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2020年03月18日00:42

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3月18日の日記

今日の出来事:1183年−源平合戦:野木宮合戦、1184年−源平合戦:三草山の戦い、1488年−長享の乱:実蒔原の戦い、1863年−幕末天誅事件:賀川肇暗殺、1877年−西南戦争:二重峠の戦い(佐川官兵衛の討死)、1964年−電子式卓上計算機(電卓)を発表、1965年−愛知県犬山市に博物館明治村が開村、1984年−グリコ・森永事件の始まり

今日は、源平合戦:野木宮合戦です。野木宮合戦は、1183年3月18日に下野国・野木宮(栃木県下都賀郡野木町)で源頼朝らと志田義広らが争った合戦です。志田義広は源為義の三男で、源頼朝の叔父です。1180年に、源頼朝が平氏打倒の兵を挙げて鎌倉に政権を建てましたが、それには加わらずに常陸国信太荘(茨城県稲敷市)に居住していました。1183年3月、源頼朝の御家人らは鎌倉に襲来すると風聞された平家に対抗するため、駿河国に在りました。15日、志田義広は鎌倉を攻める兵を挙げ、30000余騎を率いて下野国・野木宮へと到りました。源頼朝は下河辺行平と小山朝政に対応を託しました。小山朝政の弟・長沼宗政と従兄弟・関政平は、小山朝政を助けるために鎌倉を発して下野国に向かいました。関政平はその途路で志田義広の軍に加わりました。18日、志田義広は鎌倉へ軍を発し、足利俊綱・忠綱父子を誘って軍に加えました。足利と小山は同族でしたが、下野国で勢力を争っていました。足利忠綱は1180年の宇治橋での戦い「橋合戦」でも平家に加わり、以仁王や源頼政を破るなどの活躍をしました。その後、足利俊綱父子は平清盛から希望していた恩賞を与えられなかったため、源頼政につきました。次に、志田義広は小山朝政を誘いました。小山朝政は父・小山政光が京で勤仕していたため兵が少なかったため、志田義広に加わると偽って野木宮に潜みました。さらに、足利俊綱の異母弟・足利有綱とその子・佐野基綱(忠綱の甥)も秘かに小山朝政の陣営に馳せ参じ、伯父・足利俊綱と従兄弟・足利忠綱らに対して宣戦布告しました。一方、返答を受けた志田義広は喜んで小山朝政の館に赴きました。その途中の野木宮に到った時、小山朝政らは声を挙げて攻め込みました。小山朝政の郎従である太田菅五、水代六次、次郎和田、池二郎、蔭澤次郎と小山朝光の郎従・保志泰三郎らが志田義広を攻めました。この小競り合いで志田義広は矢を放ち、小山朝政を落馬させました。この馬を戦場に向う途中の登々呂木澤で拾った長沼宗政は、小山朝政が討たれて合戦は敗れたと思って急いで志田義広の陣へ向い、その途路で義広の乳母子・多和利山七太を討ちました。その後、志田義広は野木宮西南に陣を引きました。小山朝政と長沼宗政は東から攻めましたが、東南からの暴風により巻き上げられた焼野の灰が視界を妨げたため、戦いは乱れました。地獄谷登々呂木澤では、多くの死骸が残りました。下河辺行平と弟・下河辺政義は古河と高野を固め、志田軍の敗走兵を討ちました。足利有綱・佐野基綱父子、浅沼広綱、木村信綱、太田行朝らは、小手差原や小堤に陣を取って戦いました。他に、八田知家、下妻羯瓠⊂野寺道綱、小栗重成、宇都宮信房、鎌田爲成、湊川景澄、源範頼らが小山朝政に加わりました。22日、鶴岡八幡宮での祈祷を終えた源頼朝は、小山朝政らの使者から志田義広の逃亡を聞きました。翌日には長沼宗政からの報告を受け、志田義広に加わった武士の所領を全て取り上げ、小山朝政や小山朝光らに恩賞を与えました。これにより、関東において源頼朝に敵対する勢力は無くなりました。足利忠綱は上野国に潜伏した後、山陰道を通って西海へ赴きました。敗れた志田義広は木曽義仲の下に加わりましたが、最期は伊勢国で討たれました。

