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2019年08月20日00:03

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8月20日の日記

今日の出来事:672年−壬申の乱:瀬田川の戦いです。1595年−関白豊臣秀次事件、1864年−禁門の変:長州藩撤退、1941年−高村光太郎の詩集「智恵子抄」が刊行、1945年−ソ連対日参戦:真岡郵便電信局事件

今日は、壬申の乱:瀬田川の戦いです。都を「近江宮」へ移していた天智天皇は、同母弟の大海人皇子を皇太子に立てていましたが、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継としようとしました。その後、天智天皇は病に臥せました。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し、自ら出家を申し出て「吉野宮(奈良県吉野)」に下りました。天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れました。「近江宮」で天智天皇が46歳で崩御すると、大友皇子が跡を継ぎました。大海人皇子は吉野を出立し、伊賀、伊勢国を経由して美濃に逃れました。美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖しました。これにより大海人皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員する事ができるようになりました。美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は、軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出しました。近江朝廷の大友皇子は東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣しましたが、東国の使者は大海人皇子の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かす事ができませんでした。それでも、近い諸国から兵力を集める事ができました。大和では大海人皇子が去った後、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていましたが、大伴吹負が挙兵してその部隊の指揮権を奪取しました。大伴吹負はこの後、西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げました。この方面では近江朝の方が優勢で大伴吹負の軍は度々敗走しましたが、大伴吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退しました。やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して、大伴吹負の窮境を救いました。近江朝の軍は美濃にも向かいましたが、指導部の足並みの乱れから前進が滞りました。村国男依らに率いられて直進した大海人皇子の部隊は、息長の横河で戦端を開きました。以後連戦連勝して進撃を続けました。そして、瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、大友皇子が自決して乱は収束しました。近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移される事になりました。その後、大海人皇子は「飛鳥浄御原宮」を造って即位し、天武天皇となります。「壬申の乱」は、日本古代最大の内乱となりました。大友皇子には、明治3年(1870年)に「弘文天皇」の称号が追号されました。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱でした。名称の由来は、干支で壬申(じんしん:みずのえさる)にあたるため「壬申の乱」となりました。

次に、関白豊臣秀次事件です。豊臣秀次は、豊臣秀吉の姉・日秀(とも)の子で、秀吉の養子となりました。通称は孫七郎、幼名は治兵衛です。はじめ、戦国大名・三好氏の一族・三好康長に養子入りして三好信吉と名乗っていましたが、後に羽柴秀次と改名しました。「賤ヶ岳の戦い」に参戦、「小牧・長久手の戦い」では総指揮を執りましたが、逆に徳川家康軍の奇襲を受けて惨敗し、舅である池田恒興や森長可らを失い、命からがら敗走しました。このため、秀吉から激しく叱責されました。「紀伊雑賀攻め」では羽柴秀長と共に副将をつとめました。「四国征伐」でも副将として3万を率いて軍功を挙げました。「九州征伐」では京都の守りに残りましたが、「小田原征伐」にも参加し、山中城攻撃では大将となって城を半日で陥落させました。その後、奥州に出兵して「葛西大崎一揆」、「九戸政実の乱」の鎮圧で武功を挙げました。1591年に秀吉の嫡男・鶴松が死去すると秀吉の養子となり、関白に就任して「豊臣秀次」となりました。関白を譲った豊臣秀吉は、「太閤」と呼ばれるようになりました。関白就任後の秀次は聚楽第に居住して政務を執りましたが、秀吉は全権を譲ったわけではなく、二元政治となりました。その後、「朝鮮出兵」に専念する秀吉の代わりに、内政を司る事が多くなりました。しかし、1593年に秀吉に実子・秀頼が生まれると、秀吉から次第に疎まれるようになりました。1595年、豊臣秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられました。聚楽第に居た豊臣秀次のもとへ石田三成、前田玄以、増田長盛の3名の奉行の他、宮部継潤、富田一白(奉行代行)の計5名が訪れ、高野山へ行くように促しました。豊臣秀次は謀反についての釈明の為に、秀吉の居る伏見城へ赴きましたが、福島正則らに遮られて対面する事が出来ず、高野山へ入りました。それから1週間後の8月20日に、豊臣秀次の許へ福島正則らが訪れ、秀吉から切腹の命令が下った事を伝えられました。その日のうちに、豊臣秀次及び秀次の小姓らを含めた嫌疑をかけられた人々が切腹する事になりました。豊臣秀次は青巌寺・柳の間にて雀部重政の介錯により、切腹しました。享年28、辞世は「磯かげの 松のあらしや 友ちどり いきてなくねの すみにしの浦」。そして、雀部重政と東福寺の僧・玄隆西堂も切腹しました。豊臣秀次及び同日切腹した関係者らの遺体は青巌寺に葬られ、秀次の首は三条河原へ送られました。三条河原で、秀次の家族及び女人らも処刑される事になりました。秀次の首が据えられた塚の前で、遺児(4男1女)及び側室・侍女ら併せて39名が処刑されました。約5時間かけて行われた秀次の家族らの処刑後、その遺体は一箇所に埋葬され、その埋葬地には秀次の首を収めた石櫃が置かれました。その後、秀次ら一族の埋葬地は豪商の角倉了以によって再建されるまで、誰にも顧みられる事なく放置されていました(畜生塚)。なお、秀次に関連した大名は監禁させられ、聚楽第も破却されました。遺臣の多くは石田三成、前田利家、徳川家康らに仕えました。
以下は「関白豊臣秀次事件」の連座者です。
切腹:木村重茲(助命後自裁)、前野長康(助命後自裁)、木村志摩守(賜死)、
前野景定(賜死)、羽田正親(賜死)、服部一忠(賜死)、渡瀬繁詮(賜死)、
明石則実(賜死)、一柳可遊(賜死)、粟野秀用(賜死)、白江成定(賜死)、
熊谷直之(賜死)、瀬田正忠(賜死)
その他:三好吉房(改易・流罪)、六角義郷(改易)、木下吉隆(改易・流罪)、
里村紹巴(蟄居)、浅野幸長(流罪、のちに復帰)、増田盛次(蟄居、のちに復帰)、
前野忠康(浪人)、滝川雄利(除封)、荒木元清(追放)、菊亭晴季(流罪)、
土御門久脩(流罪)、小田友治(改易・逃走)

