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2019年12月14日00:27

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12月14日の日記

今日の出来事:1285年−霜月騒動、1864年−天狗党の乱:下仁田戦争、1868年−箱館戊辰戦争:知内の戦い、1973年−豊川信用金庫事件、女子高生の冗談が元で豊川信用金庫で20億円の取り付け騒ぎ

今日は、霜月騒動です。霜月騒動は、八代執権・北条時宗の死後、有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱の対立が激化し、平頼綱の先制攻撃を受けた安達泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件です。安達泰盛は鎌倉幕府創設以来の有力御家人、安達氏の一族で北条氏得宗家の外戚として執権・北条時宗を支え、越訴頭人、御恩奉行などの重職を歴任した幕政の中心人物でした。平頼綱は北条時宗の嫡子・貞時の乳母父で、北条氏得宗家の執事内管領であり、得宗権力を具現する立場にありました。幕府では外様御家人を支持勢力とする安達泰盛と、平頼綱を筆頭とする得宗被官勢力が拮抗していました。1284年に両者の調停役となっていた執権・北条時宗が死去し、14歳の貞時が9代執権となると蒙古襲来以来、諸問題が噴出する中で幕政運営を巡って両者の対立は激化しました。北条貞時の外祖父として幕政を主導する立場となった安達泰盛は、「弘安徳政」と呼ばれる幕政改革に着手し、新たな法令「新御式目」を発布しました。将軍を戴く御家人制度の立て直しを図る安達泰盛の改革は御家人層を拡大し、将軍権威を発揚して得宗権力と御内人の幕政への介入を抑制するもので、得宗被官である平頼綱らに利害が及ぶものでした。1285年12月1日と11日に平頼綱は日光山別当・源恵に依頼し、安達泰盛討伐の祈祷を行いました。12月14日の午前中、松谷の別荘に居た安達泰盛は周囲が騒がしくなった事に気付き、昼の12時頃、塔ノ辻にある出仕用の屋形に出かけ、北条貞時邸に出仕したところを御内人の手勢に阻まれて死者30名、負傷者10名を出しました。これをきっかけに大きな衝突が起こり、将軍御所が延焼、午後4時頃に合戦は安達方の敗北となり、安達泰盛、嫡子・宗景、弟・長景以下一族は自害・討ち死にして果てました。安達時景は飯山に逃亡しましたが殺害されました。安達一族500名余りが自害し、騒動は全国に波及して各地で安達泰盛派が追撃を受け、自害しました。安達氏の基盤である上野国・武蔵国の御家人の被害が多く、武蔵では武藤少卿左衛門、遠江国では安達宗顕、常陸国では安達重景、信濃国では伴野彦二郎らが自害しました。九州では安達泰盛の子・安達盛宗が「岩門合戦」で敗死しました。これだけの人数が一気に討ち死に、自害に追い込まれたのは用意周到な計画の元で時間を定めて一斉に襲撃したためでした。安達泰盛の与党として罹災したのは安達泰盛一族の他、小笠原氏、足利氏、伴野氏、伊東氏、武藤氏(少弐氏)、その他は藤原相範、吉良満氏、大江泰広、小早川三郎左衛門、三科蔵人、天野景村、伊賀景家、二階堂行景、大井美作三郎左衛門、綱島二郎入道、池上藤内左衛門の尉、行方少二郎、南部孫二郎、有坂三郎、鎌田弥藤二左衛門尉、秋山人々など、幕府創設以来の有力御家人層が多くいます。一方、平頼綱方の討手として得宗被官化した御家人の佐々木氏、今川氏、千葉氏なども加わっており、同族内でも平頼綱方と安達泰盛方に分かれるなど、幕府を大きく二分した争乱となりました。安達泰盛と縁戚関係のあった金沢顕時(泰盛の娘婿)は下総国に蟄居の身となり、宇都宮景綱、長井宗秀らは失脚しました。こうして実権を握った平頼綱は、安達泰盛の「弘安改革」を否定し、幕府の人事は得宗を頂点に大仏流、名越流を中心に北条一族の支配となり、足利氏ら旧来の御家人の姿は無くなりました「得宗専制」。京都では安達泰盛と協調して「弘安徳政」を行っていた亀山上皇の院政停止(持明院統・伏見天皇即位)が行われました。この「霜月騒動」は、源頼朝没後に繰り返された北条氏と有力御家人との間の最後の抗争で、この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱が率いる得宗家被官(御内人)勢力の覇権が確立しました。

