mixiユーザー(id:48382454)

2019年12月10日00:30

63 view

12月10日の日記

今日の出来事:1573年−若江城の戦い、1865年−乙丑の変、1867年−近江屋事件「坂本龍馬暗殺」、1901年−第1回ノーベル賞授賞式、1941年−第二次世界大戦:マレー沖海戦、1957年−天城山心中、1968年−東京都府中市で三億円事件が発生

今日は、若江城の戦いです。三好義継は、三好長慶の実弟・十河一存の子です。三好長慶の子・三好義興が早世(松永久秀による毒殺)したため、養子として迎えられて三好姓に改めました。1564年に三好長慶が死去すると、後見役の三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)の支持を受けて家督を継ぎ、三好家の当主となりました。しかし、重臣・松永久秀や三好三人衆が主家を凌駕する実力を保持し、三好義継は傀儡に過ぎませんでした。1565年、松永久秀や三好三人衆に担ぎ出されて二条御所を襲撃し、足利義輝の暗殺に加担、キリスト教宣教師を京都から追放しました「永禄の変」。1568年に織田信長が足利義昭(義輝の弟)を擁立して上洛してくると、松永久秀と共に降り、河内北半国と若江城の領有を安堵されました。1569年、信長の仲介により足利義昭の妹を娶りました。1573年に武田信玄が死去すると、「信長包囲網」は織田軍の反撃を受けて一気に瓦解し、朝倉義景や浅井長政らは信長に討たれ、「信長包囲網」の黒幕である室町幕府第15代将軍・足利義昭が京都から河内の三好義継(義昭の妹婿)のもとに追放されました。しかし、足利義昭は追放されたにも関わらず、諸国の大名に対して「信長討伐令」の御内書を乱発しました。三好義継は義兄に当たる義昭に同調しました。このため、信長は上洛して三好義継の討伐を決めました。三好氏はこの頃、内紛が起こっていました。足利義昭に同調して信長に反抗的な姿勢を見せる三好義継に対して、若江三人衆(家老・多羅尾右近・池田教正・野間長前)は信長に誼を通じて、三好義継に信長への従属を進めていました。このため三好義継はこの3人を遠ざけて、寵臣・金山駿河守を家老にして反信長の体制を固めました。信長が派遣した佐久間信盛が率いる大軍が若江城を攻めると、三好義継は籠城して迎え撃ちました。しかし、足利義昭が近臣だけを連れて堺に逃亡したため、主家もろとも滅ぼされる事を恐れた若江三人衆が金山駿河守を殺害し、佐久間信盛の軍勢と内通して城門に引き入れました。このため、三好義継の敗戦が決定的となりました。三好義継は妻子一族を自ら殺害し、10日以上も奮戦して三好家当主としての意地を見せました。しかし、遂に力尽きて近臣・那須久右衛門に介錯させて自害しました。この三好義継の死により、京都で栄華を思いのままにした三好本家が滅亡しました。その後、河内高屋城の三好康長も信長に降伏して家臣となります。

