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2020年02月18日00:38

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2月18日の日記

今日の出来事:1338年−南北朝動乱:青野原の戦い、1559年−少弐氏滅亡:少弐冬尚自刃、1772年−田沼意次が老中に就任、1868年−戊辰戦争:紫ちりめん騒動、1874年−佐賀の乱:佐賀城の戦い、2003年−韓国・大邱地下鉄放火事件(死者192名、重軽傷者148名)

今日は、南北朝動乱:青野原の戦いです。青野原の戦いは、美濃国青野原(現・岐阜県大垣市)で上洛を目指す北畠顕家が率いる南朝方の軍勢と、土岐頼遠ら北朝方の軍勢との間で行われた合戦です。1337年9月6日、鎮守府将軍・北畠顕家は吉野の後醍醐天皇の足利尊氏追討の呼びかけに応じて義良親王(後の後村上天皇)を奉じ、腹心の結城宗広や伊達行朝らの奥州勢10万を率いて霊山(福島県相馬市、伊達市)を出発しました。9月14日、北畠軍は白河関を越えて下野に入りました。12月30日には足利方の小山城を陥落させ、小山朝郷を捕えました。北畠勢は、1338年1月4日の「利根川の戦い」、1月7日の「安保原の戦い」で足利勢を破って新田徳寿丸(後の新田義興)など南朝方の関東諸侯を吸収し、足利義詮が守る鎌倉を攻撃しました。足利義詮、上杉憲顕、桃井直常、高重茂らは房総方面に脱出しました。1月15日に鎌倉を攻略し、「杉本城の戦い」で斯波氏の守る杉本城を陥落させました。斯波軍は援軍が来ない中で小勢で善戦し、3日間も持ち堪えましたが落城して1月16日に城主・斯波家長が討たれました。北条時行は南朝に降伏し、北畠勢に合流しました。1月23日、北畠勢は鎌倉を出発し、足利勢と戦いながら東海道を西上しました。途中で宗良親王と合流し、2月10日には美濃国に到達しました。京都の足利尊氏は、北陸で勢力を回復していた新田義貞への対処に苦慮しており、北畠勢の西上に対応が出来ませんでした。鎌倉を脱出した上杉憲顕ら足利勢は北畠勢の西上後に鎌倉を奪回し、さらに北畠勢を挟み撃ちにするために西進を開始しました。遠江国で今川範国、三河国で吉良満義、高師兼、美濃国で高師冬、土岐頼遠らの諸侯と合流し、約8万の軍勢になりました。美濃国の守護・土岐頼遠は、美濃での決戦を主張しました。北畠勢も京都へ攻め入る前に、まず背後の足利勢と戦う事に決しました。足利方は籤引きで陣立ての順番を決め、墨俣川(現・長良川)など美濃の各地で順次、北畠勢に攻撃を仕掛けました。しかし、北畠顕家は2月18日〜19日に青野原で足利勢を打ち破りました。北畠勢は、この「青野原の戦い」で決定的な勝利を収め、総大将・土岐頼遠は一時的に行方不明になりました。青野原の敗報に接し、京都の足利尊氏は高師泰、佐々木道誉、佐々木氏頼(六角氏頼)・細川頼春ら約5万の軍勢を差し向けました。この援軍は、近江国、美濃国の国境である黒地川に布陣して「背水の陣」を構えました。北畠勢は「青野原の戦い」に勝利しましたが、長期の行軍と度重なる戦闘により疲弊したため、新手の足利勢と戦う力は無く、近江から京都への突破を諦めました。北畠勢は伊勢国、伊賀国を経て吉野へ向かいました。足利方は窮地を脱し、体勢を立て直すと高師直が率いる軍勢を大和国に差し向けました。この後、北畠顕家は「般若坂の戦い」で足利勢に敗れ、その後に摂津国方面に転戦して京都奪回を狙いましたが、和泉国石津で「石津の戦い」で敗れて討死する事になります。

