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2019年11月14日00:19

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11月14日の日記

今日の出来事:1477年−応仁の乱:若江城の戦い、1614年−最上騒動、1804年−華岡青洲が全身麻酔の手術に成功、1862年−幕末天誅事件:四与力殺害事件、1865年−丑歳騒動、1868年−戊辰戦争:弘道館戦争、1901年−カール・ラントシュタイナーがABO式血液型を発表、1907年−北埔事件、1930年−濱口首相遭難事件、1973年−関門海峡をまたぐ関門橋が開通、2007年−浦和レッズがアジアチャンピオンズリーグで日本勢初優勝

今日は、応仁の乱:若江城の戦いです。河内守護・畠山義就は御家騒動に敗れて家督を従弟・畠山政長に交替させられていましたが、1466年に山名宗全・斯波義廉らの招きに応じて大和で挙兵し、河内を制圧しました。そのまま上洛して翌年の「御霊合戦」で畠山政長に勝利して当主に復帰しました。しかし、室町幕府から再度家督を取り上げられて畠山政長に交替し、河内を畠山政長方に奪還されました。このため、1469年に山城西部の乙訓郡を占領して抵抗を続けました「西岡の戦い」。翌1470年に越智家栄らを従えて山城から河内へ出陣し、若江城と南の誉田城を包囲しましたが、落とせずに撤退しました。1471年に大内政弘が南山城から摂津に侵入したのに乗じて、河内に再度出陣しましたが河内を平定出来ませんでした。1476年、「応仁の乱」が終息に向かうと畠山政長は河内を確保するため、家臣・遊佐長直を若江城へ派遣しました。畠山義就も河内奪取のため京都を出発し、河内に到着すると畠山政長方と合戦を始めました。若江城の東の客坊城を落城させ、若江城と誉田城の中間に位置する八尾城に入城し、誉田城も陥落させました。11月14日、南部の嶽山城も畠山義就方が制圧し、残る若江城も畠山義就軍が落としました。遊佐長直は船に乗って大和川を渡り逃亡し、河内は畠山義就により平定されました。大内政弘も呼応して南山城と大和の境界付近にある木津城を攻撃、畠山政長方の大和国人衆が敗れて没落したため、大和も越智家栄ら畠山義就方に平定されました。その後、大内政弘ら諸大名が一斉に領国へ戻り「応仁の乱」が終結しました。

次に、最上騒動です。出羽・最上家の第11代当主で、山形藩の初代藩主・最上義光の晩年頃から、最上家では後継者をめぐっての暗闘が繰り広げられました。最上義光には長男・義康がおり、本来なら家督を継ぐのが筋でした。しかし、最上義光が長男と不和になり、次男・家親が徳川家康や徳川秀忠らに近侍して親しい関係にあった事から、御家存続のために最上義光は家親に家督を譲ろうと画策しました。そして、1611年に最上義康が何者かによって暗殺されました。後に、最上義光は義康が和解を図っていた事を知って後悔し、失意のうちに病に倒れて、1614年に死去しました。最上義光の死後、最上家の家督は次男・家親が相続し、山形藩の第2代藩主となりました。最上家親は江戸幕府との関係を強化するため、「大坂冬の陣」が始まると、家臣・一栗高春が最上義光の三男・清水義親を擁して謀反を起こしたため、新関久正に誅殺されました。さらに清水義親を誅殺しました。ところが最上家親は1617年に急死しました。最上家親の死後、最上家の家督は息子・義俊が継いで第3代藩主となりました。しかし、最上義俊は若年であったため、重要な決定は幕府に裁断を求める事が取り決められました。不満を持った最上家臣団は、最上義俊を廃して義光の四男・山野辺義忠を擁立しようとする一派と、最上義俊を擁護しようとする一派に分裂して激しい内紛を引き起こしました。1622年、最上義光の甥・松根光広が老中・酒井忠世に「最上家親の死は楯岡光直の犯行による毒殺である」と訴え出ました。酒井忠世は訴えに基づいて楯岡光直を調べましたが証拠がなく、松根光広は立花氏にお預けとなりました。騒動を重く見た幕府は奉行・島田利正と米津田政を使者にして、最上領を収公して最上義俊に新たに6万石を与えました。最上義俊が成長の後に、本領に還すという決定を下しました。しかし、山野辺義忠と鮭延秀綱は納得せず、「松根光広のような家臣を重用する最上義俊をもり立てていく事は出来ない」と言上しました。このため幕府は、1622年に山形藩最上家57万石の改易を命じました。しかし、最上義俊には新たに近江大森で1万石の所領を与えられ、最上家の存続だけは許されました。この後、最上家から山形城を受け取る使者となった老中・本多正純は、山形に赴く最中に処分され、後に改易される「宇都宮城釣天井事件」が起こります。

