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2020年03月19日00:27

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3月19日の日記

今日の出来事:1279年−崖山の戦い(モンゴルにより南宋が滅亡)、1573年−野田城の戦い、1853年−太平天国軍が江寧(南京)を陥落、1863年−四ツ塚様事件、1945年−第二次世界大戦:名古屋大空襲、1982年−アルゼンチン軍が南ジョージア島に上陸し、フォークランド紛争が始まる、1997年−東電OL殺人事件、2003年−アメリカ・イギリスによるイラクの自由作戦の開始、イラク戦争開戦

今日は、崖山の戦いです。南宋が「襄陽・樊城の戦い」に敗れると、フビライ・ハン率いる元は南宋の首都・臨安(杭州)を落としました。南宋の皇帝・恭帝は降伏し、南宋は滅亡しました。しかし、陸秀夫、文天祥、張世傑などの南宋の遺臣たちは、臨安陥落と同時に南宋の皇子を皇帝に奉戴し、元に対する抵抗運動を続けました。次第に江南から広東へと追い詰められた南宋軍は、船団で海上を漂流しながら抵抗を続けました。現在の香港周辺にある「崖山」という、当時何もなかった島に砦と行宮を構築し、徹底抗戦の構えを見せました。元軍は蒲寿庚から船舶や熟練の水夫の提供を受け、不慣れな海上でも旧南宋艦隊を追跡し、戦いを有利に進めていきました。1279年3月19日、長い消耗戦に疲れ切った南宋軍は敗走しました。絶望した家臣や幹部たちが次々と入水していく中、宰相・陸秀夫は幼帝・衛王に「大学」の講義を船内でしていました。しかし、昼過ぎ頃に敗北を悟り、皇帝を抱いて入水自殺しました。これをきっかけに戦闘は終結し、元軍の勝利が確定しました。将軍・張世傑は崖山から脱出し、再起を図るためベトナムへ向かう途中に嵐に遭って船が転覆して溺死しました。陸上で抵抗運動をしていた丞相・文天祥は元に捕縛され、大都(北京)に護送されました。優れた文人である彼を登用するため、フビライは説得を繰り返しました。しかし、彼は拒否し続け、獄中で「正気の歌」を詠んで刑死しました。陸秀夫、文天祥、張世傑は「南宋の三忠臣」と呼ばれています。「正気の歌」は、獄中にあっても節を曲げず忠義を貫く事として藤田東湖、吉田松陰、広瀬武夫などが影響を受け、自作の「正気の歌」を作っています。こうしてモンゴル帝国(元)は中国を統一しました。次に「元」は日本遠征をし、元寇の「弘安の役」が起こる事になります。元軍に協力した蒲寿庚は、この戦いの後に要職に抜擢されます。泉州を国際貿易港として発展させ、「弘安の役」では大船団の造船に力を発揮します。

次に、野田城の戦いです。野田城の戦いは、三河国の野田城をめぐって武田信玄と徳川家の間で行われた戦いです。「信玄の西上作戦」の最後、武田信玄の最後の戦いとして有名です。武田信玄は西上作戦を発動し、徳川家康の所領であった遠江と三河に3万の軍勢を率いて攻め込みました。武田軍は「三方ヶ原の戦い」で徳川家康が率いる徳川・織田連合軍に大勝しました。その後、宇利峠から三河へ進入すると豊川を渡河し、徳川方の属城・野田城を包囲しました。一方の徳川家は、「三方ヶ原の戦い」による大敗によって戦線を維持できず、後詰が出来ませんでした。野田城は「藪のうちに小城あり」と言われるほどの小さな城で、兵力も城将・菅沼定盈とその援軍合わせて500名程度でした。しかし、河岸段丘の地形を利用した築城により攻め口が限られていため、大軍を相手にするには有利な構造となっていました。3万の兵力を有する武田軍は力攻めを行わず、甲斐の金山掘を呼び寄せて地下道を掘り、水の手を断ち切る作戦を採りました。野田城は1ヶ月持ちこたえましたが、3月19日に城兵の命を条件に開城降伏しました。城将・菅沼定盈は捕虜として武田軍に連行されました。野田城が落ちた事で、徳川家の三河防衛網が崩壊し、徳川家の重要拠点である吉田城や岡崎城が危機に陥りました。しかし、武田軍は信玄の病状が悪化したため侵攻を止め、甲斐へと引き返しました。そして、その道中で武田信玄は亡くなります。菅沼定盈は徳川家と武田家の人質交換で解放されます。信玄の死が広まると、家康は長篠城を奪還します。菅沼定盈も野田城を奪還し、再び城主として入城します。

