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2019年12月09日00:27

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12月09日の日記

今日の出来事:1864年−第一次長州征伐:三家老切腹、1915年−三毛別羆事件発生、1946年−ニュルンベルク継続裁判が開始、1993年−「屋久島」、「白神山地」、「法隆寺地域の仏教建造物」、「姫路城」の4か所が日本初の世界遺産に決定

今日は、第一次長州征伐:長州藩降伏(三家老切腹)です。長州藩は「尊皇攘夷・公武合体」の倒幕思想を掲げて京都の政局に関わっていました。しかし、1863年に孝明天皇、公武合体派の公家、薩摩藩、会津藩による「八月十八日の政変」により、京より追放され、三条実美ら公家7人とともに妙法院から長州へと下りました「七卿落ち」。1864年、「池田屋事件」で「新選組」に吉田稔麿ら藩士を殺された変報が長州にもたらされると、藩主父子の赦免などを求めて京へ軍事進攻する「禁門の変」を起こしました。この「禁門の変」で敗北し、来島又兵衛らが戦死、久坂玄瑞らが自刃しました。その後、アメリカ・イギリス・フランス・オランダによる「四国連合艦隊下関攻撃」による危機を乗り越えました。しかしその頃、朝廷は京都御所へ向かって発砲を行った事を理由に長州藩を朝敵とし、徳川家茂に対して「長州征討」の勅命を下しました。幕府は前尾張藩主・徳川慶勝を総督、越前藩主・松平茂昭を副総督、薩摩藩士・西郷隆盛を参謀に任じて、広島へ36藩15万の兵を集結させて長州へ進軍しました。一方、長州藩内部では「下関戦争」の後に藩論が分裂し、椋梨藤太らの保守派(俗論派)が政権を握りました。この時、井上馨は帰宅中を襲われて重傷を負い、その夜には責任を感じた周布政之助が切腹しました。征長総督参謀・西郷隆盛は、「禁門の変」の責任者である三家老の切腹、三条実美ら五卿の他藩への移転、山口城の破却を撤兵の条件として伝え、藩庁はこれに従い恭順を決定しました。こうして長州藩は、「三家老(国司信濃は徳山澄泉寺、益田右衛門介は徳山惣持院、福原越後は龍護寺で切腹)」の首を差し出しました。次に長州藩俗論派は、「四参謀(佐久間佐兵衛、宍戸左馬之助、竹内正兵衛、中村九郎)」を捕えて斬首しました。さらに「七政務員(楢崎弥八郎、前田孫右衛門、松島剛蔵、毛利登人、山田亦介、大和国之助、長嶺内蔵太)」を処刑し、清水清太郎にも切腹を命じました。桂小五郎はこの時点では、行方不明でした。高杉晋作は俗論派の粛清から逃れ、福岡の平尾山荘の野村望東尼に匿われていました。しかし、この長州藩尊王攘夷派の惨状を聞くと下関へ戻り、残った尊攘派を率いて立ち上がります。こうして「回天義挙」とも言われる「功山寺決起」となるのです。

