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2019年11月19日00:09

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11月19日の日記

今日の出来事:1392年−明徳の和約:南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡し、南北朝時代が終結、1493年−堀越御所の戦い、1573年−第二次長島侵攻、1567年−義信事件:武田義信自刃、1577年−信貴山城の戦い、1868年−戊辰戦争:松山戦争、1980年−山口百恵と三浦友和が結婚

今日は、明徳の和約です。50年以上にわたる南北朝の争いは、途中で南朝が優勢に立って北朝を一時解体に追い込んだ(正平一統)がありましたが、北朝を擁立した足利尊氏が開いた室町幕府が全国の武士を掌握すると、北朝優位の流れが固まりました。1392年、第3代将軍・足利義満の時に楠木正勝が敗れ、河内千早城が陥落するなどして南朝を支持する武士団が潰走しました。南朝は吉野周辺や一部地方に追い込まれ、北朝優位は決定的となりました。足利義満は、1391年の「明徳の乱」で有力守護大名・山名氏を弱体化させて武家勢力を統率すると、和泉・紀伊の守護で南朝と領地を接する大内義弘の仲介で南朝との本格的交渉を開始しました。そして皇位は「両統迭立」とする事で和睦が成立しました。1392年に南朝・後亀山天皇が京都へ赴いて、大覚寺で北朝・後小松天皇へ神器を譲渡し、南朝が解消される形で「南北朝合一」が成立しました。南朝に任官していた公家は一部を除いて北朝への任官は適わず、公家社会から没落しました。元号は北朝の「明徳」を継続しました。1412年、後小松天皇が嫡子・称光天皇に譲位して「両統迭立」は反故にされました。称光天皇には嗣子がなく、1328年の崩御よって持明院統の嫡流が断絶しました。しかし、後小松上皇は伏見宮家から猶子を迎えて後花園天皇を立てて、再び約束を反故にしました。反発した南朝の後胤や遺臣らは、朝廷や幕府に対する反抗を続ける事になります。これが「後南朝」です。

次に、堀越御所の戦いです。足利茶々丸は、堀越公方・足利政知の子で異母弟に室町幕府11代将軍・足利義澄、潤童子などがいます。嫡男でしたが素行不良で父・政知の命により土牢に軟禁され、代わりに弟・潤童子が後嗣とされました。執事・上杉政憲は、足利政知に茶々丸の廃嫡を諌めましたが聞き入れられず、自害させられました。1491年に足利政知が死去後は継母・円満院に虐待されましたが、牢番を殺して脱獄して堀越公方に決まっていた潤童子と円満院を殺して、事実上の公方となりました。しかし、奸臣の讒言を信じて、筆頭家老で韮山城主・外山豊前守、秋山新蔵人などの重臣を誅殺した事から、旧臣の支持を失って内紛は伊豆国内に波及しました。1493年、管領・細川政元が「明応の政変」を起こして10代将軍・義材(後に義稙と改名)を追放し、清晃を室町殿に擁立しました。清晃は還俗して義遐と名乗り、後に義澄と改名しました。権力の座に就いた足利義遐は、母と弟の敵討ちを幕府官僚の経歴を持ち、足利茶々丸の近隣に興国寺城を持つ北条早雲に命じました。これを受けて北条早雲は、伊豆堀越御所を攻撃しました。この事件は「伊豆討入り」と言われ、これにより東国の戦国時代が始まったと言われています。北条早雲が修善寺に湯治と称して自ら密偵となり、伊豆の世情を調べました。「伊豆討入り」は、伊豆国の兵の多くが山内上杉家に動員されて上野国の合戦に出て手薄になったのを好機としました。北条早雲の手勢200人と今川氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船に乗って清水浦を出港しました。駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸すると、住民は海賊の襲来と恐れて家財道具を持って山へ逃げました。北条早雲の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ち、足利茶々丸は逃亡しました。北条早雲は伊豆国韮山城を新たな居城として伊豆国の統治を始めました。高札を立てて味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告しました。また、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施したため、足利茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民は北条早雲に従いました。そして、それまでの煩瑣で重い税制を廃して四公六民の租税を定めると、領民は歓喜しました。こうして、伊豆一国は30日で平定されたと言われています。足利茶々丸は、武田氏、関戸氏、狩野氏、土肥氏らに擁せられて、北条早雲に数年に渡って抵抗しました。北条早雲は伊豆の国人を味方につけながら、足利茶々丸を徐々に追い込みました。1497年、西伊豆の狩野城主・狩野道一は足利方に付き戦い、中伊豆の「大見三人衆」と呼ばれる土豪を味方に付けた北条早雲に敗れて開城しました。狩野道一は、修善寺の中島に逃れて、自刃しました。その後、南伊豆で抵抗する関戸吉信の深根城を落として皆殺しにし、5年かかって伊豆を平定しました。一方で、北条早雲は今川氏の武将としても活動を行い、1494年頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻し、中遠まで制圧しました。その後、北条早雲と今川氏親は連携して領国を拡大していきます。

