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2020年01月27日00:16

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1月27日の日記

今日の出来事:1416年−上杉禅秀の乱、1868年−戊辰戦争開始:鳥羽・伏見の戦い(開戦)、1869年−箱館戊辰戦争:蝦夷共和国誕生

今日は、上杉禅秀の乱です。上杉禅秀の乱は、1416年に関東地方で起こった戦乱です。前関東管領・上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱です。禅秀とは上杉氏憲の法名です。「鎌倉府」は、南北朝時代に室町幕府が関東統治のために設置した機関で、「鎌倉公方」は「関東管領」によって補佐され、「管領職」は上杉氏による世襲状態でした。1409年に3代鎌倉公方・足利満兼が死去すると、満兼の子・持氏が新公方となりました。当初、山内上杉家・上杉憲定が関東管領の地位にありましたが、1411年に上杉憲定が失脚すると、代わりに山内上杉家と対立関係にあった犬懸上杉家・上杉禅秀が関東管領に就任しました。上杉禅秀は足利持氏の叔父・足利満隆、満隆の養子で持氏の弟・足利持仲らに接近して、若い足利持氏に代わって鎌倉府の実権を掌握しようとしました。ところが、1415年の評定で上杉禅秀と足利持氏が対立すると、上杉禅秀は関東管領を更迭されました。後任の管領として山内上杉家・上杉憲基(憲定の子)が管領職につきました。上杉禅秀は足利満隆・持仲らと相談し、禅秀の婿にあたる岩松満純、那須資之、千葉兼胤、長尾氏春、宇都宮持綱、大掾満幹、山入与義、小田持家、三浦高明、武田信満、結城満朝、蘆名盛政や地方の国人衆なども加えて、翌1416年に足利持氏への反乱を起こしました。足利満隆は御所近くの宝寿院に入って挙兵し、上杉禅秀と共に足利持氏・上杉憲基の拘束に向かいましたが、足利持氏らは家臣に連れられて脱出していました。その後、上杉禅秀と足利満隆は合流した諸氏の兵と共に鎌倉を制圧下に置きました。駿河の今川範政から京都に一報が伝えられました。将軍・足利義持が因幡堂参詣のために不在であったため幕府に詰めた諸大名は、夜に足利義持が帰還するのを待って対応を決める事としました。その後、鎌倉を脱出した足利持氏が駿河の今川範政の元に逃れて幕府の援助を求めている事を知ると、足利義持は諸大名とともに会議を開きました。義持の叔父・足利満詮の進言もあり、足利持氏の救援に乗り出す事になりました。幕府の命を受けた今川範政・上杉房方・小笠原政康・佐竹氏・宇都宮氏の兵が足利満隆・上杉禅秀討伐に向かいました。このため、上杉禅秀らは駿河を攻めましたが、今川氏に敗れました。さらに江戸氏・豊島氏ら武蔵の武士団が呼応して、武蔵から上杉禅秀の勢力を排除しました。翌1417年の「世谷原の戦い」で上杉禅秀軍が江戸・豊島連合軍を破りましたが、その間隙を突いて今川軍が相模に侵攻しました。上杉禅秀は防戦しましたが、配下の武将達が次々と離反するに及び遂に力尽き、1月27日に鎌倉・鶴岡八幡宮の雪ノ下で上杉禅秀や足利満隆・持仲、上杉憲方、上杉憲春らは自害しました。この乱で敗北した事により、犬懸上杉家は滅亡しました。また、武田信満は追討軍によって自領・甲斐まで追い詰められて自害、岩松満純は捕らえられて斬首されました。