次に、乙丑の変です。乙丑の変は、1865年(乙丑年)に福岡藩で起こった佐幕派による勤皇派弾圧事件です。幕末の福岡藩は藩主・黒田長溥の元で「尊王佐幕」を掲げ、幕府を助けながら天皇を尊ぶ「公武合体論」に似た政治運動を進めていました。黒田長溥は、非常に開明的で城下に鉄鉱炉を建設、鉱山開発を進めるなど「蘭癖大名」と呼ばれました。また、「開国して政権が変わなければ日本の未来はないが、幕府は潰さずに朝廷と合同して、そのまま改革すべし」という保守的な立場から強い影響力を持ちました。これに対して家老・加藤司書、藩士・月形洗蔵、中村円太、平野国臣らを中心とする「福岡藩勤王派」は、「攘夷を進め、幕府を打倒して政権を天皇の下へ戻すべし」という「尊皇攘夷論」を唱えて、藩主に対して決意を迫りました。そして、彼らは上意を越えて暴走を始めました。両者は対立を続けたまま、1864年に「勤皇党」が藩政を掌握しました。「八月十八日の政変」で京を落ち、長州藩の政変により大宰府天満宮に逃れた三条実美以下の七卿と、供として付いた土方久元以下の「元土佐勤皇党」の面倒を見たり、「長州征伐」を前に長州藩を説得したり、西郷隆盛や坂本龍馬の間に立って「薩長同盟」の世話をするなど、一時は幕末の主役に立ちました。月形洗蔵は西郷隆盛、坂本龍馬、桂小五郎と親しく、「月形半平太」の名前で呼ばれていました。また、加藤司書は「薩長同盟」の際、両藩の仲立ちを頼まれるなど活躍し、「福岡藩勤皇党」の名を知らしめました。しかし、中村円太は過激な勤皇論者で、不遜の罪を受けて投獄されるほどでした。この彼の行動が、悲劇を呼ぶ原因の一つとなりました。藩主・黒田長溥は、「勤皇党」が勝手な事をして内心は不快でしたが、「勤皇」の点では意見が同じなためそのままにしていました。ところが、これが誤解を受ける事になりました。「第二次長州征伐」を前に、黒田長溥は幕府から「福岡藩は長州藩を庇う気なのか」と叱責を受けました。このため、黒田長溥は幕府に対して、自らの意思を行動で告げなければならなくなりました。そして、中村円太が起こした脱獄事件、喜多岡勇平の暗殺、その他勤皇派が常に黒田長溥に反抗的な態度を取っていたのがきっかけで、1865年に藩士ならびに関係者140名以上が逮捕され、加藤司書以下7名(加藤司書、斎藤五六郎、衣斐茂記、建部武彦、万代十兵衛、森安平、尾崎惣左衛門)が切腹、月形洗蔵、中村円太以下14名(月形洗蔵、中村円太、梅津幸一、鷹取養巴、伊藤清兵衛、森勤作、伊丹信一郎、江上栄之進、今中祐十郎、今中作兵衛、安田喜八郎、中村哲蔵、佐座謙三郎、瀬口三兵衛、大神壱岐)が桝木屋で斬首、筑紫衛は脱獄しましたが力尽き、那珂川から箱崎松原に漂着した遺体を斬首、野村望東尼以下15名が流罪という大弾圧が繰り広げられました。これにより、福岡藩は幕末の政権交代で大きく出遅れ、「戊辰戦争」の際に兵を率いる人材がいなくなり、博徒や喧嘩好き、戦争好きばかり集まりました。大砲の音を聞くと逃げ回り、略奪ばかりする質の悪さで旧幕府軍から笑われ、東北諸藩民の怒りを買いました。新政府軍も扱いかねて、常に最前線に回される事になりました。そのため人材輩出は、1881年の頭山満による「玄洋社」設立まで待たなければなりませんでした。こうして、福岡藩は佐幕派の三家老(浦上数馬、久野将監、野村東馬)が政権を掌握しました。