その次に、第二次長島侵攻です。1573年に浅井長政・朝倉義景を滅亡させた織田信長は、二度目の長島攻めを通達しました。前回の反省から、水路を抑える為に次男・北畠具豊に命じて伊勢大湊での船の調達を事前に命じていましたが、大湊の会合衆が要求を渋って難航していました。織田信長から北畠具教・具房父子を通じて会合衆に働きかけましたが、これも不調に終わりました。しかし、織田軍は予定通りに二度目の長島攻撃を敢行しました。信長をはじめとする数万の軍勢が北伊勢に出陣し、太田城に着陣しました。一揆勢の籠もる西別所城を佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らが攻めて陥落させました。柴田勝家・滝川一益らも坂井城を攻略し、降服させました。二人は続けて近藤城を金堀り衆を使って攻め、立ち退かせました。信長は本陣を東別所に移動し、萱生城・伊坂城の春日部氏、赤堀城の赤堀氏、桑部南城の大儀須氏、千種城の千種氏、長深城の富永氏などが相次いで降服し、信長に人質を送って恭順の意を示しました。しかし、白山城の中島将監は顔を見せなかったため、佐久間信盛・蜂屋頼隆・丹羽長秀・羽柴秀吉の4人に命じて金掘りで攻めさせ、退散させました。しかし、大湊の船の調達作業が出来ず、長島への直接攻撃を見送らざるを得ませんでした。信長は北伊勢の諸城の中で、最後まで抵抗する中島将監の白山城を佐久間信盛・羽柴秀吉・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに攻めさせて落城させると、矢田城に滝川一益を入れて11月19日に美濃へと帰陣を開始しました。しかし、途中で門徒側が多芸山で待ち伏せし、弓や鉄砲で攻撃を仕掛けてきました。伊賀・甲賀の兵もいました。信長は林通政を殿軍としましたが、雨が振り出して火縄銃が使用不可となってしまい、白兵戦となりました。林通政が討ち取られ、正午過ぎからの風雨で人足が凍え死にするなどの損害を出しましたが、林通政や毛屋猪介らの部隊の奮戦によって夜には一揆勢を振り切って大垣城へと到着し、岐阜へと帰還しました。その後、大湊が長島の将・日根野弘就の要請に応じて、足弱衆(女や子供)の運搬の為に船を出していた事が判明します。この事を知った信長は激怒し、「船主共を必ず成敗すること」を命じました。後に犯人と判明した山田三方の福島親子が処刑されました。

その次の次に、義信事件:武田義信自刃です。武田義信は、武田信玄の嫡男でした。13歳で元服し、今川義元の娘を正室に迎えました。室町幕府の将軍・足利義輝より、「義」の偏諱を受けて義信と名乗りました。武田義信の傅役で武田二十四将の一人・飯富虎昌、側近の長坂昌国、曽根周防守らが信玄暗殺の密談をしていました。計画は事前に飯富虎昌の弟・飯富三郎兵衛の密書により露見し、飯富虎昌、長坂昌国、曽根周防守らは謀反の首謀者として処刑され、80騎の家臣団は追放処分となりました。飯富家は断絶し、家臣団・赤備え部隊は山県氏の名跡を与えられた弟・三郎兵衛が引き継ぎ、昌景と名乗ります。武田二十四将かつ武田四天王の一人・山県昌景の誕生です。この時、武田二十四将の穴山信君の弟・信邦も切腹しています。武田義信は甲府の東光寺に幽閉され、今川義元の娘と強制的に離縁の上、後継者としての地位を失い、自刃しました。この後、武田信玄は今川領国への侵攻する「駿河侵攻」を開始します。

