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2020年03月20日00:41

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3月20日の日記

今日の出来事:1184年−源平合戦:一ノ谷の戦い、1703年−元禄赤穂事件:赤穂浪士切腹、1815年−ナポレオンがパリに入城(百日天下の始まり)、1865年−新選組総長・山南敬助切腹、1869年−盛岡藩士・目時隆之進自刃、1877年−西南戦争:田原坂の戦い、1882年−上野動物園が開園、1951年−日本で初めてLPレコードが発売、1969年−ジョン・レノンとオノ・ヨーコが結婚、1995年−地下鉄サリン事件、2006年−第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で日本代表チームが優勝

今日は、源平合戦:一ノ谷の戦いです。「倶利伽羅峠の戦い」で木曽義仲に敗れた平氏は兵力の大半を失い、安徳天皇と「三種の神器」を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れました。京を制圧した木曽義仲でしたが、統治に失敗して後白河法皇と対立するようになりました。木曽義仲は後白河法皇の命で平氏追討のために出兵しましたが、備中国での「水島の戦い」で大敗を喫しました。そして、源頼朝が派遣した源範頼、源義経の鎌倉軍に攻められて木曽義仲は滅びました(宇治川の戦い)。この源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平氏は、大輪田泊に上陸しました。かつて平清盛が都を計画した福原まで進出しました。平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復しました。後白河法皇は、源頼朝に平家追討と「三種の神器」の奪還を命じる平家追討の宣旨を出しました。源範頼が大手軍5万6千余騎を、源義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発し、摂津へ下りました。平氏は福原に陣営を置いて、その外周に強固な防御陣を築いて待ち構えました。搦手を率いて丹波路を進む義経軍は、播磨国・三草山の平資盛、有盛らの陣に夜襲を仕掛けて撃破しました(三草山の戦い)。前哨戦に勝利した義経は、土肥実平に追撃させて山道を進撃しました。源義経は鵯越(ひよどりごえ)で軍を二分しました。安田義定、多田行綱らに大半の兵を与え、平通盛・教経の1万騎が守る夢野口(山の手)へ向かわせました。義経は僅か70騎を率いて山中の難路を西へ転進しました。難路を越えた義経ら70騎は平氏の一ノ谷陣営の裏手に出ました。断崖絶壁の上で、平氏は山側を全く警戒していませんでした。熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が平忠度の守る塩屋口の西城戸に現れて、名乗りを上げて合戦は始まりました。そこへ土肥実平が率いる7000余騎が駆けつけて激戦となりました。午前6時、平知盛、重衡ら平氏軍主力の守る東側の生田口の陣の前に、源範頼が率いる梶原景時、畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣しました。範頼軍は激しく矢を射かけましたが、平氏軍も雨のように矢を射かけて応じました。平氏軍は2000騎を繰り出し、白兵戦を展開しました。範頼軍は河原高直、藤田行安らが討たれました。そこへ梶原景時・景季父子が逆茂木を取り除き、降り注ぐ矢の中を突進して「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せました。義経と分かれた安田義定、多田行綱らも夢野口(山の手)を攻撃しましたが、平氏は激しく抵抗したため突破できませんでした。70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は、坂を駆け下る決断をしました。義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」と言うと、先陣となって駆け下りました。崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入しました。この源義経の「鵯越の逆落とし」と呼ばれる崖を駆け降りる奇襲により、平氏は敗走しました。予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけました。平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出しました。これを見た源範頼が総攻撃をかけ、平氏は一門の多くを失う大打撃を受けました。平通盛、平忠度、平経俊、平清房、平清貞、平敦盛、平知章、平業盛、平盛俊、平経正、平師盛、平教経らが討ち取られ、平重衡が捕らえられました。この時、熊谷直実は平清盛の弟、経盛の子・敦盛(16歳)をやむなく討ち取りました。熊谷直実は武家の無常を感じるようになり出家を決意し、世を儚むようになります。これが幸若舞「敦盛」の「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり 一度生をうけ、滅せぬもののあるべきか」です。後の世で、織田信長が好んで踊るようになります。

