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2020年02月20日00:14

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2月20日の日記

今日の出来事:1564年−第二次国府台合戦、1933年−築地署事件:プロレタリア作家・小林多喜二が築地警察署で死亡、1942年−第二次世界大戦:バリ島沖海戦

今日は、第二次国府台合戦です。国府台合戦は、下総国の国府台城(現在の千葉県市川市)一帯で、北条氏と里見氏をはじめとする房総諸将との間で戦われた合戦です。「第一次国府台合戦」後、国府台は千葉氏の重臣で小金城主・高城胤吉の所領となりました。千葉氏が北条氏の傘下に入り、事実上北条領となりました。1563年、北条氏康と武田信玄が上杉謙信側の武蔵松山城を攻撃した際、上杉謙信の要請を受けた里見義堯が嫡男・義弘を救援に向かわせました。国府台でこれを阻止しようとする北条軍と衝突しました。里見軍は上杉派の太田資正らの支援を受けて武蔵に入りましたが、松山城が陥落したため両軍とも撤退しました。この年の暮れ、北条氏康の配下であった江戸城の守将・太田康資が主君への不満から同族の太田資正を通じて上杉謙信への寝返りを図って失敗し、太田資正のもとへ逃れました。上杉謙信から太田資正・康資の救出を依頼された里見義弘は房総諸将を率いて出陣し、国府台城に入りました。その数12000でした。単独での迎撃は無理と判断した千葉氏は、北条氏康に援軍を求めました。北条軍は2万の兵を率いて直ちに出陣しました。北条軍は江戸城を出て里見軍を攻撃しました。しかし、先陣の江戸城将・遠山綱景と富永直勝は太田康資の離反を察知できなかった責任を感じた余り、本隊の北条綱成隊よりも先行して「矢切の渡し」付近を渡って江戸川を越えて国府台(市川市)を攻撃しましたが、里見軍の反撃にあってしまいました。これによって、高城胤吉の子・胤辰ら千葉軍との連携作戦で里見軍を挟撃する計画が大きく狂い、遠山綱景と富永直勝は戦死してしまいました。また、遠山綱景の娘婿だった舎人城主(足立区)の舎人源太左衛門経忠も戦死しました。太田康資と高城胤辰も遠山綱景の娘姉妹・婿で身内でした。舎人経忠に嫁いだ娘は勇丸を生みましたが婿の戦死後、大道寺政繁と再婚して勇丸は養子となり、大道寺隼人直英と名乗りました。この勝利に気をよくした里見義弘は、兵士たちに酒を振舞いました。しかし、遠山綱景・富永直勝の潰走によって主力を温存する事が出来た北条軍は、撤退したと見せかけて翌日未明に再度、江戸川を渡って里見軍に夜襲をかけました。酒宴の後の里見軍は、大混乱に陥りました。更に北条軍の工作で里見軍の主力である土岐為頼が裏切って戦場を離反し、筆頭重臣で正木時茂の子・信茂が戦死しました。里見義弘は重臣・安西実元が身代わりとなり、合戦直前に里見側に寝返って戦場に遅参してきた土気城主・酒井胤治に救出されて、やっとの事で戦場を脱出しました。この戦いの後、北条軍は一気に上総にまで進出して、土岐為頼に続いて正木時忠(時茂の弟)を服属させました。苦境に立った里見軍は積極的な軍事行動により、北条軍を牽制しました。そして「三船山の合戦」での勝利により北条軍の安房遠征を失敗に追い込み、両氏の戦況は再び膠着する事になります。