次に、源平合戦:三草山の戦いです。三草山の戦いは、1184年3月18日に播磨国・三草山での源義経軍と平資盛軍による戦いです。「一ノ谷の戦い」の前哨戦となりました。平氏追討の宣旨を受けた源範頼・源義経が率いる源氏軍は、平氏が拠点とする福原を目指して出陣しました。3月18日に摂津国に入ると、東西から挟み撃ちにするために軍勢を二手に分けました。大手(福原の東方)を攻める源範頼は西国街道を、搦手(福原の西方)を攻める源義経は丹波路を進み、3月18日が攻撃決行となりました。一ノ谷を目指して丹波路を進軍する義経を迎え撃つため、平氏方の平資盛・平有盛・平師盛らが播磨国・三草山の西に布陣しました。義経は東方に陣をとり、源平両軍が三里ほどの至近距離で対峙する事となりました。丹波との国境に近い三草山は、交通の要所であると同時に険阻な山と深い谷に囲まれた軍事的要衝の地でした。平氏の荘園の地であり、平氏に地の利があるこの場所が防衛拠点として選ばれました。義経は土肥実平を呼び、今晩夜討ちをかけるか、明日の合戦とすべきかを問いました。田代冠者信綱が進み出て「明日の合戦となれば平家の軍勢は増すので、数の上で有利な今、夜討ちをかけるべきです」と進言しました。義経はそれを受け入れ、夜討ちを決行するため民家に火を放って進撃しました。夜討ちを予想していなかった平氏軍は武具を解いて休息しており、源氏軍の夜討ちに慌てふためいて敗走し、あっけなく源氏軍の勝利となりました。平資盛・有盛は、高砂より海路で屋島に渡り、師盛はかろうじて福原の平氏本隊へ戻りました。こう後、「一の谷の戦い」となります。

その次に、長享の乱:実蒔原の戦いです。1486年8月25日、相模国・糟谷館で太田道灌が、上杉定正の配下に暗殺されました。その後、太田道灌の嫡子・資康は江戸城に戻って家督を継承しましたが、上杉定正は間もなく江戸城を占領して太田資康を放逐しました「江戸城の乱」。扇谷上杉家の支柱として信望が高かった太田道灌の誅殺は、扇谷上杉家中に動揺をもたらしました。特に相模・三浦氏は当主・三浦高救(上杉定正の実兄)が、上杉定正に代わろうと図って先代当主である養父・三浦時高に追放されるという事件が発生しました。翌1487年、上杉顕定と実兄・定昌(越後守護)は、扇谷上杉家に通じた長尾房清の下野国・足利庄の勧農城を奪いました。ここに、両上杉家の戦いが勃発しました。1488年に入ると上杉顕定は実父の越後守護・上杉房定の支援を受けて、太田資康や三浦高救と共に本拠のある武蔵国・鉢形城を1000騎で出発しました。一気に上杉定正の本拠・糟谷館を制圧しようとしました。しかし、上杉定正は留守を兄・朝昌に任せて河越城に滞在していました。上杉定正はわずか200騎でこれを追跡し、糟谷館郊外の実蒔原(現・伊勢原市)で上杉顕定軍に奇襲攻撃をかけました。予想外の奇襲に上杉顕定軍は潰走しましたが、上杉定正側も朝昌の居城・七沢城を失いました。更に上野国・白井城(現・群馬県渋川市)に滞在していた上杉定昌が、自害しました。

その次の次に、幕末天誅事件:賀川肇暗殺です。賀川肇は、和宮降嫁に関わった四奸二嬪(久我建通・岩倉具視・千種有文・富小路敬直と今城重子・堀河紀子)の一人に挙げられていた千種有文の家臣です。「安政の大獄」の時、島田左近らに協力して志士弾圧に加わりました。このため、狙われる事になりました。十数名の浪士らが賀川肇の自宅に踏み込みました。賀川肇は二階に逃げ込んで隠れていました。しかし、運悪く帰宅した幼い子供が浪士たちに捕われて厳しい詰問を受けるのを見て、自ら階下へ降りたところを斬首されました。賀川肇の遺体をバラバラに切り裂いた浪士たちは、右腕を千種邸に、左腕を岩倉邸に投げ込んで「二嬪が女官に復帰したら、同じ目に合うと伝えろ」との文を添えました。首は、一橋慶喜の宿舎である東本願寺の門前に晒され、「攘夷の期限を確定して天下の疑惑を取り除け」と書かれました。この事件は薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵らの犯行でした。

そのまた次に、西南戦争:二重峠の戦い(佐川官兵衛の討死)です。佐川官兵衛は、会津藩士・佐川直道の子として生まれました。弟・又四郎は京都で村田新八らと斬りあって慙死し、父と弟2人は「戊辰戦争」で戦死しました。性格は直情的だが人情に厚く、多くの会津藩士から信頼されていました。武勇に秀で、薩長から「鬼の官兵衛」、「鬼佐川」と恐れられました。「戊辰戦争」後は、藩主や家老、若年寄とともに東京で謹慎しました。旧会津藩が斗南藩として再興されると、青森県三戸郡五戸町へ移住しました。廃藩後は警視庁に出仕し、一等大警部に任命されました。1877年の「西南戦争」では豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長として従軍しました。檜垣直枝を指揮長に、佐川官兵衛を副指揮長とした警視隊は東京から船で小倉に上陸し、大分〜久住〜竹田を経て阿蘇へ入りました。佐川官兵衛は、薩摩軍に対して「戊辰戦争」の時の恨みを晴らす時と考えていました。熊本・阿蘇の二重峠で薩摩軍と戦闘となりました。薩摩軍の小隊長・鎌田雄一郎が佐川官兵衛に対して、一騎討ちを挑んできました。会津藩随一の使い手であった佐川官兵衛の剣は鋭く、鎌田雄一郎が危ないと見た薩摩軍の長野さばく は、鉄砲で狙い討ちしました。こうして、佐川官兵衛は最期を遂げました。享年47でした。子・直諒は陸軍将校となり、近衛歩兵第2連隊第3中隊長として「日露戦争」で戦死しました。

