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2020年03月22日00:11

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3月22日の日記

今日の出来事:1185年−源平合戦:屋島の戦い、1896年−日本銀行本店が落成、1904年−日露戦争:第五次旅順口攻撃、1919年−シベリア出兵:イワノフカ事件、1997年−秋田新幹線開業、1925年−社団法人東京放送局(現:NHK放送センター)がラジオ試験放送を開始

今日は、源平合戦:屋島の戦いです。「一ノ谷の戦い」で敗れた平氏は、四国(讃岐国)の屋島を本拠としました。後白河法皇は「三種の神器」の返還と源平の和平を打診させる使者を平宗盛へ送りましたが、これを拒否しました。後白河法皇は安徳天皇を廃し、その弟・尊成親王を「三種の神器」がないまま即位させました。これが、後鳥羽天皇です。その後、「三日平氏の乱」が勃発し、源範頼が率いる1000騎が鎮圧しましたが佐々木秀義が討死しました。山陽道を進む源範頼軍は安芸国に達し、備中国「藤戸の戦い」で平行盛の軍を撃破しました。1185年に源範頼は豊後国と周防国の豪族から兵糧と兵船を調達し、豊後国へ渡りました。3月4日、源範頼は「芦屋浦の戦い」で平氏方の原田種直を破りました。源範頼は背後から彦島の平知盛を衝く事を企図しましたが、兵船が不足して実行できませんでした。この苦境を知った源義経は、後白河法皇に西国出陣を奏上して許可を得ました。源義経は摂津国の水軍・渡辺党と熊野別当・湛増の熊野水軍、そして河野通信の伊予水軍を味方につけて、摂津国渡邊津に兵を集めました。3月21日午前2時、暴風雨のために諸将は出航を見合わせ、船頭も暴風を恐れて出港を拒みました。源義経は郎党に命じて弓で船頭を脅し、僅か5艘150騎で出航し、強行渡海しました。午前6時に源義経の船団は暴風雨の中、通常3日の航路を4時間で阿波国勝浦に到着しました。勝浦に上陸した義経は、在地の武士・近藤親家を味方につけました。まず、義経は平氏方の豪族・桜庭良遠の舘を襲って打ち破りました。その後、徹夜で讃岐国へ進撃し、翌3月22日に屋島の対岸に至りました。そして、屋島の平氏軍を強襲しました。義経は周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけて、一気に屋島の内裏へと攻め込みました。海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍は狼狽し、内裏を捨てて屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ逃げました。平氏軍は、船を屋島・庵治半島の岸に寄せると激しい矢戦を仕掛けてきました。平氏の猛攻に義経の身が危うくなりましたが、義経四天王の一人・佐藤継信が義経の盾となり、平氏随一の剛勇・平教経に射られて討死にしました。佐藤継信の墓は庵治半島側の牟礼町洲崎寺にあります。夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発してきました。外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探しました。そして、那須与一が、やむなくこれを引き受けました。那須与一は弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱えると矢を放ちました。矢は見事に扇の柄を射抜いて海に落ち、扇は空を舞い上がりました。しばらく春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちました。これが有名な那須与一の「扇の的」、平家物語の名場面となりました。美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂いました。沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙を叩いてどよめきました。これを見ていた平氏の武者が、興に乗って扇のあった下で舞い始めました。義経はこれも射るように命じると、那須与一はこの武者も射抜いて船底に射倒しました。平家の船は静まり返り、源氏は再び箙を叩いてどよめきました。怒った平氏軍は再び攻めかかりましたが、義経はこれを撃退しました。激しい合戦の最中に義経が海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げて帰り、 「こんな弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ」と語った平家物語「弓流し」は、この時の事です。平氏軍は志度浦から上陸を試みましたが、義経は80騎を率いてこれを撃退しました。やがて、梶原景時が率いる鎌倉方の大軍が迫ると、平氏軍は彦島へ退きました。こうして屋島の陥落により、平氏は四国における拠点を失いました。九州は源範頼の大軍によって押さえられたため、彦島に孤立しました。義経は水軍を編成して、最後の決戦である「壇ノ浦の戦い」に臨む事になります。

次に、日露戦争:第五次旅順口攻撃です。3月22日未明から朝にかけて、第四駆逐隊と第五駆逐隊が旅順口に進出し、ロシアの哨戒艦艇と交戦しました。続いて第一戦隊の「富士」、「八島」が位置につき、9時56分より間接射撃を行いました。ロシア側も対抗して陸上に砲撃用の観測所を新設し、港内の軍艦が港外の日本艦隊への間接射撃で応射しました。また、ロシア艦隊は艦艇修理と整備を進めた上、マカロフの着任により迎撃を活性化させていました。「富士」と「八島」の攻撃に対して、巡洋艦「バヤーン」、「アスコリド」、「ノーウイック」を出撃させ、続いて戦艦「ペトロパブロフスク」、「ポルタワ」、「セバストポリ」、「ペレスウェート」他の優勢な艦艇を出撃させたため、日本側は艦隊を退却させました。

