mixiユーザー(id:48382454)

2020年01月28日00:54

66 view

1月28日の日記

今日の出来事:1549年−長尾景虎(上杉謙信)が家督を継ぎ、春日山城へ入城、1868年−戊辰戦争:鳥羽・伏見の戦い(鳥羽・伏見奪還戦)、1868年−戊辰戦争:阿波沖海戦(日本初の軍艦による海戦)、1932年−第一次上海事変

今日は、長尾景虎(上杉謙信)が家督を継ぎ、春日山城へ入城です。1530年、越後守護代・長尾為景の4男・虎千代は春日山城で生まれました。母は越後栖吉城主・長尾房景の娘・虎御前、幼名の虎千代は寅年生まれのため、名付けられました。当時の越後国は内乱が激しい下剋上の時代で、父・長尾為景は戦を繰り返していました。越後守護・上杉房能を自害に追い込み、関東管領・上杉顕定を「長森原の戦い」で討ち取りました。次の守護・上杉定実を傀儡化して勢威を振るいましたが、越後国を平定できませんでした。虎千代の誕生直後に上条城主・上杉定憲が旧上杉家勢力を糾合し、長尾為景に反旗を翻しました。この兵乱に阿賀野川以北の揚北衆や長尾一族で上田長尾家当主・長尾房長が呼応しました。越後長尾家は蒲原郡三条を所領し、府内に居住した三条長尾家、古志郡を根拠地とする古志長尾家、魚沼郡上田庄を地盤とする上田長尾家の三家に分かれて、守護代の地位を争っていました。しかし、三条長尾家が守護代職を独占するようになりました。上田・長尾房長はそれに不満を抱いて、上杉定憲の兵乱に味方しました。長尾為景は「三分一原の戦い」で勝利しましたが、上田長尾家との抗争は以後も続きました。1536年に長尾為景は隠居し、虎千代の兄・晴景が家督を継ぎました。虎千代は城下の林泉寺に入門し、住職の天室光育の教えを受けました。1542年、長尾為景は病没しましたが、敵対勢力が春日山城に迫ったため、虎千代達は甲冑を着けて葬儀に臨みました。兄・長尾晴景に越後国をまとめる才覚がなかったため、守護・上杉定実が復権し、上田長尾家、上杉定憲、揚北衆らの守護派が主流派となって国政を牛耳りました。虎千代は1543年に元服し、長尾景虎と名乗ると長尾晴景の命を受け、古志郡司として春日山城を出立して三条城、次いで栃尾城に入りました。その目的は、中郡の反守護代勢力を討伐した上で長尾家領を統治し、さらに下郡の揚北衆を制圧する事でした。当時、越後では守護・上杉定実が伊達稙宗の子・時宗丸(伊達実元)を婿養子に迎える件で内乱が起こっていました。越後の国人衆も養子縁組に賛成派と反対派に二分されました。長尾晴景は病弱な事もあり、内紛を治める事ができませんでした。長尾景虎が元服した翌年の春、越後の豪族が謀反を起こしました。15歳の長尾景虎を若輩と軽んじた近辺の豪族は、栃尾城に攻め寄せました。しかし、長尾景虎は少数の城兵を二手に分け、一隊に傘松に陣を張る敵本陣の背後を急襲させました。混乱する敵軍に対し、さらに城内から本隊を突撃させて壊滅させる事に成功しました。こうして謀反を鎮圧する事で、初陣を見事に飾りました(栃尾城の戦い)。1545年、守護上杉家の老臣で黒滝城主・黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こしました。黒田秀忠は守護代・長尾晴景の居城である春日山城にまで攻め込みました。長尾景虎の兄・長尾景康らを殺害した後、黒滝城に立て籠もりました。長尾景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられました。総大将として攻撃を指揮し、黒田秀忠を降伏させました(黒滝城の戦い)。しかし、翌年の1546年に黒田秀忠が再び兵を挙げると、再び攻め寄せて猛攻を加えると、今度は許さずに黒田氏を滅ぼしました。これにより、長尾晴景に不満をもっていた越後の国人は、長尾景虎を擁立して晴景に退陣を迫ったため、晴景と景虎との関係は険悪となりました。1548年になると、長尾晴景に代わって景虎を守護代に擁立しようとの動きが盛んになりました。その中心的役割を担ったのが揚北衆の鳥坂城主・中条藤資と、北信濃の豪族で景虎の叔父でもある中野城主・高梨政頼でした。さらに栃尾城で景虎を補佐する本庄実乃、景虎の母・虎御前の実家である栖吉城主・長尾景信(古志長尾家)、与板城主・直江実綱、三条城主・山吉行盛らが同調し、景虎派を形成しました。これに対し、坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)や蒲原郡奥山荘の黒川城主・黒川清実らは晴景に付きました。しかし、守護・上杉定実の調停で、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退する事になりました。こうして、長尾景虎は春日山城に入り、19歳で家督を相続して守護代となりました。この2年後の1550年に、上杉定実が後継者を遺さずに死去したため、将軍・足利義輝は長尾景虎の越後国主の地位を認めました。

