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2019年10月24日00:08

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10月24日の日記

今日の出来事:1582年−一色氏滅亡、1600年−関ヶ原の戦い:佐和山城の戦い、三津浜夜襲、1876年−不平士族の反乱:神風連の乱、1886年−ノルマントン号事件、1894年−日清戦争:鴨緑江作戦、1929年−暗黒の木曜日:ニューヨーク株式市場が大暴落し、世界恐慌が始まる、1944年−レイテ沖海戦:シブヤン海海戦、武蔵沈没

今日は、一色氏滅亡です。一色氏は室町幕府の四職に数えられる名家でしたが、没落の一途を辿って丹後守護職の名分も若狭・武田氏に奪われ、長らく続いた守護家の権威で丹後の実効支配を続けていました。1558年、父・一色義幸の隠居によって義道が家督を継承し、加佐郡の八田守護所及び建部山城に入りました。実弟・義清を吉原城に配して丹後奥三郡を治めさせ、次弟・昭辰には「辰」の字を与えて、将軍・足利義昭より偏諱を受けて奉公衆として将軍家に近侍させました。一色義道は昭辰を介して毛利輝元とも親交を深め、戦国武将としての地位を確立しました。また、織田信長とも親交を深め、信長が擁立した足利義昭から丹後一国を正式に安堵されました。しかし、1571年の「比叡山焼き討ち」で追われた延暦寺の僧を匿うなど信長と対立し、1578年には織田家の武将・明智光秀と細川藤孝による丹後国への侵攻を招きました。翌1579年、丹後国人の相次ぐ織田方への寝返りにより、丹後守護所の詰城・建部山城が落城しました。一色義道は、但馬の山名氏への亡命を企てて途中の中山城に身を寄せました。しかし、城主・沼田幸兵衛が織田方に内応した為、行き場を失って自害しました。自害するの前に子・義定に家督を譲りました。一色義定は、弓木城で残党を率いて抗戦しました。織田信長の意向もあり、抗戦に手こずった細川藤孝は明智光秀の助言によって政略結婚で和議を結びました。以後、丹後を細川氏と分割統治しました。中郡・竹野郡・熊野郡の奥丹後(現・京丹後市)を領した一色義定は、織田政権の丹後守護として「甲州征伐」に細川氏と共に参戦しました。隣国・但馬の山名堯熙とも親しく、旧守護家同士で親交を深めました。弓木城を居城にして城下町を形成し、丹後北半国を統治しました。1582年の「山崎の戦い」では直接の上役である明智光秀に味方しました。一方、細川氏は上司である明智光秀に背きました。明智光秀は惨敗して討ち取られました。羽柴秀吉から一色義定による謀反企図の報に接し、細川藤孝の子・忠興によって細川氏の居城・宮津城内で謀殺されました。その際、城内の家臣や城下の雑兵100人も松井康之、米田求政が率いる軍勢に討ち取られました。弓木城では義清が一色氏の家督を継いで再興しました。しかし、細川方の追討軍によって一色軍は壊滅し、一色義清は細川軍の本陣に斬り込みをかけ、下宮津の海辺で壮烈な最期を遂げました。弓木城は、降伏しました。一色義清の死により、室町幕府における四職の一角である丹後守護家・一色氏は滅亡しました。