次に、元禄赤穂事件:赤穂浪士切腹です。吉良邸を襲撃した赤穂浪士は、細川綱利、松平定直、毛利綱元、水野忠之の4大名家に預けられました。1703年3月20日、切腹の命が伝えられました。また、幕府評定所の仙石久尚は吉良家当主・吉良義周を呼び出し、吉良家改易と信濃諏訪藩高島への配流処分を下しました。赤穂浪士たちは、その日のうちにお預かりの大名屋敷で切腹しました。遺骸は主君・浅野長矩と同じ、泉岳寺に埋葬されました。第5代将軍・徳川綱吉が死去し、甥・家宣が将軍を継ぐと、新将軍就任の恩赦により、赤穂浪士の遺子たちも放免となりました。浅野長矩(内匠頭)の実弟・長広も赦免され、浅野家が再興しました。以下が「赤穂四十七士」です。
大石内蔵助良雄、大石主税良金、原惣右衛門元辰、片岡源五右衛門高房、堀部弥兵衛金丸、堀部安兵衛武庸、吉田忠左衛門兼亮、吉田沢右衛門兼貞、近松勘六行重、間瀬久太夫正明、間瀬孫九郎正辰、赤埴源蔵重賢、潮田又之丞高教、富森助右衛門正因、不破数右衛門正種、岡野金右衛門包秀、小野寺十内秀和、小野寺幸右衛門秀富、木村岡右衛門貞行、奥田孫太夫重盛、奥田貞右衛門行高、早水藤左衛門満尭、矢田五郎右衛門助武、大石瀬左衛門信清、礒貝十郎左衛門正久、間喜兵衛光延、間十次郎光興、間新六郎光風、中村勘助正辰、千馬三郎兵衛光忠、菅谷半之丞政利、村松喜兵衛秀直、村松三太夫高直、倉橋伝助武幸、岡島八十右衛門常樹、大高源五忠雄、矢頭右衛門七教兼、勝田新左衛門武尭、武林唯七隆重、前原伊助宗房、貝賀弥左衛門友信、杉野十平次次房、神崎与五郎則休、三村次郎左衛門包常、横川勘平宗利、茅野和助常成、寺坂吉右衛門信行

その次に、ナポレオンがパリに入城(百日天下の始まり)です。1814年、ナポレオンは「第六次対仏大同盟」に敗れ、「フォンテーヌブロー条約」を結んで、フランスの皇帝を退位し、エルバ島へ引退する事になりました。戦勝各国は「ウィーン会議」を開催して戦後体制について検討しましたが、利害が絡んで進展しませんでした。フランスではルイ18世が即位し、ブルボン王朝による「王政復古」がなされましたが、その政治は国民の不満を買っていました。こうした状況の隙を突き、1815年2月26日、ナポレオンはエルバ島を脱出しました。3月1日にカンヌ近郊に上陸し、パリへ向けて進軍しました。ナポレオンはルイ18世が差し向けた討伐軍の前に立ちふさがり、「兵士諸君!諸君らの皇帝はここにいる!さあ撃て!」と叫びました。これを受け、討伐軍は寝返りました。さしたる抵抗もないまま、ルイ18世は逃亡しました。こうして3月20日、ナポレオンはパリに入城し、再び帝位に就きました。世にいう「百日天下」の始まりの日となりました。