その次に、近江屋事件「坂本龍馬暗殺」です。坂本龍馬は、「海援隊の結成」、「薩長同盟の斡旋」、「大政奉還の成立」に尽力するなど「倒幕」および「明治維新」に大きな影響を与えた人物です。坂本龍馬は、それまで宿舎としていた薩摩藩の定宿「寺田屋」が幕府に目をつけられて急襲(寺田屋事件)されたため、近江屋(醤油屋)へ移りました。12月10日、夕刻に中岡慎太郎が近江屋を訪れ、「三条制札事件」について話し合いました。夜になり客が近江屋を訪れ、十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出ました。元力士の山田藤吉は客を龍馬に会わせようとして、後ろから斬られました(1日後に死亡)。大きな物音に対し、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」)」と言いました。刺客は音もなく階段を駆け上がり、襖を開けて部屋に侵入しました。そして、坂本龍馬は額を斬られました。龍馬は意識が朦朧とする中、中岡慎太郎の正体がばれないように中岡の事を「石川、太刀はないか」と変名で呼びました。その後、龍馬は後頭部から背中、再度額を深く斬られたところで刺客の一人が「もうよい」と叫んで全員立ち去りました。坂本龍馬は中岡慎太郎に「わしは脳をやられちょる。もういかん」と言い絶命しました。中岡慎太郎はまだ生きており、助けを求めましたが、2日後に吐き気を催した後に死亡しました。凶行時、騒動に気付いた近江屋家人の井口新助が土佐藩邸へ知らせに駆け込みました。下横目の嶋田庄作が近江屋の門口で刺客が出て来るのを抜刀して待ち構えていた所へ、龍馬の遣いで軍鶏を買いに出ていた鹿野峰吉が戻りました。嶋田庄作と共に部屋を確認したところ刺客は既に去った後で、「陸援隊」の詰所である白川屋敷へ鹿野峰吉が知らせに走りました。土佐藩邸から河村盈進と同時に、曽和慎八郎が、続いて谷干城、毛利恭介、薩摩藩の吉井友実、陸援隊士の田中光顕、海援隊士の白峰駿馬らが現場に駆けつけました。事件当初は、「新選組」が実行犯だとの噂が流れて、「天満屋事件」などが起こりましたが、実行犯は見つかりませんでした。しかし、1870年に見廻組隊士だった今井信郎の供述が転換点になり、「見廻組」が実行犯である事が有力となりました。現在では「見廻組」の佐々木只三郎らを実行犯とする説が有力となっています。中岡慎太郎は、「土佐勤皇党」に加盟して、志士活動を始めました。京都での「八月十八日の政変」後に土佐藩内で大弾圧「土佐勤皇党の獄」が始まると、藩を脱藩して長州に亡命しました。脱藩志士たちを率いて「禁門の変」、「下関戦争」を長州側で戦い、負傷しました。その後、坂本龍馬と共に「薩長同盟」の締結に貢献しました。これにより、龍馬と共に土佐藩から脱藩罪を赦免され、「薩土盟約」を締結させました。さらに長州の「奇兵隊」を参考に「陸援隊」を組織し、自ら隊長となって白川土佐藩邸を本拠地としました。そして、討幕と大攘夷を説いた「時勢論」を著しました。そして、京都四条の近江屋に坂本龍馬を訪問中、襲撃されました。

