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2020年01月23日00:13

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1月23日の日記

今日の出来事:1556年−明の陝西省で華県地震、死者数は歴史上最大の83万、1865年−甲子の獄、1902年−八甲田雪中行軍遭難事件、1914年−シーメンス事件
今日は、華県地震で歴史上最大の被害です。華県地震は、1556年1月23日の朝、明の陝西省(現在の中華人民共和国陝西省)で起きた地震です。近年の調査によると震源は陝西省の華山付近で、規模はマグニチュード8.0と推定されています。明嘉靖関中大地震・陝西地震ともいいます。この地震による死者は、朝廷に報告されただけで83万人です。実際はそれをさらに上回る死者数が出たと言われ、史上最悪の震災を引き起こしました。この地域は当時も今も窰洞(ヤオトン)と呼ばれる横穴式住居が多く、それらが地震にともなう液状化現象で一斉に崩壊して、被害を大きくしたと考えられています。840kmの広範囲にわたって破壊され、ある地域では人口の60%が死亡しました。

次に、甲子の獄です。姫路藩主・酒井忠績は、幕府の筆頭老中です。しかし、姫路藩内では尊攘派の動きが活発なっていました。姫路藩家老の養嗣子・河合良翰を中心として、秋元安民、斎藤勘介、河合宗元、河合宗貞、境野意英、武井守正といった有志達が集いました。「天誅組」が挙兵の際には河合宗貞・武井守正らが参加し、これを支援する為に河合良翰から融資を得て軍資金として松本奎堂に渡しました。この事を知った姫路藩筆頭家老・高須広正は、尊攘派の弾圧を行おうとしました。これを察知した尊攘派の河合宗元は、先手を打って高須広正の暗殺を計画しましたが、逆にこの計画が発覚した為、尊攘派志士達の弾圧理由を作り出しました。河合宗元は自宅禁固となり、その後に投獄されました。次に、高須広正の姉婿・境野意英を通じて、尊攘派藩士の検挙を行おうとしました。境野意英は尊攘派の河合宗貞の実父で、尊攘派活動に加わっていたため協力をしませんでした。しかし、境野意英の部下が裏切り、高須広正に志士達の密書を渡したため尊攘派の動きは筒抜けとなりました。この尊攘派藩士達の密謀は、藩主・酒井忠績へ報告されました。驚いた酒井忠績は、尊攘派と家老・河合良翰を幽閉し、その他の尊攘派藩士達を次々と検挙すると投獄しました。境野意英は自分の失態で同僚を窮地に陥れてしまった事を恥じ、自刃しました。その後、長州藩へ逃亡を図った河合宗貞も捕まり、尊攘派藩士達への厳しい取り調べが行われました。1865年1月23日、首領・河合宗元ら6名は切腹、河合宗貞ら2名は斬首、その他の者も永牢・閉門・蟄居となりました。こうして、姫路藩尊攘派は殲滅されました。この一連の事件を、その年の干支から「甲子の獄」と呼ばれています。以下が「甲子の獄」で処刑された人物です。
河合総兵衛宗元:勘定奉行、宗門奉行、物頭持筒頭などを歴任。秋元安民と共に尊王を唱え、藩主・酒井忠績と共に上洛し、国事に奔走。藩主に尊攘の大義を説いて諫言し、忌避されて国許に帰される。1863年の春、江坂元之助、伊舟城源一郎、市川豊次らを伴って再び上洛し、久坂玄瑞や宮部鼎蔵らと尊攘運動に尽力。姉小路公知が暗殺されると、朝命で犯人の糾問に従事。「八月十八日の政変」の「七卿落ち」に随従しようとし、三条実美に諭されて果たせず。藩主に建言して攘夷の決行を幕府に促す事を請うが、容れられずに病と称して帰国。養子・伝十郎の脱藩に連座し、千種有文の家臣・賀川肇、処士・家里新太郎松の暗殺事件の指導者として捕えられて入獄、自刃を命ぜられました。
江坂元之助:1863年の春に河合宗元と共に上洛し、禁闕護衛の任に当たって諸藩の志士と交遊。「七卿落ち」に随行しようとして果たせずに帰国。賀川肇、家里新太郎殺害の嫌疑で投獄され、自刃を命ぜられました。