次に、戊辰戦争:鳥羽・伏見の戦い(鳥羽・伏見奪還戦)です。前日の戦いで5000の薩長連合軍に敗れた15000の旧幕府軍は再起を計るため、再び京都へ向けて行軍を開始しました。再び鳥羽・伏見両方面で旧幕府軍と薩長連合軍は激突しました。旧幕府軍は伏見方面の幕府歩兵第十一連隊(隊長・佐久間近江守信久)、十二連隊(隊長・窪田備前守鎮章)を鳥羽街道に回し、この二隊が先鋒となって薩長連合軍に攻めかかりました。伏見方面の薩長連合軍も、薩摩藩3個中隊と長州藩第六中隊(第二奇兵隊)を鳥羽方面の援軍に向かわせました。こうして、前日より増強された旧幕府軍と薩長連合軍が鳥羽方面で激突しました。旧幕府軍は、会津藩や「新選組」の奮戦で一時盛り返しましたが、指揮官・佐久間信久、窪田鎮章が戦死すると新政府軍の反撃を受けて富ノ森へ後退しました。薩長連合軍は追撃しましたが、富ノ森陣地の手前で大垣藩兵と淀から援軍に来た会津藩兵の伏兵に側面を突かれ、富ノ森陣地の「伝習隊」の射撃を受けると撤退しました。伏見方面では土佐藩兵4個小隊(山地忠七隊・吉松速之助隊・山田喜久馬隊・ニ川元介隊)と北村長兵衛の砲兵隊が加わり、薩長土連合軍として攻撃を開始しました。前日の戦いで拠点・伏見奉行所を失った旧幕府軍は一方的に撃破され、伏見を捨てて淀方面に撤退しました。この日、薩摩藩の大久保利通や長州藩の広沢真臣等の政治工作により、朝廷では仁和寺宮嘉彰親王に「錦旗」を与え、新政府軍が「官軍」となりました。午後から、薩長連合軍に「錦の御旗」が翻り、薩長連合軍は公式に新政府軍と認められて「官軍」となり、逆に旧幕府軍は「賊軍」となりました。これ以後、薩長連合軍は「新政府軍」となりました。この「錦の御旗」を見て新政府軍の将兵の士気は大いに上がり、逆に旧幕府軍の将兵の士気は大幅に下がった事により、戦況は新政府軍の有利に傾いていきます。

その次に、戊辰戦争:阿波沖海戦です。「鳥羽・伏見の戦い」が開始された1月27日、薩摩藩軍艦「春日丸」、薩摩藩運送船「翔凰丸」、「平運丸」が兵庫港に停泊し、鹿児島への帰帆準備を進めていました。榎本武揚が率いる旧幕府海軍の「開陽丸」は、大阪湾に停泊して海上より「鳥羽・伏見の戦い」を見守っていました。1月28日早朝、「平運丸」は明石海峡に、「春日丸」と「翔凰丸」は紀淡海峡に向けて出港しました。これを「開陽丸」が発見し、停船命令として空砲を撃ちましたが無視したため、臨戦態勢に入りました。「開陽丸」は「春日丸」と「翔凰丸」を追撃し、敵艦に計25発の砲撃を加えました。応戦した「春日丸」は計18発の砲撃を「開陽丸」に向けて放ちましたが、どちらも大きな損害には至りませんでした。「春日丸」の艦長・赤塚源六は、帰還が目的であったため戦闘を継続しませんでした。「開陽丸」よりも速力が高かったため、鹿児島へ無事逃げのびました。途中で機関が故障したため、由岐浦の岸に乗り上げた「翔凰丸」は拿捕される事を恐れて自焼しました。榎本武揚は、自焼した「翔凰丸」を見て「敵ながらあっぱれ」として讃えました。旧幕府軍はこの後、江戸に撤退したため、近畿の制海権は薩長新政府軍に移りました。この「阿波沖海戦」は、日本史上初の蒸気機関を装備した近代軍艦による海戦となりました。