その次に、シベリア出兵:イワノフカ事件です。1918年〜1922年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争です。日本は兵力7万3000人、4億3859万円〜約9億円という巨額の戦費を投入しました。イワノフカ事件は、1919年3月22日に「シベリア出兵」中の日本軍が抗日パルチザンに対する掃討作戦で、アムール州ブラゴベシチェンスク郊外のイワノフカ村で多数の民間人を殺害した事件です。「白衛軍」は都市部を掌握しましたが、農村は「ソビエト」寄りで武装解除の要求に応じませんでした。「白衛軍」に従わないイワノフカ村に対し、右派エスエル党に所属する反革命指導者のアタマン・ガーモフは日本軍に応援を頼みました。戦争の意味が曖昧で戦意が低かった日本軍は、厳寒の中で疲労困憊して神経過敏に陥り、「暴徒」と「良民」を区別せずに「村落焼棄」の方針が打ち出されました。歩兵第十二旅団長・山田四郎少将は、次のような通告を発しました。「第一、日本軍及ビ露人ニ敵対スル過激派軍ハ付近各所ニ散在セルガ日本軍ニテハ彼等ガ時ニハ我ガ兵ヲ傷ケ時ニハ良民ヲ装イ変幻常ナキヲ以テ其実質ヲ判別スルニ由ナキニ依リ今後村落中ノ人民ニシテ猥リニ日露軍兵ニ敵対スルモノアルトキハ日露軍ハ容赦ナク該村人民ノ過激派軍ニ加担スルモノト認メ其村落ヲ焼棄スベシ」アムール州で日本軍により焼き討ちを蒙った村落は他にもありますが、もっとも大規模で残虐な被害を受けたのがイワノフカ村でした。日本軍は制圧の過程で女性や子供ら、1歳半の乳飲み子〜96歳の老人までを含む、257人を銃などで殺害、36人を小屋に閉じ込めて焼き殺しました。その事があって以来、村民の大部分は極度に日本軍を恨み、パルチザン軍13個中隊を編成する結果となりました。一方、山田四郎旅団長は、「赤衛軍に援助を与える者は日本軍に敵対するとみなし、村落は「イワノフカ」と同じ運命になる事を覚悟しろ」と威嚇を繰り返しました。

最後に、秋田新幹線開業です。秋田新幹線の盛岡駅〜秋田駅間が開業しました。秋田新幹線は「こまち」と呼ばれ、盛岡〜大曲は田沢湖線、大曲〜秋田は奥羽本線です。列車名は、公募の結果1位であった「こまち」が採用されました(2位は「おばこ」・3位は「たざわ」)。秋田県湯沢市小野出身の「小野小町」が由来となりました。2013年3月16日からは、E6系電車の営業運転が開始されました。E6系で東北新幹線を最高速度300km/hで走行する列車は、「スーパーこまち」として運転されています。東京駅〜秋田駅間の所要時間は最短で3時間49分です。1997年に、「ミニ新幹線」として開業しました。「主たる区間を200km/h以上の高速度で走行できる幹線鉄道」が「新幹線」なので、盛岡駅〜秋田駅間は在来線で新幹線ではありません。在来線区間のほとんどが「秋田新幹線」の名の通り、秋田県内です。奥羽山脈を越えるため、トンネルや曲線区間が多く、高速運転が難しくなっています。停車駅は、盛岡駅、雫石駅、田沢湖駅、角館駅、大曲駅、秋田駅です。

今日の誕生日:後堀河天皇(第86代天皇)、佐久間象山、小磯國昭(第41代内閣総理大臣)、中山晋平、立間祥介、大橋巨泉、村川透、真島茂樹、古手川伸子、金子隆博(フラッシュ金子、米米CLUB)、有働由美子、中村豪(やるせなす)、馬場裕之(ロバート)、吉岡毅志、川後陽菜(元乃木坂46)、新田瞬、アサクサデンエン

今日の記念日:世界水の日、放送記念日、感動接客の日

今日の「今日訓」:本日は、国連総会で決定した国際デーの一つ「世界水の日」、1925年にNHK東京放送局が日本初のラジオ仮放送を始めた事で「放送記念日」となりました。第一声は「アー、アー、アー聞こえますか」でした。「サービス(3)ニコ(2)ニコ(2)」の語呂合わせで「感動接客の日」となりました。
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