次に、少弐氏滅亡:少弐冬尚自刃です。1535年、父・資元が自害して少弐氏が滅亡しました。少弐冬尚は、龍造寺家兼ら家臣団の助けを受けて1540年に少弐氏の再興を果たしました。しかし、1545年に家臣・馬場頼周が龍造寺家兼を妬んでその一族の大半を暗殺する事件を起こしました。このため、1546年に馬場頼周は龍造寺家兼の反攻にあって殺されました。少弐冬尚も龍造寺家兼と対立する事となりました。その後、少弐冬尚は龍造寺家兼の曾孫・龍造寺隆信と争い、1559年に勢福寺城で自害して少弐氏は滅亡しました。後に弟・少弐政興が馬場頼周の孫・鑑周らと共に少弐氏の復活を狙って旗揚げしますが、果たせずに終わります。千葉胤頼は兄・少弐冬尚が重臣・龍造寺隆信と対立するようになるとこれを支援しました。一方、分裂以来、対立関係であった晴気系の千葉胤連は龍造寺家の重臣の子であった鍋島彦法師丸(後の鍋島直茂)を養子に迎えて対抗しました。1559年、龍造寺隆信、千葉胤連に攻められ、肥前・勢福寺城で少弐冬尚と共に自害しました。子・胤誠は逃亡して神代勝利を頼りました。

その次に、田沼意次が老中に就任です。田沼意次は、遠江相良藩の初代藩主です。田沼意行の長男として江戸の本郷弓町の屋敷で生まれました。父・意行は紀州藩の足軽でしたが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近に登用されました。吉宗が第8代将軍となると幕臣となり、旗本となりました。徳川吉宗は将軍就任にあたって、紀州系の家臣を多数引きつれて幕臣としました。特に勘定方と将軍および子供たちの側近に配置して、幕政を掌握しました。田沼意次は紀州系幕臣の第二世代目に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、1735年に父の遺跡600石を継ぎました。1745年、徳川家重の将軍就任に伴って本丸に仕えました。1748年に1400石、1755年に3000石を加増されました。その後、徳川家重によって1758年に起きた美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)に関する裁判にあたらせるために、御側御用取次から1万石の大名に取り立てられました。1761年、徳川家重が死去した後も、第10代将軍・徳川家治の信任が厚く、破竹の勢いで昇進しました。1767年には5000石加増され、御用人から側用人へと出世して2万石の相良城主となりました。1769年には老中格となりました。1772年、相良藩5万7000石の大名に取り立てられ、老中を兼任しました。前後10回の加増で僅か600石の旗本から5万7000石の大名にまで昇進し、側用人から老中になった初めての人物となりました。順次加増されたため、この5万7000石の内訳は遠江国相良だけでなく、駿河国、下総国、相模国、三河国、和泉国、河内国の7か国14郡に跨った分散知行となりました。この頃より老中首座・松平武元など田沼意次を中心とした幕府の閣僚は、数々の幕政改革を手がけ、「田沼時代」と呼ばれる権勢を握りました。悪化する幕府の財政赤字を食い止めるため、重商主義政策を採りました。内容は「株仲間の結成」、「銅座などの専売制の実施」、「鉱山の開発」、「蝦夷地の開発計画」、「俵物などの専売による外国との貿易の拡大」、「下総国印旛沼の干拓に着手する」等の政策を実施しました。その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなりました。しかし、社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、そのために贈収賄が横行しました。また、都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じました。印旛沼運河工事の失敗や「明和の大火」、「浅間山の大噴火」などの災害の勃発、疲弊した農村部に「天明の大飢饉」と呼ばれる食糧難や疫病が生じました。田沼意次は対策を打ち出しますが、失敗して逆に事態を悪化させてしまいました。その中にあって財政難に陥っていた諸藩は米価の値上がりを借金返済の機会とし、検地により年貢の取立てを厳しくしていきました。このような世相の中、それらが元による都市部の治安の悪化、一揆・打ちこわしの激化により不満が高まり、江戸商人への権益を図りすぎた事を理由に贈収賄疑惑を流されるなど、次第に田沼政治への批判が集まっていきました。外国との貿易を黒字化させて国内の金保有量を高め、さらには北方でロシア帝国との貿易を行おうとしました。また、平賀源内などと親交を持ち、蘭学を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用を試みましたが、これらの急激な改革が身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買いました。1784年に息子で若年寄・田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺された事を契機とし、権勢が衰え始めました。1786年、将軍・徳川家治が死去しました。死の直前から「徳川家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた田沼意次は、将軍の死が秘せられていた間に失脚しました。これは、反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったとされます。老中を辞任させられ、雁間詰に降格、家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しを命じられました。その後、田沼意次は蟄居を命じられ、二度目の減封を受けました。相良城は打ち壊し、城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰されました。長男・意知は既に死去していて、他の三人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助が陸奥1万石に減転封のうえで、家督を継ぐ事を許されました。同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保や間部詮房が、辞任のみで処罰は無く家禄も維持し続けた事に比べると最も苛烈な末路となりました。1788年、江戸で死去しました。享年70でした。

