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2019年12月13日00:51

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12月13日の日記

今日の出来事:658年−有間皇子の変、1864年−中山忠光暗殺、1867年−油小路事件、1937年−日中戦争:日本軍が南京を陥落させ、南京攻略戦が終結

今日は、有間皇子の変です。有間皇子は、軽皇子の皇子です。645年7月12日に父が即位して孝徳天皇となりました。孝徳天皇は646年1月1日に都を「難波宮」に移しましたが、それに反対する皇太子・中大兄皇子(後の天智天皇)は653年に都を「倭京」に戻す事を求めました。孝徳天皇がこれを聞き入れなかったため、中大兄皇子は勝手に「倭京」に移りました。皇族達や群臣達のほとんどと、孝徳天皇の皇后・間人皇女が中大兄皇子に従って「倭京」に戻りました。失意の中、孝徳天皇は654年11月24日に崩御しました。このため、655年2月14日に孝徳天皇の姉・宝皇女(元・皇極天皇)が再び飛鳥「板葺宮」で斉明天皇として重祚しました。有間皇子は、政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に赴きました。飛鳥に帰った後に病気が完治した事を斉明天皇に伝えると、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、斉明天皇は紀の湯に行幸しました。飛鳥に残っていた有間皇子に蘇我赤兄が近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘すると、自分は味方であると告げました。有間皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにしました。ところが、蘇我赤兄が中大兄皇子に密告したため謀反計画は露見し、有間皇子は守大石、坂合部薬らと捕らえられました。有間皇子は658年12月9日に中大兄皇子に尋問され、その際に「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ。」と答えました。翌々日に、有間皇子は藤白坂で絞首刑に処せられました。亨年19でした。処刑に先んじて、磐代の地で有間皇子が詠んだ2首の辞世歌が「万葉集」に収録されています。

次に、中山忠光暗殺です。中山忠光は、権大納言・中山忠能の七男で、母は平戸藩主・松浦清の娘・愛子です。中山忠愛は同母兄で明治天皇の生母・中山慶子は同母姉にあたります。正室は平戸藩主・松浦熈(祖父・松浦清の息子)の娘・富子で子女はいませんが、長府藩潜伏中に現地女性の恩地登美を侍妾とし、仲子(南加、嵯峨公勝夫人)をもうけています。早くより真木和泉、吉村虎太郎ら尊王攘夷派の志士と交り、公武合体派の排斥運動では急先鋒となって画策しました。1863年、朝廷に国事寄人が新設されると19歳でこれに加えられましたが、ひそかに京都を脱して長州藩に身を投じ、官位を返上して森俊斎(秀斎)と改名しました。久坂玄瑞が率いる「光明寺党」の党首として下関での外国船砲撃「下関事件」に参加しました。「大和行幸の詔」が出されると攘夷先鋒の勅命を奉じると称して退京し、吉村虎太郎らと共に大和五條の代官所を襲撃して挙兵しました「天誅組の変」。しかし、「八月十八日の政変」によって京都の尊攘過激派が一掃されると朝廷からも見放され、幕府により追討を命じられた彦根藩や紀伊藩兵などにより鎮圧されました。中山忠光は大坂へ脱出し長州に逃れました。長州藩は中山忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護しましたが、1864年の「禁門の変」、「四国艦隊下関砲撃事件」、「第一次長州征伐」によって藩内「俗論派」が台頭すると、長府藩の豊浦郡田耕村で野々村三九郎ら5人の刺客によって暗殺されました。長府藩主が維新後、子爵にとどまったのはこのためと言われています。長府藩潜伏中に寵愛した侍妾・恩地登美は、中山忠光が暗殺された後に遺児・仲子を産みました。中山忠光の正室・富子が仲子を引き取って養育する事になり、公家の姫として育てるために中山忠光が暗殺された長府藩の藩主家・毛利氏の養女となり、公家・中山家に引き取られました。富子は亡き夫の忘れ形見の仲子を大事に育て上げ、維新後に仲子は嵯峨公勝夫人となりました。また、清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟・溥傑に嫁いだ正親町三条家(嵯峨家)出身の浩は、中山忠光の曾孫にあたります。