次に、三毛別羆事件発生です。1915年12月9日〜12月14日にかけて、北海道苫前郡苫前村三毛別六線沢で発生した、日本国内で最も大きな獣害事件です。12月9日の朝、三毛別川上流に居を構える太田家に寄宿していた伐採を生業とする長松要吉(通称・オド)が一足早く仕事に向かい、当主の三郎も氷橋(木材で骨組みを作り、その上を雪や氷で覆って凍らせ、固めて完成させた橋)に用いる桁材を伐り出すため出掛け、三郎の内縁の妻・阿部マユと太田家に預けられていた小児・蓮見幹雄の二人が留守に残り、穀物の選別作業をしていました。昼、オドがいつものように飯を食べに戻ると、土間の囲炉裏端に幹雄がぽつんと座っていました。ふざけて狸寝入りしているのだろうとオドはわざと大声で話しかけながら近づき、幹雄の肩に手を掛けてのぞき込みました。その時、オドは幹雄の顔下に付着した血の塊と、何かでえぐられた喉元の傷を見つけました。側頭部には親指大の穴が穿たれ、幹雄はこと切れていました。オドは恐怖に震えながらマユを呼びましたが何の応答もなく、ただ薄暗い奥の居間から異様な臭気が漂うのみでした。ただならぬ事態に家を飛び出したオドは下流の架橋現場に走りました。駆けつけた村の男性たちは、踏み入った太田家の様子に衝撃を受けながら、これがヒグマの仕業だと知るところとなりました。入口の反対側にあるトウモロコシを干してあった窓が破られ、そこから土間の囲炉裏まで一直線に続くヒグマの足跡が見つかりました。足跡が続く居間を調べると、くすぶる薪がいくつか転がり、柄が折れた血染めのマサカリがありました。ぐるりと回るようなヒグマの足跡は部屋の隅に続き、そこは鮮血に濡れていました。それは、マサカリや燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、攻撃を受けて重傷を負った事を示していました。そこからヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出ました。窓枠にはマユの頭髪が絡みついていました。事件の報に村は大騒動となりました。太田家から500m程下流の明景安太郎家に男性たちが集まり、善後策を話し合いました。とり急ぎ役場と警察、そして幹雄の実家である蓮見家へ連絡を取らなければなりませんでした。この使者を斉藤石五郎が引き受ける事になりました。太田家よりもさらに上流に家を構える斉藤石五郎は明景家に家族を避難させ、オドも男手として同泊する手はずが取られました。翌早朝、斉藤石五郎は村を後にしました。残る男性たちは討伐とマユの亡骸を収容するため、約30人の捜索隊を結成しました。昨日の足跡を追って森に入った彼らは、150mほど進んだあたりでヒグマと遭遇しました。馬を軽々と越える大きさ、全身黒褐色一色ながら胸のあたりに「袈裟懸け」と呼ばれる白斑を持つヒグマは、捜索隊に襲いかかりました。鉄砲を持った5人がなんとか銃口を向けましたが、手入れが行き届いておらず、発砲できたのはたった1丁だけでした。怒り狂うヒグマに捜索隊は散り散りとなりましたが、あっけなくヒグマが逃走したため、彼らに被害はありませんでした。改めて周囲を捜索した彼らは、トドマツの根元に小枝が重ねられている血に染まった雪の一画と、その下から黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と、頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体を発見しました。夜になり、太田家では通夜が行われましたが、村民はヒグマの襲来におびえ、参列したのはたったの9人だけでした。その中のひとり、幹雄の実母・蓮見チセが酒の酌に回っていた午後8時半頃、大きな音とともに居間の壁が突如崩れ、ヒグマが室内に乱入して来ました。棺桶が打ち返されて遺体が散らばり、恐怖に駆られた会葬者達は梁に上り、野菜置き場や便所に逃れるなどして身を隠そうとしました。銃を持ち込んでいた男性が撃ちかけました。さらに300m程離れた隣家で食事をしていた50人ほどの男性たちが、物音や叫び声を聞き駆けつけました。しかしその頃には、ヒグマはすでに姿を消していました。犠牲者が出なかった事に安堵した一同は、いったん明景家に退避しようと下流へ向かいました。太田家の騒動は明景家にも伝わり、避難した女や子供らは火を焚きつつおびえながら過ごしていました。護衛は近隣に食事に出かけ、さらに太田家へのヒグマ出没の報を受けて出動していました。太田家から逃れたヒグマは、まさにこの守りのいない状態の明景家に向かっていたのです。太田家からヒグマが消えてから20分と経たない8時50分頃、背中に四男・梅吉を背負いながら討伐隊の夜食を準備していた明景安太郎の妻・ヤヨは、地響きとともに窓を破って侵入して来た黒い塊に驚き、「誰が何したぁ!」と声を上げました。しかし返ってくる言葉はありませんでした。その正体は、見たこともない巨大なヒグマでした。かぼちゃを煮る囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、混乱の中ランプなどの灯りも落ち、家の中は暗闇となりました。ヤヨは屋外へ逃げようとしましたが、恐怖のためにすがりついてきた次男・勇次郎に足元を取られ、よろけたところにヒグマが襲いかかり、背負っていた梅吉に噛みつきました。そのまま三人はヒグマの手元に引きずり込まれ、ヤヨは頭部をかじられました。その時、男性番として唯一家にいたオドが逃げようと戸口に走った姿に気を取られたヒグマは母子を離し、この隙に乗じてヤヨは子供たちを連れて脱出しました。追われたオドは物陰に隠れようとしましたがかなわず、ヒグマの牙を腰のあたりに受けました。オドの悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、屋内に眼を向けました。そこには未だ7人が取り残されていました。ヒグマは明景家の三男・金蔵と斉藤家の四男・春義を一撃で撲殺し、さらに斉藤家三男・巌に噛みつきました。この様子に、野菜置き場に隠れていた石五郎の妻・斉藤タケがむしろから顔を出してしまい、ヒグマの標的となりました。ヒグマの爪にかかり居間に引きずり出された身重のタケは「腹をやぶらないで」と子供の命乞いをしましたが、それも空しく上半身から食われ始めました。川下に向かっていた一行は、激しい物音と絶叫を耳にして急ぎました。そこへ重傷のヤヨがたどり着き、皆は明景家で何が起こっているかを知りました。途中オドを保護し、男性たちは明景家を取り囲みました。しかし、暗闇となった屋内にはうかつに踏み込めませんでした。中からは、タケと思われる女のうめき声、そして肉を咀嚼して骨を噛み砕く音が響き渡りました。一か八か家に火をかける案や、闇雲に一斉射撃しようという意見も出ましたが、子供らの生存に望みをかけるヤヨが必死に反対しました。一同は二手に分かれ、一方は入り口近くに銃を構えた10名あまりを中心に配置し、残りは家の裏手に回りました。そして裏手の者が空砲を二発撃つと、ヒグマは入口を破って、表で待つ男性たちの前に現れました。先頭の男性が撃とうとしましたが、またも不発でした。他の者も撃ちかねている隙に、ヒグマはまたも姿を消しました。松明を手に明景家に入った者の眼に飛び込んできたのは、飛沫で天井裏まで濡れるほどの血の海、そして無残に食いちぎられた二児とタケの遺体でした。上半身を食われたタケの腹は破られて胎児が引きずり出されていましたが、ヒグマが手を出した様子はなく、その時には胎児は少し動いていました。しかし、胎児も一時間後に死亡しました。明景家の長男・力蔵は雑穀俵の影に隠れて難を逃れ、殺戮の一部始終を目撃していました。明景家の長女・ヒサノは失神して無防備なまま居間で倒れていましたが、不思議と無事でした。急いで生存者を保護して遺体を収容した一行が家を出たところ、屋内から不意に男児の声があがりました。「日露戦争」帰りの者がひとり中に戻ると、むしろの下に隠されていた重傷の巌を見つけました。肩や胸にもかみつかれた傷を負い、巌の左大腿部から臀部は食われ、骨だけになっていました。村人は全員分教場へ避難する事になり、重傷者たちも3km川下の辻家に収容されて応急の手当てを受けました。しかし重傷の巌は、20分後に息絶えました。この二日間で6人、胎児を含めると7人の命が奪われました。ヤヨら怪我人たちは翌日さらに3km下流の家に移り、古丹別の病院に入院したのは12日になってからでした。小村の住民だけではもはやなす術なく、長老らは話し合ってヒグマ退治の応援を警察や行政に頼る事を決議しました。その一方、家族に襲いかかった悲劇を知るはずもなく雪道を往く斉藤石五郎は、役所と警察に太田家の事件報告を終えると、10日は苫前に宿を取り、11日昼近くに帰路につきました。下流の三毛別にたどり着き、そこで妻や子供たちの受難を知らされた彼は、呆然と雪上に倒れ伏し、慟哭をあげました。六線沢ヒグマ出没の連絡は北海道庁にもたらされ、北海道庁警察部保安課から羽幌分署長・菅貢警部に討伐隊の組織が指示されました。一方、死亡者の検死のため馬橇で一足早く現地に乗り込んだ医師は、正午頃山道でヒグマの糞を発見しました。それを検分して中から人骨や髪の毛、未消化の人肉を見つけました。夕暮れが迫り、手応えを得られない討伐隊本部は検討を重ねました。ヒグマには獲物を取り戻そうとする習性があり、これを利用してヒグマをおびき寄せる策が提案されました。菅隊長は目的のため案を採用し、罵声を覚悟して遺族と村人の前に立ちました。しかし、説明に誰一人異議を唱える者はおらず、皆は静かに受け入れました。事態はそれだけ切迫していたのでした。こうして、犠牲者の遺体を餌にヒグマをおびき寄せるという前代未聞の作戦が採用されました。一方、ヒグマは村人不在の家々を荒らし回っていました。飼われていた鶏を食い殺し、味噌や鰊漬けなどの保存食を荒らし、さらに服や寝具などをずたずたにしていました。12月13日の夜、橋で警備に就いていた一人が、対岸の切り株の影に不審を感じました。本数を数えると六株あるはずの切り株が明らかに1本多く、しかも微かに動いているものがありました。報告を受けた菅隊長が、「人か、熊か!」と大声で誰何しましたが返答がありませんでした。意を決して、隊長の命令のもと撃ち手が対岸や橋の上から銃を放ちました。すると怪しい影は動き出し、闇に紛れて姿を消しました。翌12月14日、空が白むのを待って対岸を調査した一行は、そこにヒグマの足跡と血痕を見つけました。急ぎ討伐隊を差し向ける決定が下されました。いち早く山に入ったのは、10日の深夜に話を聞きつけて三毛別に入った山本兵吉でした。ヒグマはミズナラの木につかまり、体を休めていました。その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、風下から気配を殺して近づく山本兵吉の存在には全く気づいていませんでした。20mほどまで近づいた山本兵吉はハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えました。そして、銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬきました。兵吉は即座に次の弾を込め、間を置かずに素早く放たれた二発目は頭部を正確に射抜きました。12月14日午前10時、轟いた銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落したヒグマの屠られた姿でした。ヒグマは7、8歳で重さ340kg、身の丈2.7mにも及ぶ、エゾヒグマとしては規格外の巨体を持つのオスで、ところどころ金毛が混ざり、黒褐色の体躯には胸から背中にかけて「袈裟懸け」と呼ばれる白斑がありました。猛吹雪の中、5kmの下り道を1時間半かけてヒグマの死骸は三毛別青年会館に運ばれました。解剖が始まり胃を開くと、中から赤い布、肉色の脚絆、そして阿部マユが着用していたぶどう色の脚絆が絡んだ頭髪とともに見つかり、皆は悲しみを新たにしました。犠牲者の供養のため肉は煮て食べられました。頭部に傷を負いながらも気丈な姿を見せたヤヨは順調に回復しましたが、背負われたまま噛みつかれた明景梅吉は、その後遺症に苦しみ2年8ヶ月後に死亡しました。この少年を含めて事件の死者は8人となりました。同じ家でヒグマの襲撃から生還した明景勇次郎は事件の27年後に「太平洋戦争」で戦死しました。オドも回復して翌春には仕事に戻りましたが、帰宅時に川に転落して死亡しました。事件は解決しても、村人に心理的恐怖を残しました。その後、ひとりまたひとりと村を去り、下流の辻家を除いて最終的に集落は無人の地に帰しました。