次に、築地署事件です。小林多喜二は、プロレタリア文学の代表的な作家・小説家です。1903年、秋田県北秋田郡下川沿村(現・大館市)の小作農家の次男として生まれました。伯父の工場に住み込みで働く代わりに学資を受け、北海道の小樽商業学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)へ進学しました。在学中から創作に親しみ、絵画や文芸誌への投稿や、校友会誌の編集委員となって自らも作品を発表するなど、文学活動に積極的に取り組みました。小樽高商の下級生に伊藤整がおり、同校教授であった大熊信行の教えを受けました。卒業後、北海道拓殖銀行(拓銀)小樽支店に勤務し、そのころ5歳年下の恋人田口タキに出会いました。タキは父親が残した多額の借金により、13才の頃より酌婦として飲み屋に売られていました。小林多喜二は友人からの借金でタキを身請けし、結婚ではなく家族という形で実家に引き取りました。小林多喜二の家族も暖かく迎えましたが、タキは身分の差に悩み7ヵ月後に家出をしました。1928年の総選挙の時、北海道1区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝い、羊蹄山麓の村に応援演説に行きました。この経験が後の作品「東倶知安行」に生かされました。同年に起きた「三・一五事件」を題材に「一九二八年三月十五日」を「戦旗」に発表しました。作品中の特別高等警察による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となりました。翌1929ええ年に「蟹工船」を「戦旗」に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集めました。同年7月には土方与志らの新築地劇団によって「北緯五十度以北」という題で帝国劇場にて上演されました。しかし、同時に警察から要注意人物としてマークされ始めました。「蟹工船」、「一九二八年三月一五日」および同年「中央公論」に発表した「不在地主」などがもとで拓銀を解雇され、翌年春に東京へ転居しました。その後、日本プロレタリア作家同盟書記長となりました。1930年5月中旬、「戦旗」誌を発売禁止から防衛するため江口渙、貴司山治、片岡鉄兵らと京都、大阪、山田、松阪を巡回講演しました。23日に大阪で日本共産党へ資金援助の嫌疑で逮捕され、6月7日に一旦釈放されました。24日に帰京後、作家の立野信之方で再び逮捕され、7月に「蟹工船」の件で不敬罪の追起訴を受けました。8月に「治安維持法」で起訴、豊多摩刑務所に収容されました。1931年1月22日に保釈出獄するとその後、神奈川県・七沢温泉に籠りました。1931年10月、非合法の日本共産党に入党し、11月上旬に奈良の志賀直哉邸を訪ねました。1932年春の危険思想取締りを機に、地下活動に入りました。8月下旬、自らの地下生活の体験を元に「党生活者」を執筆しました。1933年2月20日、共産青年同盟中央委員会に潜入していた特高警察のスパイ・三船留吉からの提案により、赤坂の連絡場所で三船留吉と落ち合う予定で、共産青年同盟の詩人・今村恒夫とともに訪れました。その待ち合わせ場所には、三船留吉からの連絡により張り込んでいた特高警察が待機していました。小林多喜二はそこから逃走を図りましたが、逮捕されました。同日、築地警察署内での取調べについては、今村恒夫から話を聞いた江口渙が戦後発表した「作家小林多喜二の死」という文章を、手塚英孝が「小林多喜二」で紹介しました。それによると、警視庁特高係長・中川成夫の指揮の下に、小林多喜二を寒中丸裸にして、先ず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかりました。その後、警察署から築地署裏の前田病院に搬送され、19時45分に死亡が確認されました。築地署長は、「短時間の調べでは自供しないと判断して、外部からの材料を集めてから取調べようとしました。一旦、5時半に留置場に入れましたが間もなく苦悶を始めて、7時半にはほとんど重体となったので前田病院に入院させる処置を取りました。築地署としては何の手落ちもありませんでした。」との説明を行ないました。なお、小林多喜二が死亡時の責任者は特高警察部長・安倍源基で、その部下であった特高課長・毛利基(戦後、埼玉県警幹部)、警部・中川成夫(後、滝野川区長、東映取締役)、警部・山県為三(戦後、スエヒロを経営)の3人が直接手を下しました。警察当局は、翌21日に「心臓麻痺」による死と発表しました。翌日、遺族に返された小林多喜二の遺体は、全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によって、どす黒く腫れ上がっていました。しかし、どこの病院も特高警察を恐れて遺体の解剖を断りました。死に顔は日本共産党の機関紙「赤旗」が掲載した他、同い歳で同志の岡本唐貴により油絵で描き残され、千田是也が製作したデスマスクも小樽文学館に現存しています。「中央公論」編集部は、小林多喜二から預かったまま掲載を保留していた「党生活者」の原稿を「転換時代」という仮題で「中央公論」(1933年4−5月号)に、遺作として発表しました。3月15日には築地小劇場で小林多喜二の労農葬が執り行われました。最後の小説は、1933年1月7日に書きあげた「改造」3月号に発表の「地区の人々」でした。評論は、「プロレタリア文学」2月号、「プロレタリア文化」3−4月号に掲載の「右翼的偏向の諸問題」でした。現在、若い世代の非正規雇用の増大と働く貧困層の拡大、低賃金長時間労働の蔓延などの社会経済的背景のもとに、2008年に「蟹工船」が再評価され、新潮文庫の「蟹工船・党生活者」が50万部以上のベストセラーとなりました。また、2009年には、映画化もされました。

