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2020年01月25日00:09

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1月25日の日記

今日の出来事:1077年−カノッサの屈辱、1573年−三方ヶ原の戦い、1682年−江戸でお七火事が発生

今日は、カノッサの屈辱です。カノッサの屈辱は、聖職叙任権をめぐってローマ教皇・グレゴリウス7世と対立していた神聖ローマ皇帝・ハインリヒ4世が、1077年1月25日から3日間、教皇による破門の解除を求め、北イタリアのカノッサ城に赴いて許しを願った事です。ハインリヒ4世は北イタリアでの影響力を増すために、自分の子飼いの司祭たちをミラノ大司教、フェルモやスポレトの司教などに次々と任命しました。ローマ教皇は司教の任命権(叙任権)が君主ではなく教会にある事を通達し、対立司教の擁立中止を求めましたが、ハインリヒ4世は聞き入れませんでした(叙任権闘争)。グレゴリウス7世がローマ皇帝の破門と皇帝権の剥奪をほのめかしたため、ハインリヒ4世は激怒し、1076年1月に独自の教会会議を開いてローマ教皇の廃位を宣言しました。ここに至ってローマ教皇も、1076年2月にハインリヒ4世の破門と王位の剥奪を宣言しました。かねてからハインリヒ4世への敵対意識の強かったザクセン公をはじめドイツの諸侯たちは、これを機会にハインリヒ4世に叛旗を翻しました。1077年2月にアウクスブルクで会議を開いて新しいドイツ王を決める事を決定し、権威の付与者にして仲裁者としてローマ教皇を会議へ招聘しました。諸侯はハインリヒ4世が教皇に謝罪しなければ、後継王が決まらずとも王位を空位とみなす事を決議しました。ここにいたってハインリヒ4世は完全に手詰まりとなり、ローマ教皇に使節を送って許しを乞いました。ローマ教皇がこれを拒絶したため、ローマ皇帝は自らローマ教皇に謝罪する事になりました。彼はローマ教皇がアウクスブルクでの会議に参加する前に贖罪するため、北イタリアへ向かいました。ハインリヒ4世は、会議に向かう途中の教皇が、トスカーナ女伯・マティルデの居城・カノッサ城に滞在している事を知りました。1077年1月、突然現れたハインリヒ4世にローマ教皇は戸惑い、捕縛を恐れて城から出ようとしませんでした。ハインリヒ4世は武器をすべて置き、修道士の服装に身を包むと城の前でローマ教皇に赦しを求めました。ハインリヒ4世は雪の中、3昼夜におよびカノッサ城の前に立ちつくしました。これに対してローマ教皇はついに破門を解く旨を伝えると、ハインリヒ4世はローマへ戻りました。ハインリヒ4世はドイツに戻ると直ちに反対派の諸侯を制圧し、王権を確立しました。その後、再び叙任権をめぐって両者は争いましたが、今度はハインリヒ4世が軍勢を率いてイタリアに乗り込んでローマを囲みました。ローマ教皇は辛くも包囲を脱出し、1085年にイタリア南部のサレルノで客死しました。「叙任権闘争」は、ドイツ南部のヴォルムスで叙任権はローマ教皇にある事を定めた協約(ヴォルムス協約)が成立する、1122年まで続きました。この事件は「叙任権闘争」、ローマ教皇対神聖ローマ皇帝の長期抗争における一事件ですが、この後ローマ教皇庁では皇帝ですら教皇に跪いたと、教皇権の優位性の宣伝に使われました。ヨーロッパでは現在でも「カノッサの屈辱」は「強制されて屈服、謝罪すること」の慣用句として用いられています。