その次に、禁門の変:長州藩撤退です。「蛤御門の変」とも呼ばれます。大名勢力同士の交戦は、「大坂夏の陣」以来で京都市中も戦火により約3万戸が焼失した、太平の世を揺るがす大事件となりました。急進的な尊皇攘夷論を掲げ、京都政局を主導していた長州藩は、1863年に会津藩と薩摩藩らの主導による政変「八月十八日の政変」の結果、藩兵は任を解かれて京都を追放されました。藩主・毛利敬親と子・毛利定広は国許へ謹慎を命じられ、政治的な主導権を失いました。一方、京や大坂に潜伏した数名の長州尊攘派は、失地回復を目指して行動を続けていました。朝廷は攘夷を主張し続け、1864年に横浜港の鎖港方針が朝幕双方によって合意されました。しかし、幕府内の対立もあって鎖港は実行されませんでした。このため、鎖港実行を求めて水戸藩尊攘派が蜂起しました(天狗党の乱)。こうした情勢のなか、各地の尊攘派の間で長州藩の京都政局復帰を望む声が高まる事となりました。長州藩内でも、事態打開のため京都に乗り込もうとする積極策が論じられました。積極策を主張したのは来島又兵衛、真木和泉らであり、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重な姿勢を取るべきと主張しました。しかし、「池田屋事件」で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされると、慎重派の周布政之助、久坂玄瑞、高杉晋作や宍戸左馬之助らは藩論の沈静化に努めましたが、福原越後や益田右衛門介、国司信濃の「三家老」らの積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵を決意しました。久坂玄瑞は藩論を抑えきれず、止むを得ず挙兵する事となりました。益田右衛門介、久坂玄瑞らは山崎天王山と宝山に、国司信濃、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構えました。この不穏な動きを察知して、薩摩藩士・吉井幸輔、土佐藩士・乾市郎平正厚、久留米藩士・大塚敬介らは議して、長州藩兵の入京を阻止せんとの連署の意見書を朝廷に建白しました。朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、有栖川宮幟仁・熾仁両親王、中山忠能らが急遽参内し、長州勢の入京と松平容保の追放を訴えました。禁裏御守衛総督・徳川慶喜は長州藩兵に退去を呼びかけましたが、一貫して会津藩擁護の姿勢を取る孝明天皇に繰り返し長州掃討を命じられ、最終的に強硬姿勢に転じました。京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突し、ここに戦闘が勃発しました。一時、長州勢は筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入しましたが、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退しました。御所内で来島又兵衛、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎らは自害しました。帰趨が決した後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃しました。戦闘そのものは一日で終わりましたが、この二箇所から上がった火で京都市街は朝にかけて「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失しました。これにより、「六角牢の獄」という悲劇が起こる事になります。藩主父子が国司信濃に与えた軍令状が発見された事も重なり、毛利敬親の追討令が発せられ、長州藩は朝敵となりました。長州藩兵は履物に「薩賊会奸」などと書きつけて踏みつけるようにして歩くなど、薩摩や会津への深い遺恨が残りました。
以下は「禁門の変」の主な戦死者です。
久坂玄瑞:松下村塾四天王の一人、堺町御門で戦って、鷹司邸に籠もったところを股に銃弾を受けて負傷、邸内で寺島忠三郎と共に自刃。
寺島忠三郎:松下村塾で学ぶ、鷹司邸で諸藩兵に囲まれ、久坂玄瑞と共に自刃。
来島又兵衛:遊撃軍総督、「遊撃隊」と「力士隊」を率いて出陣し、嵯峨天龍寺から蛤御門で戦闘中、会津兵に狙撃される。
入江九一:松下村塾四天王の一人、「浪士隊」参謀として鷹司邸内で奮戦するが、久坂玄瑞の戦死に際して、後事を託されて囲みをついて出ようとし負傷、邸内に戻って切腹。
有吉熊次郎:松下村塾で学ぶ、「八幡隊」を組織して隊長となる。鷹司邸で重傷を負い、自刃する。
安東鉄馬:美作国英田郡庄屋、鷹司邸内で奮戦の末、飛弾に当たって斃れる。
那須俊平:土佐郷士、天誅組の那須信吾の養父。堺町御門で戦死。
伊藤甲之助:土佐藩士で土佐勤王党員、長州軍「忠勇隊」に属し上京、負傷し自刃。
尾崎幸之進:土佐藩士。脱藩して長州軍「忠勇隊」に属し、禁門で戦死。
中平竜之助:土佐藩士。「忠勇隊」に入り、鷹司邸で負傷し自刃。
柳井健次:土佐藩士。土佐勤王党員、脱藩して長州へ。「忠勇隊」に属して東上し、堺町門で重傷を負い自刃。