その次に、華岡青洲が全身麻酔の手術に成功です。華岡青洲は江戸時代の外科医で、世界初の全身麻酔を用いた手術を成功させました。華岡青洲は、手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考えて麻酔薬の開発を始めました。研究を重ねた結果、曼陀羅華の実(チョウセンアサガオ)、草烏頭(トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果がある事を発見しました。動物実験を重ねて、麻酔薬の完成までこぎつけましたが、人体実験を目前にして行き詰まりました。実母・於継と妻・加恵が実験台になる事を申し出て、数回にわたる人体実験の末に母・於継の死と妻・加恵の失明という大きな犠牲の上で、全身麻酔薬「通仙散」を完成させました。1804年11月14日、大和国宇智郡五條村の藍屋勘という60歳の女性に対し、通仙散による全身麻酔下で乳癌摘出手術に成功しました。全身麻酔手術の成功を機に、華岡青洲の名は全国に知れ渡り、手術を希望する患者や入門を希望する者が殺到しました。華岡青洲は全国から集まってきた門下生たちの育成に力を注ぎ、医塾「春林軒」を設けて、生涯に1000人を超える門下生を育てました。華岡青洲の弟子からは、本間玄調、鎌田玄台、熱田玄庵、館玄竜、難波立愿、三村玄澄といった優れた外科医を輩出しました。1813年に紀州藩の「小普請医師格」に任用されました。しかし、華岡青洲の願いによって、そのまま自宅で治療を続けてよいという「勝手勤」が許されました。1819年に「小普請御医師」に昇進し、1833年には「奥医師格」となりました。1835年11月21日、家人や多くの弟子に見守られながら死去しました。享年76でした。1952年には、外科を通じて世界人類に貢献した医師のひとりとして、アメリカ合衆国のシカゴにある国際外科学会付属の栄誉館に祀られました。

その次の次に、幕末天誅事件:四与力殺害事件です。京都町奉行所与力・渡辺金三郎、森孫六、大河原重蔵、上田助之丞の4人は「安政の大獄」で長野主膳、島田左近らと共に志士摘発を行っていました。宇郷重国や猿の文吉が岡田以蔵らに「天誅」にあった後、次に標的とされる事を避けるため、京都から江戸へと転任する事になりました。彼らが石部宿まで来た夜、30名を越す浪士の一団が宿場を襲い、人々が騒然とする中で4名は殺害されました。斬奸状には憂国の志士を多数捕らえ、重罪に処した事に対する「天誅」であると書かれていました。この襲撃には土佐、長州、薩摩、久留米の4藩から複数の志士が参加していました。岡田以蔵も、この襲撃に加わっていました。