伊舟城源一郎:1862年の夏、藩主に随従して京都に上り、水戸藩・原市之進、長州藩・佐々木男也らと交わり、尊攘運動に奔走。1863年の春、河合宗元が上京すると、再び京都に出て共に国事に尽力。「七卿落ち」に随行出来ずに帰国。賀川肇、家里新太郎らを殺害した事が発覚して獄に投ぜられ、自刃を命ぜられました。
松下鉄馬:1862年、藩主に随従して上洛。藩老・松平孫三郎の専横を除こうとして果せずに帰国。1863年、河合宗元に伴われて再び上洛し、江戸に下って藩主に勤王を進言。「七卿落ち」に随行出来ずに帰国。賀川肇、家里新太郎の暗殺の嫌疑で投獄され、自刃を命ぜられました。
市川豊次:1862年の夏、同志・本多意気揚と共に上京して尊攘派志士と交遊。1863年の春、河合宗元に伴われて再び上京し、「七卿落ち」に随行出来ず。その後、賀川肇、家里新太郎の殺害が露見し、投獄されて自刃を命ぜられました。
萩原虎六:武井守正と兄弟の契りを結び、尊攘運動に従事。1862年、藩主に随従して上洛。家老・松平孫三郎の専横を除こうとして果たせず。1863年に再び、河合宗元と上洛して諸藩の志士と交遊し、親兵として禁闕の護衛に当る。正親町公董が勅使として長州に下向する際に随従を命ぜられ、帰京の際に「七卿落ち」に随従出来ずに帰国。佐幕派によって禁固され、賀川肇、家里新太郎の殺害嫌疑により、自刃を命ぜられました。
江坂栄次郎:江坂元之助の弟。1863年に同志と共に佐幕派の家老・高須広正の庇護を受けて、米の買占めなど私曲の多かった姫路藩御用商人・紅粉屋又左衛門に天誅を加え、尊王討幕の血祭りに挙げる。後に、河合伝十郎と共に脱藩して神戸海軍操練所に入所。長州に走ろうとして大坂の土佐藩邸に潜伏中、藩吏の追捕を受けて投獄されて斬首となりました。
河合伝十郎:家老・境野意英の次男。1862年、藩主が洛中取締を命ぜられると養父・河合宗元と共に上洛して禁闕を護衛。尊攘派として謀議に加わり、諸藩の間を周旋。1863年、勤王党の同志と共に紅粉屋又左衛門を暗殺して自首し、親類預となる。後に許されて再び上洛し、「七卿落ち」に随行出来ず、「天誅組」の謀議に加わって軍資金の調達に奔走。1864年に江坂栄次郎と共に脱藩、兵庫で勝海舟の宅に投じる。大阪土佐藩邸に潜伏中に父・境野意英が自刃した事を知り、長州に走ろうとしましたが、藩吏の追捕を受けて投獄されて斬首となりました。
家名断絶終身禁固:永田伴正、武井守正、三間半二、西村武正、近藤啓蔵、山口太藤平
蟄居謹慎:河合良翰、佐久間秀修、宇津木謹吾、本多正知、片山龍雄、河合元蔵、河合三五平、斎藤五平、根岸謹七郎、細井度常、村田行中、坪井岨次郎、田所千秋、出淵新吾、砂川貫一郎、北村義貞、河合清次郎、山本正蔵

その次に、八甲田雪中行軍遭難事件です。八甲田雪中行軍遭難事件は、1902年1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が、八甲田山で冬季に雪中行軍の訓練中に遭難した事件です。訓練の参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)しました。日本陸軍は1894年の「日清戦争」で冬季寒冷地での戦いに苦戦しました。そして、さらなる厳寒地となる対ロシア戦を想定し、準備していました。この演習は対ロシア開戦を目的としたもので、ロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際に、冬場に「青森〜田代〜三本木〜八戸」のルートで、ソリを用いての物資輸送が可能かどうかを調査する事が主な目的でした。弘前第31連隊は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の研究の最終段階で、3年がかりで実行してきた雪中行軍の最終決算でした。両連隊は日程を始め、お互いの雪中行軍の実行計画すら知りませんでした。部隊の指揮を執っていたのは、第2大隊の中隊長で陸軍歩兵大尉・神成文吉でした。
