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2020年03月23日00:23

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3月23日の日記

今日の出来事:1548年−上田原の戦い、1765年−伝馬騒動、1868年−パークス襲撃事件、1976年−児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件、2008年−土浦連続殺傷事件、2009年−第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)を日本代表チームが2連覇、2013年−乗車カード相互利用開始

今日は、上田原の戦いです。上田原の戦いは、1548年3月23日に信濃国上田原(長野県上田市)で行なわれた、甲斐国の戦国大名・武田晴信(後の信玄)と北信濃の戦国大名・村上義清との戦いです。家督相続以来、信濃制圧を目指して連勝を続けていた武田晴信は、この合戦で重臣と多くの将兵を失い、初めて大敗を喫しました。諏訪を平定した武田晴信は、信濃の攻略に向かいました。「小田井原の戦い」で南信濃を平定すると北信濃に進軍をしました。1548年3月10日、武田晴信は5000人の兵力を率いて、北信濃に向けて進軍を開始しました。武田軍は上原城で板垣信方の率いる諏訪衆や郡内衆と合流し、大門峠を越えて小県郡南部に侵攻しました。一方、村上義清は天白山の居城・葛尾城と北東部の砥石城を拠点に陣を敷きました。さらに岩鼻まで南下して上田平に展開し、産川(千曲川支流)を挟んで武田方と対陣しました。そして、3月23日に両軍は合戦となりました。武田軍は8000、村上軍は5000で武田軍の板垣信方を先陣に攻撃を仕掛けました。先陣の板垣軍は村上軍を撃破して突進しましたが、勝ちに奢った板垣信方は敵前で首実検を始めました。この油断をついて村上勢は反撃に出ました。不意を突かれた板垣軍は混乱状態に陥り、板垣信方は馬に乗ろうとしたところを敵兵に槍で突かれて討ち取られました。村上軍は勢いに乗って猛攻を仕掛け、先陣が敗れた事で後続の武田軍は突き崩されました。村上義清が武田晴信の本陣に攻めかかり、工藤祐長(後の内藤昌豊)と馬場信房がこれを打ち払いましたが、武田晴信は二か所に傷を負いました。戦死者は武田軍1200人、村上軍は300人でした。この合戦で武田軍は、小山田信有の郡内衆が奮戦しましたが、家臣筆頭・板垣信方、次頭・甘利虎泰、才間河内守、初鹿伝右衛門が討死する大敗北となりました。村上軍も屋代基綱、小島権兵衛、雨宮正利、若槻清尚らが戦死するなど損害が多かったため、追撃する事ができませんでした。合戦に敗れた武田軍でしたが、武田晴信の指揮のもとに態勢を立て直して20日余の間「芝を踏んで」戦場に留まりました。武田晴信の母・大井の方の説得で撤退し、上原城を経て甲府へ帰還しました。負傷した武田晴信は、湯村温泉で30日間の湯治を行いました。「上田原の戦い」は、武田晴信にとって初めての敗戦でした。この後、これを見た小笠原長時と村上義清が結束して信玄と戦います。これから5年間、北信濃をめぐる戦いが展開されます。

次に、伝馬騒動は、江戸時代に中山道沿いで発生した一揆です。中山道をはじめとする主要「五街道」が整備され、公用のための「伝馬制」が整えられました。街道添いには行政区画上の村に相当する「宿場」が成立し、「宿場」には人馬継立など公用を務める問屋が存在していました。しかし、問屋で人馬継立を賄いきれない場合には助馬制による周辺村落への負担が課せられ、中山道では「助郷制」が導入されました。中山道沿いは幕府直轄領が多く、騒動の中心となった北武地域の百姓には本年貢の他、水利普請や鷹場管理などの公用負担が存在していました。幕府は、増助郷政策を行って宝暦・天明年間には取り割り当てが増加して百姓負担が増加していました。幕府による増助郷は、一方では助郷の専業者や助郷役の代勤(雇替え)が浸透するなど農村社会の弛緩を招きました。また、助郷を巡って定助郷村と非定助郷村間の対立も発生し、大宮、上尾、桶川の三宿の惣代や川田谷村名主・高橋甚左衛門らが助郷村の拡大を訴願しました。朝鮮通信使が来日し、幕府は使節の通過する東海道、中山道(板橋宿から和田宿までの28宿)沿いの諸宿に対して、村高100高につき金三両一分余の国役金納入を命じました。さらに、日光東照宮150回忌に備えた人足と馬の提供を求めようと、各村役人に出頭を求めました。こうした増助郷策が続く中、助郷村では幕府の増助郷に反対する百姓の組織化が起こり、村役人の多くが負担に反発して出頭を断わると、村役人に賛同する農民が熊谷宿、鴻巣宿、桶川宿などに集結して蜂起して幕府に抵抗しました。騒動は瞬く間に街道沿いに広がり、30万人もの規模に拡大しました。江戸市中へ飛び火する事を恐れた幕府は、助郷の追加負担を取り下げて沈静化を図りました。しかし、治安は回復せず、年末から翌年の正月にかけて暴徒が街道沿いの富農を襲撃する「打ちこわし」を起こし、中山道の機能が麻痺する事態となりました。幕府は、多数の村役人を拘束して処分しました。特に、関村(現・埼玉県美里町)の名主・遠藤兵内を首謀者として獄門に処しました。その後、遠藤兵内は地元民から義民として祭られました。この騒動が、武蔵国を中心に上野国、信濃国と広範囲に及んだ事、領主側の立場でもある村役人が多数参画した事、最終的には一揆の原因となった要求を幕府が取り下げた事から、幕府の威信が低下する一因となりました。

