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2020年01月22日00:18

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1月22日の日記

今日の出来事:1841年−平田篤胤に江戸退去命令、1851年−国定忠治刑死、1905年−血の日曜日事件

今日は、平田篤胤に江戸退去命令です。平田篤胤は、江戸時代後期の出羽久保田藩(現在の秋田市)出身の国学者・神道家・思想家・医者です。復古神道(古道学)の大成者で、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに「国学四大人」の一人です。本居宣長らの後を引き継ぐ形で儒教・仏教と習合した神道を批判しましたが、やがてその思想は、宣長学派の実証主義から逸脱した神秘学的なものに変貌しました。平田篤胤の学説は水戸学同様、幕末の尊皇攘夷の支柱となりました。平田篤胤は独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらしました。神や異界の存在に大きな興味を示し、死後の魂の行方と救済をその学説の中心に据えました。また、仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども進んで研究分析し「八家の学」と称していました。西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などにも精通していました。彼の学問体系は知識の広さのために不自然な融合を示し、複雑で錯綜したものとなりました。平田篤胤の復古神道は「平田神道」と呼称され、後の神道系新宗教の勃興につながりました。平田篤胤の学説は学者や有識者にのみではなく、庶民大衆にも向けられました。一般大衆向けの大意ものを講談風に口述して弟子達に筆記させて、後に製本して出版しました。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、国学思想の普及に多大の貢献をする事になります。特に伊那の平田学派の存在は有名です。後に島崎藤村は小説「夜明け前」で平田学派について詳細に述べています。倒幕がなった後、明治維新期には平田派の神道家は大きな影響力を持ちましたが、神道を国家統制下におく国家神道の形成に伴い、平田派は明治政府の中枢から排除されて影響力を失っていきました。平田篤胤は、1776年に出羽久保田藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤の四男として、久保田城下の下谷地町(現在の秋田市)に生まれました。20歳になったばかりの1795年1月8日に出奔し、遺書を残して国許を去りました。「正月八日に家を出るものは再び故郷に帰らない」という諺にちなんだものでした。無一文同然で頼る場所なく江戸に出た篤胤は、生活の苦難と戦いながら勉学に励みました。生活を支える為に数多の職業に就き、火消しや飯炊きなどもしました。1800年25歳の折に、勤め先の旅籠で備中松山藩藩士代々江戸在住の山鹿流兵学者・平田藤兵衛篤穏の目にとまり、養子となりました。翌年、駿河沼津藩士・石橋常房の娘・織瀬と結婚しました。本居宣長没後2年経った1803年、本居宣長の事を初めて知りました。そして、処女作「呵妄書」をしるしました。この後、次々と著作をしるしていきます。平田篤胤の執筆する様子は凡人のものではなく、何日間も寝ずに不眠不休で書き続け、疲れが限界に来たら机にむかったまま寝て、十分に寝ると再び起き、また書き続けるというものでした。このように書かれた著作は膨大な量になりました。1806年より私塾「真菅乃屋」を開き、門人を取りました。これは、1816年に気吹舎に改称しています。1811年の師走には駿河国府中の門人・柴崎直古の寓居に籠もり、「古史成文」、「古史徴」、「古史伝」など古代研究の本を一気に書き上げました。これらの草稿は後に、平田学の中核的中心教義となります。1812年、平田篤胤37歳の年に、中庸の思想を基盤とした「霊能真柱」を書き上げました。この本は後に平田篤胤の唱える「平田八家の学」の中核に位置する著作となります。すでにこの頃には「古道大意」、「漢学大意」、「医道大意」、「俗神道大意」、「仏道大意」、「歌道大意」などの講本を多く執筆し、平田学の思想の根幹は堅固で揺ぎ無いものとなっていました。「霊能真柱」は平田篤胤にとって分岐点になる重要な書物で、この本を書き上げた年に愛妻・織瀬を亡くしました。1816年平田篤胤は、鹿島神宮・香取神宮及び息栖神社に詣でて、銚子辺りを廻って諸社を巡拝して、「天之石笛」という霊石を得ました(この岩笛は千代田区の平田神社宗家にあります)。これを得た事にちなんで、家号を「伊吹乃屋」と改め、大角と名乗るようになります。1817年には、この旅行の顛末をしるした「天石笛之記」が書かれました。この後、「仙境異聞」に続いて「勝五郎再生記聞」、「幽郷眞語」、「古今妖魅考」、「稲生物怪録」など一連の幽なる世界の奇譚について書き、考察しています。49歳〜54歳までの数年間、支那や印度の古記文献の研究をし、さらに異国の仙人や神の存在についての研究を行いました。1818年には自らの門人・山崎篤利の養女と再婚、妻は織瀬の名前を継ぎました。 この間、現在の埼玉県越谷市の久伊豆神社境内に仮の庵をむすびました。同境内には平田篤胤が、お手植えした藤が花を咲かせています。また、平田篤胤を偲ぶ石碑があります。1823年に上京し、関西を周遊しました。目的は、著作を朝廷に献上する事と、若山(現・和歌山)の本居大平(鈴屋一門の後継者)、松阪の本居春庭(宣長の子)を訪れる事、そして本居宣長の墓参をする事でした。熱田神宮の参詣をし、京都に到着しました。富小路貞直を通して光格上皇に、門人・六人部節香・是香を通して仁孝天皇に、それぞれ献上して第1の目的である著書の献上を果たしました。一方、平田篤胤の鈴屋訪問の報は、鈴屋の門人たちに騒動を巻き起こしました。既に平田篤胤の斬新的な著作は一門の間に大きな波紋を呼び、異端の門人である篤胤をどう迎えるかで意見が分かれました。親・篤胤派の代表として服部中庸がいました。服部中庸は平田篤胤に大きな影響を与えた「三大考」の著者でした。そのため、思想も平田篤胤と近く、篤胤を高く評価し、篤胤こそ本居宣長の後継者に相応しく、本居大平をはじめ、他のどの門人も篤胤には及ばないと言いました。反・篤胤派の代表は、京都の城戸千楯や大坂の村田春門でした。城戸千楯は、篤胤が来るに当たって妨害工作などをしました。反対派は、篤胤はさまざまな書物を恣意的に解釈して、強引に理屈をつけていると批判しました。篤胤は京都の鈴屋の支店のようなところを訪れ、服部中庸と交流しました。京都で篤胤と接触した門人たちは、本居大平に篤胤に関する批評の手紙を送りました。本居大平はそれらの篤胤の批評をまとめて整理していましたが、やがて人手を介して写本が篤胤に伝わり、のちに平田鐵胤が論評と補遺を加えて「毀誉相半書」という名で出版します。篤胤は本居宣長の霊碑の1つを、本居大平より与えられました。本居宣長の霊碑は、宣長自身によって3つ用意され、1つは実子・春庭のもとに、残る2つは後継者である大平のもとにありました。その大平が持っていた1つを篤胤に託したのでした。平田篤胤は伊勢神宮を参詣し、ついで松阪を訪れて念願の本居宣長の墓参を果たしました。壮年期以後の平田篤胤は1831年、暦日や支那の哲学とも云われる「易学」に関心が傾倒して行きます。神代文字などの言語や文字の起源も研究しています。1841年に「天朝無窮暦」の内容が幕府の目にとまり、故郷である秋田に帰るように命じられました。そして、以後の著述を禁止されました。幕府の暦制を批判したためでした。また、激しい儒教否定と尊王主義が忌避されたためでした。秋田に帰った平田篤胤は2年後の1843年に68歳で病没しました。この時点で門人は553人で、1330人が没後の門人となりました。