最後に、第一次上海事変です。第一次上海事変は、1932年に中国の上海共同租界周辺で起きた日華両軍の衝突です。1931年9月18日の「柳条湖事件」を契機とし、満州を舞台として日華両軍は戦火を交えました(満州事変)。1932年、上海市郊外に蔡廷鍇の率いる十九路軍が現れました。十九路軍は3個師団からなり、兵力は3万人以上でした。日本は、防衛体制強化のため、上海に十数隻の艦隊を派遣しました。1月18日午後4時頃、中国人と見られる者によって日本人の日蓮宗僧侶の天崎天山、水上秀雄と信者3人が三友實業社付近で襲撃され、水上秀雄は死亡し、2名が重傷を負いました。中国の警察官の到着が遅れたため、犯人は逃亡しました(上海日本人僧侶襲撃事件)。日本人居留民がデモを行うとともに、1月20日に一部の日本人青年が三友實業社を襲撃しました。村井倉松総領事は呉鉄城上海市長に対して、事件についての陳謝と加害者処罰及び抗日団体の解散などを要求しました。これに対して、上海市長側は回答を延期した上で最終的に日本の要求を受け入れました。ところが、呉市長が日本の要求を容れた事を聞くと、憤慨した多数の学生等が大挙して市役所を襲撃しました。そのため、1月26日には中国当局の戒厳令布告、中国人地区全域に土嚢と有刺鉄線のバリケードの構築、外国人住民に租界内への避難勧告が出されました。翌1月27日、日本を含む列国は協議を行い、共同租界内を列国で分担して警備する事を決めました。1月28日午後に最初の軍事衝突が発生し、翌日にかけての夜間まで戦闘が続きました。軍事衝突発生を受けて、日本海軍は第3艦隊 (司令長官・野村吉三郎中将) の巡洋艦4隻(那智など)、駆逐艦4隻、航空母艦2隻(加賀・鳳翔)及び陸戦隊約7000人を上海に派遣し、1月31日に到着します。更に、日本政府(犬養毅内閣)は2月2日に金沢第9師団(師団長・植田謙吉陸軍中将)及び混成第24旅団の派遣を決定しました。これに対して、国民党軍は第87師、第88師、税警団、教導団を第5軍(指揮官・張治中)として、2月16日に上海の作戦に加わりました。2月18日に日本側の第9師団長は、更なる軍事衝突を避けるために、列国租界から中国側へ19路軍が20キロメートル撤退する事を要求しました。しかしこれを19路軍を率いる蔡廷鍇が要求を拒否したため、2月20日に日本軍は総攻撃を開始しました。日華両軍の戦闘は激烈を極めました。日本軍は大隊長・空閑昇陸軍少佐が重傷を負い、中国軍の捕虜となって南京へ連行されました。3月に少佐は日本軍に送還されましたが、3月28日に戦場跡へ戻って自決しました。また、混成第24旅団の工兵ら「肉弾三勇士」の戦死などがありました。2月24日に日本陸軍は善通寺第11師団及び宇都宮第14師団等を以て、上海派遣軍(司令官・白川義則大将、参謀長・田代皖一郎少将)を編成して上海へ派遣しました。3月1日に第11師団が国民党軍の背後に上陸する「七了口上陸作戦」で、蔡廷鍇が率いる19路軍は退却を開始しました。こうして、日本軍は3月3日に戦闘の中止を宣言しました。一連の戦闘で、日本側の戦死者は769名、負傷2322名でした。中国軍の損害は1万4326人でした。36日間の戦闘によって上海全市で約15億6千元の損害を被りました。中国側住民の死者は6080人、負傷2000人、行方不明1万400人と発表されました。また、この戦闘は空母が初めて実戦に参加した戦闘となりました。

今日の誕生日:徳川光貞、徳川家重(江戸幕府第9代将軍)、勅使河原宏、二谷英明、小松左京、川崎のぼる、福留功男、市村正親、小林源文、三浦友和、塩沢兼人、ブルーノ・メツ、ニコラ・サルコジ、新庄剛志、高橋茂雄(サバンナ)、佐藤琢磨、松尾陽介(ザブングル)、川畑要(CHEMISTRY)、遠藤保仁、長田庄平(チョコレートプラネット)、乙葉、星野源、藤本綾、宮間あや、ミスタープロスペクター

今日の記念日:衣類乾燥機の日、コピーライターの日、宇宙からの警告の日、逸話の日、寒の土用丑の日

今日の「今日訓」:本日は、1956年に日本で公布された「万国著作権条約」で、「(C)マーク」が制定された事で「コピーライターの日」、1986年1月28日、アメリカ合衆国のスペース・シャトル「チャレンジャー号」が打ち上げから73秒後に分解し、7名の乗組員が犠牲になった事故にちなみ「宇宙からの警告の日」、「いるい(1)ふん(2)わり(8)」の語呂合わせで「衣類乾燥機の日」、「い(1)つ(2)わ(8)」の語呂合わせで「逸話の日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する