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2020年01月24日00:07

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1月24日の日記

今日の出来事:1336年−南北朝動乱:箱根・竹ノ下の戦い、1779年−平賀源内獄死、1842年−天保の改革:株仲間解散、1942年−第二次世界大戦:バリクパパン沖海戦、1972年−グアム島で元日本兵の横井庄一を発見

今日は、南北朝動乱:箱根・竹ノ下の戦いです。箱根・竹ノ下の戦いは、南北朝時代の1336年1月24日に、足利尊氏と新田義貞の間で行われた合戦です。後醍醐天皇が建武政権に反旗を翻した足利尊氏を討つために、新田義貞を派遣しましたが失敗し、建武政権は崩壊しました。鎌倉幕府を打倒して成立した建武政権でしたが、現実離れした政策の数々に武士は不満を募らせました。1335年に発覚した西園寺公宗と北条泰家の陰謀は失敗に終わりましたが、これをきっかけに全国の旧北条氏所領で北条残党の蜂起が相次ぎました。信濃で諏訪氏の支援で蜂起した北条時行は、各地の反建武政権勢力を吸収し、足利尊氏の弟・直義を追い出して鎌倉を占領する勢いを見せました(中先代の乱)。これに対し、足利尊氏は北条時行を討つために自分を派遣するように後醍醐天皇に要請しましたが、 尊氏が自立する事を怖れた後醍醐天皇は許可しませんでした。 しかし、足利尊氏は無断で関東に出兵しました。このため、後醍醐天皇は追認で尊氏を征東将軍に任じました。足利尊氏軍は北条時行軍を鎌倉から追い出し、「中先代の乱」は鎮圧されました。戦後、足利尊氏は新田義貞の所領を没収し、恩賞として分配しました。後醍醐天皇は帰洛命令を出しましたが、尊氏は無視しました。このため後醍醐天皇は、足利尊氏を討伐する事を決定し、新田義貞に宣旨を下しました。新田義貞は尊良親王を奉じ、軍を率いて東海道を下りました。追討軍には多数の公家も参加しました。朝敵となった事を恥じた足利尊氏が出家したため、足利直義が中心となって作戦行動に出ました。新田義貞は三河・矢作川で「矢作川の戦い」、遠江・鷺坂、駿河・手越河原の「手越河原の戦い」で迎撃に出た足利直義・高師泰の軍を打ち破り、伊豆国府(三島)を占領して鎌倉へと軍を進めました。新田義貞が箱根に迫ったとの報に接し、出家していた足利尊氏が直義の説得に応じ、戦線に復帰しました。新田義貞は三島で軍を集結させると、軍を二方面に分けました。自らは搦め手軍を率いて箱根峠に進み、大手軍は実弟・脇屋義助を大将に足柄峠へ進軍させました。足利軍は直義軍が箱根に布陣し、尊氏軍は竹ノ下前面の足柄峠に布陣しました。1月24日、両軍は激突しました。箱根方面では新田義貞軍が直義軍を押し気味に戦局が展開しました。足利尊氏と脇屋義助の主戦場は、足柄峠のすぐ西にある竹ノ下となりました。足利尊氏の参陣で士気が上がった尊氏軍が押し気味に展開しました。さらに大友貞載と塩冶高貞が尊氏軍に寝返ったため、脇屋義助軍は総崩れとなり敗走しました。その報を受けた新田義貞は、退路を断たれるおそれが出たため軍を撤退させました。これを見て近江守護・佐々木道誉も尊氏軍に寝返り、新田義貞軍も総崩れとなりました。足利尊氏は伊豆国府を奪回し、新田義貞軍は東海道を総崩れで敗走しました。この後、足利尊氏軍は新田義貞軍を追撃し、近江・瀬田唐橋で激突します。搦め手の宇治で尊氏軍が勝利し、宮方は撤退し、京を巡る合戦に突入します。こうして、足利尊氏の挙兵は成功し、室町幕府誕生へと繋がります。建武政権は崩壊し、「南北朝時代」へ突入する事になるのです。宮方の敗因は後醍醐天皇の失政に失望した有力武士が、足利尊氏に大挙して付いた事でした。旧守護の有力武士を抑制する事で成立しようとした建武政権は、旧守護が擁立した足利尊氏に破れる事となりました。