その次の次に、第1回ノーベル賞授賞式です。「ノーベル賞」は、6部門から構成されています。「物理学賞」、「化学賞」、「医学生理学賞」、「文学賞」、「平和賞」、「経済学賞(正式にはアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞)」です。複数人による共同研究や、共同ではないが複数人による業績が受賞理由になる場合は、一度に3人まで同時受賞する事ができます。ただし性質上「複数人による業績」が考えづらい「文学賞」は例外で、定数は一度に1人と定められています。また、基本的に個人にのみ与えられる賞ですが、「平和賞」のみ団体の受賞が認められており、過去に「国境なき医師団」などが受賞しています。1973年までは、受賞者の候補に挙げられた時点で本人が生存していれば、故人に対して授賞が行われる事がありました。1974年以降は、授賞決定発表の時点で本人が生存している事が授賞の条件とされました。しかし、2011年に「医学生理学賞」に選ばれたラルフ・スタインマンが授賞決定発表の3日前に死去していた事が後に判明し、問題となりました。ただし、授賞決定発表の後に本人が死去した場合には、その授賞が取り消される事はありません。スタインマンの場合はこの規定に準ずる扱いを受ける事になり、特別に故人でありながら正式な受賞者として認定される事が決まりました。授賞式は、ノーベルの命日である12月10日に、「平和賞」を除く5部門はストックホルム(スウェーデン)のコンサートホール、「平和賞」はオスロ(ノルウェー)の市庁舎で行われます。受賞者には、賞金の小切手、賞状、メダルがそれぞれ贈られます。その後、晩餐会が「平和賞」以外はストックホルム市庁舎で行われます。晩餐会にはスウェーデン王室と約1300人のゲストが参加します。「平和賞」の晩餐会はオスロのグランドホテルで行われ、ノルウェーの国会、首相とノルウェーの国王夫妻を含めた約250人が招かれます。1979年の「平和賞」の晩餐会は、受賞者のマザー・テレサが「貧しい人にお金を使ってください」として出席を辞退しました。開催を中止させて、晩餐会に使うはずだった7000USドルの費用は、カルカッタの2000人のホームレスへのクリスマスの夕食に使われました。これが唯一の晩餐会が中止になった例です。「ノーベル賞」受賞者は受賞後に「ノーベル・レクチャー」と呼ばれる記念講演を行うのが通例となっています。その後、「ノーベル賞」受賞者はストックホルム大学やストックホルム経済大学などの大学の学生有志団体が、毎年持ち回りで行うパーティーに出席し、そこで大学生らと希望する受賞者はさらなる躍進を願っていっせいに「蛙跳び」をするのが慣例となっています。受賞者へは賞状とメダルと賞金が与えられます。受賞者に与えられる賞金の原資は、ノーベルの遺産をその遺言に基づいてノーベル財団が運営していますが、「経済学賞」は1968年に設立されたため、その原資はスウェーデン国立銀行の基金によります。2001年から現在まで賞金額は1000万スウェーデン・クローナ(約1億円)でした。しかし、スウェーデンのノーベル財団は2012年6月11日の理事会で、過去10年間にわたって運用益が予想を下回ったこと等を理由として、2012年の「ノーベル賞」受賞者に贈る賞金を2割少ない800万スウェーデン・クローナ(約8900万円)とする事を決めました。 賞金の配分については、受賞者が2人(団体)の場合は全賞金を折半します。受賞者が3人(団体)の場合は、「1人ずつが単独の研究による受賞」、「3人の共同研究による受賞」であれば1/3ずつ分けられ、「1人が単独、2人が共同研究による受賞」であれば単独受賞の人物が1/2、共同受賞の2人が残りの1/2(1人あたり1/4)を得る形になります。日本人は、これまで計26人が受賞していますが、「経済学賞」は未だに受賞者がいません。以下が「ノーベル賞」を受賞した日本人の26人です。
1949年:湯川秀樹「物理学賞」中間子の存在の予想
1965年:朝永振一郎「物理学賞」量子電気力学分野での基礎的研究
1968年:川端康成「文学賞」「雪国」「千羽鶴」等の作品
1973年:江崎玲於奈「物理学賞」半導体におけるトンネル効果の実験的発見
1974年:佐藤栄作「平和賞」非核三原則の提唱
1981年:福井謙一「化学賞」化学反応過程の理論的研究
1987年:利根川進「医学生理学賞」多様な抗体を生成する遺伝的原理の解明
1994年:大江健三郎「文学賞」『個人的な体験』『万延元年のフットボール』等の作品
2000年:白川英樹「化学賞」導電性高分子の発見と発展
2001年:野依良治「化学賞」キラル触媒による不斉合成反応の研究
2002年:小柴昌俊「物理学賞」天体物理学、特に宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献
2002年:田中耕一「化学賞」生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発
2008年:小林誠「物理学賞」対称性の破れによるクォーク世代の予言(小林・益川理論)
2008年:益川敏英「物理学賞」対称性の破れによるクォーク世代の予言(小林・益川理論)
2008年:南部陽一郎「物理学賞」自発的対称性の破れ、量子色力学
2008年:下村脩「化学賞」緑色蛍光タンパク質(GFP)の発見とその開発
2010年:鈴木章「化学賞」クロスカップリングの共同開発
2010年:根岸英一「化学賞」クロスカップリングの共同開発
2012年:山中伸弥「医学生理学賞」iPS細胞の開発
2014年:赤崎勇「物理学賞」青色発光ダイオードの発明
2014年:天野浩 「物理学賞」青色発光ダイオードの発明
2014年:中村修二 「物理学賞」青色発光ダイオードの発明
2015年:梶田隆章 「物理学賞」ニュートリノ振動の発見
2015年:大村智「医学生理学賞」線虫の寄生による感染症の新たな治療法発見
2016年:大隅良典「生理学・医学賞」オートファジーの仕組みの解明
2017年:カズオ・イシグロ「文学賞」偉大な感情の力をもった小説により、世界とのつながりについての我々の錯覚に潜む深淵を明らかにしたこと
2018年:本庶佑「生理学・医学賞」免疫チェックポイント阻害因子の発見とがん治療への応用
2019年:吉野彰「化学賞」リチウムイオン二次電池の開発