その次の次に、新選組総長・山南敬助切腹です。山南敬助は、仙台藩を脱藩して江戸に出ました。江戸で小野派一刀流の免許皆伝となり、北辰一刀流の千葉周作の門人となりました。近藤勇の天然理心流の剣術道場・試衛館に他流試合を挑み、近藤勇に敗れました。この時、近藤勇の腕前や人柄に感服し、慕うようになりました。以後は、試衛館の門人(土方歳三・沖田総司・永倉新八ら)と行動を共にしました。清河八郎が「浪士組」を組織すると、山南敬助は近藤勇らと参加して上洛しました。京都守護職の会津藩預かりとなって「壬生浪士組」を名乗りました。その後、殿内義雄と家里次郎が粛清されて、芹沢派と近藤派が「壬生浪士組」を牛耳る事になると、山南敬助は近藤派の土方歳三、芹沢派の新見錦と共に副長に就任しました。将軍・徳川家茂を警護するために大坂滞在中、高麗橋傍の呉服商・岩城升屋に不逞浪士数名が押し入る事件が起きました。山南敬助は土方歳三と岩城升屋に駆け付け、激戦の末に不逞浪士を撃退しました。この功により山南敬助は松平容保から金8両を賜りました(岩城升屋事件)。「八月十八日の政変」では、御所警固に出動すると京都に潜伏する長州系浪士を土方歳三らと斬りました。その後、主導権争いにより筆頭局長・芹沢鴨と副長・新見錦が粛清され、「壬生浪士組」は近藤派によって統一されました。その後の組織再編で、山南敬助は新設された「総長」となり、局長・近藤勇、副長・土方歳三に次ぐ地位に就きました。しかし、1865年3月、山南敬助は「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方を暗ませました。「新選組」の隊規では、脱走は死罪です。近藤勇と土方歳三は、直ちに沖田総司を追っ手として差し向けました。弟のように可愛がっていた沖田総司ならば、山南敬助は抵抗しないだろうという思惑でした。大津で沖田総司に追いつかれた山南敬助は、そこで捕縛されて新選組屯所に連れ戻されました。1865年3月20日に切腹しました。介錯は山南敬助の希望により、他ならぬ沖田総司がこれを務めました。享年33でした。その最期を近藤勇は「浅野内匠頭でも、こうは見事にあい果てまい」と賞賛しました。墓は京都の光縁寺にあります。

そのまた次に、盛岡藩士・目時隆之進自刃です。目時隆之進は、盛岡藩士です。楢山佐渡、中嶋源蔵らと共に京都いましたが、薩長が中心となった新政府軍に味方する事を支持しました。しかし、旧幕府軍に味方する事を決めた楢山佐渡を説得する事が出来ず、藩論が佐幕となったため脱藩して長州藩邸へと脱走しました。目時隆之進は新政府軍に加わりましたが、総督・久我道久に藩主・南部利剛の朝廷への忠誠心の強さを訴えました。「秋田戊辰戦争」に盛岡藩が敗れた後、目時隆之進は薩長側からの働きかけによって家老となりました。しかし、盛岡藩に減封と転封処分、藩主の上京謹慎の命令が下されました。盛岡藩士達の怒りは、異例の出世を遂げた目時隆之進に向けられました。新政府と盛岡藩士達の間に挟まれて苦悩を続けた目時隆之進は、麻布藩邸の一室に幽閉されました。目時隆之進は1869年3月20日夜半、取調べのため盛岡に護送される途中の黒沢尻(現・北上市)で、己の赤心を示すために切腹しました。享年47でした。