次に、平賀源内獄死です。平賀源内は、江戸時代の本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られています。讃岐国志度浦(現・香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれました。父・白石茂左衛門、母は山下氏です。白石家は高松藩の足軽の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族・平賀氏でしたが、1536年に平賀玄信が甲斐・武田信虎に侵攻を受け、海ノ口城で滅ぼされました。その後、平賀氏は奥州の白石に移って伊達氏に仕えて白石姓に改めました。さらに伊予・宇和島藩に従って四国へ下り、讃岐で帰農しました。平賀源内の代で白石から先祖の姓・平賀に改めました。幼少の頃、掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学びました。また、俳諧グループに属して俳諧なども行いました。1748年に父の死により、後役として藩の蔵番となりました。1752年に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学びました。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄しました。大坂、京都で学び、さらに1756年に江戸へ出て本草学者・田村藍水に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿しました。2回目の長崎遊学では、鉱山の採掘や精錬の技術を学びました。1761年には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行いました。物産博覧会を開催し、この頃には幕府老中・田沼意次にも知られるようになりました。1759年に高松藩の家臣として再登用されましたが、1761年に江戸へ戻るため再び辞職しました。この時に「仕官お構い」となり、以後は幕臣への登用を含め、他家への仕官が不可能となりました。1762年、物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催しました。江戸では知名度も上がり、杉田玄白や中川淳庵らと交友しました。1763年には「物類品隲」を刊行、オランダ博物学にも関心を持ちました。洋書の入手に専念しましたが、平賀源内には語学の知識が無かったため、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務めました。文芸活動も行い、談義本の類を執筆しました。産業起業的な活動も行いました。1766年から武蔵・川越藩の秋元凉朝の依頼で、奥秩父の大滝の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見しました。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行いました。現在でも奥秩父の中津峡付近には、平賀源内が設計して長く逗留した建物が「源内居」として残っています。1773年には、出羽・秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、秋田藩士・小田野直武に蘭画の技法を伝えました。1776年、長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元しました。1779年の夏には橋本町の邸へ移りました。そして、大名屋敷の修理を請け負った際に酔っていたため、修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁・秋田屋九五郎ら2人を殺傷しました。このため、12月28日に投獄され、1月24日に破傷風により獄死しました。獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師・平秩東作でした。享年52、杉田玄白らの手によって葬儀が行われました。しかし、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となりました。「土用の丑の日」に鰻を食べる風習は、平賀源内が発祥と言われています。

その次に、天保の改革:株仲間解散です。株仲間とは、問屋などが一種の座を作り、カルテルを形成する事です。株式を所有する事で、構成員として認められました。当初は同業の問屋による私的な集団でした。江戸幕府は「楽市楽座」路線を継承した商業政策を方針としました。こうした組織が流通機構を支配して幕府に対する脅威になる事を恐れて、1648年から1670年にかけて6回もの禁令が出され、規制の対象としていました。「享保の改革」で商業の統制を図るため、組織化された方が望ましいとして公認が与えられました。冥加金(上納金)を納める代わりに、販売権の独占などの特権が認めらました。田沼意次の時代には積極的に公認され、幕府の現金収入増と商人統制が企図されました。自主的に結成された「株仲間」を「願株」、幕府によって結成を命じられた「株仲間」を「御免株」と呼んで区別しました。「株仲間」の公認は、「願株」の公認を指しています。「天保の改革」を進めた水野忠邦は、「株仲間」による流通の独占が物価高騰の原因であるとして、1841年から1842年にかけて、冥加金の上納を停止させ、「株仲間」の解散を命じました。しかし、当時の経済の実態は農村工業の発達と新興商人が台頭した事によって、「株仲間」の独占は形骸化しつつありました。また、「株仲間」には代金不払いなどの不正を行った仲買の情報を共有し、仲間内の商取引を一切停止するといった懲罰を加える事により、幕府などの公権力の代わりに「債権」と「契約履行」を保証する役割がありました。ところが、水野忠邦をはじめとした幕府首脳は幕府権力の保護を受けた「株仲間」の弱体化や、商取引の制度的基礎になっていた現実を理解出来ていませんでした。「株仲間」を解散させれば、全国的な流通網を動かせると考えました。その結果、流通の混乱を招いて景気を悪化させてしまいました。この政策に反対した町奉行・矢部定謙は改易に追い込まれ、伊勢桑名藩で憤死しました。水野忠邦失脚後の1846年に、筒井政憲が「株仲間」の再興を阿部正弘に提案しました。1851年、提案を受けた阿部正弘に命ぜられた遠山景元によって、冥加金不要の問屋仲間として再興され、1857年に再び「株仲間」となりました。再興後は株数を増やして、新興商人を取り込もうとしました。明治維新後の1872年、再び「株仲間」は解散を命じられ、以降復活する事はありませんでした。株仲間構成員の多くは、商業組合に改組されていきました。