そのまた次に、マレー沖海戦です。マレー沖海戦は、「真珠湾攻撃」2日後の1941年12月10日にマレー半島東方沖で、日本海軍の航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)とイギリス海軍の東洋艦隊(Z部隊)の間で行われた戦闘です。松永貞市少将が指揮する日本軍は、イギリス海軍が東南アジアの制海権確保の為に派遣した戦艦2隻を撃沈しました。イギリス東洋艦隊司令長官フィリップ中将の率いる新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、巡洋戦艦「レパルス」および護衛駆逐艦3隻は、日本軍のマレー半島上陸を阻止するためにマレー半島東岸クアンタン沖を行動中、日本海軍基地航空部隊の陸上攻撃機66機による攻撃を受けて両戦艦は沈没しました。イギリス軍は、フィリップス大将、リーチ大佐ほか将兵840名が戦死しました。日本軍は3機を失い、21名の戦死者を出しただけでした。航空機が航行中の戦艦を撃沈した初めての戦闘となりました。当時の「作戦行動中の戦艦を航空機で沈める事はできない」との常識を覆しました。当時の世界の海軍戦略である「大艦巨砲主義」の終焉を告げる出来事として海軍史上に刻まれました。

そのまた次の次に、天城山心中です。1957年12月10日に伊豆半島の天城山で、学習院大学の男子学生・大久保武道(20歳)と、同級生の女子・愛新覚羅慧生(19歳)が、拳銃で頭部を撃ち抜いた状態の死体で発見されました。当時のマスコミ等で「天国に結ぶ恋」として報道されました。愛新覚羅慧生は清朝最後の皇帝で、旧満州国の皇帝でもあった愛新覚羅溥儀の姪にあたり、溥儀の実弟・愛新覚羅溥傑の長女でした。慧生は最後の手紙を書いて投函し、その手紙は新星学寮に届きました。「なにも残さないつもりでしたが、先生(新星学寮の寮長)には気がすまないので筆をとりました。大久保さんからいろいろ彼自身の悩みと生きている価値がないということをたびたび聞き、私はそれを思い止まるよう何回も話しました。二日の日も長い間大久保さんの話を聞いて私が今まで考えていたことが不純で大久保さんの考えの方が正しいという結論に達しました。それでも私は何とかして大久保さんの気持を変えようと思い先生にお電話しましたが、おカゼで寝ていらっしゃるとのことでお話できませんでした。私が大久保さんと一緒に行動をとるのは彼に強要されたからではありません。また私と大久保さんのお付き合いの破綻やイザコザでこうなったのではありませんが、一般の人にはおそらく理解していただけないと思います。両親、諸先生、お友達の方々を思うと何とも耐えられない気持です。」この手紙により、心中と断定されました。