次に、関ヶ原の戦い:佐和山城の戦い、三津浜夜襲です。
佐和山城の戦い:「関ヶ原本戦」が東軍の大勝利で終わったその日、徳川家康は首実検の後、大谷吉継の陣があった山中村へ陣を移して休養を取りました。翌日には裏切り組である小早川秀秋、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠に石田三成の本拠である佐和山城攻略の先鋒を命じました。これに近江方面の地理に明るい田中吉政、軍監として井伊直政が加わり、2万を超える大軍で近江鳥居本へ進軍しました。家康は平田山に陣を構えて攻撃を命じました。佐和山城には石田三成の兄・石田正澄を主将に父・石田正継や石田三成の嫡男・石田重家、大坂からの援兵である長谷川守知ら2800の兵が守備していました。6倍以上もの兵力差に加えて、御家安泰のために軍功を挙げねばならない小早川秀秋らは猛攻撃を加えました。長谷川守知が寝返り、東軍の兵を引き入れて三の丸が陥落すると、田中吉政隊が天守に攻め入って落城しました。石田正澄・正継、三成の正室・皎月院、宇多頼忠・頼重ら、石田三成の一族は自刃して滅びました。石田重家や赤松則英は捕らえられました。赤松則英は後に切腹を命じられますが、石田重家は助命されて京都妙心寺へ出家させられました。
三津浜夜襲:伊予・三津浜(現・愛媛県松山市古三津)周辺で東軍・加藤嘉明勢と西軍・毛利勢、旧河野家臣連合軍の間で行われた戦いです。「関ヶ原の戦い」の混乱に乗じて伊予での領土切り取りを謀った毛利氏は、伊予の東軍・加藤嘉明と藤堂高虎の領地内の国人、瀬戸内の水軍衆に対して調略を行いました。そして、加藤嘉明領に侵攻軍を派遣しました。安芸・竹原から出陣した毛利勢は、伊予で御家再興を狙う河野家の後継者・河野通軌を総大将格とし、毛利家臣・桂元綱、宍戸景好、伊予の国人・曽根景房、因島水軍の村上吉忠や、能島水軍の村上元吉ら豊臣秀吉の定めた「海賊停止令」によって活動の場を失った海賊達の舟数百艘、3500余騎を投入しました。また、それに呼応した各地の河野家旧臣が一揆を起こして蜂起しました。毛利勢は10月16日に加藤家臣・石川隆次が守る来島城に攻め寄せましたが、落とせずに正木城に矛先を向けました。松山沖の興居島を経て、10月23日に伊予・三津浜に上陸しました。河野氏旧臣で荏原城主・平岡直房や正岡氏らと合流し、正木城から直線距離8km余りの三津刈屋口、古三津一帯に布陣しました。この時、河野家旧臣・都築谷孫右衛門が率いる一隊が荏原城に入城しました。上陸した毛利勢は曽根高房を正木城に使者として派遣し、豊臣秀頼の朱印状を示して城の明け渡しを要求しました。さらに村上武吉・元吉、宍戸景好らが連署して、正木の豪商・武井宗意らに充てて「加藤方についた場合は、妻子以下みな討ち果たすであろう」との書状を出し、自軍への協力を求めました。これに対し、守将で加藤嘉明の弟・加藤忠明や足立重信、佃十成らは一計を案じました。佃十成は病と偽って曽根景房に直接会わずに、開城するが妻子を逃す時間が欲しいと返答しました。そして、近隣の百姓に酒肴を持たせて、留守居の軍勢がほとんどなく佃十成も病であるとの虚報を三津の毛利勢に伝え、毛利氏の侵攻を歓迎するかのような流言を行いました。これを聞いた河野通軌は小躍りして喜んで油断し、宇和島城主・藤堂高虎方からの援軍の申し出を断りました。その夜半から朝にかけて、佃十成が率いる少数の加藤勢は、数に勝る毛利勢に対して周辺に火を放ちながら夜襲を仕掛け、三津の刈屋畑や古三津一円で激戦の末に敗走させました。毛利勢は佃十成によって村上元吉が討ち取られ、曽根景房も討死、河野通軌も手傷を負うなどし、多数の将兵を失う大損害を受けました。翌26日、都築谷孫右衛門が三津に到着して残兵を集めた上で、荏原城の城兵と連携して濫妨行為を行いました。しかし、押し寄せた加藤勢と畠寺原で遭遇し、平岡直房らと共に久米の如来寺に立て籠りました。また、河野通軌は荏原城に籠りました。加藤勢が如来寺に攻め寄せると、平岡直房が率いる河野残兵は道後山に退きました。しかし、佃十成に手傷を負わせ、加藤家の指揮官・黒田九兵衛は鉄砲で撃たれて討死しました。佃十成は、怪我を押して道後山に出陣して戦いました。28日夜に間者が、翌日に荏原にいる都築谷孫右衛門が率いる毛利兵が芸州に帰るために三津に向っている事を告げました。これを受けて加藤勢も29日未明、兵を出して道後周辺や三津ノ木山で最後の一戦を行いました。毛利勢は北に逃れました。加藤勢には、逃げる毛利勢を追撃する余裕がありませんでした。その夜に「関ヶ原本戦」での西軍敗北の報を聞いた毛利勢は、翌日に風早の浦から撤退しました。河野通軌は撤退後、毛利家の家臣として仕えて山口で没しました。伊勢方面では、西軍の敗報に接して多くの将が退却しました。伊勢亀山城が開城し、城主であった岡本宗憲が自刃、嫡男・重義も近江水口に送られて、その地で自刃しました。桑名城も同日開城、当初東軍に加担するつもりが、西軍の圧力で止む無く西軍へ加担した氏家行広・行継兄弟は、山岡道阿弥に城を明け渡した後、改易されました。

