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2020年01月18日00:27

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1月18日の日記

今日の出来事:1577年−都於郡城の戦い、1586年−天正地震、1615年−大坂冬の陣:和議が成立、1911年−大逆事件:幸徳秋水ら24名に死刑、2名に有期刑の判決、1944年−第二次世界大戦:レニングラードの戦いが終結

今日は、都於郡城の戦いです。「木崎原の戦い」で、島津義弘に敗れた伊東軍は、伊東祐安、伊東祐信ら5人の大将を初め、落合兼置、米良重方など伊東家の名だたる武将の多くが討死しました。この大敗を契機として、伊東義祐の勢力は衰退しました。1576年、伊東四十八城の一つである長倉祐政が治める高原城が、島津義久の3万の兵に攻められました。伊東義祐は援軍を出しましたが圧倒的な兵数差のため一戦も交えず、高原城は水の手を断たれて降伏しました。その翌日に、小林城と須木城を治める米良矩重が伊東義祐への遺恨から島津軍に寝返りました。後難を恐れた近隣の三ツ山城、野首城、更に三ツ山と野尻の堺にある岩牟礼城が島津軍に帰順しました。これによって、島津領と境界線である野尻と青井岳が逼迫の事態に陥りました。野尻城主・福永祐友は、何度も伊東義祐に事態打開を訴えましたが、直参家臣によって訴えはもみ潰されてしまいました。これは、伊東義祐が嫌な事を言う家臣を遠ざけ、自分に都合のいい事を言う家臣だけを側近にしていたためでした。翌1577年には、南の守りの要である櫛間城が島津忠長によって攻め落とされました。伊東義祐は、飫肥城主である三男・祐兵に櫛間への出兵を命じました。しかし、逆に島津忠長に反撃されて飫肥城に敗走し、飫肥城を包囲されてしまいました。また、日向北部の国人・土持氏が門川領への攻撃を開始したため、伊東家は北は土持氏、南と北西からは島津氏の侵攻を受ける事になりました。窮した伊東義祐は、次男・義益の嫡男で嫡孫の義賢に家督を譲りました。さらに、野尻城主・福永祐友が高原城主となった上原尚近の説得を受け入れ、島津軍に寝返りました。福永氏は伊東氏とは姻戚関係にあったため、この謀反は大きな衝撃となりました。これを知った内山城主・野村文綱、紙屋城主・米良主税助が島津方に寝返った為、佐土原の西の守りは完全に島津氏の手中に収められました。1577年1月16日、伊東義祐は事態の深刻さを受け止め、領内の諸将を動員して紙屋城奪回の兵を出しました。しかし、途中で背後から伊東家譜代臣の謀反の動きを察知し、即座に反転して都於郡城に帰城しました。翌17日、都於郡城で評定が開かれました。南の島津軍は飫肥を越えて、佐土原へ攻め寄せるのが必至の状況でした。城を包囲されて逃亡してきた伊東祐兵も佐土原に帰着しました。正午過ぎ、伊東義祐は日向を捨て、次男・義益の正室・阿喜多の叔父である豊後国の大友宗麟を頼る決断を下しました。1月18日、本拠である佐土原を捨てて豊後を目指しました。その伊東義祐一行の進路上に、新納院財部城主・落合兼朝が島津氏に迎合して挙兵した報せが入りました。落合氏は伊東氏が日向に下向する以前からの重臣で譜代の筆頭格でしたが、伊東義祐の寵臣・伊東祐松の専横が元で子息の落合丹後守を殺されており、それを深く恨んでいました。落合兼朝の裏切りにより、伊東義祐は己の今までの愚行に気付いて切腹しようとしましたが、家臣らに止められました。一行は財部に入るのを諦め、西に迂回して米良山中を経て、高千穂を通って豊後に抜けるルートを通る事にしました。女子供を連れての逃避行はかなり辛く苦しく、険峻な山を猛吹雪の中で進まねばなりませんでした。当初、150名程だった一行は、途中崖から落ちた者や足が動かなくなって自決する者、島津からの追撃や山賊にも悩まされ、豊後国に着いた時はわずか80名になっていました。その中には、後に「天正遣欧少年使節」の一人になる伊東マンショの幼い姿もありました。豊後に到着した伊東義祐は大友宗麟と会見し、日向攻めの助力を請いました。大友宗麟はその願いを受け、日向をキリスト教国にする野望を抱きました。1578年、松尾城の土持親成を攻めて土持氏を滅ぼすと島津氏と激突しました。この「耳川の戦い」で大友氏は島津氏に大敗を喫しました。このため、伊東義祐は子・祐兵ら20余人を連れて伊予国に渡って河野氏を頼り、河野通直の一族・大内栄運の知行地に匿われました。その後、1582年に伊東義祐らは伊予国から播磨国に渡りました。そこで伊東祐兵は、織田信長の家臣・羽柴秀吉に仕えていた同族の伊東長実の縁を得て、その斡旋で羽柴秀吉の扶持を受けるようになりました。