そのまた次の次に、西南戦争:田原坂の戦いです。3月1日〜3月31日まで、田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられました。春先で冷え込みが酷く、雨も降る厳しい状況の中で戦いは始まりました。3月4日、吉次峠で西郷軍の篠原国幹が戦死しましたが、政府軍を撃退しました。政府軍は田原坂防衛線突破のため、3月11日に軍を主力と別働隊に分けました。主力は田原坂・吉次峠の突破のために、別働隊は山鹿の桐野利秋隊の動きを封じ込むために置かれました。しかし、主力軍は激しい銃撃と抜刀白兵戦に手も足も出ず、田原坂の正面突破を諦め、西側から攻めて横平山を奪う事にしました。薩摩軍の抜刀攻撃に対抗するため、政府軍は士族出身の兵卒を当てましたが、討ち破られました。3月13日、警視隊の中から剣術に秀でた警察官を選抜して「抜刀隊」を編成しました。3月14日、政府軍は田原坂攻撃を開始しましたが、横平山を占領する事が出来ませんでした。しかし、「抜刀隊」は薩摩軍と対等に戦えました。後に、「抜刀隊」の功を称えて軍歌「抜刀隊」が作られました。政府軍は3月15日、薩摩軍の守備を破り、横平山を占領しました。3月17日、政府軍は西側からと正面からの攻撃を開始しました。しかし、田原坂の防衛線を破る事が出来ませんでした。3月4日からの政府軍の戦死者は約2000名、負傷者も2000名に上りました。3月18日、野津鎮雄少将、三好重臣少将、野津道貫大佐、高瀬征討本営・大山巌少将などによって幕僚会議が開かれました。兵の疲労を考慮して19日は休養日とし、20日早朝に二方面から総攻撃を決行する事を決めました。20日早朝、政府軍は開戦以来、最大の兵力を投入しました。攻撃主力隊は豪雨と霧に紛れながら、二股から谷を越えて田原坂付近に接近しました。そして雨の中、二股の横平山の砲兵陣地から田原坂一帯に大砲撃を開始しました。砲撃が止むと同時に薩摩軍の本営のみに攻撃目標を絞り、一斉に突撃しました。薩摩軍は政府軍の猛砲撃と、断続的に降り注ぐ雨のため応戦が遅れ、状況が把握できないまま攻撃を受けました。薩摩軍は防衛線を築きながらも、突然の攻撃のため応戦できず、植木方面に敗走しました。政府軍の攻撃を成功に導いたのは、別働隊の吉次峠部隊の活躍でした。吉次峠部隊は、薩摩軍に対して牽制攻撃を仕掛けました。これによって政府軍主力は「田原坂突破」に的を絞る事が出来ました。しかし、吉次峠部隊の被害は甚大で、駒井大尉をはじめ、この攻撃で多くの命が失われました。政府軍・薩摩軍の田原坂での攻防は17日間続きました。植木方面の敗走によって、田原坂の重厚な防衛線は破られました。その後、政府軍は田原坂を下って植木方面まで侵攻を試みましたが、途中で薩摩軍の攻撃にあって中止となりました。「田原坂の戦い」で薩摩軍は敗北しましたが、21日には有明海・吉次峠・植木・隈府を結ぶ線に防衛陣地を築きました。政府軍の熊本への道を遮断し、攻撃を遅らせようとしました。この「田原坂・吉次峠の戦い」は、この戦争の分水嶺になった激戦となりました。政府軍も3月20日だけで495名が戦死しました。政府軍の小隊長30名のうち11名が命を落とす激戦でした。「雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂」、熊本民謡「田原坂」はこの戦いを謡ったものです。

