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2019年12月08日01:19

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12月08日の日記

今日の出来事:1865年−膳所城事件、1941年−第二次世界大戦:真珠湾攻撃、1963年−力道山刺殺事件、1980年−ジョン・レノン射殺事件、2005年−東京・秋葉原に「秋葉原48劇場」(現:AKB48劇場)がオープン、AKB48の第一回公演が行われる、2009年−森繁久彌に国民栄誉賞授与が決定

今日は、膳所城事件です。幕末の膳所藩では、尊王派と佐幕派が藩の主導権をめぐって争っていました。1863年に「八月十八日の政変」が起こり、幕府による尊攘派弾圧が激化しました。膳所藩尊王派・榊原専蔵らは、藩主・本多康穣に謁見して攘夷を訴えました。藩論を一挙に覆えそうと家老・村松猪右衛門を襲撃しましたが、右額を傷つけたのみで取り逃がして禁固に処せられました。丹羽正雄は「七卿落ち」に加わり、長州に赴きましたが、後に捕えられて「六角牢の獄」で斬首となりました。「生野の変」には、膳所藩脱藩士・本多小太郎が参加しましたが捕えられて、後の「六角牢の獄」で斬首されました。1864年に長州藩の尊攘派による「禁門の変」が起こると、脱藩した粟屋達道が加わりましたが討死しました。長州藩は敗退しましたが1865年に幕府は「長州征伐」を決定し、将軍・徳川家茂が自ら指揮をする事になりました。その徳川家茂が、膳所城にて一泊するとの通達が膳所藩に寄せられました。しかし、佐幕派の上阪三郎衛門が尊攘派の謀議の噂を伝えた事で、将軍の膳所宿泊は見合わせとなりました。このため、膳所藩は尊王派11人を捕えて投獄しました。12月8日、保田信解、阿閉権之丞、田河藤馬之丞、槇島錠之助の4人に切腹、森喜右エ門、高橋作也、高橋雄太郎、増田仁右エ門、関元吉、深栖俊助、渡辺宗助の7人を斬首に処しました。川瀬太宰も幕吏に捕えられて斬首されました。川瀬太宰は筆頭家老・戸田資慶の叔父でした。その後、川瀬太宰が藩主に説いた「尊王論」が盛り返し、1868年の「戊辰戦争」では新政府側に与して桑名藩攻めに出兵しました。翌年の「版籍奉還」により、藩主・本多康穣は藩知事となりました。1871年の「廃藩置県」で膳所藩は廃藩となって、膳所県、大津県を経て滋賀県に編入されました。佐幕派に殺された尊王派11名は「膳所藩11烈士」として安昌寺に祀られています。