次に、天正地震です。天正地震は、天正13年(1586年)1月18日に日本の中部で発生した巨大地震です。地震は亥刻(22時頃)に発生し、翌日の丑刻(2時頃)にも大規模な余震が発生しました。その後も余震が続きました。近畿から東海、北陸にかけての広い範囲(現在の福井県、石川県、愛知県、岐阜県、富山県、滋賀県、京都府、奈良県)にまたがって甚大な被害を及ぼしました。また阿波でも地割れの被害が生じており、被害の範囲は1891年の「濃尾地震」を上回る広大なものでした。
飛騨国:飛騨国白川郷の帰雲城主・内ヶ島氏理は、上杉謙信や姉小路自綱の侵攻を受けましたが撃退し、佐々成政と接触しました。羽柴秀吉の「佐々成政征伐」の際には援軍として越中に赴きましたが、佐々成政は戦わずして剃髪して恭順しました。内ヶ島氏理の留守中に家臣の内応により、金森長近に城を奪われてしまいました。その後、金森長近を通じて羽柴秀吉と和睦し、内ヶ島氏の家名と所領が安堵されました。1586年1月18日、その日は帰雲城で和睦成立を祝う宴が開かれ、内ヶ島氏理はもちろん、娘婿・東常堯や嫡子・内ヶ島氏行など内ヶ島一族、重臣の主だったものが勢揃いしていました。深夜になって「天正地震」が発生し、帰雲城は帰雲山の山崩れに巻き込まれて完全に埋没しました。これにより、内ヶ島氏は一族郎党と共に全員死亡し、一夜にして内ヶ島氏は滅亡しました。この城跡に埋蔵金が埋まっているとの伝説があります。また、周辺の集落数百戸も同時に埋没の被害に遭い、多くの犠牲者を出しました。
美濃国:大垣城が全壊焼失しました。
越中国:木舟城(現在の高岡市の南西)が地震で倒壊しました。前田利家の弟で、木舟城主・前田秀継夫妻と多数の家臣が死亡しました。
尾張国:蟹江城が壊滅しました。
伊勢国:織田信雄の居城・長島城の天守が倒壊するなど甚大な被害を受けました。
京都:東寺の講堂、灌頂院が破損、三十三間堂では仏像600体が倒れました。
郡上八幡:奥明方(現・郡上市明宝)の水沢上の金山、集落が一瞬で崩壊し、辺り一面が大池となりました。
琵琶湖:「下坂浜千軒遺跡」となる現・長浜市の集落が液状化現象により、水没しました。豊臣秀吉の築いた近江・長浜城を山内一豊が居城としていましたが全壊し、一人娘・与祢姫と乳母が圧死しました。また、家老・乾和信夫妻も死亡しました。
その他:若狭湾、伊勢湾では大きな津波被害がありました。