そのまた次に、信貴山城の戦いです。松永久秀は三好長慶の没後、甥・三好義継を擁立し、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と三好氏の実権を巡って争いました。織田信長が上洛すると臣従し、三好三人衆との抗争を優位に進め、大和の支配を引き続き任されました。ところが、室町幕府15代将軍・足利義昭が信長と対立し、諸侯に信長討伐を働きかけると三好義継と共に「信長包囲網」に加わり、摂津や河内で抵抗しました。しかし、武田信玄の死去により、信長に抑えられて足利義昭は追放、三好義継は自刃に追い込まれました。松永久秀は許されましたが、大和の支配権を信長の腹心・塙直政に奪われました。その塙直政は「石山合戦」の指揮をとり大敗、討ち死にしてしまいました。信長は松永久秀の宿敵・筒井順慶を次の守護にしました。これが、松永久秀が直後に謀反を起こした大きな原因と考えられています。松永久秀は、息子・久通と共に信貴山城に立て籠もりました。信長は筒井順慶、明智光秀、細川藤孝を出陣させて法隆寺へ布陣、信貴山城の先軍としました。織田軍は信貴山城の支城・片岡城を約5000の兵で攻めました。松永軍は海老名友清、森正友らが率いる約1000の兵で防御しました。しかし、片岡城は落城し、海老名友清、森正友などが討死しました。この時、「手取川の戦い」で信長軍に大勝利した上杉謙信が七尾城から動かず進軍が止まった、との報告が柴田勝家から安土城に届きました。信長は上杉謙信がこれ以上は進軍しないと判断し、総大将に嫡男・織田信忠、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽氏勝など加賀に出陣していた部隊を信貴山城攻城の援軍として送り込みました。織田信長軍の総数は40000となりました。前回は武田信玄の死によって謀反は成功せず、今回は上杉謙信が動かなかった事により、松永久秀は窮地に陥る事となりました。4万の大軍が一斉に攻城を開始しましたが、信貴山城は落城しませんでした。信長は、名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると命じましたが、松永久秀は拒絶しました。このため、松永久秀が人質に差し出した子(久通の息子で、当時12歳と13歳)を洛中引き回しの上、六条河原で斬首させました。松永久秀は、本願寺顕如に援軍を要請し、その使者に森好久を選びました。森好久は石山本願寺から加賀鉄砲衆200名を引き連れて帰城し、三の丸付近に配置しました。森好久は筒井順慶の元譜代で、筒井順慶の居城・筒井城が落城すると牢人となっていました。その後、松永久秀に仕官しました。しかし、森好久は信貴山城を出立すると、そのまま筒井順慶の部将・松倉重信の陣所に駆け込み、信貴山城の内情を知らせました。筒井順慶は森好久に金子・三十両を与え、虎の子の鉄砲衆200名を預けて伏兵とするように命じました。再び総がかりの攻城が朝から行われました。織田信忠の許可を得て筒井順慶は前線に立ち、鬨の声を上げ攻め上がりました。そんな中、天守に近い三の丸付近から一斉に火の手が上がりました。森好久が率いる鉄砲衆200名が反乱を起こしたのでした。松永久秀は、名器・平蜘蛛を天守で叩き割り、爆薬を仕込んで子・久通と共に自爆しました。

最後に、戊辰戦争:松山戦争です。「天狗党の乱」が鎮圧された後、水戸藩の藩政は市川三左衛門らを中心とする「諸生党」が掌握し、水戸に居た「天狗党」の関係者は「諸生党」によって次々と処刑されました。ところが、将軍・徳川家茂が死去すると、「天狗党」の武田金次郎ら遠島に処される予定であった者たちが赦免され、さらに孝明天皇崩御の後、「天狗党」と共謀関係にあった長州藩が「鳥羽・伏見の戦い」で勝利すると、「天狗党」の訴えにより「諸生党」が一転して朝敵に指定されました。このため、市川三左衛門ら「諸生党」は水戸を脱出して「北越戦争」、「会津戦争」に参戦しました。しかし、戦闘は新政府軍の勝利に終わりました。行き場を失った「諸生党」は起死回生を狙って水戸城奪還を図り、水戸藩の藩校・弘道館を占拠しましたが、敗れて下総方面へと逃走しました「弘道館戦争」。市川三左衛門ら200人を乗せた船は銚子港付近へ上陸しました。この時、銚子の防衛をしていた高崎藩士の説得に応じた97人が降伏しました。市川三左衛門ら113人は逃走を続け、八日市場の福善寺に到着しました。市川三左衛門はここで一同に解散の意志を伝えましたが、そのうち数十人は最期まで「天狗党」と戦う意志を示しました。市川三左衛門は八日市場の町を戦火に巻き込む事を避けるため、地元民の案内を受けて松山村付近の台地に陣を張り、追手を待ち受けました。午前11時頃、八日市場に到着した尼子扇之助・河西粛太郎が率いる水戸藩「天狗党」の1000人は福善寺に放火して焼き払った後、松山で待ち構える「諸生党」に総攻撃を仕掛けました。「諸生党」は2時間余りにわたって激しく抗戦しましたが、朝比奈弥太郎・富田理助ら30数名が討死し、午後2時頃ついに「諸生党」は壊滅しました。市川三左衛門は再起を図り、匝瑳郡高野村の剣客・大木佐内に匿われた後、東京へと逃れて潜伏していましたが、翌年に水戸藩の捕吏に捕縛されて水戸へ移送されました。そして、水戸郊外の長岡原で逆さ磔の極刑に処されました。

今日の誕生日:ジェームズ・ガーフィールド(第20代アメリカ合衆国大統領)、ピーター・ドラッカー、藤岡重慶、松崎しげる、松任谷正隆、安藤優子、メグ・ライアン、ジョディ・フォスター、水内猛、柴田淳、浜谷健司(ハマカーン)、星野みちる(元AKB48)

今日の記念日:国際男性デー、世界トイレデー、農協記念日、鉄道電化の日、いい息の日、いい塾の日

今日の「今日訓」:本日は、1956年11月19日に東海道本線の京都駅〜米原駅間が電化し、東海道本線が全線電化されたのを記念して「鉄道電化の日」、1947年に「農業協同組合法」が公布された事で「農協記念日」、2001年に「世界トイレ機関」が設立された事で「世界トイレデー」、1999年からトリニダード・トバゴで始まった「男性の記念日」が世界各国に広まり「国際男性デー」、「いい(11)いき(19)」の語呂合わせで「いい息の日」、「いい(11)じゅく(19)」の語呂合わせで「いい塾の日」となりました。
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