次に、国定忠治刑死です。国定忠治は、江戸時代後期の侠客です。「国定」は生地である上野国(上州)佐位郡国定村に由来し、本名は長岡忠次郎です。後に博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配しました。「天保の大飢饉」で農民を救済した侠客として知られています。国定忠治は、上野国佐位郡国定村(現在の群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の家に生まれました。国定村は赤城山南麓の村で、生業は米麦栽培のほか農間余業として養蚕も行われており、長岡家でも養蚕を行っていました。父・与五左衛門は1819年に死去し、忠治は青年期に無宿となり家督は弟・友蔵が継ぎました。弟・友蔵は養蚕のほか糸繭商を興し、無宿となった忠治を庇護しました。忠治は上州勢多郡大前田村(群馬県前橋市)の博徒・大前田英五郎の縄張りを受け継いで百々村の親分となりました。大前田英五郎と敵対し、日光例幣使街道・間宿境町を拠点とする博徒・島村伊三郎と対峙しました。忠治は島村伊三郎の縄張りを荒らして捕らえられましたが、島村伊三郎から助命されました。しかし、忠治は島村伊三郎に怨恨を抱き、子分・三木文蔵が島村伊三郎の一派と諍いを起こすと1834年に忠治は島村伊三郎を殺し、その縄張りを奪いました。一時、関東取締出役の管轄外であった信州へ退去しましたが、その後に上州へ戻ると一家を形成しました。その後、日光例幣使街道・玉村宿を本拠とする玉村京蔵・主馬兄弟と対立しました。1835年に、玉村兄弟が山王堂村の民五郎(山王民五郎)の賭場を荒らした事を発端に対立が激化し、山王民五郎に子分二人を差し向けて玉村兄弟を襲撃して駆逐しました。また、忠治はこの頃に発生していた「天保の大飢饉」に際して「盗区」の村々への賑救を行っていました。1838年には、世良田の賭場が関東取締出役の捕手により襲撃され、三木文蔵が捕縛されました。忠治は三木文蔵の奪還を試みましたが失敗し、関東取締出役の追求が厳しくなったため逃亡しました。忠治は三木文蔵に加え、子分・神崎友五郎や八寸才助らも処刑され、一家は打撃を受けました。さらに1841年、忠治の会津逃亡中に玉村主馬が山王民五郎を殺害して反撃にでると、翌年に忠治は帰還して玉村主馬を殺害しました。関東取締出役は、出役の不正を摘発して人員を一新して体制の強化をはかり、忠治の捕獲を試みました。しかし、1842年に忠治は道案内(目明し)の三室勘助・太良吉親子を殺害しました。中嶋家は東小保方村の名主を務め、忠治一家の浅次郎は三室勘助の甥にあたります。三室勘助は檀那寺である西小保方村の長安寺住職・憲海や領主・久永氏を相手とした訴訟に敗れると、1841年に隣村の八寸村八斉に移住し、関東取締出役の道案内に転身していました。三室勘助殺しにより、中山誠一郎ら関東取締出役は警戒を強化し、忠治一家の一斉手配を行いました。忠治は信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破って会津へ逃れましたが、日光円蔵や浅次郎らの子分を失いました。忠治は1846年、上州に帰還しましたが中風を患い、1848年に跡目を子分・境川安五郎に譲りました。忠治は上州に滞在し「盗区」で匿われていましたが、翌1850年9月29日に田部井村・名主家で関東取締出役によって捕縛されました。一家の主要な子分も同時に捕縛されました。捕縛後は、江戸の勘定奉行・池田頼方の役宅に移送されて取調べを受け、小伝馬町の牢屋敷に入牢しました。博奕・殺人・殺人教唆等、罪名は種々ありましたが、最も重罪である関所破り(碓氷関所)により、池田頼方の申し渡しによって上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)に移送され、当地で磔の刑に処せられました。享年41でした。

