に逃れ、讃岐国の志度寺に立て籠もりました。1185年3月24日、源義経は80騎の兵を率いて平氏を追撃し、志度に至りました。平氏の家人・田内教能は源義経に帰順、河野通信は30艘の船を整えて加わりました。義経は阿波国へ渡りました。平家方1000余人が渚に上がって戦いましたが、屋島に残っていた源氏軍200余騎が駆けつけてくると、再び船に戻ると海上へ逃れていきました。四国を追われ、陸は源範頼に押さえられているため九州へ渡る事もできず、平家は海上に孤立し、瀬戸内海を転々としながら彦島へ退いていきました。3月25日、水軍を調達した梶原景時が140余艘の船を率いて屋島へ到着しました。鎌倉の源頼朝から九州を押さえている源範頼に、平氏追討には慎重を期して「三種の神器」を無事に取り返すように書状が送られます。こうして、「源平合戦」の最終決戦「壇ノ浦の戦い」を向かえる事になります。

次に、南北朝動乱:豊島河原合戦です。豊島河原合戦は、新田義貞・北畠顕家を総大将とする後醍醐天皇軍と足利尊氏を総大将とする反乱軍の戦いです。1333年、鎌倉幕府が滅びた後、足利尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻しました。1335年、足利尊氏は「箱根・竹ノ下の戦い」で新田義貞軍を破ると、京都へ進軍しました。1336年、足利尊氏は京都へ到着しましたが、駆け付けた北畠顕家軍に攻められ、丹波国に引き返す事となります。丹波国に引き返した足利尊氏は勢力を盛り返し、再度京都に攻め入る為に摂津国猪名川付近へ到着しました。これに対して、後醍醐天皇側の新田義貞・北畠顕家勢は軍を率いて足利尊氏が陣を張る摂津へ向かいました。足利尊氏は、弟・足利直義に約16万の軍勢を与えて京都へ攻め上らせました。約10万騎の新田義貞・北畠顕家が率いる後醍醐天皇軍と摂津国・豊島河原で合戦を行いました。両軍共に勝敗が付かず、猪名川両岸で睨み合いが続いた後、後醍醐側として参戦した楠木正成が西宮へ赴き、背後から足利直義・尊氏軍を襲いました。その結果、足利尊氏は破れ去り、神戸へ退陣しました。その後、足利尊氏は九州へ落ち延びて行きます。

その次に、永享の乱です。室町幕府は関東統治のため「鎌倉府」を設置していました。この「鎌倉府」は足利氏出身の「鎌倉公方」とこれを補佐する上杉氏出身の「関東管領」に指導されていました。「関東管領」の任命権は幕府が握っていた事で、「鎌倉公方」と「関東管領」は対立していました。4代将軍・足利義持時代の時、前関東管領・上杉禅秀が4代鎌倉公方・足利持氏に反して挙兵した「上杉禅秀の乱」が起きました。乱は幕府との協力で鎮圧されましたが、足利持氏が残党狩りを名目として、京都扶持衆の宇都宮持綱などを粛清、さらに幕府の支援する佐竹氏を討伐しました。これにより、幕府と「鎌倉府」は対立関係となりました。足利義持の没後、弟・義教が6代将軍に就任すると、足利持氏は反発しました。さらに足利持氏は関東管領・上杉憲実とも対立し、上杉氏庶流の上杉定頼・上杉憲直や直臣・一色直兼を重用するなど、独裁色を強めました。1435年に足利持氏は軍事行動をはじめました。1419年に関東管領に就任した上杉憲実は、足利持氏と険悪な関係となり、持氏が憲実を暗殺するという噂が流れると鎌倉から相模藤沢へ逃れました。1438年、足利持氏が嫡子・賢王丸(足利義久)の元服を幕府に無断で行うと再び対立し、上杉憲実は分国であった上野平井城に逃れました。足利持氏は上杉憲実追討のため、近臣・一色直兼に軍を与えて差し向けました。上杉憲実は幕府に救援を請いました。将軍・足利義教は持氏の叔父・足利満直や駿河守護・今川範忠、信濃守護・小笠原政康に上杉憲実の救援を命じ、上杉禅秀の子・上杉持房・上杉教朝らを派遣しました。更に越前・尾張・遠江守護である斯波義健の後見人・斯波持種、甲斐常治と朝倉教景も関東に派遣されました。この時に足利義教は朝廷権威を利用し、後花園天皇に対して3代将軍・足利義満以来であった「治罰綸旨」と「錦御旗」の要請を行いました。今川範忠軍は足利持氏の軍勢を撃破して足柄山を越え、上杉持房も箱根の陣を破りました。上杉憲実は平井城を出陣し、一色直兼軍を破りました。更に、鎌倉の留守を守っていた三浦時高が守備を放棄して退くと、寝返って鎌倉へ攻め込みました。劣勢に陥り、兵の多くが逃亡した足利持氏は相模海老名まで退き、鎌倉へ落ちようとしました。足利持氏一行は途中で上杉憲実の家宰である長尾忠政・景仲の軍と出会うと、持氏は幕府への恭順を誓い、鎌倉の永安寺に入りました。その後、足利持氏は称名寺に入り出家します。一色直兼以下の足利持氏の近臣達は、称名寺で幕府軍に攻められ自害しました。足利持氏は永安寺に移され、幕府軍により幽閉されました。上杉憲実は足利持氏の助命と嫡子・義久の鎌倉公方就任を嘆願しましたが、足利義教は許しませんでした。更に上杉憲実の反逆を疑い、討伐を命じました。1439年3月24日、上杉憲実は永安寺を攻め、足利持氏と叔父の稲村公方・足利満貞らは自害し、足利義久は鎌倉報国寺で自害しました。上杉憲実は戦後、子達と共に出家して政務から引退し、憲実の弟・上杉清方が管領代行となりました。足利持氏の子の何人かは難を逃れ、翌1440年に結城氏朝が持氏の遺児を奉じて挙兵する「結城合戦」が起こります。

