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2020年02月24日00:31

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2月24日の日記

今日の出来事:1554年−村木砦の戦い、1864年−真忠組騒動、1904年−日露戦争:第三次旅順口攻撃(第1回旅順港閉塞作戦)、1942年−日本海軍の伊号第一七潜水艦がカリフォルニア州エルウッドの製油所を砲撃、1991年−湾岸戦争:多国籍軍による大規模地上攻勢「砂漠の剣作戦」が発動

今日は、村木砦の戦いです。今川義元は、鴫原にある重原城の山岡伝五郎を攻め滅ぼすと、水野忠分の緒川城の攻略へ向けて村木(愛知県東浦町)に砦を築きました。これに呼応し、織田方だった寺本城(現・知多市)が今川方に寝返り、織田信長の居城・那古野城と緒川城の間の道を塞ぎました。このため、織田信長は船で海を渡って寺本城を避け、村木砦を背後から攻撃する事にしました。織田信長の留守中に、敵対している清洲城の織田信友が那古野城を攻撃する事が予想されたため、義父・斎藤道三に使者を送って援軍を求めました。1554年2月18日、斎藤道三は安藤守就以下1000人の兵を派遣しました。これに田宮、甲山、安斎、熊沢、物取新五と言う5人の家来を付けて、毎日報告をするように命じました。20日、安藤守就は尾張に到着すると那古野城の近く、志賀、田幡(現・名古屋市北区)に布陣しました。織田信長は、翌日に出陣しましたが、林秀貞・通具の兄弟が不服を言って離脱しました。21日、織田軍は熱田に宿泊しました。22日に渡海する予定でしたが、非常な強風だったため船頭、水夫たちが船を出す事に反対しました。織田信長は「源義経と梶原景時が逆櫓論争をした時もこのような風が吹いていただろう。早く船を出すのだ!」と言い、無理に船を出させました。織田軍は20里の道程を約1時間で進み、緒川城の近辺に到着すると野営をしました。織田信長は緒川城で水野信元に会うと、近辺の様子を聞きました。24日払暁、織田信長は出陣して午前8時から村木砦の攻撃を開始しました。砦の構造は、北は要害だが手薄、東は大手門、西は搦手門、南は甕型の非常に大きな堀でした。これに対して織田軍は、東から水野忠分、西から織田信光、そして南から織田信長が攻撃を掛けました。織田信長勢は、砦にあった3つの狭間を鉄砲隊の者達にそれぞれ受け持ちを決めて担当させ、鉄砲を取り替えては撃たせて、その間に手勢に堀を登らせました。六鹿という者が外郭に一番乗りしました。織田軍は暇なく攻め立てたため、今川軍に負傷者、死者が増えてついに降伏しました。織田側にも死者が多数出ていたため、織田信長はこれを受け入れました。後始末は水野忠分に任せました。こうして、午後4時20分頃に戦いは終わました。翌25日、織田信長は寺本城へ手勢を派遣して城下に放火して、那古野城に帰還しました。安藤守就は、織田信長より礼を受けると美濃に帰還しました。安藤守就からこの戦いの話を聞いた斎藤道三は「凄まじい男だ。隣には嫌な奴がいるものだ。」と言いました。