その次に、不平士族の反乱:神風連の乱です。神風連の乱は、熊本市で起こった明治政府に対する「不平士族の反乱」の一つです。旧熊本藩の士族・太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎ら、約170名によって結成された「敬神党」が「廃刀令」に反対して起こした反乱です。この「敬神党」は「神風連」の通称で呼ばれていたので、「神風連の乱」と呼ばれています。1876年10月24日深夜、「敬神党」が各隊に分かれて、熊本鎮台司令官・種田政明宅、熊本鎮台参謀長・高島茂徳宅、熊本県令・安岡良亮宅を襲撃し、種田政明・安岡良亮・高島茂徳ほか県庁役人4名を殺害しました。種田政明が殺害された際、その場にいた種田の愛妾・小勝は負傷しながらも、熊本電信局へ走って、「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」(旦那はいけない、私は手傷)と打った電報を、東京の親元に送信しました。これが、短く簡潔かつ的確にまとめる事が重要な電報文体の好例として一般に広まり、電報の利用方法や有用性が広まるきっかけになりました。その後、全員で政府軍の熊本鎮台(熊本城内)を襲撃し、城内にいた兵士らを次々と殺害し、砲兵営を制圧しました。しかし、政府軍側では児玉源太郎ら将校が駆けつけ、その指揮下で態勢を立て直し、本格的な反撃を開始しました。加屋霽堅・斎藤求三郎らは銃撃を受けて死亡し、首謀者の太田黒伴雄も銃撃を受けて重傷を負い、付近の民家に避難した後に自刃しました。指導者を失った事で他の者も退却し、多くが自刃しました。「敬神党」側の死者・自刃者は計124名、残りの約50名は捕縛され、一部は斬首されました。政府軍側の死者は約60名、負傷者約200名でした。この反乱は、秩禄処分や廃刀令により、明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱の嚆矢となる事件で、この事件に呼応して「秋月の乱」、「萩の乱」が発生し、翌年の「西南戦争」へとつながって行きます。

その次の次に、ノルマントン号事件です。1886年10月24日午後8時ころ、横浜港から日本人乗客25名と雑貨をのせて神戸港に向かったイギリス貨物船「ノルマントン号」240トンが航行途中、暴風雨によって三重県四日市より和歌山県樫野崎までの沖合で難破、座礁沈没しました。その際、ジョン・ウイリアム・ドレーク船長以下、イギリス人やドイツ人からなる乗組員は全員救命ボートで脱出し、漂流していたところを沿岸漁村の人々に救助されて手厚く保護されました。ところが日本人乗客25名は一人も避難できた者がおらず、船中に取り残されてことごとく溺死しました。和歌山県知事・松本鼎からの電報で遭難事件のあらましを知った第1次伊藤内閣の外務大臣・井上馨は、日本人乗客が全員死亡した事に不審をもち、その場の実況調査を命令しました。しかし、事実検証についても不平等条約の壁に阻まれ、満足な解決が得られませんでした。神戸駐在在日英国領事のジェームズ・ツループは、領事裁判権にもとづき神戸領事館内・管船法衙において海難審判をおこない、船長以下全員に無罪判決を下しました。この判決を知って日本国民は悲憤慷慨しました。全国各地から遺族への義捐金が寄せられ、新聞各紙は連日、悲しみの論説と弾劾の記事を掲げました。社交場・鹿鳴館での舞踏会をはじめとする欧化政策によって条約改正交渉を進めていた井上馨外相も、沸騰する国内世論を黙止する事ができず、兵庫県知事・内海忠勝に命じてドレーク船長らの神戸出船をおさえ、兵庫県知事名で横浜領事裁判所に殺人罪で告訴させました。これに対し、イギリス側は神戸で予審をおこない、ついで横浜に場を移しました。在日横浜英国領事館判事のニコラス・ハンネンはドレークに有罪判決を下し、禁固刑3か月に処しましたが、死者への賠償金は支払われませんでした。「ノルマントン号事件」は、領事裁判の不当さを日本人に痛感させた事件として歴史に残るものになりました。外交の刷新、条約改正(不平等条約撤廃)を要求する動きがさらに強まる事になりました。

そのまた次に、日清戦争:鴨緑江作戦です。鴨緑江作戦は、「日清戦争」の陸戦です。山県有朋が率いる第1軍主力は渡河作戦を開始しました。日本軍の猛勢に恐れをなした清国軍は我先にと逃走を図り、日本軍は九連城を無血で制圧しました。この作戦成功により、日本軍は初めて清国領土を占領しました。