最後に、血の日曜日事件です。血の日曜日事件は、1905年1月22日にロシア帝国の当時の首都・サンクトペテルブルクで行われた労働者による皇宮への平和的な請願行進に対し、政府当局に動員された軍隊が発砲して多数の死傷者を出した事件です。この日は日曜日で、請願行進はガポン神父に主導されました。ガポンはロシア正教会の司祭であると同時に、国家秘密警察の給与を受ける工作員でした。請願の内容は、労働者の法的保護、「日露戦争」の中止、憲法の制定、基本的人権の確立などで、搾取・貧困・戦争に喘いでいた当時のロシア民衆の素朴な要求を代弁したものでした。当時のロシア民衆はロシア正教会の影響の下、皇帝崇拝の観念をもっていました。これは、皇帝の権力は王権神授によるもので、ロシア皇帝は東ローマ帝国を受け継ぐキリスト教(正教会)の守護者であるという思想です。このため、民衆は皇帝・ニコライ2世への直訴によって情勢が改善されると信じていました。行進に先立って挙行されたストライキへの参加者は、サンクトペテルブルクの全労働者18万人中、11万人に及び、行進参加者は6万人に達しました。当局は軍隊を動員してデモ隊を中心街へ入れない方針でしたが、余りの人数の多さに成功せず、軍隊は各地で非武装のデモ隊に発砲しました。発砲による死者の数は不明確ですが、反政府運動側の報告では4000人以上に達したと主張されています。事件の話はモスクワ市内に速やかに広まり、市内各所で暴動と略奪が行われました。ガポンが事件以前から組織していた労働者の集会は即日解散させられ、ガポンは直ちにロシアを離れました。ガポンは同年10月に帰国しましたが、翌1906年4月に社会革命党によって暗殺されました。この事件の結果、皇帝崇拝の幻想は打ち砕かれ、後に「ロシア第一革命」と呼ばれた全国規模の反政府運動が勃発しました。この時に始まったロシアの共産主義運動は、1917年の「ロシア革命(二月革命、十月革命)」のきっかけとなります。

今日の誕生日:椋鳩十、瑳川哲朗、千葉真一、湯川れい子、りんたろう、星野仙一、たかの友梨、能條純一、高橋惠子、大島蓉子、山田雅人、皆川おさむ、中西学、HEATH(X JAPAN)、土家里織、中田英寿、石川雅規、新内眞衣(乃木坂46)、松浦匡希(Official髭男dism)、市來玲奈(元乃木坂46)、佐々木久美(日向坂46)、生田絵梨花(乃木坂46)、武田杏香(元E−girls)

今日の記念日:飛行船の日、ジャズの日、カレーの日

今日の「今日訓」:本日は、1916年1月22日に、初の国産飛行船である陸軍の「雄飛号」が、所沢〜大阪間で実験飛行を行った事で「飛行船の日」、JAZZの"JA"がJanuary(1月)の先頭2文字で、"ZZ"が"22"に似ている事から「ジャズの日」、1982年に全国学校栄養士協議会が学校給食開始35周年を記念し、1月22日の給食のメニューをカレーに決め、全国の小中学校で一斉にカレー給食が出された事で「カレーの日」となりました。
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