次に、真忠組騒動です。真忠組は、幕末期に房総半島・九十九里浜片貝地方で蜂起した攘夷派の民間団体です。楠音次郎は、熊本藩を脱藩した楠主馬正之の子で、尾張藩領三河国額田郡滝村(愛知県岡崎市)で生まれました。尾張藩に仕えた後、脱藩して各地を流浪しました。1853年に下野国那須野ケ原向田村(栃木県那須郡)の名望家・樋山家に養子入りして烏山藩に仕えました。尊王攘夷を唱えて藩を追われると中川良助と変名して江戸に隠れた後、上総国に移って寺子屋を開きました。やがて周囲には思想に共鳴してやってきた三浦帯刀らが集まり、貧農、小作人達も集まりました。貧民救済と鎖港攘夷の主張は、さらに九十九里漁民の支持をも得ました。こうして、楠音次郎達の活動は拡大して世直しへと発展しました。1864年1月12日、上総国小関新田の大村屋旅館を接収して「真忠組義士旅館」という大きな表札を掲げて本拠を置きました。組員は87人で首領は楠音次郎、副首領は三浦帯刀です。武士は三浦帯刀、楠音次郎ら5、6人で、ほとんどが無宿者や浜地の下層民出身者で構成されていました。当初は、「水戸天狗党」の影響を受けた攘夷運動として開始されましたが、当時の他の尊攘グループのように名家や公卿の支援を受ける事なく、九十九里地方の豪商や豪農、網元から「強請」してその金を貧困にあえぐ農民、漁民に分配しました。こうして次第に貧民救済の義民的運動の色彩を強め、「世直し」を掲げるようになりました。全隊員に「姓」を付けさせて武士も町民も農民も漁民も一切差別を認めませんでした。触書を出して大きな運動への発展を計画していました。それは短期間でしたが、南房総での「地方権力」の様相を帯びていました。しかし、「真忠組」に強請された商人たちは、江戸勘定奉行や各地の領主に被害届を提出しました。1864年2月24日、幕府が差し向けた福島藩、一宮藩、多古藩、佐倉藩らの藩兵1500人が「真忠組」の三拠点を攻撃しました。その結果、「真忠組」は1日で壊滅しました。大村屋では東金周辺に領地を持つ福島藩兵を中心に、関東取締出役配下の案内人などによって大砲や小銃で攻撃され、楠音次郎以下7名(戸村次郎左衛門、井関喜十郎、浅井敬斉、堀越和七、澤田正二郎、深田清、宮島七郎)が自刃、討死しましたが、大半の組員は逃亡しました。大村屋襲撃の報を受け、藻原寺東光院在の三浦帯刀らは大村屋へ向かいましたが途中、剃金村で一宮藩兵に迎撃されて捕縛されました。また、八日市場福善寺在の組員も大村屋に向かいましたが途中、大村屋が制圧されたとの情報によってその場で解散しましたが、その後は不明です。矢野十郎は、最後まで抵抗して討死しました。そして、5月4日に田間村(現・東金市田間)の御仕置場で斬首されました。この時に斬首になったのは、三浦帯刀、山内額太郎、千葉源次郎、大木八郎、首藤大九郎、斉藤市之助、大高泰助、里見忠治郎、片梅若太郎、鎌形平蔵、大網牛太郎、広瀬林太郎の12名で、処刑された後に首と死骸は小関新開と作田川の大橋の近くに3日間晒されました。