その次に、油小路事件です。油小路事件は、「新選組」と「御陵衛士」の抗争で、新選組最後の内部抗争です。伊東甲子太郎は、常陸志筑藩士(郷目付)・鈴木専右衛門忠明の長男として生まれました。鈴木忠明が家老との諍いによって隠居した後、家督を相続しましたが、後に忠明の借財が明らかになった事から家名断絶となり、一家は領外へ追放されました。その後、水戸へ遊学して水戸藩士・金子健四郎に剣術(神道無念流)を学び、水戸学を学んで勤王思想に傾倒しました。後に江戸深川佐賀町の北辰一刀流剣術伊東道場に入門し、道場主の伊東精一に力量を認められて婿養子となり、伊東大蔵と称しました。1864年、同門の藤堂平助の仲介で「新選組」に加盟、弟の鈴木三樹三郎、盟友の篠原泰之進や加納鷲雄、服部武雄、門人の内海二郎や中西昇らと上洛しました。この時、上洛の年(甲子)に因んで伊東甲子太郎と称しました。参謀兼文学師範に任じられ、容姿端麗で巧みな弁舌から、伊東甲子太郎に対する人望が高まりました。しかし、伊東甲子太郎と「新選組」は「攘夷」という点で結ばれていましたが、「新選組」は佐幕派で、「勤王(倒幕)」を説こうとする方針をめぐり、密かに矛盾が生じていました。西国を遊説した後の1867年4月14日、薩摩藩の動向探索と孝明天皇の御陵警備任務の拝命を名目に「新選組」を離脱し、同志15名(鈴木三樹三郎、篠原泰之進、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助、富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、加納鷲雄、中西昇、橋本皆助、清原清、新井忠雄、斎藤一)と共に「御陵衛士(高台寺党)」を結成しました。他にも、茨木司、佐野七五三之助、富川十郎、中村五郎ら10名も後に合流を図りましたが、嘆願に行った会津藩邸で茨木、佐野、富川、中村の4人が死亡、残りの6人が放逐されました。隊で居場所を失って脱走した武田観柳斎は合流を拒否されました。「御陵衛士(高台寺党)」を結成した伊東甲子太郎は勤王倒幕運動に勤しみ、薩摩と通謀して近藤勇を暗殺しようと企んでいる事が、「新選組」が間諜として潜り込ませていた斎藤一によって明らかとなりました。近江屋事件の3日後の1867年12月13日、近藤勇は資金の用立て・国事の相談があるとの口実で七条の妾宅に伊東甲子太郎を招いて酒宴を張り、帰路に大石鍬次郎らが待ち伏せて槍を以って伊東甲子太郎を暗殺しました。伊東甲子太郎は深手でしたが一太刀を敵に浴びせ、「奸賊ばら」と叫んで、本光寺前で絶命しました。「新選組」は油小路七条の辻に伊東甲子太郎の遺骸を放置し、その周りに伏せて遺体を引き取りにきた同志をまとめて粛清しようとしました。遺骸を引き取りにきた同志は、藤堂平助・篠原泰之進・鈴木三樹三郎・服部武雄・毛内有之助・加納鷲雄・富山弥兵衛の7名でした。この待ち伏せによって、「新選組」結盟以来の生え抜き隊士で元八番隊組長を務めた藤堂平助のほかに、服部武雄・毛内有之助の3名が討死しました。藤堂平助は、近藤勇と試衛館以来の同志である永倉新八・原田左之助が逃がそうと試みましたが、近藤勇の心情を理解出来なかった他の隊士に斬られました。服部武雄は隊内でも相当な二刀流の使い手として知られていたため、孤軍奮闘しました。民家を背にして激戦し、「新選組」に多数の負傷者を出しました。しかし、最後は服部武雄の刀が折れた隙を狙って、原田左之助が槍を繰り出し、一斉に斬りかかって絶命しました。毛内有之助の遺体は五体がバラバラに切り刻まれていました。鈴木三樹三郎・加納鷲雄・富山弥兵衛は逃げ延び、今出川薩摩藩邸にかくまわれました。その後、油小路から逃げ延びた篠原泰之進と、不在だった阿部十郎、内海次郎、新井忠雄、清原清も今出川薩摩藩邸に合流し、伏見薩摩藩邸に移されました。1ヶ月後に、篠原泰之進ら御陵衛士の生き残りは伏見街道の民家に伏せ、二条城からの帰りの近藤勇を狙撃、右肩に重傷を負わせました。伊東甲子太郎ら4名の遺体は、鈴木三樹三郎らによって泉涌寺塔頭戒光寺に改葬されました。この葬儀は大名でも珍しいほど盛大で、雨天の中、生き残りの衛士7名は騎乗、その他150人ほどが野辺送りをし、その費用は新政府参与の役所から出されました。「戊辰戦争」の時、劣勢となった近藤勇は流山で大久保大和と称して新政府軍に出頭しましたが、新政府軍に加わっていた加納鷲雄に正体を看破されて捕縛され、斬首となりました。

