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2019年10月20日00:06

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10月20日の日記

今日の出来事:1600年−関ヶ原の戦い:杭瀬川の戦い、1795年−フランス革命:ヴァンデミエールの反乱、1868年−会津戊辰戦争:如来堂の戦い、住吉川原の戦い、1868年−秋田戊辰戦争:大館奪還、1941年−第二次世界大戦:第一次ハリコフ攻防戦、2004年−台風23号が高知県土佐清水市付近に上陸、死者・行方不明者98人を出し、平成時代では最悪の台風被害

今日は、関ヶ原の戦い:杭瀬川の戦いです。会津の上杉景勝や万一の伊達政宗の裏切りに備えて、江戸から動けないはずの東軍の総大将・徳川家康が、美濃赤坂に大軍を率いて到着しました。この報に、寄せ集めの軍勢で団結力が乏しかった西軍に動揺が走り、兵士の中には逃亡する者が相次ぎました。この事態を憂慮した石田三成の家老・島左近は、西軍の兵たちを鼓舞するために、兵500を率いて東軍に奇襲攻撃をかける事にしました。杭瀬川は、大垣城と赤坂の中間部にある川で、周辺には森林が生い茂っていました。島左近はこの中に一隊を伏せて伏兵とし、残る部隊で対岸へ渡り、東軍の中村一栄隊の前で苅田を始めました。この挑発に中村一栄隊の将士が乗り、小競り合いが始まりました。まもなく有馬豊氏隊も参加して乱戦となりました。島左近はある程度戦うと、敗れた風を装って退却をはじめ、両隊を釣り出す事に成功しました。追撃した中村・有馬隊は伏兵の横撃を受けて壊乱状態に陥り、さらに宇喜多家の明石全登が参戦し、両隊は大被害を受けて敗走しました。このとき、中村一栄の家老・野一色助義が戦死するなど、東軍の兵が西軍によって討ち取られました。こうして西軍の大勝に終わり、いよいよ「関ヶ原本戦」へとなるのです。

次に、フランス革命:ヴァンデミエールの反乱です。「テルミドールのクーデター」の後、フランス経済は悪化して民衆は困窮しました。しかし、新興成金は放蕩してパリには650ものダンスホールができ、洒落女や伊達男らが闊歩して風紀は紊乱しました。クーデターの首謀者であるテルミドール派の人気は最悪になりました。その対応策として、国民公会の選挙に確実に自派の議席を確保できる「三分の二法」と呼ばれる法案を通過させました。これは「選出される750の議席の内、500(3分の2議席)を旧国民公会議員の中から選ばなければならない」という法律でした。そして、国民投票の結果「三分の二法」は約20万票対11万票で可決されました。選挙で勝つ予定の王党派はこの結果に激怒しました。そして、選挙が行われる事に決まりましたが、「三分の二法」に不満を持つ王党派を中心に暴動が発生しました。暴徒はテュイルリー宮殿にある国民公会を襲撃しました。国民公会はサン・キュロットの援助を求めましたが、左派は直前に弾圧されてパリでは勢力を失っていました。そのためポール・バラスを国内軍司令官に任命しました。ポール・バラスは知り合いのナポレオン・ボナパルトを副官として登用しました。このナポレオンに鎮圧作戦をほぼ一任しました。ナポレオンの指揮する砲兵は首都の市街地で市民に対して大砲を撃つという大胆な戦法で、抵抗する王党派の鎮圧に成功しました。こうして暴徒は撃退され、抵抗は止みました。これにより、ナポレオンは将軍に昇進しました。国民公会はナポレオンを国内軍総司令官に任命し、反徒に対しては寛大な処置を取りました。流血の場であった「革命広場」は「融和」を意味する「コンコルド広場」と名前を変えました。以後、パリは国内軍司令官の命令に絶対服従する事を余儀なくされ、完全に軍の制圧下に置かれました。ナポレオンはこの時の成功から「ヴァンデミエールの将軍」という異名を取ったのです。この時26歳、「ナポレオンの栄光」の始まりです。