その次に、日露戦争:第三次旅順口攻撃(第1回旅順港閉塞作戦)です。2月18日、東郷平八郎は第三次行動となる旅順口閉塞と港内間接射撃の作戦発動を命令しました。23日23時50分、警戒および襲撃を任務とする第五駆逐隊(司令:真野巌太郎中佐、「陽炎」、「不知火」、「叢雲」、「夕霧」)と閉塞船団は旅順港近くの老鉄山下に進出しました。24日0時30分より月が没すると黄金山・城頭山・白銀山のロシア砲台から探照灯による照射が始まりました。第五駆逐隊は探照灯を避けながら老鉄山東岸に沿って徐々に進みましたが、ついに発見されました。1時30分に探照灯の消灯に乗じて偵察を行ったところ、駆逐艦2隻と艦種不明の1隻を発見し、これに魚雷攻撃を行いました。襲撃の後、水雷艇を用いた航路偵察が行われましたが、探照灯により発見されて砲撃を受けました。陸上砲台の砲撃停止と航路が確認されたため、老鉄山沖に待機していた5隻の閉塞船団は4時15分より「天津丸」、「報国丸」、「仁川丸」、「武揚丸」、「武州丸」の順で突入を開始しました。旅順口を目指す閉塞船団は探照灯に捉えられて猛烈な砲撃を受け、閉塞は不十分なものとなりました。5隻の老朽船と77名の志願兵を集めて決行しましたが、ロシア軍の沿岸砲台が閉塞部隊に激しい砲撃を浴びせたため、作戦は失敗しました。機関兵1名が死亡しました。水雷艇隊は危険を冒して突入隊の収容を行いました。「天津丸」、「報国丸」、「武揚丸」の乗員は第十四艇隊により収容されましたが、第九艇隊「燕欠」は攻撃を行ったため「仁川丸」、「武州丸」の乗員収容が行えませんでした。東郷平八郎長官は25日に「千早」、「龍田」を旅順口へ派遣して捜索を続けましたが発見できませんでした。乗員達は砲火を避けて隠れながら退避を行いました。両船の乗員は偶然遭遇して合流した後、ジャンク船等を使って清国の登州を経由して帰還を果たしました。また、閉塞に先立って攻撃を行った第五駆逐隊は一度退避していましたが、砲声を聞いたため閉塞作戦を援護するために引き返し、あえて砲台に接近して探照灯を灯して牽制しましたが攻撃を吸収する事ができず、6時30分に砲撃が途絶えたため湾外へ脱出しました。第四駆逐隊は第二戦隊の前衛として7時過ぎに老鉄山沖に到達し、旅順口に接近すると港内にロシア駆逐艦3隻を発見したため砲撃を加えました。ロシア駆逐艦と陸上砲台も応射しましたが、港外への出撃がないため7時20分に離脱しました。閉塞作戦後も旅順港外をロシア巡洋艦「バヤーン」、「ノーウィック」他の駆逐艦5隻が徘徊しており、日本艦隊を攻撃したり、閉塞船に砲撃を加えるなどしました。24日12時に東郷平八郎長官は、ロシア巡洋艦が入港困難である可能性がある事から、夜半より第四駆逐隊による魚雷攻撃を命令しました。25日0時に第四駆逐隊は老鉄山沖に進出、1時30分より第二小隊の「村雨」、「春雨」が旅順口に進むと、ロシア陸上砲台や哨戒艦は探照灯で照らされた沈没閉塞船を誤射していました。「村雨」は目標を認めて3時3分に魚雷を発射しました。「春雨」も同じく3時8分に魚雷を発射しましたが、退避中に砲撃を受けました。「村雨」は第二次攻撃のために引き返し、3時10分に座礁しているとみられる「レトヴィザン」に向けて魚雷を発射しました。第一小隊の「速鳥」と「朝霧」は25日2時30分に襲撃に入り、50分よりロシア駆逐艦数隻に向けて魚雷攻撃を行い、反転後にロシア艦と砲撃を交えました。さらに両艦は回頭して第二次魚雷攻撃を行いました。第五駆逐隊は大連湾にて目標を探しましたが、発見できませんでした。続いて25日の朝より港内間接射撃のため第一・二戦隊が旅順口に進出すると、饅頭山沖に航行するロシア巡洋艦「バヤーン」、「アスコリド」、「ノーウィック」の3隻と遭遇したため、11時31分にこれに砲撃を加えつつ陸上砲台も目標として射撃しました。ロシア艦は命中弾を受けて港内へ退避したため、港外から間接射撃を行いました。第一・二戦隊の攻撃中に老鉄山沖を警戒していた第三戦隊も10時40分頃にロシア駆逐艦を発見して砲撃し、座礁した「ヴヌシーテリヌイ」を翌日の自沈に追い込みました。陸上砲台の射程も考慮してこれらの攻撃は遠距離で行われました。3月6日、旅順のロシア艦隊司令官にマカロフ中将が着任します。

その次の次に、日本海軍の伊号第一七潜水艦がカリフォルニア州エルウッドの製油所を砲撃です。伊号第一七潜水艦は、大日本帝国海軍の「巡潜乙型潜水艦」の一隻です。アメリカ合衆国本土を艦載砲で攻撃した最初の潜水艦です。竣工は1941年1月24日に横須賀海軍工廠で行われました。「太平洋戦争」開戦時には第六艦隊第一潜水戦隊に所属し、「真珠湾攻撃」に後詰めとして参加しました。その後は、アメリカ西海岸沿岸における「通商破壊作戦」任務につき、2隻の船「サモア」、「ラレー・ドネー」を撃沈しました。1942年2月24日、アメリカ合衆国カリフォルニア州のエルウッド精油所を艦載の14cm砲で砲撃し、これに被害を与えました。帰途にタンカー1隻と輸送船1隻を撃沈し、その後も通商破壊や偵察、ガダルカナル島への輸送任務などに着きました。8月19日に哨戒機やニュージーランド海軍掃海艇と浮上砲戦を行いました。艦長・原田毫衛は交戦中にヌメア港への突撃を報せる電報を打ちましたが、「伊17」は水上機の攻撃によりヌーメア湾にて撃沈されました。「伊17」乗員は艦長・原田毫衛をはじめ97名が戦死しましたが、6名が救助されました。