その次の次に、第二次世界大戦:バリクパパン沖海戦です。1942年1月10日、ボルネオ島タラカンを占領した日本軍は、ついで23日、同じ部隊を投入してボルネオ島のバリクパパンへの上陸作戦を開始しました。多数の輸送船を護衛するために、日本海軍は軽巡洋艦「那珂」を旗艦とする第4水雷戦隊(西村祥治少将)のほか、哨戒艇(旧式駆逐艦)や掃海艇などを出動させました。揚陸は順調に行われましたが、オランダ軍のB−10爆撃機による空襲とオランダ潜水艦「K−18」の雷撃により、輸送船「南阿丸」と「敦賀丸」が沈没しました。日本船団の出航を確認した連合軍ABDA艦隊司令部は、船団を攻撃するためにアメリカ海軍の水上部隊に出動を命じていました。アメリカ海軍はウィリアム・A・グラスフォード提督指揮下の軽巡2隻と駆逐艦6隻を出撃させましたが、軽巡「ボイシ」は座礁事故で損傷、軽巡「マーブルヘッド」も機関故障を起こしてしまい、護衛の駆逐艦2隻とともに戦列を離れました。第59駆逐隊(ポール・H・タルボット中佐)のクレムソン級駆逐艦4隻「ジョン・D・フォード」、「ポープ」、「パロット」、「ポール・ジョーンズ」だけが日本軍の輸送船団を攻撃できました。こうして、1月24日未明、アメリカ艦隊はバリクパパン沖に侵入しました。すでに揚陸を終えた日本船団は沿岸に停泊中でした。沖側を哨戒艇などが警戒していましたが、炎上した「南阿丸」や地上施設の煤煙のため視界は不良でした。アメリカ艦隊は日本側に発見される事なく船団に接近する事に成功しました。そして、最初の魚雷を発射しましたが、まったく命中しませんでした。再度突入したアメリカ艦隊は、哨戒艇などの散発的な抵抗を受けながら二度目の雷撃と砲撃を行い、輸送船2隻「呉竹丸」、「辰神丸」と特設急設網艦「須磨の浦丸(輸送船として使用)」、「哨戒艇37号(元駆逐艦「菱」)」を撃沈しました。さらに輸送船「朝日山丸」も大破、「球磨川丸」が小破しました。日本軍の護衛艦隊主力は、潜水艦の襲撃と判断して行動したため、アメリカ艦隊を捕捉できませんでした。アメリカ艦隊の損害は、駆逐艦「ジョン・D・フォード」が輸送船の砲撃で小破しただけでした。連合軍は大きな戦果を挙げたが、すでに日本軍部隊の揚陸は完了していたため、バリクパパンの占領を阻止することは出来なかった。しかし、アメリカ海軍は19世紀の「マニラ湾海戦」以来、初めての東南アジア海域での水上戦の勝利として、その戦果を大きく報じました。日本軍は生き残った輸送船のうち2隻を使い、2月10日にバンジャルマシンも無血占領して、ボルネオ島をほぼ制圧しました。なお、撃破された輸送船の1隻には、海軍主計中尉として中曽根康弘が乗艦していました。