その次に、会津戊辰戦争:如来堂の戦い、住吉川原の戦いです。
如来堂の戦い:旧幕臣の大鳥圭介は仙台藩へ、新選組・土方歳三は庄内藩へ援軍を求めに行きましたが、入城出来ずに仙台から箱館へと転戦する事になります。新選組・斎藤一は「会津を見捨てるのは誠義にあらず」とあくまで会津とともに戦う事を決意し、残った新選組と旧幕府軍を率いて如来堂に布陣しました。会津藩家老・萱野権兵衛が布陣していた如来堂西北の高久村で戦闘が始まりました。斎藤一は、島田魁、中島登など数名の隊士を応援に出しました。その後、如来堂に守備として残っていた少数の留守隊に、敵が攻撃を仕掛けてきました。如来堂にいた者は、ほとんどが討死しました。高久村に応援に向かった隊士たちは、残留部隊は全員討死したものと思い、土方歳三の後を追って仙台に向かいます。しかし、 隊長の斎藤一をはじめ七人が血路を開き脱出しました。逃げ延びた隊士のうち久米部正親、池田七三郎、吉田俊太郎、河合鉄五郎は会津を脱出し、「諸生党」の「水戸城奪還作戦」に参加した後、銚子で降伏します。その後も斎藤一はたった一人で会津に留まり、高田付近でゲリラ戦を続けます。斎藤一は、藤田五郎と改名し、旧会津藩士の娘・時尾と結婚します。警視庁警部捕となり、「西南戦争」に参加します。戦後、麻布警察署の警部となります。
住吉川原の戦い:「長命寺の戦い」で敗れた会津藩家老・佐川官兵衛は小笠原邸に本営を置き、各自の部署を定めて次の機会を待ちました。郊外の材木町に田中左内の率いる砲兵隊を出して警戒していました。日光口の新政府軍が本郷より若松に侵攻しようとしている事を知りました。佐川官兵衛は奇襲を計画し、飯田大次郎隊及び水戸脱走の「諸生党」朝比奈弥太郎・市川三左衛門・筧忠大夫らの兵を合わせて約400で柳原に伏せ、佐川官兵衛自らは手兵400及び大沼城之助・田中左内の率いる両砲兵隊と共に、材木町住吉神社及び秀長寺付近の林中、あるいは民家に伏して新政府軍の到来を待ちました。本郷に宿営した新政府軍は、大川を渡って飯寺・材木町に集結しました。軍監・中村半次郎は、先に城下に進攻していた白河口新政府軍主力と連絡をとるため、自ら薩摩の一隊を率いて柳原を迂回、越後街道から城下に入って新政府軍本部に行き連絡をとりました。秀長寺の砲兵は飯寺・材木町の西軍に向って砲撃を開始しました。会津の諸隊は一斉に起って攻撃に転じました。軍監不在の新政府軍は休憩中で、戦闘に対する備えは全くしていなかったため、全軍騒然となって右往左往するのみでした。関山方面に向かっていた進撃隊は、唐木辰太郎の「朱雀隊」と合して高田にいましたが、新政府軍の兵(薩摩・芸州・肥前・宇都宮・中津・人吉・黒羽・館林・大田原・今治)が会津若松城下に向かうと聞いてこれを追っていました。この砲声を聞いて、新政府軍の背後から衝いたのでした。この戦いが会津藩の最後の勝利となりました。

その次の次に、秋田戊辰戦争:大館奪還です。「岩瀬会戦」で久保田藩は盛岡藩を敗走させ、大館の手前の二頭山まで回復しました。弘前藩は久保田藩に援軍する事を決定しました。久保田藩軍は板戸村を急襲突破し、扇田村を目指しました。扇田村には400名ほどの盛岡藩兵がいましたが、焼け野原になっており備えを立て直す事ができませんでした。久保田軍が仁井田村を突破したとの報が入ると、扇田村の盛岡藩軍は十二所に後退しました。久保田軍が扇田村に到着した時には、扇田村は静まりかえっていました。久保田軍は盛岡軍の本陣があった徳栄寺を本陣としました。そこへ、津軽(弘前藩)の援軍が到着しました。久保田藩の総隊長・田村乾左衛門は午前6時に大館を総攻撃する命令を出しました。しかし、盛岡藩・楢山佐渡は退路を断たれるのを怖れ、夜半から転陣を開始し、大館から全面撤退しました。盛岡藩は、久保田藩に気づかれる事なく全面撤退を見事に成功させました。大館城代・佐竹大和は落城以来14日目に大館を回復しました。早速軍義が開かれ、以後の戦いでは総隊長・田村乾左衛門が直接指揮をとる事になりました。