その次に、大坂冬の陣:和議が成立です。徳川家康は、約20万の軍で大坂城を完全包囲しました。「真田丸の戦い」では、豊臣軍が徳川軍を撃退し、諸隊に大きな損害を与えました。1月8日より家康は大坂城に対する攻城を本格化させました。伊奈忠政・福島忠勝・毛利秀就・角倉素庵に命じて建設していた、淀川の流れを尼崎に流す長柄堤がこの日竣工しました。大和川があるため、干上がる事はありませんでしたが川の深さは膝下まで下がりました。本工事終了後、続いて大和川の塞き止めも行いました。また、諸隊に命じて毎夜三度(酉・戌・寅の刻)、鬨の声を挙げて鉄砲を放たせ、敵の不眠を誘いました。大坂城総構への南方からの大砲射撃も本格化しました。9日には投降を促す矢文を送りました。10日には甲斐や佐渡の鉱夫を動員して南方より土塁・石垣を破壊するための、坑道掘削を始めました。12日、家康は大名一人につき50本の熊手付き梯子を配りました。更に、船場の堀の埋め立ても命じました。そして17日から全軍より一斉砲撃が始められました。北方の備前島だけで大筒100門と石火矢が本丸北側の奥御殿に、南方の天王寺口からはこれまでの総構から本丸南方の表御殿千畳敷に目標を変更した砲撃が、和議締結まで打ち込まれ続けました。この砲撃では国友製3貫目の大砲が用いられ、芝辻理石衛門が作った大砲が使われました。この大砲は、世界的にも珍しい鍛造で作られた鉄製の大砲でした。この大砲の実物は現在、靖国神社の遊就館に奉納されています。その他、イギリスより購入したカルバリン砲4門、セーカー砲1門や7日前に兵庫に到着したオランダ製4・5貫目の大砲12門も含まれていました。この砲声は京にも届き、その音が途切れる事はなかったそうです。これに対して豊臣方は近接する徳川方に激しく銃撃し、竹束のみの時は一手に付き300〜500人の死傷者が出ましたが、相手が築山・土塁を築くと鉄砲の効果は激減しました。また砲撃に対抗してこちらも砲撃したり、塙団右衛門が蜂須賀至鎮に夜襲をしかけて戦果をあげました(本町口の戦い)。徳川軍は豊臣軍の買占めによる兵糧不足と真冬の陣であったため、織田有楽斎を通じて豊臣方との和平交渉を行いました。16日には淀殿が人質として江戸に行く替わりに、籠城浪人のための加増を条件とした和議案が豊臣方より出されましたが、家康はこれを拒否しました。豊臣方も兵糧に加えて弾薬の欠乏や徳川方が仕掛けた心理戦、大砲で櫓・陣屋などに被害を受けて将兵は疲労していました。そして、本丸への砲撃が近くに着弾し、淀殿の侍女8名が死亡しました。豊臣家で主導的立場にあった淀殿は「大坂城は10年でも持ち堪えられる」と言っていましたが、そのあまりに凄惨な光景を見て即刻和議に応ずる事になりました。また、朝廷から後陽成上皇の命により、広橋兼勝と三条西実条を使者として家康に和議を勧告しました。家康はこれも拒否し、あくまで徳川主導で交渉を進めました。交渉は徳川方の京極忠高の陣で、家康側近・本多正純と阿茶局、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹・常高院との間で行われ、講和条件が合意して誓書が交換され、和平が成立しました。同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させました。講和内容は豊臣家側の条件として「本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める事」、「淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出す事」が提出され、これに対して徳川家が「秀頼の身の安全と本領の安堵」、「城中諸士についての不問」を約束する事で、和議は成立しました。この他、秀頼・淀殿の関東下向を行わなくて良い事も決められました。和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていました。この城割(城の破却)に関しては古来より行われていましたが、大抵は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものでした。しかし、徳川側は徹底的な破壊を実行しました。松平忠明、本多忠政、本多康紀を普請奉行とし、家康の名代・本多正純、成瀬正成、安藤直次の下、攻囲軍や地元の住民を動員して突貫工事で外堀を埋めた後に、二の丸も埋め立て始めました。二の丸の埋め立てについては、周辺の家・屋敷を破壊してまで埋め立てを強行しました。講和後、駿府に帰る道中に家康は埋め立ての進展について何度も尋ねました。工事が完了すると、諸大名は帰国の途に就きました。この際、門や櫓も徹底的に破壊されました。こうして、「大坂冬の陣」は終了しました。

その次の次に、大逆事件:幸徳秋水ら24名に死刑判決です。堺利彦や片山潜らが「平民新聞」などで、労働者中心の政治を呼びかけ、民衆の間でもそのような気風が流行りつつあった中の1910年5月25日、信州の社会主義者・宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚して逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こりました。以降、この事件を口実に全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、根絶やしにする弾圧を政府が主導し、フレームアップ(政治的でっち上げ)したとされる事件です。「信州明科爆裂弾事件」後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴しました。検事総長・松室致、大審院次席検事・平沼騏一郎、神戸地裁検事局検事正・小山松吉らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行が行われました。平沼騏一郎は論告求刑で「動機は信念なり」としました。検挙された一人・大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼みました。判決の2ヶ月前の1910年11月22日を皮切りに、アメリカのアナキスト、エマ・ゴールドマンらがニューヨークで抗議集会を開くなどの抗議運動を展開し、全米に抗議運動が広がりました。さらにイギリスやフランスにも抗議運動が起こり、各国の日本大使館に抗議デモが押し寄せました。幸徳秋水は審理終盤に「一人の証人調べさえもしないで判決を下そうとする暗黒な公判を恥じよ」と陳述しました。1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決が下されました。1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童の11名が、1月25日に管野スガが処刑されました。特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明(1916年5月18日、秋田刑務所で服役中に自殺)、峯尾節堂(1919年3月6日、千葉監獄で獄死)、岡本穎一郎(1917年7月27日、長崎監獄で獄死)、三浦安太郎(1916年5月18日、長崎監獄で自殺)、佐々木道元(1916年7月15日、千葉監獄で獄死)の5人です。仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治の7人だけでした。「赤旗事件」で有罪となって獄中にいた大杉栄、荒畑寒村、堺利彦、山川均は事件の連座を免れましたが、この事件の影響で、社会主義運動は数多くの同志や仲間を失ってしばらくの間、運動が沈滞したため「冬の時代」と呼ばれます。敗戦後、関係資料が発見され、暗殺計画にいくらかでも関与・同調したとされているのは、宮下太吉、管野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5名であった事が判明しました。1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進されました。これに関して最高裁判所は1967年以降、再審請求棄却及び免訴の判決を下しています。