次に、三方ヶ原の戦いです。三方ヶ原の戦いは、1573年1月25日に遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった、武田信玄軍2万7000人と徳川家康軍1万1000人(織田信長からの援軍3000人を含む)との間で行われた戦いです。信玄の「西上作戦」の過程で行われた戦いで、徳川家康が大敗した事で有名です。1571年、室町幕府15代将軍・足利義昭は、織田信長討伐令を出しました(第二次信長包囲網)。それに応える形で武田信玄は翌1572年に、徳川領国である遠江国・三河国に大規模な侵攻を行いました。北条氏康の死をきっかけに北条氏は武田氏と和睦して「甲相同盟」が復活し、後顧の憂いを絶った武田信玄は「西上作戦」を開始しました。武田軍は兵を3つに分けて、遠江国・三河国・美濃国に同時侵攻を行いました。山県昌景の軍5000人は信濃国・諏訪より東三河に侵攻し、徳川氏の支城「武節城」を攻略して南進、東三河の重要な支城「長篠城」を攻略した後、遠江国に侵攻しました。秋山信友の軍5000人は、山県隊と同時に居城「高遠城」より東美濃に侵攻し、織田氏の主要拠点「岩村城」を包囲して攻略しました。武田信玄が率いる本隊2万2000人(うち北条氏の援軍2000人含む)は、甲府より出陣して山県昌景隊と同じく諏訪へ迂回した後、青崩峠から遠江国に侵攻し、犬居城で馬場信房隊5000人を別働隊として西の「只来城」に向かわせた後、南進して要所「二俣城」へ向かいました。総計3万人の軍勢は、当時の武田氏の最大動員兵力で、まさに総力戦でした。「天方城」、「一宮城」、「飯田城」、「格和城」、「向笠城」、「匂坂城」と次々と攻略しました。この侵攻は武田軍の強さを証明するかのように凄まじく、本来小さな支城1つ落とすのにも1ヶ月近くかかるところを、平均3日で次々と落としていきました。一方の徳川氏の最大動員兵力は1万5000人、三河国には山県昌景隊が侵攻していたため、遠江国防衛には8000人余りしか動員できませんでした。さらに盟友・織田信長は「信長包囲網」による近畿各地の反乱鎮圧に追われ、「岩村城」への支援すらできませんでした。そのため、武田軍の三方からの同時侵攻の前に成す術がありませんでした。
「一言坂の戦い」:武田軍の侵攻が始まると、北遠江の有力国人・天野景貫は即座に武田信玄に寝返り、居城・犬居城を明け渡して侵攻の先導役を務めました。犬居城で信玄は馬場信房に5000の兵を預けて西の只来城に向かわせ、そのまま南進して要所・二俣城へ向かいました。一方、山県昌景隊は、すでに降伏していた奥三河の山家三方衆を加えて、遠江へ転進して信玄本隊との合流を図っていました。二俣城は、徳川氏の本城・浜松城と支城・掛川城、高天神城を結ぶ要所で、徳川氏にとって遠江支配の要でした。天竜川を渡らせたくない徳川家康は、本多忠勝・内藤信成を偵察に先行させ、自身も3000の軍勢を率いて出陣し、天竜川を渡河しました。しかし、武田軍は家康の予想よりも遥かに早く進軍していました。先行していた本多忠勝・内藤信成が率いる偵察隊は、武田の先発隊と遭遇しました。偵察隊はすぐに退却しましたが、武田軍は素早い動きで徳川軍を追撃し、太田川の支流・三箇野川や一言坂で戦いが始まりました。こうして開戦しましたが、家康は撤退を決めました。本多忠勝と大久保忠佐は徳川本隊と内藤信成隊を逃すために殿を務め、一言坂の下という不利な地形に陣取りました。急な戦いで陣形も整わない本多忠勝隊を、武田軍先鋒・馬場信房隊は容赦なく突撃し、3段構えの陣形のうちの第2段まで打ち破りました。また、信玄の近習・小杉左近は本多忠勝隊の退路を阻むために、一言坂のさらに下に先回りし、鉄砲を撃ちかけました。これに対して本多忠勝は大滝流れの陣をとり、坂の下で待ち受ける小杉隊に敵中突破して逃走を図りました。これは無謀な突撃で、本多忠勝は討ち死にを覚悟しての敵中突破でした。小杉左近はこれを迎え撃たずに道を空けるように指示し、本多隊を見逃しました。この時、本多忠勝は「武士の情けを心得ている者とみた、お名前を」と問いました。これに対して「小杉左近と申す乱心者、はようわしの気が変わらぬうちにいきなされ!」と答えました。こうして本多忠勝の働きによって家康が率いる本隊は無事に天竜川を渡り切る事に成功し、撤退戦を無事に完了させました。この「一言坂の戦い」の後、「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える狂歌・落書が登場しました。これは小杉左近が書いたものでした。この落書で本多忠勝の武名は近隣に轟いたのでした。