次に、天狗党の乱:下仁田戦争です。水戸藩「天狗党」は、「大発勢」の解体と「那珂湊の戦い」での敗戦により大混乱に陥りましたが、脱出に成功した千人余りが水戸藩領北部の大子村(茨城県大子町)に集結しました。ここで武田耕雲斎を首領に、軍師・山国兵部、筑波勢の田丸稲之衛門と藤田小四郎を副将とし、上洛して禁裏御守衛総督・一橋慶喜を通じて、朝廷へ「尊皇攘夷」の志を訴える事を決しました。これが「天狗西上」です。武田耕雲斎らは、「天狗党」が度重なる兇行によって深く民衆の恨みを買い、そのため反撃に遭って大損害を被った事を踏まえ、好意的に迎え入れる町に対しては放火・略奪・殺戮を禁じるなどの軍規を定めました。道中、この軍規がほぼ守られたため通過地の領民は安堵し、好意的に迎え入れました。「天狗党」は大子を出発し、京都を目標に下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、主として中山道を通って進軍を続けました。この時、道中に位置する諸藩には幕府から「天狗党追討命令」が出されていましたが、これらの藩はほとんどが「天狗党」が通過して行くのを傍観していました。また諸藩の中には密かに「天狗党」と交渉し、城下の通行を避けてもらう代わりに軍用金を差し出す藩もありました。「天狗党」が上州・一ノ宮(富岡市一ノ宮)に入ると、幕命を受けた高崎藩は藩兵3隊320人余りの追撃隊を下仁田に向かわせ、先回りして下仁田の先の下小坂に本陣を構えました。12月14日、両軍の砲声が山々にこだまし、「天狗党」920余名と高崎藩の2隊により「下仁田戦争」がはじまりました。戦いは一進一退でしたが、「天狗党」の三面奇襲により高崎藩は敗れ、残兵は中山道で高崎に敗走しました。高崎藩本陣付近での激戦は午前4時から6時頃まで続きました。この戦いで高崎藩は36名、「天狗党」4人の戦死者を出しました。深手を負い捕えられた高崎藩士7名は青岩河原で処刑されました。また「天狗党」の戦死者は村内の寺に厚く葬られました。重傷者の中には信州への峠を越えて絶命した者もいました。

その次に、箱館戊辰戦争:知内の戦いです。旧幕府軍は五稜郭へ入城し、榎本武揚は艦隊を箱館へ入港させました。箱館府知事・清水谷公考は、秋田藩の「陽春丸」に乗船して青森へ退却しました。蝦夷地を本拠とする松前藩は「奥羽越列藩同盟」に属していましたが、政変「正義隊事件」が発生し、新政府軍の先鋒として旧幕府軍と対峙する事になりました。旧幕府軍は松前藩に対して降伏勧告の使者を送りましたが、使者が殺されたため、戦う事を決意しました。土方歳三を総督として、「額兵隊」、「衝鋒隊」などからなる700名が松前城に向けて出陣しました。12月14日に知内の萩砂里に宿営しました。この時、矢越方面から上陸した松前藩の兵が夜襲をかけました。松前軍は火を放ち一時混乱しましたが、間もなく態勢を整えて撃退しました。松前藩兵は福島へ引きました。