最後に、第二次世界大戦:バリ島沖海戦です。バリ島沖海戦は、1942年2月20日の夜明け前に、連合国軍艦隊が日本軍のバリ島攻略船団を攻撃し、撃退された海戦です。日本軍はジャワ島攻略のための飛行場確保を目的として、バリ島の攻略を決めました。攻略に当たる陸軍部隊は、第48師団の一部を抽出した今村亦兵衛少佐指揮の支隊(歩兵1個大隊基幹)となりました。1942年2月18日、支隊を乗せた輸送船2隻は第八駆逐隊(阿部俊雄大佐)所属の駆逐艦「大潮」、「朝潮」、「満潮」に護衛され、マカッサル泊地を出航しました。途中で駆逐艦「荒潮」とも合流し、19日にバリ島サヌール泊地に進入して上陸を開始しました。上陸に対して抵抗はなく、未明には日本軍が飛行場を占領しました。一方、連合軍は、哨戒中のイギリス潜水艦「トルーアント」とアメリカ潜水艦「シーウルフ」により、日本軍の攻略船団を発見しました。連合軍は、アメリカ陸軍航空隊の爆撃機を出動させて停泊中の日本軍船団を攻撃しましたが、輸送船1隻を損傷させたにとどまりました。損傷した輸送船は「荒潮」と「満潮」に護衛されて先に出航し、マカッサルへ帰還しました。さらにオランダ海軍のカレル・ドールマン少将指揮の艦隊(オランダ軽巡洋艦「デ・ロイテル」、「ジャワ」、「トロンプ」、オランダ駆逐艦「ピートハイン」、アメリカ駆逐艦「ジョン・D・フォード」、「ポープ」、「スチュワート」、「パロット」、「エドワーズ」、「ピルスベリー」)が船団攻撃に出動しました。連合軍艦隊は、「デ・ロイテル」と「ジャワ」に駆逐艦3隻からなる部隊と、「トロンプ」と駆逐艦4隻からなる部隊の2波に分かれてバリ島沖のバドゥン海峡へ向かいました。この他、魚雷艇部隊も出動しましたが、戦闘に至らずに帰還しました。サヌール泊地を出航しようとしていた「朝潮」が、「デ・ロイテル」と「ジャワ」を発見しました。20日、2隻の軽巡が「朝潮」に対して砲撃を開始し、戦闘は始まりました。「朝潮」も反撃しましたが、出航直後で速度が上がらずに見失いました。先に出航していた「大潮」も「デ・ロイテル」と「ジャワ」に対して砲撃を開始し、この軽巡2隻は戦場を離脱しました。さらに「大潮」は、後続の「ピートハイン」に対して魚雷を発射して撃沈しました。「デ・ロイテル」と「ジャワ」の2隻を追撃していた「朝潮」と「大潮」は、数分後に「フォード」と「ポープ」を発見しました。交戦の後、「フォード」と「ポープ」も離脱を開始しました。軽巡「トロンプ」を中心とした2つ目の部隊が到着すると、「大潮」と「朝潮」と交戦を開始しました。一時、連合軍艦隊がバリ島の影に隠れたため見失いましたが、再び戦闘となり、「大潮」が小破、「トロンプ」が中破とそれぞれ損傷しました。戦闘発生を知り、応援のためバリ島へ戻ってきた「荒潮」と「満潮」は、「スチュワート」と「エドワーズ」に遭遇して交戦を開始しました。この戦闘で「満潮」が大破し、「スチュワート」が小破しました。以上の戦闘で連合軍艦隊はすべて戦場を離脱し、海戦は終了しました。この後、連合軍艦隊と日本軍船団が交戦する「スラバヤ沖海戦」と「バタビヤ沖海戦」が発生し、連合国軍艦隊は壊滅する事になります。