1日目:午前6時55分に青森連隊駐屯地を出発しました。田茂木野村で地元村民が行軍の中止を進言し、もしどうしても行くならと案内役を買ってでましたが、これを断って地図とコンパスのみで厳寒期の八甲田山踏破を行いました。途中、小峠まではさしたる障害もなく進軍できましたが、ソリ隊が遅れはじめた事から、ここで昼食を取るとともに大休止となりました。この時、天候が急変して暴風雪の兆しがあった事から、進むか退くかの協議を行いました。装備の不安と天候がさらに悪化する事を恐れ、将校らは駐屯地へ帰営する事を決定しましたが、見習士官や長期伍長など下士官を中心とする兵たちの反対と、田茂木野村で案内人を断って進軍した事などにより、行軍を続行する事になりました。悪化する天候と強風・深雪などの困難を極めながらもようやく馬立場まで進軍しました。夕方5時頃、馬立場から鳴沢へ向かう途中でソリの放棄を決定し、ソリの荷物は各輸送隊員が分散して持つ事となりました。先遣隊として先行していた設営隊も進路を発見できず、道に迷っていたところを偶然にも本隊と合流しました。日没と猛吹雪により前後不覚となり、田代方面への進路が発見できなくなったため、やむなく部隊は露営場所を探す事になりました。夜9時過ぎに田代まであと1.5kmの平沢の森まで進出したところが、最初の露営地となりました。
2日目:寒さと疲労を訴える者が続出しました。当初5時出発を予定していましたが午前2時頃、事態を重くみた山口少佐を始めとする将校たちは協議の結果、行軍の目標は達成されたと判断して部隊の帰営を決定しました。部隊は馬立場を目指しましたが、午前3時半頃に鳴沢付近で峡谷に迷い込んでしまいました。やむなく前露営地へ引き返す事となりましたが、佐藤特務曹長は完全に道を誤り、沢への道を下ったところは駒込川の本流でした。その頃は全員疲労困憊しており、隊列も整わず統制に支障が出始めました。山口讃佐は、駒込川に至った事で佐藤特務曹長の進言が誤りだった事に気付きましたが、もと来た道は吹雪により完全に消されており、部隊は完全に前後不覚の状態になって遭難となりました。仕方なく部隊は崖をよじ登る事になりました。ここで崖を登れず落伍する兵がでました。この行軍の最初の犠牲者です。駒込川の沢を脱出する際、第4小隊の水野中尉が卒倒凍死しました。結局、前露営地よりたった数百メートル進んだだけで、夕方頃に鳴沢付近にて凹地を発見し、ここを露営地としました。猛吹雪と気温低下で体感温度が−50℃近く、前日よりほとんど不眠不休で絶食状態であるため、ここで多くの将兵が昏倒して凍死しました。この遭難で最も多くの犠牲者が発見された場所となりました。
3日目:この日も夜明けを待って出発の予定でしたが凍死者が続出したため、やむなく午前3時頃に部隊は馬立場方面を目指して出発しました。この時点で死者、行方不明者合わせて70名を超えていました。その他の兵士も多くは凍傷にかかっていました。コンパスは凍りついてしまい、地図を頼りに勘に頼っての行軍となりました。鳴沢の辺りまで一度は辿り着きましたが、風が強く断崖に達したため進行が不可能になって引き返しました。その後、再度反対方向に進行しましたが、前方を山に遮られて道を失いました。神成文吉大尉らが協議し「ここで部隊を解散する。各兵は自ら進路を見出して青森又は田代へ進行するように」と命令しました。ここで有名な「天は我らを見放したか」と神成大尉が言いました。このため、それまで何とか落伍せずに頑張っていた多くの兵士が、この一言により箍が外れました。着ていた服を脱ぎ始め裸になる者、「この崖を降りれば青森だ!」と叫び川に飛び込む者、「筏を作って川下りをして帰るぞ」と叫び樹に向かって銃剣で切りつける者など発狂者が出てくる他、凍傷で手が効かず袴のボタンを外せぬまま放尿し、そこからの凍結が原因で凍死する者など死者が続出しました。ここで興津大尉以下約30名が凍死しました。この時、長谷川特務曹長は滑落して道に迷い、彼に従った数名は平沢の炭小屋を発見し、そこに滞在しました。高橋班に属する佐々木霜吉一等卒が帰路を発見しました。ここでもう片方の渡辺幸之助軍曹らの合流を待ちましたが、彼らは戻りませんでした。また、馬立場付近で帰路を発見した佐々木一等卒と高橋伍長はその後、重なり合うようにして凍死しているのを発見されました。夜12時頃に、倉石大尉の一隊は神成大尉の一行と合流しました。この日は馬立場北方の中の森にて露営する事となりました。この日の露営は寒さに堪えかねて、凍死した将兵の背嚢を燃やすなどして何とか寒さを凌ぎましたが、それでも多数の兵士が凍死しました。