そのまた次に、丑歳騒動です。丑歳騒動は、幕末の人吉藩で、1865年に起こった騒動です。1862年に発生した大火「寅助火事」によって、武器が焼失しました、西洋式軍隊の導入の必要性を感じた藩は、松本了一郎を起用して軍制改革に乗り出しました。松本了一郎の一派は、佐幕で「洋式派」と呼ばれました。一方、江戸初期からの伝統である山鹿流軍制を守ろうとする家老らは、「勤王派」でした。こうした軍制と政治の対立があり、「洋式派」が優勢となって薩摩藩から5000両を借用するなどし、オランダ式軍制への改革が推進されました。1863年、松本了一郎は「薩英戦争」で西洋軍式の必要性を改めて悟ると、「勤王派」の新宮行蔵や那須拙速を弾劾して失脚させました。そして、藩主の用人として実権を掌握すると、藩内を「佐幕派」で統一しました。しかし、隣国の薩摩藩から次第に圧迫を受けるようになり、藩主・相良頼基は松本了一郎を疎ましく思い始めました。そんな中、松本了一郎が相良頼基を廃して、甥・頼紹を擁立しようとする陰謀を企てたという噂が流れました。それを信じた相良頼基は、新宮行蔵ら「勤王派」を復帰させました。そして、1865年11月13日深夜、新宮行蔵の意を受けた神瀬慎八ら20名の追手により、松本了一郎、井口卯六郎、豊永泰三郎、田代甚兵衛、日野佐一、日野貫蔵ら「洋式派」14人を上意討ちとして殺害しました。こうして、「勤王派」が主導権を掌握しました。その後、山鹿流、オランダ式とも廃止され、薩摩藩からイギリス式軍制が導入されました。人吉藩は、一連の騒動から藩内の改革が立ち後れ、明治維新では新政府軍に参加しましたが目立った活躍は出来ませんでした。

そのまた次の次に、戊辰戦争:弘道館戦争です。水戸藩兵の主力は会津に行っていました。そのため、「諸生党」が水戸に帰るとの報に驚き、各地の藩兵を水戸城に呼び戻しました。赤沼の獄に投獄されていた諸生党派の家老・天野伊内、若年寄・近藤儀太夫ら重臣40余名を処刑しました。これは、かつて「諸生党」が「天狗党」の藩士や家族をここで殺害した事と同じ事が行われました。市川三左衛門が率いる「諸生党」は、水戸城下に入りました。水戸城は家老・山野辺義芸らが防備を固めていました。「諸生党」は大手門や北側の急坂の上にある柵門などを攻め立てました。しかし、水戸藩側は大手門などを閉ざして必死に防戦し、更に城内から激しい銃撃を加えたため「諸生党」は攻めあぐね、入城する事が出来ませんでした。そのため、三の丸にあった弘道館を占拠しました。すると、水戸藩は大手門を開いて弘道館への攻撃を開始しました。激しい銃撃戦となり、水戸藩側は戦死者87人、負傷者130人を出しましたが戦闘を有利に展開しました。「天狗党」の残党・鮎沢伊太夫や久米鉄之進が戦死しました。「諸生党」は戦死者90人、負傷者78人、捕縛者11人(後に全員処刑)を出して、水戸を脱出しました。歩けない負傷者たちは、自刃または介錯により散っていきました。この戦闘で、弘道館は正門、正庁、至善堂を残して焼失し、多くの貴重な蔵書が焼失しました。今も、弘道館の正門や正庁玄関には当時の弾痕が残っています。

さらに次に、カール・ラントシュタイナーが「ABO式血液型」を発表です。オーストリアの医学者、カール・ラントシュタイナーは、ウィーンでユダヤ人として生まれました。1900年に「ABO式血液型」を発見し、翌1901年11月14日に論文を発表しました。ラントシュタイナーは、まず自身の血液型を「A型」と名付け、残りの血液型をそれぞれ「B型」、「C型」と名付けました。これにより、「ノーベル生理学・医学賞」を受賞しました。さらに、1902年にアルフレッド・フォン・デカステロとアドリアノ・シュテュルリによって、第4の型が追加発表されました。その後、1910年にエミール・フライヘル・フォン・デュンゲルンとルードビッヒ・ヒルシュフェルドにより、第4の型には「AB型」という名称が与えられ、C型の名称は「O型」に変更されました。