最後に、湾岸戦争:多国籍軍による大規模地上攻勢「砂漠の剣作戦」が発動です。湾岸戦争は、1990年8月2日にイラクがクウェートに侵攻したのを機に、国際連合が多国籍軍(連合軍)の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆した事に始まった戦争です。イラクは8月18日に、クウェートから強制的に連行した外国人を「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表し、その後に日本やドイツ、米国や英国などの民間人を自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁しました。この行為は世界各国からの批判を浴び、後にイラク政府は小出しに人質の解放を行い、その後多国籍軍との開戦直前の12月に全員が解放されました。1月17日に、多国籍軍はイラクへの爆撃「砂漠の嵐」作戦を開始しました。一方、サダム・フセインは「アラブ(イスラム)対イスラエルとその支持者(ユダヤ教・キリスト教などの異教徒)」の構図を築こうと考え、1月18日からイスラエルへ向けてスカッドミサイル「アル・フセイン」と「アル・ファジャラ」計43基を発射、イスラエル最大の都市テルアビブなどに着弾し、死傷者が出ました。42日間に18回39発のミサイル攻撃を受け、うち10回の攻撃で226名が負傷し、2名がミサイルの直撃で、5名がミサイル警報のショックで、7名が対化学攻撃用ガスマスクの取り扱いミスで死亡しました。アメリカは急遽イスラエルや湾岸諸国にパトリオット地対空ミサイルシステムを配備して迎撃し、当時はほとんど打ち落としたと主張していました。しかし、本来これは対航空機用の兵器でした。後の報告により、それほど役に立っていなかった事が判明しました。これを受けて、アメリカとイスラエルはミサイル迎撃システムの開発を進める事になり、ミサイル対応のパトリオットミサイル「PAC−3」を開発しました。1か月以上に亘って行われた恒常的空爆により、イラク南部の軍事施設はほとんど破壊されました。2月24日に空爆が停止され、多国籍軍は地上戦「砂漠の剣作戦」に突入し、クウェートを包囲する形でイラク領に侵攻しました。大統領親衛隊や共和国防衛隊を除く主要のイラク軍は、度重なる空爆によって消耗し、装備も貧弱なため士気が無く、一部では油田に火を放って視界を妨害しようとしました。しかし、多国籍軍は熱線映像式暗視装置を持っていたため、煙の向こうのイラク軍部隊は攻撃もできずに一方的に撃破されました。また食料も尽きたため、続々と投降しました。イラクは翌2月25日にスカッドミサイルでサウジアラビアを攻撃、ダーラン近郊の第14補給分遣隊兵舎に命中させ、28人を殺害、100人以上を負傷させました。しかし、抵抗はここまででした。地上戦開始から100時間後に、イラク軍は大量の捕虜を出しながら撤退を開始しました。2月27日にクウェート市を解放し、多国籍軍は敗走するイラク軍を追撃しました。同日中にアメリカのブッシュ大統領が停戦を発表し、フセイン大統領は敗戦を認めました。3月3日には暫定停戦協定が結ばれて戦争が終結しました。

今日の誕生日:鳥羽天皇(第74代天皇)、ヴィルヘルム・グリム(グリム兄弟・弟)、ハリー・パークス、寺内正毅(第18代内閣総理大臣)、淡島千景、大木金太郎、佐久間良子、草野仁、松本留美、アラン・プロスト、スティーブ・ジョブズ、大平サブロー(太平サブロー・シロー)、ASKA「飛鳥涼」(CHAGE and ASKA)、平野寿将、阿南健治、コージー冨田、山本陽一、北山陽一(ゴスペラーズ)、Shinya(Dir en grey)、melody.、岩佐真悠子、銀次、矢倉楓子(元NMB48)、渡邉美穂(日向坂46)、キタノオーザ、イブキマイカグラ、オペラハウス、エルウェーウィン、オウケンブルースリ

今日の記念日:クロスカントリーの日、鉄道ストの日、月光仮面登場の日、等伯忌

今日の「今日訓」:本日は、1877年に統一ルールによるクロスカントリーの初めての大会がイギリスで開催された事で「クロスカントリーの日」、1898年に日本初の鉄道ストライキが実施された事で「鉄道ストの日」、1958年にラジオ東京(現・TBSテレビ)で国産初のテレビ映画「月光仮面」のテレビ放送が始った事で「月光仮面登場の日」、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した絵師・長谷川等伯の命日(慶長15年2月24日)から「等伯忌」となりました。
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