その次の次に、戊辰戦争:紫ちりめん騒動です。柳生藩は、大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)の1万石の小藩でしたが、柳生氏は代々将軍家の剣術指南役として幕閣に重きをなしました。佐幕派で、京都警備や摂津の海上警備、大坂警備などを務めました。しかし、藩内で尊皇派と佐幕派が対立し、将軍の剣術指南役という事から佐幕派が優位に立ちました。柳生藩主は代々、江戸詰で「大政奉還」、「王政復古」により藩主・柳生俊益は帰国しました。京に近い柳生庄にいる国詰の藩士達は「勤皇」に、江戸詰の藩士達は「佐幕」でした。江戸詰藩士達は藩論の統一の為、国詰藩士達を暗殺しようとしました。自分達の刀の鍔に紫色の縮緬を巻きつけました。この事か「紫ちりめん騒動」と呼ばれるようになりました。これを察知した国家老・小山田三郎助、松田権太夫や槇田順平らが密議をして、江戸組を殲滅する事にしました。国組は、江戸組に特使を立てて一人ずづ呼び出して捕えました。罪状は「柳生家を横領する企てをした」とし、江戸家老・広瀬小太夫を首謀者としました。広瀬小太夫、子・友次郎、木元太郎八、子・木元太助、渋久藤吾、佐々木右内、水野武之輔、古藤直之丞、北村平八郎の9人が切腹、15人が永牢となりました。こうして佐幕派は壊滅し、柳生藩の最終的な藩論は「尊皇」に決しました。藩主・柳生俊益は、上洛して恭順の姿勢を示しました。

そのまた次に、佐賀の乱:佐賀城の戦いです。江藤新平ら反乱軍が、佐賀城の佐賀県庁に籠もる佐賀県権令・岩村高俊の部隊と戦闘し、政府軍が敗走しました。「佐賀の乱」が勃発し、政府からの鎮圧命令を受けた熊本鎮台でしたが、兵の中にも佐賀出身者が多く動揺が広がっていました。司令官・谷干城も援軍を待っての進軍を主張しましたが、新権令・岩村高俊の命もあり、陸海の2路に分けて部隊を出動させました。この岩村高俊は、かつて岩村精一郎と名乗っていた時、河井継之助の嘆願を「時間稼ぎであろう」と「小千谷談判」を決裂させて「北越戦争」を開戦させた人物です。2月18日に海路軍を率いた岩村高俊らが佐賀に入城すると、江藤新平らは政府の真意を確かめるため、山中一郎を代表として派遣しました。しかし、岩村高俊は「答える必要はない」と返答をしました。これにより、佐賀城攻撃が始まりました。同日夜に県庁が置かれた佐賀城に籠もる岩村高俊と、彼を護衛する山川浩(元会津藩家老・山川大蔵)少佐が率いる熊本鎮台部隊と交戦して大損害(3分の1が死亡)を与えて敗走させました。佐賀県大属・小出光照も戦死しました。「佐賀の乱」での政府軍の死者は大部分がこの戦闘におけるものでした。

