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2020年02月23日00:43

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2月23日の日記

今日の出来事:1623年−アンボイナ事件、1874年−佐賀の乱:朝日山の戦い、三瀬峠の戦い、1945年−第二次世界大戦:イギリス空軍がプフォルツハイムを空襲、17000人以上が死亡

今日は、アンボイナ事件です。アンボイナ事件は、1623年にモルッカ諸島のアンボイナ島にあるイギリス商館をオランダが襲い、商館員を全員殺害した事件です。別名「アンボン事件」。これによりイギリスの香辛料貿易は頓挫し、オランダが同島の権益を独占しました。イギリスは東南アジアから撤退し、インドへ矛先を向ける事となりました。アンボイナ島は、インドネシア・モルッカ諸島南方のセラム島の南西に位置する小島で、クローブなどの香料を産する事で知られていました。ヨーロッパで珍重されたこの香料を求めて、同島への進出を図る国が相次ぎました。1512年にポルトガル人アントニオ・ダブリウが進出して以来、アンボイナ島の香料はポルトガルが独占しました。しかし、1599年にオランダ人ファン・ワールワイクがポルトガル勢を駆逐し、1605年2月にニュー・ヴィクトリア砦を構築して支配権を確立しました。これに対し、イギリスも1615年に進出して香料貿易を行い、激しく競争しました。事態を収拾するため、英蘭両国の政府は1619年に協定を締結し、「香料貿易は今後両国が共同で行い、利益の分配に際してはオランダの既得権益を尊重し、3分の2をオランダが、残り3分の1をイギリスが得ること」、「これまで両国が占領した地域の領有権は現状のまま留め置くが、今後征服した土地は両国で折半すること」などを相互に確認しました。しかし、オランダの現地当局はこれを無視して取引を行い、激怒したイギリス人はバタヴィアでオランダ人を駆逐しました。この頃、東南アジアには日本人が多く進出し、アユタヤやプノンペンには「日本人町」が形成されるほどでした。アンボイナ島にも日本人が居住し、傭兵として勤務する者もいました。1623年2月23日の夜、オランダ側の傭兵・七蔵が衛兵らに対し、城壁の構造や兵の数について尋ねていました。これを不審に思ったオランダ当局が、七蔵を拘束して拷問にかけたところ、イギリスが砦の占領を計画していると自白しました。直ちにイギリス商館長ガブリエル・タワーソンら30余名を捕らえた当局は、彼らに火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加え、これを認めさせました。3月9日、当局はタワーソンをはじめイギリス人10名、日本人9名、ポルトガル人1名を斬首して、イギリス勢力を排除しました。斬首された日本人9人は、七蔵、長左、神三、久太夫、左兵太、三忠、シドニイ・ミヒール、ペドロ・コンギ、トメ・コレアです。なお、事件当時オランダの東インド総督であったヤン・ピーテルスゾーン・クーンは、オランダの東インド貿易独占を主張し、政府の対応を弱腰と非難しました。このため、事件は彼の仕組んだ陰謀であるとの説もあります。この事件はイギリス本国に伝わり、英蘭両国の間で進行していた「東インド会社」の合併交渉は決裂、ついには外交問題にまで発展しました。事件発生から実に31年後の1654年、オランダ政府が8万5000ポンドの賠償金を支出する事で決着しました。事件をきっかけに、東南アジアにおけるイギリスの影響力は縮小し、オランダが支配権を強めました。しかし、かつて同量の金と交換された事もあったほどの高級品だった香料の価格は、次第に下落しました。それに伴い、オランダの世界的地位も下がり始めました。対して、新たな海外拠点をインドに求めたイギリスは、良質な綿製品の大量生産によって国力を増加させました。