最後に、日中戦争:日本軍が南京を陥落させ、南京攻略戦が終結です。「第二次上海事変」で日中の全面衝突が始まった後、日本軍は上海付近の敵を掃討して中国側の戦意を喪失させ、戦争を終結させる目的で11月7日に中支那方面軍を編成しました。上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線までを作戦制限区域としました。11月16日、国民政府は重慶への遷都を宣言しました。中支那方面軍は独断で作戦制限区域を越え、さらに南京攻略の必要性を上申しました。11月24日に大本営は中支那方面軍の作戦制限区域を解除しました。松井石根司令官が率いる上海派遣軍と第10軍は、軍中央の方針を無視して首都・南京に攻め上りました。12月1日に大本営は南京攻略を命令しました。蒋介石は12月7日に南京を脱出し、唐生智に後を任しました。中国軍の複郭陣地を次々と突破した日本軍は、12月8日に中支那方面軍は南京を包囲しました。12月9日、司令官・松井石根は、中国軍に対して無血開城を勧告しました。中国軍が開城勧告に応じなかったため、12月10日、日本軍は進撃を開始しました。12月12日、唐生智は逃亡しました。その際、兵を逃げられないようにトーチカの床に鎖で足を縛りつけ、長江への逃げ道になる南京城の邑江門には、仲間を撃つ事を躊躇しない督戦隊を置いていきました。12月13日に南京は陥落し、日本軍は南京城に入城しました。この南京陥落後に日本軍は多数の民間人や捕虜を不法に殺害したと言われている「南京大虐殺」が起こりました。「南京大虐殺」の被害者は30万人と言われています。「東京裁判」では、司令官・松井石根が「南京大虐殺」の罪で死刑になりました。また、「南京軍事法廷」では、第6師団長だった谷寿夫が起訴されて死刑となりました。その他、「百人斬り競争」として報道された野田毅と向井敏明、非戦闘員の「三百人斬り」を行ったとして田中軍吉が死刑となりました。

今日の誕生日:城達也、仲代達矢、みなみらんぼう、山上たつひこ、浅田次郎、ミッキー吉野(ゴダイゴ)、井筒和幸、芦川よしみ、樋口可南子、恩田快人(元JUDY AND MARY)、hide(X JAPAN)、織田裕二、柴崎浩(元WANDS)、井戸田潤(スピードワゴン)、黒木知宏、角田晃広(東京03)、松ヶ下宏之(Bluem of Youth)、綾部祐二(ピース)、妻夫木聡、瑛太、田中幸太朗、木下あゆ美、恩田美栄、横峯さくら、古川愛李(元SKE48)、おかもとまり、おのののか、家入レオ、前田航基(まえだまえだ)、青島俊作

今日の記念日:正月事始め、ビタミンの日、美容室の日、胃に胃散の日

今日の「今日訓」:本日は、正月を迎える準備を始める日「正月事始め」です。1913年に鈴木梅太郎が、米糠から抽出した脚気を予防する成分に「オリザニン」と命名した事を記念し「ビタミンの日」となりました。オリザニンは、この1年後に発見された「ビタミンB1」と同じ物質である事が判明します。12月は美容室に多くの客が訪れる月で、13日は「13」をくっつけると「Beauty」の頭文字Bになる事から「美容室の日」、「胃(1)に(2)胃(1)散(3)」の語呂合わせで「胃に胃散の日」となりました。
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