その次に、太平天国の乱:太平天国軍が江寧(南京)を陥落させるです。「アヘン戦争」で消耗し、「アロー戦争」を同時進行で戦わなければならなかった正規軍は、広大な国内に分散配置されました。そして、大衆を吸収して膨れあがった太平天国軍は清軍を何度も打ち破りました。しかし、食料・火薬が底をついたため太平天国軍は永安を後にし、楊秀清の意見に従って北上して湖南省・湖北省を目指しました。清朝軍と衝突を繰り返しながら北上を続けましたが、湘江に到着した際に南王・馮雲山が、長沙攻略の際に西王・蕭朝貴が戦死しました。この二人の戦死は、太平天国首脳間の力関係を変化させ、後の「天京事変」の遠因となりました。しかし、清朝との交戦が弔い合戦となり、士気を高める結果となりました。漢陽・漢口を落城させ、ついに武昌を落としました。武昌は太平天国軍が最初に陥落させた省都(湖北省)で、多大な金銀財宝をもたらしました。そして、楊秀清の意見により南京方面を目指す事になり、水陸両軍を編成して長江を下りました。3月19日に太平天国軍は江寧(南京)を陥落させ、ここを「天京」と改称し首都としました。そして、太平天国の王朝を樹立しました。国号を「太平天国」とし、洪秀全は自身を「天王」と称しました。

その次の次に、四ツ塚様事件です。四ツ塚様事件は、幕末に岡山県美作市土居で起こった勤皇の志士への住民が行った虐殺事件です。島浪間は、坂本龍馬に従って「土佐勤王党」に加盟しました。その後、土佐を脱藩した那須信吾に仕えて「天誅組」を組織した吉村虎太郎に従い、五條代官書を襲撃しました。桜井寺を本陣として「五條御政府」樹立を宣言しました。その功により、砲一番隊長に任ぜられました。しかし、「八月十八日の政変」によって朝廷から賊軍の烙印を押された「天誅組」は、擁立した中山忠光を護って島浪間以下15名の精鋭と大坂へ落ち延びました。そこで長州藩邸に匿われ、中山忠光と共に長州へ流れました。岡山藩士・岡元太郎は、1863年に同志と共に京都で「足利三代木像梟首事件」で木像の首を抜いて晒し、1864年には岡山に入った新選組の密偵・松山幾之助を小原重哉らと斬殺し、一本松の御成橋に梟首しました。井原応輔は「土佐勤王党」に加盟しましたが、1863年に姉小路公知が殺害されると京都で犯人の偵察をし、帰藩すると「土佐勤王党の獄」にあって禁固に処せられました。1864年、「禁門の変」の報を受け、浜田辰弥らの同志と共に脱藩しました。千屋金策は兄・菊次郎と共に「土佐勤王党」に加盟しました。兄・千屋菊次郎は「禁門の変」の時、天王山で自刃した「天王山十七烈士」の一人です。この四人の志士(島浪間、岡元太郎、井原応輔、千屋金策)が「第一次長州征伐」の後、大阪城を攻略する目的で美作路の同志を募る旅に出ました。久米郡吉岡村の慈教院の住職の紹介状を持参して、勝田郡百々村(現・久米郡美咲町百々)の造り酒屋・池上文左衛門を訪れました。井原応輔は、かつて池上家の若い者に剣術を教えた事があったため、池上文左衛門に勤王の志を説いて金策の協力を願い出る事にしました。井原応輔、島浪間、千屋金策が活動資金の融資を求めると、池上文左衛門は金の無心のために勤王を口実にしていると四人を強請り呼ばわりして侮辱しました。激怒した四人は刀を抜いて池上文左衛門を追いましたが逃げられ、代わりに妻と番頭が金銭を差し出して詫びました。しかし、四人が立ち去った後、池上文左衛門と息子・輝道は四人を役人に強盗として訴えました。これに対して、猟銃や農具を手にした村人達が四人の志士を強盗と見なして追い詰めました。四人は、英田郡土居の宿場の勤皇庄屋・安東正虎宅に逃れようとしましたが、村民は竹槍で追撃しました。途中で竹田神社に祈願した後、土居に向かいました。土居宿は幕府の天領であるため、関門がありました。強盗の浪人者が土居に向かっているという報を受けていた関門の番卒は、話を聞かず捕えようとしたため、岡元太郎が斬り捨てました。岡元太郎は、その責任をとって街道の松ノ木の根元で切腹しました。それを追って、井原応輔と島浪間は刺し違えました。井原応輔は急所を外れたため、半日もがき苦しみ介錯を懇願しましたが、土井村の医師・福田静斎以外は誰も介抱しませんでした。千屋金策は宿場へ入り、土居村の町方総代・武藤太平に対して自分達への誤解を晴らそうと試みましたが適わず、旅宿の泉屋で遺書を認めて自刃しました。四人の死後、村民は鳶口で遺体を散々に切り刻んで陵辱の限りを尽くし、遺骸は数日間捨て置かれました。その後、遺書などにより真相が明らかにされると、世間で住民の残虐性と無慈悲さへの批判が巻き起こりました。そして、「西に百々の酒屋がなけりゃ、若い侍殺しゃせぬ」との俗謡が流行しました。これに対して村民は、塚を建てる事で反省と犠牲者への哀悼を世間に示し、自分達に向けられた批判を躱そうとしました。明治31年、四人に正五位が贈られました。遺体は、山家川にかかる門尻橋下の河原に投げ捨てられていましたが、墓は改葬されて美作市立土居小学校脇に現存します。地元では塚は「四ツ塚様」と呼ばれています。この後、「勤王志士一三五年祭記念」の石碑が建てられました。