最後に、第二次世界大戦:レニングラードの戦いが終結です。レニングラードは1939年当時で319万人の人口を擁し、ソ連第2の大都市でした。建都時は、「サンクトペテルブルク」という名のロシア帝国の首都でした。都市の名は「聖ペテロの街」を意味します。これは、建都を命じたロシア帝国初代皇帝・ピョートル大帝が、自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けたものです。1914年、「第一次世界大戦」が始まりロシアがドイツと交戦状態に入ると、ロシア語風にペトログラードと改められました。さらに「ロシア革命」により「ソビエト連邦」が成立すると1924年より、ソビエト連邦初代指導者・レーニンにちなんでレニングラードと改称されました。1941年6月22日、ドイツ軍はソ連への侵攻作戦「バルバロッサ作戦」を開始しました。ヒトラーは3つの軍集団のうち、北方軍集団に対してレニングラードの占領・破壊を指令していました。独ソ国境付近に布陣していたソ連軍は敗退を重ね、ドイツ軍は短期間のうちに「バルト三国」を進撃してレニングラード前面へ迫りました。6月27日、レニングラードの労働者評議会は、市民を防御施設の建設工事に動員する事を決定しました。ドイツ軍の来襲までに完成した防御施設は、木材障害物190km、鉄条網635km、対戦車壕700km、トーチカ5000カ所、塹壕25000kmに及びました。6月26日、フィンランドはソ連に対して宣戦を布告し、「冬戦争」の際にソ連に奪われたカレリア地方へ侵攻しました(継続戦争)。フィンランド軍は9月7日までにレニングラードの北160kmまで到達しましたが、「冬戦争」以前の国境線を越えて前進する事は控えました。9月4日にヨードルはフィンランド軍総司令官・マンネルヘイムを訪れ、レニングラードへの攻撃を要請しましたが、マンネルヘイムは拒絶しました。ドイツ軍の急進撃とソ連側の混乱のために、レニングラード市民の疎開はほとんど進んでいませんでした。8月30日、ドイツ軍はネヴァ川に到達し、レニングラードに通じる最後の鉄道線路が遮断されました。9月4日に市内への砲撃が開始されました。9月8日、ドイツ軍はラドガ湖に到達し、遂にラドガ湖上を通るルートを除く全ての連絡線が完全に遮断されました。そして、空襲によって市内178カ所で火災が発生しました。レニングラードの軍管区司令官・ジューコフが優れた防御陣地を構築したため、ドイツ軍は市街地への強襲は避けて包囲しました。10月7日にヒトラーは、一切の降伏を受け入れないとする指令を発しました。連絡線の遮断によってレニングラードへの補給は途絶されました。9月2日、市民への食糧の配給が削減され、9月8日の空襲では穀類や砂糖が焼失しました。肉体労働者は1日にパン500g、労働者は300g、その他の市民と子供は250gと定められました。9月末には石油と石炭が尽きました。唯一の燃料は倒木でした。電力供給も不足し、電力の使用は軍の司令部や地域委員会、防空拠点などを除き厳禁とされました。大部分の工場が操業を停止し、11月には全ての公共交通機関が運行を停止しました。1942年の春には一部の路面電車が運行を再開しましたが、トロリーバスとバスは終戦まで再開しませんでした。冬が近づく頃、飢餓による死が襲ってきました。植物学者のニコライ・ヴァヴィロフの研究スタッフの1人は、食用にする事もできた20万種の植物種子コレクションを守ろうとして餓死しました。レニングラードの街角は死体で溢れました。やがて食料が切れた市内には飢餓地獄が訪れ、死体から人肉を食らう凄惨な状況が常態化しました。人肉を売る店まで現れ、人々はそれで飢えをしのぎました。特に子供の人肉は美味とされたので、市内では子供の誘拐・殺人が横行しました。11月20日にラドガ湖が結氷し、馬橇の輸送部隊が氷上を通ってレニングラードへ物資を送り届けました。その後、トラックによる輸送も可能となりました。