その次に、パークス襲撃事件です。ハリー・パークスは、イギリスの外交官で幕末から明治初期にかけて18年間駐日英国公使を務めました。1868年3月23日、イギリス公使パークス一行は明治天皇に謁見するため、宿舎の知恩院を出て御所に向かう途上、2人の男に襲撃されました。襲撃したのは、朱雀操と三枝蓊でした。二人は、鷲尾隆聚、田中顕助らの「高野山義軍」に参加し、大和方面を転戦しました。その後、「高野山義軍」は京都に入ると解散し、朝廷「御親兵」となりました。「大政奉還」後、新政府が「攘夷」を捨て外国との交際を行う事が明らかになると、新政府に失望しました。さらに堺で乱暴を働いたフランス水兵と警備の土佐藩兵の衝突事件「堺事件」が発生し、新政府がフランス公使の抗議を受けて土佐藩士を切腹させた事を知ると、同志と共に独自に攘夷の断行を画策しました。朱雀操と三枝蓊はイギリス兵9人に負傷を負わせました。朱雀操はパークスに同行していた護衛の薩摩藩出身の中井弘と斬り合いになり、胸部を刺されました。そして、駆けつけた土佐藩参政・後藤象二郎に斬られて倒れたところを中井弘に首を刎ねられました。三枝蓊も他の警護兵に重傷を負わされて逃走しようとした所を警備兵に捕縛されました。こうして、襲撃は失敗に終わりました。三枝蓊は3月27日に、斬首となりました。朱雀操の首は、斬首された三枝蓊の首と共に、粟田口刑場に3日間晒されました。また、この襲撃を共謀した川上邦之助、松林織之助、大村貞助は密かに隠岐島送りとされました。

その次の次に、児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件です。児玉誉士夫邸セスナ機特攻事件は、1976年3月23日に児玉誉士夫の私邸に小型航空機が特攻したテロ事件です。別名を「児玉誉士夫邸セスナ機自爆事件」といいます。「大物右翼のフィクサー」と呼ばれていた児玉誉士夫は、アメリカ合衆国の航空機メーカー「ロッキード」の秘密代理人として暗躍していました。全日本空輸にロッキードの旅客機を購入させるために政治工作をした、「ロッキード事件」の首謀者の一人でした。そのため、事件の中心人物とされていました。衆議院で証人喚問が行われるはずでしたが、直前に病気を理由に出席しませんでした。脱税などにより3月13日には、起訴されていました。そうした中、東京都世田谷区等々力にあった私邸で静養中の3月23日午前9時50分頃、PA−28−140型機(機体記号:JA3551)が自宅に突入し、爆発炎上しました。この火災で児玉邸の2階一部が類焼し、家政婦が負傷しましたが、別室で就寝していた児玉誉士夫は無事でした。突入したのは東京都の調布飛行場を離陸した2機の内の1機で、直前まで機長とカメラマンら3人が搭乗したセスナ172M型機(機体記号:JA3732)と編隊飛行をしており、新宿上空でJA3551機の写真撮影を行っていました。その撮影を終えた帰途に突入したのでした。この機体の残骸から操縦士の遺体が発見されましたが、航空事故ではなく覚悟の「特攻」という自爆テロ行為でした。この行為に対し、アメリカのメディアは「最後のカミカゼ」と報道しました。「特攻機」を操縦していたのは日活ロマンポルノに「前野霜一郎」の芸名で出演していた俳優・前野光保(当時29歳)でした。彼は、右翼の運動家であった児玉誉士夫に心酔し、三島由紀夫にも心酔していました。「ロッキード事件」に絡んで起訴された児玉誉士夫に対し、前野光保は「利権屋」と断じ、「天誅を下すべき」との思いから特攻に及びました。事件前に犯行計画を知人に話していました。前野光保は調布飛行場から午前8時50分に離陸しましたが、その直前に「映画のため」と記念撮影していました。その姿は「第二次世界大戦」の「神風特攻隊」の特攻服を身に付けていました。また、離陸時には「七生報国」と書かれた日の丸の鉢巻をしていました。彼は特攻直前の最期の無線通信で「天皇陛下万歳!」と叫んでいました。まさに現代の「神風特攻隊」を演じきったのでした。

最後に、乗車カード相互利用開始です。Suica(JR東日本共通乗車カード)・PASMO(公共交通機関共通乗車カード)・Kitaca(JR北海道ICカード)・TOICA(JR東海ICカード)・ICOCA(JR西日本乗車カード)・SUGOCA(JR九州ICカード乗車券)・nimoca(西日本鉄道ICカード乗車券)・はやかけん(福岡市交通局ICカード乗車券)・manaca(名古屋交通開発機構ICカード乗車券)・PiTaPa(スルッとKANSAI協議会乗車カード)の10種類の交通系ICカード相互利用サービスが開始となりました。電子マネーサービスの相互利用はPiTaPaを除く9種類が対象です。交通系ICカード全国相互利用サービス開始記念Suicaカード30000枚を、Suicaエリアの31駅で発売されました。

今日の誕生日:後光厳天皇(北朝第4代天皇)、上井覚兼、松方正義(第4・6代内閣総理大臣)、北大路魯山人、黒澤明、川上哲治、犬塚弘(元ハナ肇とクレージーキャッツ)、津本陽、戸川昌子、辻真先、南原幹雄、松村和子、夏まゆみ、大沢逸美、七瀬なつみ、天方直実、天山広吉、沢松奈生子、マーク・ハント、姜暢雄、本田武史、千賀健永(Kis−My−Ft2、舞祭組)、タイキシャトル、アサクサキングス

今日の記念日:世界気象デー

今日の「今日訓」:本日は、1950年3月23日に世界気象機関(WMO)が発足した事から「世界気象デー」となりました。
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