最後に、地下鉄サリン事件です。地下鉄サリン事件は、東京都の地下鉄で宗教団体の「オウム真理教」が起こした、神経ガスの「サリン」を使用した同時多発テロ事件です。1995年3月20日午前8時頃、東京都内の帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)の丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガス「サリン」が散布されました。乗客や駅員ら13人が死亡、負傷者数は約6300人に上りました。日本の戦後最大級の無差別殺人行為で、1994年に発生した「松本サリン事件」に続き、大都市で一般市民に対して化学兵器が使用された史上初のテロ事件として全世界に衝撃を与え、世界中の治安関係者を震撼させました。1995年3月20日は平日の月曜日で、事件はラッシュアワーのピーク時に発生しました。この事件は教団教祖・麻原彰晃が首謀、村井秀夫が総括指揮を担当、そして井上嘉浩が現場調整役を務めました。サリンは土谷正実・遠藤誠一・中川智正が生成したものが使われました。サリン散布役は5人選出されましたが、林郁夫のみ麻原彰晃が選出し、残り4人は村井秀夫が選出しました。
千代田線(代々木上原行):千代田線は散布役の林郁夫と送迎役の新実智光が担当しました。マスク姿の林郁夫は千駄木駅より入場し、綾瀬駅・北千住駅で時間を潰した後、JR東日本の常磐線・我孫子駅から直通する代々木上原行の先頭1号車に北千住駅から乗車しました。8時2分頃、新御茶ノ水駅への停車直前に「サリン」のパックを傘で刺し、逃走しました。列車はそのまま走行し、二重橋前駅〜日比谷駅で乗客数人が相次いで倒れたのを境に次々と被害者が発生し、霞ケ関駅での通報で駅員が駆け付け、「サリン」を排除しました。この列車は霞ケ関駅を発車しましたが、更に被害者が増えた事から次の国会議事堂前駅で運転を打ち切りました。「サリン」とは知らずに危険物を排除しようとした駅員数名が被害を受け、駅の助役と応援の電車区の助役の2人が死亡し、231人が重症を負いました。
丸ノ内線(荻窪行):丸ノ内線の池袋発は、散布役の広瀬健一と送迎役の北村浩一が担当しました。広瀬健一は池袋から第3車両に乗車し、御茶ノ水駅で「サリン」を散布しました。中野坂上駅で乗客から通報を受けた駅員が重症者を搬出し、「サリン」を回収しましたが、列車はそのまま運行を継続しました。終点の荻窪駅に到着すると新しい乗客が乗り込み、そのまま折り返しました。そのため、新高円寺駅で運行が停止されるまで被害者が出る事となりました。また、広瀬健一自身も「サリン」の被害を受け、林郁夫によって治療を受けました。同線では1人が死亡し、358人が重症を負いました。
丸ノ内線(池袋行):丸ノ内線の荻窪発は、散布役の横山真人と送迎役の外崎清隆が担当しました。横山真人は5号車に新宿駅から乗り込み、四ッ谷でパックに穴を1つ開けて「サリン」を散布しました。列車は8時30分に終点・池袋駅に到着しました。その際、本来なら終点駅で駅員によって車内の遺留物の確認が行われますが、この時はされませんでした。そのまま折り返し、荻窪駅に向けて出発しました。本郷三丁目駅で駅員がサリンのパックをモップで掃除し、池袋駅に再び戻りました。列車は新宿駅に向けて運行を継続しました。列車は「サリン」散布の1時間40分後、9時27分に国会議事堂前駅で運行停止されました。同線では約200人が重症を負いましたが、唯一死者が出ませんでした。
日比谷線(東武動物公園行):日比谷線の中目黒発は、散布役の豊田亨と送迎役の高橋克也が担当しました。豊田亨は中目黒発・東武伊勢崎線直通の東武動物公園行きの先頭車両に乗り込み、恵比寿駅で「サリン」のパックを刺しました。六本木駅〜神谷町駅間で異臭に気付いた乗客が窓を開けましたが、複数の乗客が倒れました。神谷町駅に到着後、乗客が運転士に通報して被害者は病院に搬送されました。その後、後続列車が六本木駅を出たため、先頭車両の乗客は後方に移動させられて、列車は霞ケ関駅へ向けて運行が継続されました。列車は霞ケ関駅で運行停止しました。同線では1人が死亡し、532人が重症を負いました。サリンの撒かれた車両には、映画プロデューサーのさかはらあつしも乗り合わせていました。また当時、共同通信社員の辺見庸が神谷町駅構内におり、外国人1人を救出しました。
日比谷線(中目黒行):日比谷線の北千住発は、散布役の林泰男と送迎役の杉本繁郎が担当しました。他の実行犯が「サリン」2パックを携帯したのに対し、林泰男は村井秀夫からの指示で3パックを携帯しました。また、3パックの内1パックが破損し、二重層のパックの内袋から外袋内に「サリン」が染み出ていました。彼は北千住発の3号車に上野駅から乗車しました。林泰男は秋葉原駅で、実行犯の中でも一番多くの穴を開けて「サリン」を散布しました。乗客はすぐに「サリン」の影響を受け、次の小伝馬町駅で乗客が「サリン」のパックをプラットホームに蹴り出しました。この一般乗客のとっさの判断が、後に「サリン」による被害が拡大する事になりました。「サリン」のパックを小伝馬町駅で蹴り出した当列車は、「サリン」の液体が車両の床に残ったまま運行を継続しました。車内でも一時は収束しましたが、5分後、八丁堀駅に停車中に再度パニックに陥り、複数の乗客が前後の車両に避難し始めました。8時10分に乗客が車内非常通報装置を押すと列車は築地駅で停車し、ドアが開くと同時に数人の乗客がホームになだれ込むように倒れました。列車は直ちに運転を打ち切りました。小伝馬町駅では「サリン」のパックが出された事で、後続列車で八丁堀・茅場町・人形町・小伝馬町で停まっていた4つの列車と、小伝馬町駅の手前で停止した後、小伝馬町駅に停まった列車の5列車が被害を受けました。小伝馬町駅では後続5列車が到着し、内2列車が小伝馬町駅で運転を打ち切りました。このため、狭いホームに多数の乗客が下ろされ、列車の風圧などでホーム全体に広がった「サリン」を多数の乗客が吸引する結果となりました。小伝馬町駅では4人が死亡し、深刻な被害が発生しました。この路線では6列車が被害を受け、合計で8人が死亡し、2475人が重症を負いました。
9時27分、営団地下鉄のすべての路線で全列車の運転見合わせを決定しました。この事件から2日後の3月22日に、警視庁は新興宗教団体「オウム真理教」に対する強制捜査を実施し、事件への関与が判明した教団の幹部級の信者が逮捕されました。林郁夫の自供がきっかけとなって全容が明らかになり、5月16日に教団教祖・麻原彰晃が事件の首謀者として逮捕されました。「地下鉄サリン事件」の逮捕者は40人近くに及びました。東京地方裁判所は、首謀者・麻原彰晃を始め、林郁夫を除いた散布実行犯全員に死刑を言い渡しました。2012年6月15日、この事件に関与して指名手配されていた高橋克也が逮捕され、「地下鉄サリン事件」で指名手配されていた容疑者は全員逮捕されました。この「地下鉄サリン事件」は、国内史上最悪のテロ事件となりました。世界的にも有数な凶悪テロ事件として、世界中に大きな混乱と恐怖を与える事となりました。