次に、第二次世界大戦:真珠湾攻撃です。真珠湾攻撃は1941年12月8日未明、休日である日曜日を狙って、ハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空攻撃および潜航艇による攻撃です。太平洋戦争緒戦の「南方作戦」の一環として計画された作戦で、「マレー作戦」に次いで開始された作戦です。戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を喪失しました。世界史的には「マレー作戦」と「真珠湾攻撃」により、「第二次世界大戦」はヨーロッパ・北アフリカだけでなく、アジア・太平洋を含む地球規模の戦争へと拡大しました。1939年に連合艦隊司令長官に就任した海軍大将・山本五十六は、第11航空艦隊参謀長・大西瀧治郎少将に「真珠湾を航空攻撃できないか」と航空攻撃計画の作戦立案を依頼しました。大西瀧治郎は、第1航空戦隊の参謀・源田実中佐と図り、雷爆撃併用案を山本五十六に提案し、軍令部第一部長・福留繁少将に作戦準備を依頼しました。ハワイ奇襲作戦実行計画完成は大石保と源田実に命じられました。この作戦のため、空中指揮官・淵田美津雄と雷撃専門家・村田重治が配員されました。1941年11月1日、東條英機内閣は大本営政府連絡会議で帝国国策遂行要領を決定し、11月5日の御前会議で承認されました。以降、陸海軍は12月8日を開戦予定日として「真珠湾攻撃」を含む対「米英蘭戦争」の準備を本格化しました。南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」および「加賀」、「蒼龍」、「飛龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は11月22日に択捉島の単冠湾に集結しました。出港直前、空母「赤城」に搭乗員達が集合し、南雲忠一中将が米太平洋艦隊を攻撃する事を告げました。12月2日、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信されました。ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で当時の日本の最高峰、一二〇八とは12月8日のことで、「日本時間12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」の意の符丁でした。戦争回避で攻撃中止の場合の電文は「ツクバヤマハレ」でした。12月7日、伊号潜水艦隊から特殊潜航艇が発進しました。12月8日午前1時30分、ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機が発進し、午前2時45分、第二波空中攻撃隊として艦戦36機、艦爆81機、艦攻54機、計171機が発進しました。12月8日午前2時40分に、アメリカ海軍の駆逐艦DD−139「ワード」がアメリカ領海内で国籍不明の潜水艦を発見し、砲撃により撃沈しました(ワード号事件)。これは日本軍の特殊潜航艇でした。しかし、その重要性は認識されず、アメリカ軍は奇襲を事前に察知する機会を逸しました。3時19分、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官・淵田美津雄海軍中佐が各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命しました。3時23分、淵田美津雄は旗艦「赤城」に対して「トラ・トラ・トラ」を打電しました。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する符丁です。3時25分、「翔鶴」飛行隊長・高橋赫一海軍少佐が指揮する急降下爆撃隊がフォード島への爆撃を開始しました。3時28分、アメリカ海軍の航空隊が「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない。」と警報を発しました。戦艦「アリゾナ」では空襲警報が発令されました。3時30分過ぎ、「加賀」飛行隊の「九七式艦上攻撃機」が投下した800キロ爆弾が四番砲塔側面に命中、次いで3時36分に一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中しました。3時40分、「アリゾナ」の前部火薬庫は大爆発を起こし、艦は1177名の将兵と共に大破沈没しました。戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中し、転覆沈没しました。将兵415名が死亡・行方不明となりました。午前4時20分、駐アメリカ大使・野村吉三郎と特命全権大使・来栖三郎が、コーデル・ハル国務長官に日米交渉打ち切りの最後通牒を手交しました。この文書は、本来なら攻撃開始の30分前にアメリカ政府へ手交する予定でしたが、駐ワシントンD.C.日本大使館の井口貞夫元事官や奥村勝蔵一等書記官らが翻訳やタイピングの準備に手間取り、結果的にアメリカ政府に手渡したのが攻撃開始の約1時間後となってしまいました。その為に、「真珠湾攻撃は日本軍の騙し打ちである」とのアメリカのプロパガンダに使われる事となってしまいました。1939年9月のドイツとソビエト連邦によるポーランドへの攻撃は、完全に宣戦布告が行なわれなかったにもかかわらず、このように喧伝される事はありませんでした。午前4時24分、第二波空中攻撃隊が「全軍突撃」を下命しました。奇襲から立ち直った米軍は各陣地から猛烈な対空射撃を行い、日本軍航空隊を阻止しようとしました。第二波攻撃隊は、米軍の防御砲火を突破する強襲を行い、小型艦艇や港湾設備、航空基地、既に座礁していた戦艦「ネバダ」への攻撃を行いました。第二波攻撃隊の被害は第一波攻撃隊と比べて大きく、「加賀」攻撃隊(零戦9機、艦爆26機)だけでも零戦2機、艦爆6機を失い、19機が被弾しました。また「飛龍」所属の零戦(西開地重徳一飛曹)はニイハウ島に不時着し、12月13日の「ニイハウ島事件」で死亡しました。機動部隊とは別に特殊潜航艇「甲標的」を搭載した「伊号潜水艦」5隻は、真珠湾に向かって出撃しました。5隻全艇が湾内に潜入する事に成功し、3隻が魚雷攻撃を行いました。しかし、4隻が撃沈、1隻が座礁・拿捕され、帰還艇なしという結果に終わりました。日本では、撃沈された4隻の乗組員8名と、拿捕された艇で戦死した1名を加えた9名が二階級特進し、「九軍神」として宣伝されました。拿捕された艇の艇長で捕虜となった酒巻和男海軍少尉は「軍神」から外され、捕虜となった事は公表されませんでした。また、この「九軍神」を顕彰する配慮から、空中攻撃隊の800キロ爆弾で撃沈された戦艦「アリゾナ」は特殊潜航艇による撃沈という大本営発表が行われました。日本軍の奇襲作戦は成功し、アメリカ軍の戦艦8隻を撃沈または損傷により行動不能とする大戦果をあげました。アメリカ太平洋艦隊の戦力低下により、日本軍は西太平洋海域の制海権を確保し、これにより「南方作戦」を成功裏に終えました。「真珠湾攻撃」の前にマレー半島での上陸作戦(マレー作戦)が開始されていますが、「真珠湾攻撃」によって日本とアメリカとの戦争は始まりました。「真珠湾攻撃」の翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領の要請により、アメリカ合衆国議会は日本に対して宣戦布告しました。その後12月10日、アドルフ・ヒトラーは軍部の反対を押し切ってアメリカへ宣戦布告する事になります。