次に、佐賀の乱:朝日山の戦い、三瀬峠の戦いです。「佐賀城の戦い」で政府軍は佐賀城を失いました。すでに東京鎮台などを率いて福岡入りしていた大久保利通は軍を二手に分けて、本隊を福岡との県境にある要衝「朝日山」(現・鳥栖市)に、別働隊を「三瀬峠」にそれぞれ向かわせました。また、久留米まで退却した熊本鎮台も、本隊との合流を目指して筑後川から「江見」(現・みやき町)に向かい、合わせて3方向から佐賀城を目指しました。さらにこれ以外にも長崎に上陸した外務少輔・山口尚芳が現地の海兵隊を護衛に大村から武雄に向かい、乱への参加に消極的だった佐賀藩武雄領の説得を行ないました。これに対し、佐賀軍は長崎街道沿いを「征韓党」が、筑後川沿いを「憂国党」がそれぞれ受け持つ事に決め、「征韓党」は朝日山に田尻種博(戊辰戦争時の大隊長)と井上考継を先鋒に西義質らを向かわせ、2月22日にはこの政府軍部隊を迎撃しました。「憂国党」の指揮は村山長栄が取り、本隊との合流を目指す熊本鎮台部隊を迎撃しました。また、三瀬峠には士族軍の参謀長を務める朝倉尚武(元陸軍少佐)を配し、山田顕義少将の率いる政府軍本営に備えさせました。朝倉尚武は佐賀軍一の用兵家でした。山田顕義の命で進軍してきた小笠原義従の部隊等を散々に破りました。三瀬峠では小銃10挺の貧弱な武装と寡兵ながらも山岳地帯を生かした切り込み戦法で勇戦し、寄せ手の山田顕義少将に「ここの佐賀兵を指揮しているのは、おそらく朝倉尚武に違いない」と言わしめました。しかし、大久保利通が直卒した近衛兵や鎮台兵などが次々と戦線に投入されると佐賀軍は劣勢を余儀なくされ、朝日山はわずか数時間で突破されました。翌23日は佐賀軍も一時は善戦し、県東部の中原で政府軍を包囲殲滅する直前まで追い込みました。しかし、政府軍指揮官の陸軍少将・野津鎮雄が自ら先頭に立って兵を励まして戦ったため、ついに敗れました。さらに江藤新平、本人が前線に出て田手で戦いましたが敗退しました。この敗退で勝機を失ったと見た江藤新平は「征韓党」を解散し、鹿児島県へ逃れて下野中の西郷隆盛に助力を求めるため戦場を離脱しました。この江藤新平の離脱に、副島義高ら「憂国党」の面々は敵前逃亡とみなして激怒しました。また、江藤新平が離脱したため、朝倉尚武も部隊を六角耕雲に託して江藤新平の後を追って薩摩へ向かいましたが、市来にて捕えられました。朝倉尚武が前線を離れたため、三瀬峠も政府軍に突破されました。江藤新平らは2月27日には鹿児島に入りましたが、西郷隆盛に決起の意志がなかったため、今度は土佐へ向かって片岡健吉と林有造に挙兵を訴えました。ところが、既にここにも手配書が廻っており、3月29日に高知県東洋町甲浦で捕縛されました。捕吏長の山本守時は江藤新平に脱走を勧めましたが、江藤新平は裁判で闘う決意を固め、これに応じませんでした。2月28日、政府軍が佐賀城下に迫ると島義勇は佐賀で討ち死にするつもりでしたが、実弟の副島義高らが「境原で政府軍を防ぐので再起を期せ」と無理矢理に脱出させました。島義勇は、島津久光に決起を訴えるため鹿児島へ向かいましたが、3月7日に捕縛されました。こうして、「佐賀の乱」は鎮圧されました。

最後に、第二次世界大戦:プフォルツハイム空襲です。プフォルツハイムはドイツの都市です。「第二次世界大戦」中に、プフォルツハイム市は何度も爆撃を受けました。その中でも最大の空爆であり、「第二次世界大戦」中の最も壊滅的な戦略爆撃の1つであったのが、1945年2月23日の夜に英国空軍(RAF)によって行なわれた空爆です。町の人口の約4分の1、即ち17000人以上が、この時の空爆で死亡し、町の建物の83%が破壊されました。連合国はプフォルツハイム市において、ドイツの軍需産業に必要な精密機械が生産されていて、ドイツ軍の輸送センターとしての役割を果たしていると考えました。そのため、この爆撃を行いました。破壊された町の瓦礫は、戦後に町の郊外に盛られました。この瓦礫の山は「wallberg」として知られており、現在では草木が茂る山となっています。この空襲で17000人以上が死亡しました。終戦後の20年間で、プフォルツハイム市は徐々に再建され、今ではかなり現代的な外観を呈しています。

今日の誕生日:徳川綱吉(江戸幕府第5代将軍)、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル、林銑十郎(第33代内閣総理大臣)、北島忠治、池田満寿夫、内海好江、白木万理、北大路欣也、麿赤児、宇崎竜童(元ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、元竜童組)、山本俊彦(元ハイ・ファイ・セット)、月亭八方、中島みゆき、中嶋悟、斉藤明夫,野口五郎、ブラザートム(バブルガム・ブラザーズ)、徳仁親王(第126代天皇)、飯星景子、ジョン・ノーラム(ヨーロッパ)、山本圭一(極楽とんぼ)、横山典弘、相田翔子(元Wink)、近藤春菜(ハリセンボン)、美奈子、YUKI(BENNIE K)、亀梨和也(KAT−TUN)、三倉茉奈(マナカナ)、三倉佳奈(マナカナ)、梅崎司、石川佳純、アドマイヤムーン、ワンアンドオンリー

今日の記念日:天皇誕生日、ロータリー設立記念日、税理士記念日、富士山の日、ふろしきの日、妊婦さんの日、工場夜景の日

今日の「今日訓」:本日は、天皇誕生日です。天皇誕生日は、「国民の祝日に関する法律(祝日法)」により、天皇の誕生日を祝う事を趣旨とした、その時に在位中の「天皇」の誕生日を祝う日です。天皇誕生日は慣例により、「日本の国家の日」とされています。1948年までは「天長節」と呼ばれていました。宮中では「祝賀の儀」、「宴会の儀」、「茶会の儀」、「一般参賀」が行なわれます。伊勢神宮などの神社では「天長祭」が行なわれます。海外の日本大使館等の在外公館ではこの日を記念してレセプションが行なわれます。1905年にシカゴで弁護士ポール・ハリスと友人3人が、後にロータリークラブとなる相互扶助クラブの最初の会合を開いた事で「ロータリー設立記念日」、1942年2月23日に「税理士法」の前身である「税務代理士法」が制定された事を記念して「税理士記念日」、第1回「全国工場夜景サミット」が2011年2月23日に神奈川県川崎市で開かれた事から「工場夜景の日」、「ふ(2)じ(2)さん(3)」の語呂合わせで「富士山の日」、「つ(2)つ(2)み(3)」の語呂合わせで「ふろしきの日」、「2(妊)2(婦)3(さん)」の語呂合わせで「妊婦さんの日」となりました。
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