さらに次の次に、北埔事件です。北埔事件は、日本統治時代の台湾で発生した客家人の蔡清琳による抗日事件です。事件のリーダー・蔡清琳は元警官でしたが、理念の違いから辞めてしまいました。1907年11月、蔡清琳は新竹県北埔の山岳部にいる漢人と台湾原住民であるサイシャット族の者たちに対して、「聯合復中興の総裁」と自称し、「清の大軍がまもなく新竹に上陸する」と騙しました。また、サイシャット族大隘社の頭目であった趙明政を誘い、高額な殺害報酬を示して人を集めました。11月14日、蔡清琳は群集を煽動して暴動を起こし、北埔地区を襲撃して日本人警察官や市民など57人を殺害しました。しかし、蔡清琳はこれに対して何の動きもしませんでした。蔡清琳に同調していたサイシャット族の者たちは騙されていた事を知り、蔡清琳は殺害されました。事件後、台湾総督府の警察は北埔の支援に向かい、100人あまりを逮捕しました。裁判の結果、事件の首謀者9人が台湾総督府によって死刑に処され、有期刑や行政処分となった者も97人を数えました。さらに、秘密裡に死刑にされた多くの客家人がいます。しかし、当時の原住民族に対する懐柔政策により、サイシャット族はわずかに銃などを没収されるだけにとどまりました。趙明政は、死んだ事として隠居し、災禍を避けました。この抗日事件で蜂起した者の多くは、隘勇線の漢人兵か隘勇線外に住む原住民でした。台湾総督府は、この事件を踏まえてこれらの組織の整理を行いました。また、理蕃政策を再調整するとともに強化を行いました。その結果、漢人の手を借りずに直接原住民を管理する政策に改められました。しかしながら、その後も台湾原住民による抗日事件として、さらに大きな「霧社事件」が起きる事となります。

さらにまた次に、濱口首相遭難事件です。1939年11月14日、首相・濱口雄幸は、岡山県浅口市で行われる陸軍演習の視察と、昭和天皇の行幸への付き添い及び自身の国帰りも兼ねて、午前9時発の神戸行き特急「燕」に乗車するため東京駅を訪れました。午前8時58分、「燕」の1号車に向かって第4ホーム(現在の東北新幹線改札付近)を移動中、愛国社社員の佐郷屋留雄に至近距離から銃撃されました。佐郷屋留雄は銃撃直後に周囲の手で取り押さえられ、現行犯逮捕されました。銃撃された首相は周囲に大丈夫だと声を掛けるなど、気丈で意識ははっきりとしていましたが、弾丸は骨盤を砕いていました。駅長室に運び込まれた濱口雄幸首相は駆け付けた医者の手によって応急処置が施され、容態が安定すると東京帝国大学医学部附属病院に搬送され、腸の30%を摘出する大手術を受けて一命を取り留めました。「原敬暗殺事件」以降、駅における首相の乗降時は一般人の立ち入りを制限していましたが、濱口首相自身の「人々に迷惑をかけてはならない」との意向により、立ち入りは制限されていませんでした。入院中は幣原喜重郎外相が臨時首相代理を務めました。濱口首相は翌1931年1月21日に退院しました。しかし、4月4日に再入院した首相は翌5日に手術を受けました。これ以上の総理職続行は不可能と判断し、4月13日に首相を辞任しました。民政党総裁も辞任し、退院後は療養に努めましたが、治療の甲斐なく8月26日午後3時5分に死去しました。濱口雄幸の死因に関しては後日、濱口雄幸が特殊な細菌(放射状菌)の保有者であり、その細菌が傷口に侵入して化膿した事による症状の悪化と判明したため、犯人である佐郷屋留雄の裁判は、被告の罪状が殺人罪と殺人未遂罪のどちらが適用されるべきか大いに紛糾しました。審理の結果、狙撃と死亡との間に相当因果関係がないとして、殺人未遂罪が適用されました。しかし、1933年の判決内容は死刑でした。1934年に恩赦で無期懲役に減刑され、1940年11月に仮出所しました。その後、愛国社社長・岩田愛之助の娘婿となり、後を継いで右翼活動を続けました。戦後は公職追放を受けましたが佐郷屋嘉昭と改名し、1954年に「血盟団事件」の中心人物・井上日召と共に右翼団体護国団を結成し、第二代団長となりました。1959年には児玉誉士夫らがいる全日本愛国者団体会議(全愛会議)の初代議長となりました。弟子に黒崎健時、藤元正義がいます。黒崎健時は、後に空手「極真会館」のナンバー2となり、日本とオランダでキックボクシングを育てました。