次に、戊辰戦争開始:鳥羽・伏見の戦い(開戦)です。薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作を行ったため、庄内藩による「江戸薩摩藩邸焼討事件」が起こりました。この報が大阪に届くと、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まりました。1868年1月25日、徳川慶喜は「討薩表」を発しました。1月26日から27日にかけて「慶喜公上京の御先供」という名目で事実上、京都封鎖を目的とした出兵を開始しました。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵や「新選組」などは伏見市街へ進みました。慶喜出兵の報告を受けて新政府では、緊急会議が召集されました。政府参与の大久保利通は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張しましたが、政府議定の松平春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり、政府は無関係を決め込むべきと反対を主張しました。会議は紛糾しましたが、政府議定・岩倉具視が徳川征討に賛成した事で会議の大勢は決しました。27日夕方には、下鳥羽や小枝橋付近で街道を封鎖する薩摩藩兵と大目付・滝川具挙の問答から軍事的衝突が起こりました。滝川具挙は、徳川慶喜の無罪を訴えるため、薩摩藩を訴える「討薩表」を持って旧幕府軍の先鋒を率いて京都に向かう途中、鳥羽の関所を守る薩摩藩士・椎原小弥太と問答の末に薩摩藩陣地から発砲されました。この発砲の瞬間から、「鳥羽・伏見の戦い」が始まりました。この方面には、桑名藩兵、大垣藩兵、浜田藩兵、「見廻組(佐々木只三郎指揮)」らがいました。鳥羽方面での銃声が聞こえると伏見(御香宮)でも衝突がはじまり、戦端が開かれました。この時の京都周辺の兵力は、新政府軍の5000名(主力は薩摩藩兵)に対して旧幕府軍は15000名を擁していました。鳥羽では総指揮官・竹中重固の不在や滝川具挙の逃亡などで混乱し、旧幕府軍は狭い街道での縦隊突破を図るのみで優勢な兵力を生かしきれず、新政府軍の弾幕射撃によって前進を阻まれました。その後、滝川具挙は淀城に逃げ込み、幕府軍の指揮を執ります。伏見では奉行所付近で幕府歩兵隊、会津藩兵、土方歳三が率いる「新選組」の兵が新政府軍(薩摩小銃隊・約800名)に敗れ、奉行所は炎上しました。会津藩の大砲奉行兼軍事奉行・林権助が負傷し、後に死亡します。「新選組」の諸士取扱役兼監察方及び撃剣師範・吉村貫一郎が戦死しました。山本八重の兄・覚馬は、京都で薩摩藩に捕えられて幽閉されました。この幽閉中に建白書「管見」を口述筆記します。「管見」は、山本覚馬が新政府に宛てて出した政治、経済、教育等22項目にわたり、将来の日本のあるべき姿を論じた建白書です。自分の見解(管見)と謙称しています。この「管見」を薩摩藩主に上程し、これを読んだ小松帯刀、西郷隆盛らは敬服します。新政府の岩倉具視などにも認められたため、幽閉中も優遇されました。この時、山本覚馬は失明していたため、目の治療を受けたりしました。旧幕府軍も会津藩兵が長州藩第二中隊参謀・後藤正則を討ち取り、土佐藩の上田宗児が戦死するなど戦果を挙げました。こうして、1年5ヵ月にわたって繰り広げられる事になる、日本史上最大の内戦「戊辰戦争」がはじまりました。