最後に、豊川信用金庫事件です。豊川信用金庫事件は、1973年12月、愛知県宝飯郡小坂井町(現・豊川市)を中心に「豊川信用金庫が倒産する」という噂から取り付け騒ぎが発生し、短期間に約26億円もの預貯金が引き出された事件です。警察が信用毀損業務妨害として捜査を行った結果、女子高生の雑談をきっかけとした自然発生的な流言が原因である事が判明しました。デマがパニックを引き起こすまでの詳細な過程が解明された珍しい事例で、心理学や社会学の教材になっています。1973年12月8日(土)、下校中の飯田線車内で、豊川信用金庫に就職が決まった女子高校生Aを、友人BとCが「信用金庫は危ないよ」とからかいました。これは信金の経営状態ではなく、「信用金庫は強盗が入ることがあるので危険」の意味で、それも冗談でしたがAは真に受けました。その夜、Aから「信用金庫は危ないのか?」と尋ねられた親戚Dは、信用金庫を豊川信金だと判断して信金の近くに住む親戚Eに「豊川信金は危ないのか?」と電話で問い合わせました。翌9日(日)、Eは美容院のFに「豊川信金は危ないらしい」と話しました。10日(月)、Fが親戚Gにこの話をした際、居合わせたクリーニング業Hの耳に入り、彼の妻Iに伝わりました。11日(火)、小坂井町の主婦らの間で豊川信金の噂が話題となり、通りがかりの住民の耳に入りました。この時、噂は「豊川信金は危ない」との断定になりました。12日(水)、街の至るところで豊川信金の噂の話題が持ちきりとなりました。13日(木)、Hの店で電話を借りたJが「豊川信金から120万円おろせ」と電話の相手に指示しました。Jは噂を全く知らず、ただ仕事の支払いで金を下ろす指示をしただけでした。これを聞いたIは豊川信金が倒産するので預金をおろそうとしていると勘違いし、慌てて同信金から180万円をおろしました。その後、HとIは知人にこの話をしました。これを聞いたアマチュア無線愛好家が、無線を用いて噂を広範囲に広めました。この後、豊川信金窓口に殺到した預金者59人により、約5000万円が引き出されました。豊川信金小坂井支店に客を運んだタクシー運転手の証言によると、昼頃に乗せた客は「豊川信金が危ないらしい」、14:30の客は「豊川信金が危ない」、16:30頃の客は「豊川信金が潰れる」、夜の客は「明日はもうあそこのシャッターは上がるまい」と時間が経つにつれて噂は誇張されていきました。14日(金)、事態の収拾のため豊川信金が出した声明が曲解され、パニックに拍車が掛かりました。その後、「職員の使い込みが原因」、「理事長が自殺」という二次デマが発生し、事態は深刻化しました。信金側の依頼を受け、マスコミ各社は14日の夕方から15日朝にかけて、デマである事を報道して騒動の沈静化を図りました。新聞の見出しは「デマ、5000人を走らせる」、「デマで取り付け騒ぎ」でした。15日(土)、大蔵省東海財務局長と日本銀行名古屋支店長が連名で豊川信金の経営保障をしました。自殺したと噂された理事長が自ら窓口対応に立った事も奏功し、事態は沈静化に向かいました。そして、16日(日)に警察がデマの伝搬ルートを解明し、発表しました。

今日の誕生日:応神天皇、後朱雀天皇(第69代天皇)、ノストラダムス、阪東妻三郎、錦野旦、世良公則(元世良公則&ツイスト)、須藤満(T−SQUARE)、高野寛、田中幸雄、勝間和代、大塚亮二「Ryoji」(ケツメイシ)、谷田部俊(我が家)、田口理恵(元Say a Little Prayer)、マイケル・オーウェン、中野美奈子、坂本勇人、高畑充希、井上小百合(乃木坂46)

今日の記念日:南極の日 、討ち入りの日/忠臣蔵の日

今日の「今日訓」:本日は、1911年12月14日にノルウェーの探検家ロアール・アムンセンと4人の隊員が、人類で初めて南極点に到達した事で「南極の日」、旧暦の元禄15年12月14日(新暦1703年1月30日)に、赤穂浪士の四十七士が吉良上野介邸へ討ち入りを行った事で「討ち入りの日」、「忠臣蔵の日」となりました。赤穂市では「赤穂義士祭」、赤穂浪士の墓所・泉岳寺では「義士祭」、吉良邸跡である両国・本所松坂町公園では「吉良祭」が行われます。
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