その次に、力道山刺殺事件です。力道山は、本名を百田光浩、旧名を金信洛という北朝鮮出身の大相撲力士でした。「第二次世界大戦」終了後に日本のプロレス界の礎を築き、日本プロレス界の父と呼ばれています。当時始まったテレビ放送の力もあり絶大な人気を誇りました。二所ノ関部屋に入門し、1940年5月場所で初土俵、1949年5月場所で関脇に昇進しましたが、1950年9月場所前に突然、自ら髷を切って廃業しました。その後、二所ノ関部屋の後援者が社長を務める新田建設に勤務しましたが、ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身の日系人レスラー・ハロルド坂田(トシ東郷)と知り合い意気投合しました。1952年に渡米し、ホノルルで日系人レスラー・沖識名の下で猛特訓を受けました。翌年帰国して新田新作と興行師・永田貞雄の助力を得て「日本プロレス協会」を設立しました。そしてシャープ兄弟を招聘し、1954年2月19日から全国を14連戦した初興行は、1953年にテレビ放送が始まった事に追い風を受け、全国民の支持を受けて大ブームとなりました。この興行でシャープ兄弟組と戦う時の力道山のタッグパートナーは、戦前戦中に15年間不敗のままプロに転向した柔道史上最強と謳われる木村政彦でした。しかし、シャープ兄弟との戦いでいつも負け役は木村で、その木村を助けに入った力道山が空手チョップで倒すという「試合進行台本」に嫌気がさした木村政彦との間に、亀裂が入りました。木村政彦は朝日新聞記者に「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。真剣勝負なら負けない」と怒りをぶちまけ、挑戦を表明しました。これが「昭和の巌流島」といわれるあの謎の試合に繋がっていきました。挑戦に応じた力道山は1954年12月22日、「相撲が勝つか柔道が勝つか」と騒がれたプロレス日本ヘビー級王座の決定戦が行われます。しかし、この試合は予想だにしない凄惨な結末をむかえました。試合途中、力道山が突然殴りかかり、そのまま張り手の連打を打ちまくって、戸惑ったままの木村政彦をそのままKOしました。木村政彦は大量の血を吐き、マットに大きな血だまりができました。観客たちは驚き、会場は静まりかえりました。「プロレスに一定のストーリーがある」という事は当時は全く知られていなかったので、これに驚いた一般マスコミはこの「昭和の巌流島(力道山vs木村政彦)」を機に徐々に離れていきました。大相撲出身の力道山が天下を取った事から、相撲取りのプロレス界入りが増えました。日本のプロレス界に「付き人」等、何かと相撲の影響が残っているのはこれに由来します。謎の力道山vs木村政彦戦後は一時的にプロレスブームが下火になりましたが、すぐに力道山は盛り返し、再度一気に国民的スターに登り詰めていきました。1955年には、キングコングを破ってアジアヘビー級王座を獲得、1958年には、ルー・テーズを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得、1959年には第1回ワールドリーグ戦を開催して優勝、ワールドリーグ戦はその後1963年まで連続優勝しました。1962年には、フレッド・ブラッシーを破ってWWA世界ヘビー級王座を獲得しました。力道山はルー・テーズやパット・オコーナー、カール・ゴッチのようなストロングタイプとも、ジェス・オルテガやフレッド・ブラッシーのような悪役・怪物タイプとも名勝負を残しました。1963年5月24日、東京体育館で行われたWWA世界選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率64.0%を記録し、現在でも歴代視聴率4位にランクされています。1963年12月8日午後10時30分に、遊興中の赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家傘下の大日本興業構成員であった村田勝志と足を踏んだ、踏まないで口論となり、馬乗りになって殴打したところ、村田勝志に下から登山ナイフで腹部を刺されました。しかし、自ら持ちかけた喧嘩という事もあって表沙汰にはせず、知り合いの勤める山王病院に入院しましたが、12月15日に化膿性腹膜炎で死去しました。

その次の次に、ジョン・レノン射殺事件です。ジョン・ウィンストン・オノ・レノンは、イギリスのロックバンド「ビートルズ」のメンバーで、ボーカル・ギターを担当しました。1960年代に世界的人気を得た「ビートルズ」のリーダー・ポール・マッカートニーと「レノン=マッカートニー」としてソングライティングチームを組み、大半の楽曲を製作しました。「ビートルズ」は「Please Please Me」、「抱きしめたい」、「涙の乗車券」、「ヘルプ!」、「イエスタデイ 」、「イエロー・サブマリン」、「愛こそはすべて(All you need is love)」、「ヘイ・ジュード」、「ゲット・バック」などの世界的大ヒット曲を発表し、最後のシングル「レット・イット・ビー」で解散しました。1970年の「ビートルズ」解散後はアメリカを主な活動拠点とし、妻で芸術家のオノ・ヨーコと共に平和運動家としても活動しました。ソロとしても「インスタント・カーマ」、「パワー・トゥ・ザ・ピープル」、「イマジン」、「ハッピー・クリスマス (戦争は終った)」、「スターティング・オーヴァー」、「Woman」などの世界的大ヒット曲を発表しました。1975年から約5年間音楽活動を休止した後、1980年12月8日23時頃にニューヨークの自宅アパート「ダコタ・ハウス」前で、ファンを名乗る男性により射殺されました。