最後に、箱館戊辰戦争:蝦夷共和国誕生です。15代将軍・徳川慶喜が「大政奉還」を行って江戸幕府が消滅し、山岡鉄舟の斡旋により新政府軍の大総督府参謀・西郷隆盛と徳川家陸軍総裁・勝海舟の会談で「江戸城無血開城」が決定しました。徳川慶喜の駿府改め静岡への下向を見届けた海軍副総裁・榎本武揚は旧幕臣の保護と北辺防備を目的として、品川沖から「開陽丸」を旗艦に8隻の軍艦を率いて江戸を脱出し、蝦夷地に向かいました。途中、仙台で「会津戦争」で敗走した「伝習隊」、「旧新選組」や「彰義隊」の残党を吸収して北上しました。蝦夷地・鷲ノ木に上陸すると各地を平定、五稜郭を攻略して府知事・清水谷公考を敗走させると、蝦夷全島を支配下に置きました。最初に「共和国(リパブリック)」という表現を使ったのは、英仏軍艦艦長に随行して榎本武揚と会見した英国公使館書記官・アダムズでした。こうして、蝦夷島政府の体裁を整えるため、日本で初めて「公選入札」が行われました。旧幕府脱走軍は榎本武揚が指導者になっていましたが、元藩主や元幕府老中といった大名クラスも参加し、君臣の関係が複雑でした。また「陸軍派」と「海軍派」のグループがあり、「陸軍派」の中でも「彰義隊」と「小彰義隊」等の小グループがあり、全体としてまとまっていませんでした。そこで、アメリカなどの政治制度を模範に、日本で初めて「公選入札」が行われる事になりました。投票に参加したのは、旧幕府脱走軍の指揮役(士官)クラス以上で、下士官・兵卒クラスは除外、箱館住民も参加していません。こうして、1869年1月27日の政府誕生と同時に、日本初の「入札(選挙)」が行われました。その結果、榎本武揚が最大投票を得ました。この「入札」の結果を参考にして、主要役職が以下のように決定されました。
総裁:榎本武揚
副総裁:松平太郎
海軍奉行:荒井郁之助
陸軍奉行:大鳥圭介
陸海裁判官:竹中重固、今井信郎
陸軍奉行並:土方歳三
箱館奉行:永井尚志
松前奉行:人見勝太郎
江差奉行:松岡四郎二郎、小杉雅之進
開拓奉行:澤太郎左衛門
会計奉行:榎本道章、川村録四郎
海軍頭:松岡磐吉
海軍頭並:甲賀源吾、根津勢吉、小笠原賢蔵、古川節蔵、浅羽甲次郎
歩兵頭:本多幸七郎、古屋佐久左衛門
歩兵頭並:滝川充太郎、伊庭八郎、大川正次郎、松岡四郎次郎、春日左衛門、星恂太郎、天野新太郎、永井蠖伸斎
砲兵頭並:関広右衛門、中島三郎助
工兵頭並:吉沢勇四郎、小菅辰之助
器械頭並:宮重一之助、渋沢成一郎
旧幕府軍は陸軍と海軍に分かれ、以下のような組織となりました。
陸軍(陸軍奉行:大鳥圭介、陸軍奉行並:土方歳三)
第一列士満:第一大隊(瀧川充太郎、4個小隊、伝習士官隊、小彰義隊、神木隊)、第二大隊(伊庭八郎、7個小隊、遊撃隊、新選組、彰義隊)
第二列士満(本田幸七郎):第一大隊(大川正次郎、4個小隊、伝習歩兵隊)、第二大隊(松岡四郎次郎、5個小隊、一聯隊)
第三列士満:第一大隊(春日左衛門、4個小隊、春日隊)、第二大隊(星恂太郎、4個小隊、額兵隊)
第四列士満(古屋佐久左衛門):第一大隊(永井蠖伸斎、5個小隊、衝鋒隊)、第二大隊(天野新太郎、5個小隊、衝鋒隊)
砲兵隊:関広右衛門
工兵隊:小管辰之助、吉沢勇四郎
器械方:宮重一之助
病院掛:高松凌雲
海軍(海軍奉行:荒井郁之助)
開陽(澤太郎左衛門、1868年12月28日に江差沖で沈没)
回天(甲賀源吾)
第二回天(小笠原賢蔵)
蟠竜(松岡磐吉)
千代田形(森本弘策)
神速(西川真蔵、1868年12月28日に江差沖で沈没)
輸送船:太江丸、長鯨丸、鳳凰丸、長崎丸、美賀保丸、回春丸
旧幕府軍参加諸隊は、以下です。
幕臣:彰義隊(隊長:菅沼三五郎、185人)、新選組(隊長:森常吉、150人)、小彰義隊(隊長:渋沢成一郎、54人)、遊撃隊(隊長:伊庭八郎、120人)、陸軍隊(隊長:春日左衛門、160人)、伝習士官隊(隊長:瀧川充太郎、160人)
幕府歩兵:伝習歩兵隊(隊長:本多幸七郎、225人)、衝鋒隊(隊長:古屋佐久左衛門、400人)、一聯隊(隊長:松岡四郎次郎、200人)
幕府砲兵:砲兵隊(隊長:関広右衞門、170人)
幕府工兵:工兵隊(隊長:吉沢勇四郎、70人)
会津藩:会津遊撃隊(隊長:諏訪常吉、70人)
仙台藩:額兵隊(隊長:星恂太郎、252人)、見国隊(隊長:二関源治、400人)
高田藩:神木隊(隊長:酒井良助、70人)
盛岡藩:杜陵隊(隊長:伊藤善次、75人)
その他諸隊:士官付属・事務方など100人、海軍800人
1867年から横浜の大田陣屋で幕府「伝習隊」の教練をしていた、フランス軍事顧問団から副隊長のジュール・ブリュネ砲兵大尉ら5人がフランス軍籍を脱走して「蝦夷共和国」に参加しました。その他、海軍からの脱走者2人、軍歴を持っていた横浜在住の民間人、合計10人のフランス人が参加しました。ジュール・ブリュネは陸軍奉行・大鳥圭介の補佐役となりました。4個「列士満」はフランス軍人(フォルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエ)を指揮官としていました。また、海軍の2人と元水兵の1人は、「宮古湾海戦」に参加しました。フランス軍人の通訳は、横浜仏語伝習所でフランス語を学んだ田島金太郎らが担当しました。このようにして「蝦夷共和国」が誕生しました。

今日の誕生日:ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、河井継之助、ジョン万次郎、ルイス・キャロル、東郷平八郎、エドワード・J・スミス、 小山明子、清水ミチコ、金賢姫、三田寛子、小山田圭吾(元フリッパーズ・ギター)、yasu(Janne Da Arc)、安貞桓、雛形あきこ、井本貴史(ライセンス)、森山愛子、ダニエル太郎、穴井千尋(元HKT48)、上白石萌音、ファインモーション

今日の記念日:国旗制定記念日、ホロコースト犠牲者を想起する国際デー、求婚の日

今日の「今日訓」:本日は、1870年に商船規則(太政官布告第57号)が定められ、日本の国旗(日章旗)のデザインの原型が決まった事で「国旗制定記念日」、1945年にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所が解放された事で「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」、1883年に中尾勝三郎と言う人物が生涯の伴侶を求めるため、新聞に求婚広告を出しました。これが日本の新聞紙史上初めての求婚広告と言う事で「求婚の日」となりました。
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