最後に、韓国・大邱地下鉄放火事件です。2003年2月18日9時53分頃、大邱広域市地下鉄公社1号線の中央路駅構内地下3階のホームに到着した第1079列車(第18編成)の車内で、自殺願望の男が飲料用ペットボトルの中からガソリンを振り撒いて放火し、火災となりました。放火された車両は難燃材を用いて製造されていましたが、高熱で融解する材質が使われており、特に窓ガラスの支持等に使用されていたゴム材が溶けて部品が脱落し、火炎が編成全体に行き渡る結果となりました。火災発生時、地下鉄の指令センターは状況を正しく把握しておらず、防災管理能力も欠如しており、更に事件前に火災警報器の誤作動が相次いだ事から、今回も誤作動と思い込んだため、すぐには運転中止措置を取りませんでした。そのため、火災発生から3分後の9時56分、異常を知らされていなかった対向列車・第1080列車(第5編成)が中央路駅に入線しました。中央路駅は相対式ホームであるため、炎上している編成に隣接して、対向列車が停車する形となりました。指令センターは状況把握の間、運転抑止を行い、運転士に対しても何も指示を出しませんでした。その後、ようやく発車指令が出された時には、火災によって送電が停止していました。しかし、避難を提案する1080運転士に指令センターは再出発を指示するのみで、避難は指示しませんでした。既に駅構内の照明も落ちていました。この送電異常にも指令センターはすぐに気付きませんでした。事故に気づいていたのは警察と消防署でした。脱出してきた乗客が携帯電話で消防署に通報しました。駅近くにあった大邱中部消防署西門路派出所からも、駅から煙があがっているのが確認され、西門路派出所が指令センターに火災状況について知らせるという、事故を想定していないシステムであった事が露呈されました。火災は対向列車に延焼し、指令センターは火災から9分後の10時2分に、やむを得ず運転士に避難指令を出しました。運転士は即座に全てのドアを開けて乗客に避難するよう告げました。しかし、既に電気配線が焼けており、前2両のみの扉しか開放できませんでした。運転士は車内放送で乗客の避難を指示し、一度ドアを開放したまま助けを求めた乗客と共に避難しましたが、もう一度電車を動かせるかどうか試みるため運転室に戻りました。10時10分頃、ホームは停電していましたが、電車は動く事はありませんでした。運転士は携帯電話で指令センターに「人が死んでるのになんで何も対応してくれない」と抗議しましたが、指令センターはマスコンキーを抜いて電気を遮断して避難するように指示をしました。このため、電車を動かすのに必要なマスコンキーを抜いて避難、これによって電車のドアが閉まりました。対向列車の車両も出火元の車両と同一構造で、ドアには非常開放機構もありましたが、その使用法が明確に表示されていませんでした。最終的に運転士が操作した前2両と、偶然乗り合わせた地下鉄職員が手動で開放した4両目のみが脱出が可能で、残りの3両目、5両目、6両目の扉が開く事はありませんでした。窓からの脱出も不可能であるため、閉じ込められた乗客の多くが脱出できずに焼死しました。また、放火された列車の運転士は駅員と救助活動を行いましたが、火災の事実を22分間にわたって通報せず、これが対向列車を入線させた原因となりました。死傷者数は出火元の編成に乗っていた乗客よりも、対向列車に乗っていた乗客のほうが圧倒的に多く、対向列車の入線を防ぐ事ができれば事故の規模は小さくなっていたと言われています。最終的には死者192名、重軽傷者148名となりました。そのうちの142名が第1080列車で死亡しました。なお火元となった第1079列車では死者6名、負傷者12名でした。放火の実行犯である男性は、放火した後に怖くなってその場から逃亡しましたが、事件直後に逮捕されました。裁判で検察側は犯人に対して死刑を求刑しましたが、判決では心神耗弱が認められて無期懲役に減刑されました。犯人は収監され服役していましたが、2004年8月30日に持病だった脳卒中の後遺症で、死亡しました。大邱広域市地下鉄公社は事件の翌日に、安全対策をほとんど何も行わない状態のまま一部区間で運行を再開させたため、安全に対する意識が低すぎると非難を浴びました。さらに放火された列車と対向列車の運転士や駅員、指令員は上層部の指示で口裏を合わせるなど、組織ぐるみでの隠蔽を行いました。しかも上層部は全てが明るみに出ると、今度は2名の運転士と指令員に全ての罪を被せようとしました。こういった公社の無責任体質が事故を招いたと批判されました。実行犯以外にも、運転士2名と中央路駅駅員2名、指令センター職員3名、安全担当者1名の計8名が事故時の対応が不適切であったとして業務上重過失致死傷容疑で、地下鉄役員3名が無線の交信記録を改竄した証拠隠滅の罪で逮捕・起訴されました。以後、韓国の列車の内装材は不燃材への入れ替えを行いました。

今日の誕生日:上杉謙信、斎藤一、平沢貞通、ハンス・アスペルガー、加東大介、越路吹雪、陳舜臣、オノ・ヨーコ、佐田の山晋松、中村敦夫、奥村チヨ、鈴木康博(元オフコース)、浅田孟(シーナ&ザ・ロケッツ)、松原千明、影山ヒロノブ、マリアン、斎藤雅樹、馳星周、ロベルト・バッジョ、ねづっち(Wコロン)、高島彩、TETSUYA(EXILE、EXILE THE SECOND)、安藤サクラ、チャンミン(東方神起)、久松郁実、グラスワンダー

今日の記念日:エアメールの日、嫌煙運動の日、冥王星の日

今日の「今日訓」:本日は、1911年にインドで初めて飛行機によって郵便物が運ばれた事で「エアメールの日」、1978年、東京・四谷で「嫌煙権確立をめざす人々の会」が設立された事で「嫌煙運動の日」、1930年、アメリカ・ローウェル天文台のクライド・トンボーが冥王星を発見した事で「冥王星の日」となりました。
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