最後に、東京・秋葉原に「秋葉原48劇場」(現:AKB48劇場)がオープンです。AKB48劇場は、東京都千代田区外神田(秋葉原電気街)にある「ドン・キホーテ秋葉原店8階」にあるAKB48専用のライブハウスです。「会いに行けるアイドル」というコンセプトを体現したAKB48の活動拠点で、デビュー場所でもあり、2005年12月8日に行われた「杮落とし」がAKB48の初公演となりました。「アイドルは時代の一番エネルギーのある場所から生まれる」という秋元康の考えからオタク系、萌え系で若者のエネルギーにあふれた秋葉原が候補に上がりました。秋葉原で開かれるアイドルの握手会、撮影会には多くの若者が集まります。新人アイドルの熱狂的なファンを作るには最適な立地であるというのがその理由でした。劇場の天井には、照明をはじめとして多くの機材を吊り下げる必要があり、そのためにはある程度の天井高が求められました。候補に上がった他の物件は天井高に難がありました。最終的に適した天井高と小劇場としては203坪という十分な広さをもつ建物として「ドン・キホーテ秋葉原店8階」が選ばれました。この場所はテナントとしての収益が得にくい場所で、ドン・キホーテ側としても安定した収益が得られるテナントを誘致したいという目論見があり、当時ドン・キホーテ社長だった安田隆夫と秋元康のトップ会談により、この場所への出店が決定されました。定員は250名、いす席は145席、残りの105席は立見となりました。劇場の最後部には階段状の台(通称:お立ち台)が設置されていて、この台に乗ると最後部でもステージが見やすくなるそうです。2019年11月現在、シングル首位は43作連続、ミリオン突破は37作連続38作目、これは、B’zを抜いて日本歴代単独1位をさらに更新、通算ミリオン獲得数記録でもB’zを抜いて歴代1位をさらに更新、史上初の前人未到の偉業となりました。また、初週オリコンランキング1位が43作連続となり、女性アーティスト歴代1位をさらに更新となりました。シングル通算首位獲得作品数で浜崎あゆみを抜いて、女性アーティスト歴代1位となりました。アルバムを含む総売上枚数は6147万枚に到達し、SPEEDの1954.6万枚を抜き、女性グループ歴代1位に立つと同時に、女性グループ史上初のCD総売上5000万枚を突破、浜崎あゆみの5067.5万枚を抜いて女性アーティスト歴代1位となりました。ミリオンセラーが通算38作に達したのはオリコンチャート史上初です。また、シングルの総売上枚数が5483.4万枚となり、5000万枚を突破しました。これはB’zを抜き史上初です。まさに、日本史を代表するグループとなりました。

今日の誕生日:中江兆民、徳富蘆花、嵐寛寿郎、名古屋章、杉浦直樹、藤村俊二、田中一郎、(元ARB、甲斐バンド)、島本須美、増崎孝司(元渚のオールスターズ、B.B.クイーンズ)、川田利明、長与千種(元クラッシュギャルズ)、大竹一樹(さまぁ〜ず)、三石琴乃、和久井映見、ROCK−Tee(EAST END)、稲垣吾郎(元SMAP)、佐藤秀峰、安田顕(TEAM−NACKS)、MINMI、中岡創一(ロッチ)、村上健志(フルーツポンチ)、TAKAHIRO(EXILE)、横山由依(AKB48、Not yet)、多田愛佳(元HKT48、元AKB48、元渡り廊下走り隊7)、山内鈴蘭(SKE48、元AKB48)、猪熊柔、半沢直樹、爆竜鬼虎

今日の記念日:事納め、太平洋戦争開戦記念日、針供養、レノンズデー、有機農業の日

今日の「今日訓」:本日は、その年の農事など雑事をしまう日「事納め」です。また、針仕事の上達を祈願するため、折れた針や曲がった針を豆腐等に刺し、神社に奉納する「針供養」です。1941年の「真珠湾攻撃」で開戦した事で「太平洋戦争開戦記念日」、1980年、ビートルズの元メンバー、ジョン・レノンがニューヨークの自宅アパート前で射殺されたため「レノンズデー」、2006年に議員立法として国会で審議された「有機農業の推進に関する法律」が12月8日に可決成立した事から「有機農業の日」となりました。
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