その次に、ニュルンベルク継続裁判が開始です。ニュルンベルク継続裁判は、「ニュルンベルク裁判」の後にアメリカ軍が設置したナチス戦犯を裁くための12の軍事法廷の事です。「ニュルンベルク裁判」で裁かれなかったナチ戦犯を裁いた法廷です。「ニュルンベルク裁判」ほどではないが、ナチス国家で大物だった者達が被告となりました。1946年12月9日から1949年4月13日にかけて行われました。有罪となった者はバイエルン州のランツベルク刑務所へ移送され、懲役や死刑に処されました。以下がニュルンベルク継続裁判の12裁判です。
1.医師裁判 (1946年12月9日〜1947年8月20日)
2.エアハルト・ミルヒ裁判 (1947年1月2日〜1947年4月14日)
3.法曹裁判 (1947年3月5日〜1947年12月4日)
4.オズヴァルト・ポール裁判 (1947年4月8日〜1947年11月3日)
5.フリードリヒ・フリック裁判 (1947年4月19日〜1947年12月22日)
6.捕虜裁判 (1947年7月8日〜1948年2月19日)
7.IG・ファルベン裁判 (1947年8月27日〜1948年7月30日)
8.アインザッツグルッペン裁判 (1947年9月29日〜1948年4月10日)
9.RuSHA裁判 (1947年10月20日〜1948年3月10日)
10.クルップ裁判 (1947年12月8日〜1948年7月31日)
11.大臣裁判 (1948年1月6日〜1949年4月13日)
12.国防軍最高司令部裁判 (1947年12月30日〜1948年10月28日)