最後に、グアム島で元日本兵の横井庄一を発見です。横井庄一は,1915年、愛知県海部郡佐織村(現在の愛西市)にて、父・山田庄七と母・つるの間に長男として生まれました。しかし、両親が3年後に離婚し、姓が母の旧姓・大鹿になりました。生後3ヶ月から小学校5年生まで母親の里(海部郡神守村、現在の津島市)で、大鹿庄一として育てられました。1926年に、つるが再婚して横井姓となりました。学卒後は約5年間、愛知県豊橋市の洋品店に勤務しました。そして1935年に第一補充兵役に編入し、日本陸軍に入りました。4年間の兵役の後、洋服の仕立て屋を開きました。1941年に「太平洋戦争」のため再召集され、満州を経て1944年からグアム島の歩兵第38連隊に伍長として配属されました。戦争が激化し、8月にグアムで戦死したとされ、戦死公報が届けられました。1965年10月30日の第19回戦没者叙勲では、戦没者として戦前受けていた勲八等から、勲七等青色桐葉章への昇叙者として官報掲載されました。その当時、グアムに残っていた隊員には「ポツダム宣言」受諾によって日本軍の無条件降伏が発令された事が知らされませんでした。横井庄一は、ジャングルや竹藪に自ら作った地下壕などで生活しました。そして、グアム派遣から約28年後の1972年1月24日にエビやウナギをとるためにウケをしかけに行ったところ、現地の行方不明者を捜す村人たちに遭遇して発見されました。2月2日に満57歳で日本に帰還しました。軍事教育を受け育った横井庄一は「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあったため、帰国の際に羽田空港で発した第一声は「恥ずかしいけれど、帰って参りました」でした。この言葉が原型となった「恥ずかしながら帰って参りました」がこの年の流行語となりました。2月2日14時から60分間にわたりNHKで放送された報道特別番組「横井庄一さん帰る」は、41.2%の視聴率を記録しました。帰国後は、愛知県名古屋市中川区富田町に居住しました。戦後の日本の変化に適応できるかどうかが心配されましたが、驚くほど素直に戦後の日本に馴染みました。その年に幡新美保子と結婚した後は、自身のグアムでのサバイバルについて耐乏生活評論家、あるいは生活評論家として全国各地で講演、1974年7月の第10回参議院議員通常選挙(全国区)にも無所属で立候補して落選しました。この後、マスコミの扱いも次第に終息し、横井庄一の生活は落ち着きましたが、ヘルニアや胃がんなど病気がちとなり、満82歳で心臓発作を起こして死去しました。横井庄一記念館は、日本の名古屋市中川区にある私営の記念館です。横井庄一を記念し、自宅の一部を日曜日にのみ公開しています。

今日の誕生日:山崎闇斎、市原悦子、野際陽子、尾崎将司(ジャンボ尾崎)、ジュディ・オング、五輪真弓、渡辺正行(コント赤信号)、段田安則、前田日明、ギド・ブッフバルト、維新力浩司、岩井俊二、木下ほうか、広石武彦(元UP−BEAT)、川村結花、樋口豊(BUCK−TICK)、林葉直子、久保純子、宮内知美、久保田智子、喜多建介(ASIAN KUNG−FU GENERATION)、明神智和、大島由香里、中西優香(元SKE48)、入江陵介、 伊藤千由李(チームしゃちほこ)、神志那結衣(HKT48)、野比のび助、フランソワーズ・アルヌール(サイボーグ003)

今日の記念日:法律扶助の日、金の日/ゴールドラッシュデー 、ボーイスカウト創立記念日

今日の「今日訓」:1848年、アメリカのカリフォルニア州で金の粒が発見されました。この噂が広まり、一攫千金を求めて沢山の人たちが集まる「カリフォルニア・ゴールドラッシュ」となりました。この事から「金の日/ゴールドラッシュデー 」、1908年、ロバート・ベーデン・パウエルがボーイスカウト本部を設立した事で「ボーイスカウト創立記念日」、法律扶助制度を行っている「法律扶助協会」が1952年に設立された事で「法律扶助の日」となりました。
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