4日目:部隊は出発の合図もなく、明け方頃に出発しました。この時点で生存している将兵は60〜70名となっていました。部隊の人数は3分の1以下になりました。隊列の先頭は神成大尉と倉石大尉と決まっていましたが、それ以外は所属も階級も関係なく、将兵が後から続く形となっていました。神成大尉らは前方高地を偵察する形で前方を行き、倉石大尉は後方を進んでいました。夕方までに、中の森〜賽の河原の間に到着しました。生き残った部隊約30名は談合し、隊は二手に別れて行動する事になりました。田茂木野を目指す神成大尉一行数名と、駒込澤沿いに進行して青森を目指す倉石大尉(山口少佐含む)一行約20名に分かれました。この日、村上一等軍医、三神少尉、下士卒60名の救援隊が屯営を出発しました。途中村民を案内人として雇い、大峠まで捜索活動を行いました。しかし、案内人の調達に手間取り出発が遅れた事と、この日の気温は−14℃で風雪も厳しいため、案内人と軍医の進言により捜索を断念して田茂木野へ引き返しました。
5日目:倉石大尉のグループは駒込川方面を進みましたが、途中の青岩付近で懸崖にはまり、進む事も戻る事もできなくなりました。神成大尉のグループは、道は正確に進んでいましたが猛吹雪をまともに受けたため、落伍者が続出しました。残り4人の中から鈴木少尉が高地を見に行くと言い、出発したまま戻ってきませんでした。3人となった後、及川篤三郎が危篤となりましたが手当てをする事ができずに死亡しました。やむを得ず神成大尉と後藤伍長の2人は雪中を進みましたが、今度は神成大尉が倒れました。神成大尉は後藤伍長に「田茂木野に行って住民を雇い、連隊への連絡を依頼せよ」と命令しました。後藤伍長は1人で朦朧とした意識の中で田茂木野へ向けて歩き続けました。救援隊は捜索活動を再開しました。今日こそは何としてでも田代まで進軍して雪中行軍隊と接触しようと、尻込みする案内人を何とか説得して行進を続けました。午前10時半頃、三神少尉が率いる小隊が大滝平付近で雪中に立つ後藤伍長を発見しました。後藤房之助は、仮死状態となって歩哨の如く直立していました。こうして雪中行軍隊が遭難した事が判明しました。意識を取り戻した後藤房之助が「神成大尉」と微かに語ったため、付近を捜索すると約100メートル先に神成大尉が倒れていました。神成文吉大尉は全身凍っていた上、帽子も手袋も着けておらず雪に首まで埋まっていました。軍医は腕に気付け薬を注射しようとしましたが、皮膚まで凍っていたため針が折れてしまいました。その後、口を開けさせ口腔内に針を刺しました。何か語ったように見えましたが、蘇生せずそのまま凍死しました。すぐ近くで及川篤三郎の遺体も発見されました。二人の遺体は運ぶ事が出来ず、目印をつけてその場に置いたまま、後藤房之助伍長のみを救出して田茂木野へたどりつきました。19時40分、三神少尉が連隊長官舎に駆け込み、大滝平で後藤伍長を発見した事と雪中行軍が「全滅の模様」である事、2時間の捜索で「救助隊60余名中、約半数が凍傷で行動不可、1名が重度の凍傷で卒倒」となった事を知らせました。行軍隊が田代に到達したものと信じていた青森歩兵第五連隊長・津川謙光中佐は、この報告を聞いて青くなりました。一方、倉石大尉らの一隊はその夜、今泉三太郎見習士官が下士1名を伴って連隊に報告すると告げ、倉石大尉が制止するのも聞かず裸になって川に飛び込みました。今泉三太郎は、3月9日に下流で遺体となって発見されました。
1月28日に倉石大尉らの一隊は、錯乱した佐藤特務曹長が下士兵卒を連れて川に飛び込み、岩に引っ掛かりそのまま凍死しました。倉石大尉ら数名は崖穴に入りました。山口少佐がいる川岸の場所と、倉石大尉らのいる場所の二つに別れて兵士がいました。倉石大尉は山口少佐にこちらに来るよう勧めましたが、山口少佐は「吾は此処に死せん」として拒否しました。