今日の誕生日:志賀直哉、石川啄木、左卜全、水の江瀧子、栃錦清隆、浅香光代、黛敏郎、山田吾一、長嶋茂雄、アントニオ猪木、小山ゆう、志村けん(ザ・ドリフターズ)、ばんばひろふみ(元ばんばん)、ドス・カラス、美内すずえ、有田芳生、かとうかず子、真島昌利(元THE BLUE HEARTS、元THE HIGH−LOWS、現ザ・クロマニヨンズ)、遊佐未森、石野陽子、渡辺梓、あえか、森田剛(V6)、石田明(NON STYLE)、aika、小出恵介、矢部美希、ユーリャ・ヴォルコヴァ(元t.A.T. u.)、小川彩佳、休日課長(ゲスの極み乙女。)、三戸なつめ、橋本奈々未(元乃木坂46)、伊藤万理華(元乃木坂46)、藤田ニコル、ジェンティルドンナ

今日の記念日:世界社会正義の日、旅券の日、アレルギーの日、交通事故死ゼロを目指す日、歌舞伎の日、愛媛県政発足記念日、夫婦円満の日、尿もれ克服の日

今日の「今日訓」:本日は、「世界社会正義の日」です。貧困削減や、国際労働機関の定める労働者の権利の促進を目的に制定されました。慶長12年2月20日、出雲阿国が江戸城で将軍・徳川家康や諸大名の前で初めて「歌舞伎踊り」を披露した事で「歌舞伎の日」、1878年に外務省布達第1号「海外旅券規則」で「旅券」という用語が初めて使用された事で「旅券の日」、1966年に免疫学者の石坂公成・照子夫妻が、ブタクサによる花粉症の研究からアレルギーを起こす原因となる免疫「グロブリンE」を発見した事で「アレルギーの日」、日本政府が生活安心プロジェクトの一環として制定した「交通事故死ゼロを目指す日」は、2月20日と春・秋の「全国交通安全運動」の期間中の4月10日・9月30日となっています。1873年に「石鉄県」と「神山県」が合併して「愛媛県」が誕生した事で「愛媛県政発足記念日」となりました。愛媛県は、「イザナギ」と「イザナミ」による国生みで「伊予国は愛比売と謂ひ」、後に「愛比売」が「愛媛」へと転化しました。伊予国は、1871年7月の「廃藩置県」により8藩がそのまま県となりました。その後、旧幕府領が「丸亀県」に移管され、「丸亀県」の一部と「西条」・「小松」・「今治」・「松山」の各県が合併して「松山県」に、「大洲」・「新谷」・「吉田」・「宇和島」の各県が合併して「宇和島県」となりました。1872年、「松山県」は「石鉄県」、「宇和島県」は「神山県」となりました。1873年に「石鉄県」、「神山県」が合併して「愛媛県」となりました。「ふう(2)ふ(2)円満(0)」の語呂合わせで「夫婦円満の日」、「尿(2)も(2)れ(0)」の語呂合わせで「尿もれ克服の日」となりました。
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