「二俣城の戦い」:「一言坂の戦い」で、徳川家康は武田信玄の前に大敗を喫しました。家康を破った信玄は、二俣城を包囲しました。二俣城は浜松城と掛川城・高天神城の中間地点に位置する遠江の諸城の中で、特に重要な拠点でした。武田軍が補給路を確保するためにも、徳川軍の連絡網を断ち切るためにも、この城は落とす必要がありました。二俣城は天竜川と二俣川が合流する地点の丘陵上に築かれた城で、この川が天然の堀を成していた堅城でした。城将・中根正照、副将・青木貞治で、城兵の数は1200人でした。武田軍は馬場信房軍と信玄本隊が合流して、2万7000人の大軍となりました。中根正照は徳川家康と同盟者・織田信長の後詰(援軍)を期待し、信玄の降伏勧告を拒否しました。このため、武田軍の攻撃が開始されました。しかし、二俣城の攻め口は北東の大手口しかありませんでした。その大手口は急な坂道になっていたため、攻め上ろうとする武田軍の進行速度は遅く、次々と矢弾の餌食となっていきました。このため、武田信玄は力攻めで二俣城を落とす事は無理と判断し、水の手を絶つ方法を考えました。二俣城は井戸が無く、天竜川沿いの断崖に井楼を設けて、釣瓶で水を汲み上げていました。そこで信玄は大量の筏を作らせて天竜川の上流から流させ、筏を井楼の柱に激突させて破壊するという策略を実行に移したのでした。この作戦は見事に成功し、大量の筏に激突された井楼の柱は折れて崩れ落ちてしまい、水の手は絶たれました。信玄は水の手を絶った上で、開城を迫りました。中根正照は万一に備えて桶に雨水を貯めるなどの工夫をしていましたが、1200人の人数では持ち堪えられませんでした。そのため、中根正照は信玄に降伏・開城して浜松城に落ちていきました。こうして、二俣城は信玄の手に落ちました。二俣城攻略は、武田氏と徳川氏の優劣を決定的なものとしました。これにより、日和見を決め込んでいた飯尾氏・神尾氏・奥山氏・天野氏・貫名氏などの地侍のほとんどが信玄に従う事を表明しました。こうして信玄の次の標的は、家康の居城・浜松城となりました。
「三方ヶ原本戦」:二俣城落城前に、織田信長が派遣した佐久間信盛・滝川一益・平手汎秀・林秀貞・水野信元ら3000人の支援を得た徳川軍は、武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると見て、家康は籠城戦に備えました。武田軍は、二俣城攻略から3日後に二俣城を発して、遠州平野内を西進しました。浜名湖に突き出た庄内半島の先端に位置する堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町)を標的とした進軍で、浜松城を素通りして三方ヶ原台地を通過しようとしていました。これを知った徳川家康は家臣の反対を押し切って、三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、浜松城から追撃に出ました。夕刻には三方ヶ原台地に到着すると、武田軍は「魚鱗の陣」を布いて待ち構えていました。徳川軍は「鶴翼の陣」をとって戦闘が始まりました。しかし、武田軍に対して兵力・戦術面ともに劣る徳川軍に勝ち目はなく、わずか2時間の戦闘で甚大な被害を受けて敗走しました。武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍は死傷者2000人のほか、鳥居忠広、成瀬正義といった有力な家臣を始め、先の「二俣城の戦い」での恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治や、織田軍の平手汎秀(信長の傅役・平手政秀の子)といった武将を失いました。信長の勘気を被ったため勘当され、徳川家康のもとに身を寄せていた4人(長谷川橋介・山口飛騨守・加藤弥三郎、佐脇良之)も討ち死にしました。このように野戦に持ち込んだ事を含めて、全て武田軍の狙い通りに進みました。徳川軍の一方的な敗北で、徳川家康も討ち死に寸前まで追い詰められました。家康の兜と馬を以って武田勢に突入した夏目吉信、家康から軍配を奪い取って一人で敵中に突入した鈴木久三郎らの身代わりもあって、成瀬正一(正義の次男)、日下部定好、小栗久次、島田重次といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰りました。この時の徳川家康は恐怖のあまり脱糞したとも言われ、後の「伊賀越え」と並んで人生最大の危機となりました。浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる「空城の計」を行いました。そして、有名な顰像(しかみ像)を描かせると、湯漬けを食べてそのまま鼾を掻いて眠り込みました。この苦渋の表情の肖像画は自分に対する戒めとして描かせ、この後に熱くなった自分を抑えるために絵を見て自重したと言います。浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、「空城の計」によって警戒心を煽られて城内に突入できず、そのまま引き上げました。
「犀ヶ崖の戦い」:祝田で敗北して浜松城に逃げ帰ったその夜、一矢報いようと考えた徳川家康は、大久保忠世、天野康景らに命令し、浜松城の北方約1キロにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲させました。この時、混乱した武田軍の一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落しました。徳川軍が崖に誘き寄せるために崖に布を張って橋に見せかけ、これを誤認した武田勢が殺到して崖下に転落するなど、多数の死傷者を出しました。
この後、武田軍は東三河へ侵攻し、徳川軍にとって東三河防衛の要所・野田城へ向かいます。この「野田城の戦い」が武田信玄最後の戦いとなるのです。