この氷上の連絡路は「命の道」と呼ばれました。これにより湖の対岸から市内へ物資が運び込まれ、市民の脱出も可能となりました。「命の道」は1942年4月24日までの152日間、利用可能でした。この間に市民51万4千人、負傷した兵士3万5千人がレニングラードから脱出し、重要な産業設備も運び出されました。「命の道」は対空砲と戦闘機によって防衛されましたが、ドイツ軍の砲撃と空襲による脅威にさらされ続けて危険度が高かったため、人々は皮肉を込めてこれを「死の道」と呼びました。1942年の夏にはラドガ湖の湖底を通る長さ29kmの石油パイプライン「命の動脈」が敷設されました。冬になると「命の道」は再開し、12月20日から馬の往来が始まり、12月24日から自動車輸送も開始され、氷上鉄道の建設も行われました。1943年1月12日、ラドガ湖南岸におけるソ連軍の反攻作戦が開始され、1月18日にはレニングラードへの陸上ルートが確保されました。その後もレニングラードはドイツ軍による部分的な包囲下におかれ、爆撃と砲撃を受けましたが、1944年1月にはソ連軍の攻勢によりドイツ軍は撤退し、包囲は完全に解かれました。1944年の夏にはフィンランド軍も開戦時の位置まで押し戻されました。「独ソ戦」の開始から数週間でのソ連軍の敗退は連合国の人々を意気消沈させましたが、レニングラードの抵抗は人々を勇気付けました。レニングラードは1945年にスターリンによって「英雄都市」の称号を与えられました。包囲戦の犠牲者数は、戦後のソ連政府による公式発表では死者67万人という事でしたが、他の研究では死者は70万人〜150万人という推計値が示されています。これは日本本土における民間人の戦災死者数の合計(東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎を含む全て)を上回ります。犠牲者の多くはピスカリョフ記念墓地に埋葬されました。包囲戦の記憶は市民の心に暗い影を落としました。市民はそれまでレニングラードが文化都市である事を誇りとしてきました。図書館の蔵書や18世紀の骨董家具を燃やすか、それとも凍え死ぬかという選択は辛いものでした。一方、レニングラードが900日近くにわたって抵抗を続け、「トロイも陥ち、ローマも陥ちたが、レニングラードは陥ちなかった」事は市民の新たな誇りとなりました。レニングラードは「ソ連崩壊」を受けて、1991年に住民投票によってロシア帝国時代の名称「サンクトペテルブルク」に再び戻りました。ロシア人の間ではピーテルの愛称で呼ばれています。州名は従来どおりレニングラード州となっています。今でもサンクトペテルブルク市内では、ドイツ軍による砲撃を避けるために設置された標識が修復されて、保存されています。

今日の誕生日:シャルル・ド・モンテスキュー、松平定敬、鈴木貫太郎(第42代内閣総理大臣)、石原莞爾、全斗煥(第11・12代大韓民国大統領)、上田利治、小椋佳、おすぎ、ピーコ、衣笠祥雄、北野武・ビートたけし(ツービート)、笑福亭鶴光、森山良子、伊原春樹、ケビン・コスナー、秋野暢子、桑江知子、片桐はいり、宮沢和史(THE BOOM)、中山忍、 荒川良々、新井浩文、上野まな、長谷部誠、惣田紗莉渚(SKE48)、知英「カン・ジヨン」(元KARA)

今日の記念日:都バスの日、118番の日、カップスターの日

今日の「今日訓」:本日は、1924年1月18日に東京市営乗合バスが営業を開始した事で「都バスの日」、118の語呂合わせで、海上での事件・事故の緊急通報用電話番号「118番の日」となりました。海難事故のみならず、海上における不発弾(機雷等)発見、密航・密輸、不審船情報や海上環境事犯の通報先ともなっています。1975年1月18日に「カップスターしょうゆ」が発売された事で「カップスターの日」となりました。
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