そのまた次の次に、電子式卓上計算機(電卓)を発表です。早川電機(現在のシャープ)とソニーが、商用化された製品としては初の電子式卓上計算機(略して電卓)が発売されました。価格は535,000円と超高価で、一般市民には手が出せませんでした。1972年にカシオから「カシオミニ」が12,800円で発売し、電卓の価格破壊と言われました。これにより、電卓は個人でも手軽に手にする事のできる時代となり、1年5ヶ月で200万台を販売し、一般に普及しました。その後、1975年には5,000円を下回りました。現在はパソコンや携帯に内蔵されており、100円ショップでも購入可能です。

最後に、グリコ・森永事件の始まり です。グリコ・森永事件は、1984年と85年に、京阪神を舞台に食品会社を標的とした一連の企業脅迫事件です。「警察庁広域重要指定114号事件」、犯人が「かい人21面相」と名乗った事から、「かい人21面相事件」などと呼ばれています。1984年3月18日午後9時頃、兵庫県西宮市の江崎グリコ社長宅に拳銃と空気銃を構えた3人組の男が侵入しました。社長夫人と長女を襲い、2人を後ろ手に縛って脇のトイレに閉じ込めました。その後、3人組の男は浴室に侵入し、社長の江崎勝久を押さえて全裸のまま誘拐しました。社長夫人はこの後、自力でテープをほどいて110番通報しました。翌3月19日1時頃、大阪府高槻市の江崎グリコ取締役宅に犯人の男から指定の場所に来るように電話がきました。取締役が指定場所に向かうと、社長の身代金として現金10億円と金塊100kgを要求する脅迫状がありました。その後、犯人の男から電話で別の指定場所に身代金を持って来るよう要求がありましたが、結局犯人は現れませんでした。事件3日後の3月21日14時30分頃、国鉄職員から110番通報を受けた大阪府茨木警察署によって、江崎勝久が保護されました。江崎勝久の供述によると、大阪府摂津市の東海道新幹線車両基地近くを流れる安威川沿いにある、治水組合の作業小屋から自力で抜け出したという事です。大阪貨物ターミナル駅構内で保護されました。この事件を皮切りに、江崎グリコに対して脅迫や放火を起こしました。その後、丸大食品、森永製菓、ハウス食品、不二家、駿河屋など食品企業を次々と脅迫しました。その他に1984年5月と9月、1985年2月に小売店で青酸入り菓子を置き、日本全国を不安に陥れました。現金の引き渡しにおいては次々と指定場所を変えましたが、犯人は一度も現金の引き渡し場所に現れませんでした。犯人と思われる人物が何度か目撃されましたが、逃げられてしまったため、結局正体は分かりませんでした。ここから、あの世間を騒がわせて迷宮入りとなった「グリコ・森永事件」が始まりました。

今日の誕生日:浅野長晟、江藤新平、グロバー・クリーブランド(第22・24代アメリカ合衆国大統領)、ルドルフ・ディーゼル、月形龍之介、フランク永井、井沢八郎、曽我町子、横山やすし(元やすし・きよし)、奥田瑛二、因幡晃、島崎俊郎(元ヒップアップ)、村田雄浩、豊川悦司、ヴァネッサ・ウィリアムス、洞口依子、石森敏行(エレファントカシマシ)、小池秀郎、芳本美代子、黒柳能生(SOPHIA)、高橋里華、真由子、大家友和、RuRu(元太陽とシスコムーン)、黒田俊介(コブクロ)、竹下佳江、鳥居みゆき、吉井怜、小高早紀、西野カナ、楢崎誠(Official髭男dism)、上西恵(元NMB48)、フグ田タラオ

今日の記念日:精霊の日、博物館明治村開村記念日、点字ブロックの日

今日の「今日訓」:本日は、柿本人麻呂、和泉式部、小野小町の3人の忌日がこの日である事から「精霊の日」、1965年3月18日、愛知県犬山市に明治の建築物を保存展示する野外博物館「明治村」が開村した事で「博物館明治村開村記念日」、1967年3月18日に点字ブロックが世界で初めて、岡山県立岡山盲学校の近くの交差点に敷設された事で「点字ブロックの日」となりました。
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