今日の誕生日:ナポレオン2世、西郷四郎、桜井センリ(元ハナ肇とクレイジー・キャッツ)、梅原猛、高橋和枝、雪村いづみ、上岡龍太郎(元漫画トリオ)、倉田保昭、景山民夫、新藤恵美、竹内まりや、竹中直人、郭泰源、渡邉貢(PERSONZ)、大石恵、引地洋輔(RAG FAIR)、阿部慎之助、みほ(チェリー☆パイ)、川島永嗣、野村佑香、フェルナンド・トーレス、山口智史(RADWIMPS)、遠藤雄弥(D−BOYS)、キングカメハメハ、ペルーサ、須羽満夫(パーマン1号)、ヤムチャ

今日の記念日:春分の日、春の彼岸の中日、相続・贈与の日、上野動物園開園記念日、電卓の日、LPレコードの日、サブレの日、日やけ止めの日

今日の「今日訓」:本日は、二十四節気の一つ「春分」です。昼夜の長さがほぼ同じになる日です。また、「春の彼岸の中日」で、仏教各派では「春季彼岸会」が行われ、宗派を問わず墓参りをする人が多いです。「彼岸」とは悟りの境地の事で、この世の向こう側を指します。暦の上では「春分」がその中日にあたり、前後それぞれ3日を合わせた7日間を「彼岸」と称します。春の「彼岸」の供物は、ぼたもちです。先祖を供養するために家族が集まる機会が多い「彼岸」に、相続や贈与についての知識を深め、家族で話し合うきっかけと高齢化社会が進行する中で相続や贈与の準備、対策を行う事の大切さを確認する「相続・贈与の日」、1974年、電卓の生産量が世界一になった事で「電卓の日」、1951年に日本コロムビアから日本で初めてLPレコードが発売された事で「LPレコードの日」、1882年、東京・上野に日本初の動物園「上野動物園」が開園した事で「上野動物園開園記念日」、開園当初は、水牛、猿、鷲などが人気でした。入場料は平日1銭、日曜日は2銭でした。「サ(3)ブ(2)レ(0)」の語呂合わせで「サブレの日」、「サ(3)ニー(2)・ゼロ(0)」の語呂合わせで「日やけ止めの日」となりました。
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