最後に、レイテ沖海戦:シブヤン海海戦です。シブヤン海に差し掛かった栗田艦隊は10月24日8時20分、アメリカ軍第38任務部隊索敵隊「カボット」、「イントレピッド」に発見されました。ハルゼー大将は第2、3、4群の3個群を以って栗田艦隊に対して攻撃を開始しました。10時26分、第2群の空母「イントレピッド」、「カボット」からの第1次攻撃隊45機(戦闘機21、爆撃機12、雷撃機9、誘導機ビル・エリス中佐)が攻撃を開始し、「武蔵」と「妙高」の右舷後部に魚雷1本が命中しました。「妙高」は速度12ノットに低下し、戦場を離脱しました。11時38分、第五戦隊司令部は僚艦「羽黒」に移乗しました。12時6分、「イントレピッド」からの第2次攻撃隊33機(戦闘機12、爆撃機12、雷撃機9)が攻撃を開始し、「武蔵」に魚雷3本、爆弾2発が命中しました。この攻撃で「武蔵」の速度は22ノットに低下しました。13時30分、ミッチャー中将が直率の第3群空母「レキシントン」、「エセックス」からの第3次攻撃隊83機が「武蔵」に攻撃を集中し、魚雷5本、爆弾4発を命中させました。「武蔵」の速度は16ノットに低下しました。14時15分、第4群の空母「フランクリン」からの第4次攻撃隊65機が来襲し、「大和」に爆弾1発が命中しました。14時59分、第2群の第3波攻撃隊30機(戦闘機15、爆撃機12、雷撃機3)が来襲し、攻撃は「武蔵」に集中し、速力は6ノットに低下しました。第38任務部隊の攻撃で、「武蔵」が最低爆弾10発・魚雷10本を受けて落伍、「大和」に爆弾1発、「長門」に爆弾2発が命中して一時速力低下、「利根」に爆弾2発、「矢矧」が爆弾1発と至近弾2発で浸水して速力低下、駆逐艦「清霜」と「浜風」に爆弾1発が命中し、「浜風」は火災が発生して速力が低下しました。19時35分、第38任務部隊の攻撃で「武蔵」は沈没しました。「武蔵」の猪口敏平艦長は戦死、「武蔵」の生存者救助には駆逐艦「清霜」、「浜風」があたり、救助を終えると2艦はマニラへ撤退しました。「武蔵」は、大日本帝国海軍の大和型戦艦の二番艦です。この「武蔵」沈没に伴う戦死者は全乗組員2399名中、猪口敏平艦長以下1023名、生存者は1376名、「長門」派遣下士官兵7名、さらに沈没までの対空戦闘で前日に潜水艦の雷撃により沈没し、救助されて武蔵に移乗していた重巡洋艦「摩耶」の乗員も117名が犠牲になりました。

今日の誕生日:イポリット・メージュ=ムーリエ、武市瑞山、雨宮敬次郎、正力亨、高松英郎、宇津井健、渡辺淳一、ビル・ワイマン(元ローリング・ストーンズ)、夏樹陽子、辻発彦、田村藤夫、春川玲子(JITTERIN’JINN)、及川光博、キンタロー。、木村カエラ、ウェイン・ルーニー、上國料萌衣(アンジュルム)

今日の記念日:霜降、国連デー、世界開発情報の日、ツーバイフォー住宅の日、文鳥の日、マーガリンの日、天女の日

今日の「今日訓」:本日は、二十四節気の一つ「霜降」です。「露が陰気に結ばれて霜となりて降るゆゑ也」で、露が冷気によって霜となって降り始めるころです。楓や蔦が紅葉し始めるころで、この日から「立冬」までの間に吹く寒い北風を「木枯らし」と呼びます。1945年にソ連が「国際連合憲章」を批准し、発効に必要な20国の批准が得られたため「国連憲章」が発効し、「国際連合」が発足した事で「国連デー」、1970年に「第2次国連開発の10年のための国際開発戦略」が採択された事で「世界開発情報の日」、マーガリンの発明者イポリット・メージュ=ムーリエの誕生日である事から「マーガリンの日」、10月が住宅月間であり、ツーバイフォー住宅の年間建設戸数を10万戸とする目標を設定、24日はツーバイフォー(2×4)のため「ツーバイフォー住宅の日」、「て(10)に(2)し(4)あわせ」(手に幸せ)の語呂合わせから「文鳥の日」、「天(10)女(24)」の語呂合わせで「天女の日」となりました。
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