その次の次に、徳川家康が征夷大将軍に就任です。「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康は、豊臣秀次が解任されて以来、空位となっていた「関白」に家康の奏上により九条兼孝が任じられました。これにより、豊臣氏による関白職世襲を終わらせました。1601年、「関ヶ原の戦い」の戦後処理を終わらせた家康は、大坂城・西の丸を出て伏見城にて政務を執りました。1602年、「関ヶ原の戦い」の戦後処理で唯一処分が決まってなかった常陸国・水戸の佐竹義宣を出羽国・久保田に減転封し、代わりに佐竹氏と同じ源義光の流れをくむ武田氏を継承した五男・武田信吉を水戸に入れました。これにより、関東一円は完全に徳川氏が支配する事となりました。1603年3月24日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣しました。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を「征夷大将軍」、「淳和奨学両院別当」、「右大臣」に任命しました。武家の棟梁が「征夷大将軍」への任官に伴い、源氏長者ほかの官職を与えられる栄誉は足利義満から始まった慣例でした。こうして、江戸幕府がはじまりました。「王政復古の大号令」により、15代将軍・徳川慶喜の将軍職辞任が勅許され、幕府の廃止が宣言された1868年1月3日までの約265年間を「江戸時代」と言います。

そのまた次に、桜田門外の変です。桜田門外の変は、1860年3月24日に江戸城桜田門外で水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士が彦根藩の行列を襲撃して、大老・井伊直弼を暗殺した事件です。井伊直弼は兄・直亮の養子となり、直亮が死去すると彦根藩第15代藩主になりました。参謀・長野主膳と共に国政を行いました。大老に就任した彦根藩主・井伊直弼は、第13代将軍・徳川家定の後継をめぐり、南紀派と一橋派が競う「将軍継嗣問題」を、南紀派の推す慶福(後の家茂)を将軍の世子としました。修好通商条約の締結では、孝明天皇の勅許が得られず、攘夷派の反対論が勢いを増しました。駐日米公使のタウンゼント・ハリスから早期締結要求が強まると、井伊直弼は勅許を得ずに、「日米修好通商条約」をはじめとする「安政の五ヶ国条約」の調印に踏み切り、「開国」を断行しました。幕府の無断条約調印で孝明天皇は、幕政の刷新と大名の結束を説く「戊午の密勅」を、水戸藩や関白以外の摂家から縁戚にある大名にも直接回付しました。これに対して徹底弾圧を決意した井伊直弼は、老中に再任させた間部詮勝を京都に送り、新たに京都所司代に任命した酒井忠義にこれを補佐させました。間部詮勝は、長野主膳や九条家家士・島田左近と連日協議しました。間部詮勝は井伊直弼の指示を受け、一橋派らと関係を深めていた公卿の家人たちを捕縛断罪、全国の志士や幕政を批判する政治運動に関わった諸藩の武士を捕らえました。この捕縛は公卿や公家、大臣、僧侶、藩主、幕臣、浪人、画家、漢詩人、学者、名主、町人等に及び、疑獄と思わしき者も含めて最終的に総勢100名以上が連座しました。こうして前代未聞の大量粛清「安政の大獄」で、橋本左内や吉田松陰、梅田雲浜など当時の有能な志士達が処刑されました。これらに反発した攘夷派の高橋多一郎や金子孫二郎などの水戸藩士と薩摩藩の有村次左衛門は、薩摩藩主・島津斉彬による率兵上京と天皇の勅書をもって、京都で「義挙」を断行して幕政を是正しようと図りました。しかし、薩摩藩主・島津斉彬が急死し、攘夷派の蜂起は破綻しました。一部の水戸藩士たちは、関東で尽忠報国の「義挙」を単独で実行する方針を固め、井伊直弼征伐計画の準備を進めました。水戸藩士たちは二手に分かれ、高橋多一郎、金子孫二郎らは薩摩との合流のため京へ上り、関鉄之介が率いる実行部隊は井伊大老襲撃のため江戸に残りました。