最後に、関門橋が開通です。関門橋は、山口県下関市壇之浦と福岡県北九州市門司区の関門海峡を跨ぐ道路橋で、この橋梁を含む区間の高速道路の通称です。橋長1068m、最大支間長712mは、若戸大橋(橋長627m、最大支間長367m)をしのぎ、開通時点では日本最大規模の橋となりました(その後、1983年開通の因島大橋が関門橋を上回る橋となる)。下関IC−門司IC間の高速道路として「関門自動車道」となっており、中国自動車道でも九州自動車道でもありません。門司方面に「壇ノ浦PA」、下関方面に「めかりPA」がそれぞれ設置されています。どちらも本州と九州の対岸に位置したPAで観光客の利用が多いため、レストランと24時間営業の売店が備わっています。

今日の誕生日:クロード・モネ、南條範夫、力道山光浩、阿藤快、小林繁、中野浩一、小野瀬雅生(クレイジーケンバンド)、あめくみちこ、平仲明信、久保こーじ、立見里歌(元おニャン子クラブ、元ニャンギラス)、鈴木英哉(Mr.Children)、パトリック・ハーラン(パックンマックン)、吉田佳史(TRICERATOPS)、森崎博之(TEAM−NACS)、江藤愛、片岡安祐美、星井七瀬、野村周平、小池美波(欅坂46)

今日の記念日:世界糖尿病デー、パチンコの日、いい石の日、アンチエイジングの日、埼玉県民の日、大分県民の日、医師に感謝する日、いい上司(リーダー)の日、人生100年時代の日

今日の「今日訓」:本日は、埼玉県民の日です。1868年6月19日、旧幕府代官・山田政則が「武蔵知県事」に就任しました。1869年1月10日、山田政則知県事が宮原忠英に交代して「大宮県」が設置されました。9月29日、県庁の移転により「浦和県」に改称されました。1871年7月14日、「廃藩置県」により「川越県」、「忍県」、「岩槻県」の3県が新たに誕生しました。11月14日、「忍県」、「岩槻県」、「浦和県」の3県が合併して「埼玉県」が誕生しました。この日が「埼玉県民の日」となりました。同日、「川越県」は「品川県」の一部を吸収して「入間県」となりました。「埼玉県」の県庁所在地は埼玉郡岩槻町とされましたが、旧浦和県庁を流用する形で足立郡浦和宿(現さいたま市浦和区)を仮県庁としました。「入間県」の県庁は川越城に置かれました。その後、1873年に「入間県」が「群馬県」と合併して「熊谷県」となりました。「熊谷県」の県庁は熊谷駅に置かれました。1876年、「熊谷県」が解消されて「旧入間県」の地域は「埼玉県」と合併し、現在の「埼玉県」が成立しました。「埼玉」の地名の発祥地は「北埼玉郡埼玉(さきたま)村」(現:行田市大字埼玉)です。幸福をもたらす神の働きを意味する「幸魂(さきみたま)」から名付けられました。
大分県民の日でもあります。1871年11月14日、旧豊後国内に置県されていた「佐伯県」、「大分県」、「岡県」、「日田県」等の各県を併合して「大分県」が成立しました。1872年1月23日、大分郡南勢家(現在の大分市都町)に大分県庁が設置されました。1876年8月21日、宇佐、下毛両郡が「福岡県」より「大分県」に編入され、現在の「大分県」が確定しました。「大分県」の名は、古来国府が置かれていた大分郡(おおきたのこほり)に由来します。「おおいた」という読みは、「おおきた」が転訛したものです。
インスリンを発見したカナダ人医師、フレデリック・バンティングの誕生日で「世界糖尿病デー」、1966年に、「全国遊技業協同組合連合会(現・全日本遊技事業協同組合連合会)」が通産省から正式に認可を受けた事を記念して「パチンコの日」、「いい(11)石(14)」の語呂合わせと石工職人が尊ぶ聖徳太子の命日で「いい石の日」、「いい(11)年(14)」の語呂合わせで「アンチエイジングの日」、「いい(11)医師(14)」の語呂合わせで「医師に感謝する日」、「いい(11)上司(14)」の語呂合わせで「いい上司(リーダー)の日」、「いい(11)とし(14)」の語呂合わせで「人生100年時代の日」となりました。
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