最後に、第二次世界大戦:名古屋大空襲です。名古屋大空襲は、アメリカ軍が名古屋市に対して行った空襲です。空襲は、当初は日中の高度戦略爆撃により、軍関連の工場や名古屋港などの産業施設へ通常爆弾による精密爆撃を中心に行われていました。1945年1月にカーチス・ルメイが第21爆撃集団司令官に着任してからは、焼夷弾を用いた市街地への無差別爆撃が始まり、3月頃からは深夜の空襲が多くなりました。3月12日の夜、名古屋市の市街地に対する大規模な空襲が行われ、市街の5%が焼失しました。3月19日の午前2時頃、「B−29爆撃機」230機により、名古屋市の市街地に大規模空襲が行われました。この空襲により一夜にして151332人が被災しました。死者826人、負傷者2728人に上り、家屋39893棟が焼失しました。中区、中村区、東区などの市中心部は焼け野原となり、1937年に竣工したばかりの6階建ての名古屋駅も焼け焦げました。

今日の誕生日:足利義勝(室町幕府第7代将軍)、豊田佐吉、張作霖、小野田寛郎、鈴木正幸、潘恵子、ブルース・ウィリス、尾崎亜美、いとうせいこう、熊谷幸子、北原佐和子、蛯名正義、稲森いずみ、武内由紀子(元WEST END×YUKI、元大阪パフォーマンスドール)、後藤浩輝、ビビアン・スー、市川実和子、岡田義徳、下川みくに(元チェキッ娘)、Mr.シャチホコ、宮脇咲良(HKT48、IZ*ONE)、マーベラスクラウン、エリモシック

今日の記念日:ミュージックの日、立庁記念日

今日の「今日訓」:本日は、1868年に明治政府が幕府から接収した神奈川奉行所を、現在の県庁に相当する横浜裁判所に改めた事を記念して「立庁記念日」、「ミュー(3)ジック(19)」の語呂合わせで「ミュージックの日」となりました。
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