最後に、「屋久島」、「白神山地」、「法隆寺地域の仏教建造物」、「姫路城」の4か所が日本初の世界遺産に決定です。
屋久島:鹿児島県の大隅半島南南西約60kmの海上に位置する島で、近隣の種子島や口永良部島などと共に大隅諸島を形成しています。1992年3月13日、世界遺産条約の国会提出が閣議で決定され、6月30日に条約受諾書をユネスコへ送付しました。それを受けて1992年10月1日、屋久島が世界遺産委員会へ推薦されました。1993年12月11日、コロンビアのカルタヘナで開催された世界遺産委員会で、「世界遺産リスト」に登録されました。豊かで美しい自然が残されており、島の中央部の「宮之浦岳」を含む「屋久杉自生林」や「西部林道付近」など、島の面積の約21%にあたる107.47km²が登録されました。屋久島の杉で樹齢が1000年を越えるものが「屋久杉」と呼ばれます。屋久島最大の「縄文杉」はその巨大さから推定樹齢6000年以上であるとされ、全国的に有名になりました。現在では「放射性炭素年代測定法」で推定樹齢約2000年以上である事が確認されました。現在までに確認された最古の木は「大王杉」で、樹齢3000年以上とされています。
白神山地:青森県の南西部から秋田県北西部にかけて広がっている標高1000m級の山地です。そこには「人の影響をほとんど受けていない原生的なブナ天然林が、世界最大級の規模で分布」しています。全体の面積は13万haでそのうち約1万7千ha(169.7km²)が「世界自然遺産」に登録されています。「ブナの原生林」、「暗門滝」、「二ツ森」、「白神岳」があります。
法隆寺地域の仏教建造物:奈良県生駒郡斑鳩町にある「法隆寺」および「法起寺」の建造物から構成される「世界文化遺産」です。この遺産には、「法隆寺」の建造物47棟と「法起寺」の「三重塔」を加えた48棟が含まれています。「法隆寺」をはじめとするこの地域の仏教建築物は聖徳太子と縁が深く、中国の六朝時代の建築の影響を多大に受けました。特に、「法隆寺」の「西院伽藍」は、世界最古の木造建築として国際的にも著名です。
姫路城:江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存する「世界文化遺産」です。江戸時代以前に建設された天守が残っている「現存12天守」の一つで、ほぼ中堀以内の城域が特別史跡に、現存建築物の内、「大天守」、「小天守」、「渡櫓」等8棟が「国宝」に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が「重要文化財」にそれぞれ指定されています。天守のある丘が「姫山」、西の丸のある丘を「鷺山」と称します。姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路の丘」と称しました。姫路城が「鷺山」に置かれている事、白漆喰で塗られた城壁の美しさ、「ゴイサギ」など「白鷺」と総称される鳥が多く住んでいた事、「烏城」とも呼ばれる「岡山城」との対比から、「白鷺城」の別名でも呼ばれています。