最後に、江戸でお七火事が発生です。お七火事は「天和の大火」とも呼ばれます。1月25日に江戸・駒込の大円寺から出火し、正午頃から翌朝5時頃まで延焼し続けました。死者は3500名余と言われています。この大火により焼け出された江戸本郷森川宿の八百屋・八兵衛は、檀那寺であった吉祥寺に避難しました。そこで八兵衛の16歳になる娘・お七は、寺の小姓と恋仲になりました。やがて新居が再建され、お七一家はその寺を引き払いました。しかし、お七は寺小姓への想いが募り、もう一度火事が起きたら会えるかも知れないと思うようになりました。そして、寺小姓に会いたい一心で、お七は自宅に放火しました。火はすぐに消し止められ、ぼやに止まりましたが、お七は捕縛されて鈴ヶ森刑場で火炙りの刑に処せられました。この事から「お七火事」と呼ばれるようになりました。

今日の誕生日:加藤高明(第24代内閣総理大臣)、北原白秋、火野葦平、池波正太郎、西村晃、石ノ森章太郎、松本零士、エウゼビオ、江守徹、山口暁、さとう宗幸、森田芳光、北野誠、キム・ヨンジャ、JILL(PERSONZ)、t−kimura(元m.o.v.e)、千原靖史(千原兄弟)、竹原慎二、シャビ、櫻井翔(嵐)、今野泰幸、皆藤愛子、ロビーニョ、多部未華子、関口メンディー(EXILE、GENERATIONS from EXILE TRIBE)、佐藤大樹(EXILE)、溝手るか(元SUPER☆GIRLS)、ファン・ディアス

今日の記念日:主婦休みの日、美容記念日、日本最低気温の日、石ノ森章太郎生誕記念日、ホットケーキの日、とちぎのいちごの日

今日の「今日訓」:本日は、年3回(1月25日、5月25日、9月25日)の「主婦休みの日」です。日付は年末年始、ゴールデンウィーク、夏休みなどの主婦が忙しい時期の後に設定されました。「1.家事や育児に頑張る主婦がリフレッシュできる日。2.家族が元気になってニッポンも元気になる日。3.夫や子どもが家事にチャレンジする日&パパと子どもが一緒に行動する日。」を主旨としています。1902年、北海道の旭川市でマイナス41度という日本の気象観測史上最低の気温が記録された事により「日本最低気温の日」、その日にホットケーキを食べて暖まって欲しいから「ホットケーキの日」、明治・大正・昭和・平成の4つの時代を通して、見かけだけではなく心も体も美しくなる事が美容の本来の意味であると日本で最初に提唱し、健康食という概念をつくり、健康と美容の両立の概念を広めた美容家・メイ牛山の1911年の誕生日である事から「美容記念日」、日本の漫画界に大きな功績を残し、今もなお多くの漫画家やクリエーターに影響を与え続けている漫画家・石ノ森章太郎の1938年の誕生日で「石ノ森章太郎生誕記念日」、いちごの流通の多い1月から3月の中の「と(10)ちぎのいちご(15)」を10+15=25で、1月25日、2月25日、3月25日が「とちぎのいちごの日」となりました。
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