1月29日に救助部隊が神成大尉と及川伍長の遺体を収容し、各哨所も完成しました。同様に八甲田山を逆方向から雪中行軍をしていた弘前隊が青森に到着しました。
1月30日には賽の河原で中野中尉ら36名の遺体を発見しました。この場所は倉石大尉らが駒込川の沢に降りていった道でした。「賽の河原」の名前は、以前にもここで凍死した村の人が多くいたために付けられた名でした。
1月31日午前9時頃、鳴沢北方の炭焼き小屋にいた三浦武雄伍長と阿部卯吉一等卒の2人が救出されましたが、三浦武雄伍長は救出後に死亡しました。小屋で朝まで生きていたというもう1人の遺体も発見しました。小屋周辺では16名の遺体を発見しました。午前9時頃、倉石大尉らが崖をよじ登りました。そして15時頃、250メートルほど進んだところで倉石大尉、伊藤中尉ら4人が救援隊に発見され、生存者計9人が救助されました。しかし、高橋房治伍長、紺野市次郎二等卒は救出後に死亡しました。この時に救出された山口少佐も病院に収容されましたが、2月2日に死亡しました。これは、遭難についての一切の責任を負わせるために軍部が暗殺したとされる説があります。鳴沢では他に水野忠宜中尉(新宮藩藩主・水野忠幹の長男)以下33名の遺体を発見、大滝平付近で鈴木少尉の遺体を発見しました。
2月1日には賽の河原付近にて数名の遺体を発見、按ノ木森から中ノ森にかけて10数名の遺体を発見しました。
2月2日、捜索隊に加わっていた人夫が、平澤付近で飛び出してきた兎を追いかけていた時、偶然に炭小屋を発見しました。人の声がするようなので小屋をのぞいてみると、その中にいた長谷川特務曹長、阿部寿松一等卒、佐々木正教二等卒、小野寺佐平二等卒の4人の生存者が発見されました。しかし、佐々木正教、小野寺佐平は救出後に死亡しました。最初、この炭小屋には8名の生存者がいました。比較的元気な3名は屯営を目指して小屋を出ましたが、全員凍死しました。永野軍医は助けを求める付近の兵卒を手当てするため、小屋を出てそのまま戻りませんでした。15時頃には、最後の生存者となる村松伍長が古館要吉一等卒の遺体と共に田代元湯近くの小屋で発見されました。村松伍長は四肢切断の上、一時危篤状態となりましたが回復しました。元湯近くの小屋に到達してからの最初の数日間は、近くの温泉の湯を飲みながら命をつないでいました。救助活動は青森連隊、弘前連隊、更には仙台第5砲兵隊も出動した大掛かりな体制になり、延べ1万人が投入されました。最後の遺体収容は5月28日でした。
最終的に生存したのは、倉石一大尉(山形)、伊藤格明中尉(山形)、長谷川貞三特務曹長(秋田)、後藤房之助伍長(宮城)、小原忠三郎伍長(岩手)、及川平助伍長(岩手)、村松文哉伍長(宮城)、阿部卯吉一等卒(岩手)、後藤惣助一等卒(岩手)、山本徳次郎一等卒(青森)、阿部寿松一等卒(岩手)の11人のみでした。生存した将兵も、倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長以外、その全員が凍傷により足や手の切断を余儀なくされました。及川平助はアキレス腱と指3本、山本徳次郎は左足を切断しました。その他は四肢切断でした。また、一番元気だった倉石一大尉は「日露戦争:黒溝台会戦」で1905年1月27日に戦死しました。伊藤中尉、長谷川特務曹長も重傷を負いました。