そのまた次に、第二次世界大戦:第一次ハリコフ攻防戦です。第一次ハリコフ攻防戦は「第二次世界大戦」中の、1941年10月20日に開始されたドイツ南方軍集団所属の第6軍によって行われた、「バルバロッサ作戦」最終段階のハリコフを巡る戦いです。ヴィルヘルム・カイテルによって名付けられました。ソ連赤軍第38軍はハリコフ市内の工場を遥か東に移転する間、ハリコフを防衛するよう命令されました。全ての工場設備は鉄道で運ばれましたが、ドイツ軍は車両基地11km以内まで進撃していました。赤軍第17軍が南で防衛線を構築する間、ドイツ第6軍はハリコフ北方で包囲を開始しました。ハリコフはドイツ軍により占領されましたが、大部分の鉄道輸送設備は赤軍が持ち去った後でした。

最後に、台風23号が高知県土佐清水市付近に上陸、死者・行方不明者98人を出し、平成時代では最悪の台風被害です。台風23号は、10月13日にマリアナ諸島近海で発生しました。宮古島の南東で超大型で強い台風となりました。その後、上陸の1時間前に勢力が少し衰えて超大型から大型になりましたが、秋雨前線を巻き込んだ大型で強い勢力で10月20日12時に高知県土佐清水市に上陸しました。これは、四国に上陸した台風の中では上陸日が最も遅く、日本上陸台風では過去3番目に遅い上陸でした。その後、大阪府泉佐野市に再上陸し、本州中部地方内陸を横断して関東地方の東の太平洋へ抜けると温帯低気圧となりました。死者・行方不明者は全国で98人となり、台風災害によるものとしては1970年代の最大が1976年10号の169人、1980年代が1982年10号の95人、1990年代が1991年19号の62人という減少傾向に反しました。台風通過直後の10月23日に発生した「新潟県中越地震」とともに、激甚災害に指定する事が閣議決定され、12月1日より施行されました。

今日の誕生日:杉田玄白、渡辺崋山、坂口安吾、野中広務、皇后・美智子、増沢末夫、武邦彦、中島常幸、大石大二郎、川西幸一(ユニコーン)、山口智子、KATSUMI、吉沢秋絵(元おニャン子クラブ)、松尾れい子、平野ノラ、山田孝之、橘佳奈(元Dream)、河合郁人(A.B.C−Z)、新垣里沙(元モーニング娘。)、新沼希空(つばきファクトリー)、天秤座の童虎

今日の記念日:世界骨粗鬆症デー、リサイクルの日、新聞広告の日、頭髪の日、ヘアブラシの日、疼痛ゼロの日、床ずれ予防の日、はっかない恋デー

今日の「今日訓」:本日は、1996年にイギリスの「全国骨粗鬆症協会」により始められ、骨粗鬆症および骨代謝障害による病気の予防について、国際的に認識し、診断し、専門研究を促す事を目的とした国際デー「世界骨粗鬆症デー」、新聞週間の中で覚えやすい20日を「新聞広告の日」、「ひとまわり(10)、ふたまわり(20)」で「リサイクルの日」、「とう(10)はつ(20)」の語呂合せで「頭髪の日」、「ヘアブラシの日」、「とう(10)つう(TWO)ゼロ(0)」の語呂合せで「疼痛ゼロの日」、「床(10)ずれ(20)」の語呂合わせで「床ずれ予防の日」、「恋の神様のいない「神無月」である(10月)、はっか(20日)ない」の語呂合わせで「はっかない恋デー 」となりました。
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