今日の誕生日:樺山資紀、嘉納治五郎、井上成美、佐田啓二、ペギー葉山、市川猿翁 (2代目)、白石加代子、山内賢、安彦良和、さいたまんぞう、綾小路きみまろ、落合博満、朝潮太郎(高砂親方)、升毅、渡辺裕之、春風亭昇太、皇太子妃雅子、五味孝氏(T−BOLAN)、小林勝(元SADS、ザ・クロマニヨンズ)、佐野瑞樹、福永祐一、ISSA「辺土名一茶」(DA PUMP)、OLIVIA(元D&D)、上村愛子、高橋一生、岡本綾、ケロロ軍曹

今日の記念日:皇后誕生日、国際腐敗防止デー、障害者の日、マウスの誕生日

今日の「今日訓」:本日は、皇后・雅子妃殿下の誕生日「皇后誕生日」、2003年に「国連腐敗防止条約」が調印された事で「国際腐敗防止デー」、1975年に国連総会で「障害者の権利宣言」が採択された事で「障害者の日」、1968年に「ITの父」ダグラス・エンゲルバート氏によりマウスやウインドウ、ハイパーテキストなどパーソナルコンピュータ、インターネットの歴史の出発点ともなるデモンストレーション「The Demo」が行われた事で「マウスの誕生日」となりました。
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