最後に、シーメンス事件です。シーメンス事件は、ドイツのシーメンスによる日本海軍高官への贈賄事件です。ヴィッカースへの巡洋戦艦「金剛」発注にまつわる贈賄も絡んで、当時の政界を巻き込む一大疑獄事件に発展しました。1914年1月に発覚し、3月には海軍長老・山本権兵衛を首班とする第1次山本内閣が内閣総辞職にまで追い込まれました。この事件は、シーメンス社員のカール・リヒテルが会社の重要書類を盗み出し、東京支店長を脅迫して失敗した事から、ロイター通信特派員アンドルー・プーレーに書類を売り、ドイツへ帰国して恐喝未遂罪で起訴された事に始まりました。1914年1月21日の外電が、リヒテルに対するベルリン公判廷での判決文の中で「彼の盗んだ書類の中に発注者の日本海軍将校に会社側がリベートを贈ったとの記載がある」と伝えた事から、1月23日に第31議会衆議院予算委員会で、立憲同志会の島田三郎がこの件について厳しく追及しました。山本権兵衛内閣は、この議会に海軍拡張案とその財源として営業税・織物消費税・通行税の増税の予算案を提出しました。これに反対する民衆の攻撃の的となり、新聞は連日海軍の腐敗を報道し、太田三次郎、片桐酉次郎ら海軍内部からの内部告発で世論は沸騰しました。1月末から2月初めにかけて関係者の喚問や家宅捜索が開始され、2月7日に藤井光五郎機関少将、沢崎寛猛大佐が検挙され、海軍軍法会議に付されました。2月10日に野党の立憲同志会・立憲国民党・中正会は、衆議院に内閣弾劾決議案を上程しました。その日、日比谷公園で内閣弾劾国民大会が開かれ、この決議案が164対205で否決された事を聞くと、この大会に集まっていた民衆は憤激して国会議事堂を包囲し、構内に入ろうとして官憲と衝突しました。取調べが進むと汚職事件は広がり、3月12日にイギリスのヴィッカースの日本代理店である三井物産の重役・岩原謙三が、1910年に巡洋戦艦「金剛」をヴィッカースに注文させるため海軍高官に贈賄した容疑で拘禁されました。ついで飯田義一・山本条太郎ら三井物産の関係者が起訴されました。その結果、当時の艦政本部長で元呉鎮守府司令長官・松本和中将が「金剛」の建造に際し、三井物産の手を経てヴィッカースから約40万円の賄賂を受けていた事が判明しました。この間、貴族院は海軍予算7000万円を削減する事を可決しました。予算案は両院協議会の不調となって不成立となり、3月24日に山本内閣は総辞職しました。後継の第2次大隈重信内閣は、海軍粛正の声に押されて新海相・八代六郎の元で大改革を断行しました。5月11日には前首相・山本権兵衛と前海軍相・斎藤実を予備役に編入しました。5月19日の軍法会議は、前艦政本部長・松本和に対し、三井物産からの収賄の容疑で懲役3年、追徴金40万9800円を、沢崎寛猛大佐に対し海軍無線電信所船橋送信所設置に絡み、シーメンスから収賄した容疑で懲役1年、追徴金1万1500円の判決を下しました。東京地方裁判所は7月18日、山本条太郎ら全員に有罪判決を下しました(控訴審では全員執行猶予)。9月3日の軍法会議では藤井光五郎に対し、ヴィッカース他数社から収賄したとして、懲役4年6ヶ月、追徴金36万8000余円の判決を下し、司法処分は完了しました。しかし、「第一次世界大戦」の勃発もあって、3名の海軍軍人を有罪としただけでこの事件は終結し、産業界と軍部との癒着構造の根源までは追及されませんでした。三井高弘は事件後に三井物産社長職を引責辞任しました。

今日の誕生日:太宗、細川重賢、西郷隆盛、エドゥアール・マネ、湯川秀樹、鈴木健二、ジャイアント馬場、丸山和也、林郁夫、平浩二、吉田照美、小日向文世、具志堅実(元フィンガー5)、豊田亨、葉加瀬太郎、川村カオリ、篠原信一、米田やすみ、ムロツヨシ、川村ゆきえ、トリンドル玲奈、永瀬廉(King&Prince)、白鳥星座の氷河

今日の記念日:電子メールの日、アーモンドの日、碧南人参の日、アート引越センターの日

今日の「今日訓」:本日は、「1(いい)23(ふみ)」(いい文・E文)の語呂合わせで「電子メールの日」、アーモンドは「若返りのビタミン」と呼ばれるビタミンEが豊富で、約23粒で日本人の成人女性に必要な1日の摂取目安量をまかなえる事から「アーモンドの日」、愛知県碧南市の名産品・碧南人参ががいちばん熟して甘くなる時期と「1(いい)2(にん)3(じん)」の語呂合わせから「 碧南人参の日」、「the0123」で「アート引越センターの日」となりました。
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