この江戸に残った水戸藩士たちに、薩摩在府組の有村次左衛門が一人加担しました。襲撃に加わる藩士たちは、藩に届け捨てで脱藩を願い出て、浪士となりました。1860年3月24日の早朝、浪士一行は訣別の宴を催して一晩過ごした東海道品川宿の旅籠を出発しました。一行は東海道に沿って進み、愛宕神社で待ち合わせて、外桜田門へ向かいました。現地に着いた襲撃者たちは、武鑑を手にして大名駕籠見物を装い、井伊直弼の駕籠を待ちました。当日は季節外れの大雪で視界は悪く、護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていたので、襲撃側には有利な状況でした。登城する井伊直弼の駕籠は彦根藩の藩邸上屋敷を出て、内堀通り沿いに江戸城外桜田門外に差し掛かった時、そこで浪士たちの襲撃を受けました。駕籠が近づくと、前衛を任された水戸浪士・森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づき、取り押さえに出た彦根藩士・日下部三郎右衛門に斬りかかりました。こうして護衛の注意を前方に引きつけると、水戸浪士・黒澤忠三郎が合図のピストルを駕籠めがけて発射し、浪士本隊による襲撃が開始されました。発射された弾丸により井伊直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなりました。襲撃に驚いた駕籠かきや、藩士の多くが算を乱して遁走しました。駕籠は雪の上に放置されました。こうした中、彦根藩一の剣豪・河西忠左衛門は、駕籠脇を守って浪士・稲田重蔵を倒すなど、襲撃を防ぎました。駕籠脇の若手剣豪・永田太郎兵衛も奮戦し、襲撃者に重傷を負わせました。しかし、河西忠左衛門は斬られて倒れ、永田太郎兵衛も闘死しました。護る者のいなくなった駕籠には、次々に襲撃者の刀が突き立てられました。さらに、有村次左衛門が駕籠の扉を開け放ち、虫の息となっていた井伊直弼の髷を掴んで駕籠から引きずり出しました。井伊直弼は無意識に地面を這おうとしましたが、有村次左衛門に斬首されました。襲撃開始から井伊直弼殺害まで、わずか数分の出来事でした。襲撃した18人は、「桜田十八士」と呼ばれています。
桜田十八士:
関鉄之介(現場総指揮者・逃亡後捕縛、斬罪)
岡部三十郎(逃亡後捕縛、斬罪)
稲田重蔵(闘死)
山口辰之介(重傷負い自刃)
鯉淵要人(重傷負い自刃)
広岡子之次郎(重傷負い自刃)
黒澤忠三郎(自首後病死)
斎藤監物(傷により自首後、死亡)
佐野竹之助(傷により自首後、死亡)
大関和七郎(自首後、斬罪)
森五六郎(自首後、斬罪)
蓮田市五郎(自首後、斬罪)
森山繁之介(自首後、斬罪)
杉山弥一郎(自首後、斬罪)
広木松之介(逃亡後、自刃)
海後磋磯之介(逃亡後、菊池剛蔵と改名し維新後警視庁・水戸県警察本部勤務)
増子金八(逃亡後、1881年没)
有村次左衛門(薩摩藩士、重傷負い自刃)
関係者:
金子孫二郎(首謀者、伏見にて捕縛、斬罪)
高橋多一郎(首謀者、大坂にて自刃)
高橋庄左衛門(多一郎の長男、大坂にて自刃)
有村雄助(次左衛門の兄、薩摩藩との連絡役、伏見薩摩藩邸にて捕縛、切腹)
佐藤鉄三郎(補佐、伏見で捕縛、追放刑、暗殺計画などを後世に書き残す)
川崎孫四郎(大坂で連絡係、自刃)
小室治作(高橋に随行し、自刃)
大貫多介(高橋に随行し、捕縛後獄死)
山崎猟蔵(薩摩藩士との連絡役、捕縛後絶食死)
島男也(笠間藩士、高橋多一郎に随行し、捕縛後獄死)
小野寺慵斎(土浦藩士、参謀、自刃)
宮田瀬兵衛(事件後に一味だと熊本藩に自訴、獄死)
飯田忠彦(事件への関与を疑われて、捕えられ抗議自殺)
滝本いの(関鉄之介の愛人、潜伏の手助けをし、捕えられ拷問により獄死)
佐久良東雄(高橋多一郎・庄左衛門を匿ったため捕縛、絶食死)
後藤権五郎(元一味、自首、獄死)
この事件により、江戸幕府の権威が大きく失墜し「尊王攘夷運動」が激化する発端となり、実力行使と武力による幕末維新動乱の時代が幕を開ける事になります。