最後に、三億円事件です。1968年12月6日、日本信託銀行(後の三菱UFJ信託銀行)国分寺支店長宛に脅迫状が届きました。翌7日午後5時までに指定の場所に300万円を女性行員に持ってこさせないと、支店長宅を爆破するというものでした。当日、警察官約50名が指定の場所に張り込みましたが、犯人は現れませんでした。4日後、12月10日午前9時30分頃、日本信託銀行国分寺支店から東京芝浦電気(現・東芝)府中工場へ、工場従業員のボーナス約3億円(正確には2億9430万7500円)分が入ったジュラルミンのトランク3個を輸送中の現金輸送車「セドリック」が、府中刑務所裏の府中市栄町、「学園通り」と通称される通りに差し掛かかりました。そこへ白バイ警察官に変装して擬装白バイに乗った犯人が、バイクを隠していたと思われるカバーを引っ掛けた状態のまま輸送車を追いかけ、輸送車の前を塞ぐようにして停車しました。現金輸送車の運転手が窓を開け「どうしたのか」と聞くと、「貴方の銀行の巣鴨支店長宅が爆破され、この輸送車にもダイナマイトが仕掛けられているという連絡があったので調べさせてくれ」と言って輸送車の車体下回りを捜索し始めました。4日前に支店長宅を爆破する旨の脅迫状が送り付けられていた事実があり、その場の雰囲気に銀行員たちは呑まれていました。犯人は、輸送車の車体下に潜り込み爆弾を捜すふりをして、隠し持っていた発炎筒に点火しました。「爆発するぞ! 早く逃げろ!」と銀行員を避難させた直後に輸送車を運転し、白バイをその場に残したまま逃走しました。この時銀行員は、警察官(犯人)が爆弾から遠ざけるために輸送車を退避させたと勘違いし、「勇敢な人だ」と思いました。しかし、路上に残った発炎筒が自然鎮火した後、バイクに詳しい輸送車運転手が残された白バイが偽物と判断できた事から、偽警察官による現金強奪事件と判明しました。9時50分に伊豆・小笠原を除く東京都全域に緊急配備が敷かれました。奇しくも、この日は毎年恒例の歳末特別警戒の初日でした。警視庁は要所要所で検問を実施しましたが、当初は車の乗換えを想定していなかった事もあり、当日中に犯人を捕まえる事ができませんでした。国分寺市西元町3−26の国分寺史跡・七重の塔近くの本多家墓地の入口、武蔵国分寺跡のクヌギ林で現金輸送車の「セドリック」が乗り捨てられていました。事件直前に濃紺の「カローラ」が目撃された事から、犯人はここで濃紺の「カローラ」に乗り換えたとされています。事件から4か月後、小金井市本町の団地駐車場で乗り換えた「カローラ」が、乗り捨てられていました。遺留品には「カローラ」と空のジュラルミンケースが残っていました。女性のイヤリングが発見された事から、犯人グループに女性の存在が浮上しました。被害金額約3億円(2億9430万7500円)は、現金強奪事件としては当時の最高金額でした。その後の現金強奪事件では金額こそ「三億円事件」よりも強奪金額が多い事件がありますが、この当時の3億円は現在の貨幣価値に直すと約10億円にあたり、貨幣価値においては現金強奪事件としては最高額です。捜査には7年間で9億円以上が投じられ、過労によって殉職者を2名出しました。「三億円強奪事件」ともいわれていますが、この犯行は強盗罪には該当せず、窃盗罪となります。1975年12月10日、公訴時効が成立(時効期間7年)しました。1988年12月10日、民事時効成立(時効期間20年)し、日本犯罪史に名前を残す未解決事件となりました。

今日の誕生日:嘉納治五郎、東郷茂徳、堺駿二、寺山修司、村山実、坂本九、桂文珍、我修院達也(若人あきら)、福本伸行、佐藤浩市、桂正和、福島弓子、有森也実、荻野目洋子、YUKA、野村忠宏、クロちゃん(安田大サーカス)、太田博久(ジャングルポケット)、塚田僚一(A.B.C−Z)、松井咲子(元AKB48)

今日の記念日:Cyber Monday、世界人権デー、ノーベル賞授与式、アロエヨーグルトの日、歴史シミュレーションゲーム「三國志」の日、ベルトの日

今日の「今日訓」:本日は、多くの企業でボーナスが支給され、年間で最も多くのお客様がサイトを訪れている事から12月の第2月曜日を「Cyber Monday」、アルフレッド・ノーベルの命日に因んで「ノーベル賞授与式 」、1948年12月10日にパリで行われた「第3回国連総会」で「世界人権宣言」が採択された事で「世界人権デー」、1994年12月10日に日本で初めてヨーグルトにアロエ葉肉を入れて発売した事で「アロエヨーグルトの日、1985年12月10日に歴史シミュレーションゲームソフト「三國志」シリーズの第一作目が発売された事で「歴史シミュレーションゲーム「三國志」の日」、12月に流れるクリスマスソングの「ジングルベル」の「ベル」に、10日の「ト」で「ベルトの日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する