最後に、長州藩直目付・長井雅楽切腹です。長井雅楽は、萩藩士大組士中老・長井次郎右衛門泰憲の長男として生まれました。1822年、4歳の時に父が病死したため家督を継ぎましたが、幼少のため家禄を半分に減らされました。その後、藩校・明倫館で学び、藩主・毛利敬親の小姓、奥番頭となりました。毛利敬親から厚い信任を受け、世子・毛利定広の後見人となりました。1858年、長州藩の重役・直目付となりました。長井雅楽は開国論者であったため、1861年に公武一和に基づいた「航海遠略策」を藩主に建白し、これが藩論とされました。その後、朝廷や幕府の「公武合体派」に歓迎され、毛利敬親と共に江戸に入って老中・久世広周、安藤信正と会見しました。翌月に正式に「航海遠略策」を建白して、公武の周旋を依頼されました。しかし、藩内の吉田松陰とその門下生が主流の「尊皇攘夷派」とは対立関係にありました。井伊直弼の「安政の大獄」で吉田松陰が捕縛され、江戸護送に対しても強硬な対抗策を取りませんでした。吉田松陰を江戸へ送る幕府の命を直目付・長井雅楽が藩と本人へ伝えた事が、松下村塾の塾生から恨みを買う事になりました。このため、後に吉田松陰の弟子である久坂玄瑞や前原一誠らによる暗殺が計画されました。1862年、幕府で公武合体を進めていた安藤信正や久世広周らが「坂下門外の変」で失脚すると、藩内で「尊皇攘夷派」が勢力を盛り返し、長井雅楽の排斥運動が激しくなりました。岩倉具視や久坂玄瑞らの朝廷工作により、長井雅楽の説は朝廷を誹謗するものとして聞き入れられず、毛利敬親によって免職されて帰国謹慎を命じられました。翌1863年3月24日、長井雅楽は長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられました。享年45でした。

今日の誕生日:熊谷直実、北条長時(鎌倉幕府第6代執権)、龍造寺隆信、新井白石、調所広郷、下岡蓮杖、ジョセフ・バーベラ、スティーブ・マックイーン、梶芽衣子、大島やすいち、島田紳助(元紳助・竜介)、天野ひろゆき(キャイ〜ン)、ちはる、原田泰造(ネプチューン)、羽鳥慎一、くわばたりえ(クワバタオハラ)、持田香織(Every Little Thing)、SHOGO(175R)、大友愛、初音映莉子、藤本淳吾、綾瀬はるか、平野早矢香、長谷川瑠美(小泉瑠美)(元アイドリング!!!2号)、井岡一翔、玉川桃奈(元Dream5)、鈴木裕乃(元私立恵比寿中学)、 ミナ(TWICE)、カブトシロー、タケホープ、マヤノトップガン、ロイヤルタッチ、ステイゴールド

今日の記念日:世界結核デー、人力車発祥の日、マネキン記念日、ホスピタリティ・デー、恩師の日(仰げば尊しの日)、檸檬忌、未来を強くする日

今日の「今日訓」:本日は、1882年3月24日にロベルト・コッホが結核菌を発見した事から「世界結核デー」、1870年3月24日に人力車の発明グループの3人(鈴木徳次郎、高山幸助、和泉要助)に、東京府より人力車の製造と営業の許可がおり、日本橋から営業を始めた事から「 人力車発祥の日」、思いやり、もてなしといった意味のホスピタリティの精神を広めるために制定された日で「3」は新しいものを創り出すエネルギー、自己表現を表し、「2」は思いやり、協力、を意味し、「4」は全体を作りあげる基礎の数字とされる事から「 ホスピタリティ・デー」、1928年、高島屋呉服店が上野公園で開かれた「大礼記念国産振興東京博覧会」で日本初のマネキンを登場させた事で「マネキン記念日」、1932年3月24日に31歳の若さで亡くなった作家・梶井基次郎の命日で、代表作である小説「檸檬」から「檸檬忌」、恩師への感謝の思いを忘れる事なく生きて行こうとの願いを込めて、この頃に卒業式が各学校などで行われる事から「恩師の日(仰げば尊しの日)」、「未(3)来を強(24)く」の語呂合わせで「未来を強くする日」となりました。
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