最後に、ソ連対日参戦:真岡郵便電信局事件です。樺太の真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、9名が死亡しました。「北のひめゆり事件」とも呼ばれています。8月9日にソ連が対日参戦し、8月11日から樺太へソ連軍の侵攻が始まりました。8月12日、札幌に樺太庁北海道事務所が設置されました。8月13日、大泊港から第1船(「宗谷丸」606名)が出帆しました。一方、真岡町を含む西海岸方面の疎開者は、真岡港から海防艦「能登呂」、漁船等で出港するなど、島民の北海道への緊急疎開が開始されました。8月14日に日本は「ポツダム宣言」受諾を決め、8月15日に玉音放送で国民にも公示されました。しかし、樺太ではソ連軍が侵攻を止めずに戦闘が続いていました。8月16日、真岡郵便局長は豊原逓信局長から受けた「女子吏員は全員引揚せしむべし、そのため、業務は一時停止しても止を得ず」との女子職員に対する緊急疎開命令を通知し、女子職員は各地区ごとの疎開家族と合流して引き揚げさせる事にしました。電話交換業務は女子職員の手によって成り立っており、引き揚げ後の通信確保のため真岡中学の1〜2年生50人を急ぎ養成する事で手筈が決められました。8月17日、電話担当主事が「全員疎開せず局にとどまると血書嘆願する用意をしている」と、局長に報告したため、局長はソ連軍進駐後に生ずるであろう事態を説くとともに説得にかかりましたが、応じてもらえませんでした。最終的には、局長が豊原逓信局業務課長との相談で、逓信省海底電線敷設船「小笠原丸」を真岡に回航させ、西海岸の逓信女子職員の疎開輸送に当たらせる了承を得ました。「小笠原丸」が入港したら命令で乗船させる事とし、20人だけ交換手を残す事になりました。8月18日、最終的に決定した残留交換手20名は、比較的経験年数の少ない10代の交換手が多くを占めていました。20名中10代が全部で何人だったかは不明ですが、8月20日当時の高石班11人中6名が10代であり、上野班にも少なくとも1名、10代の女子交換手(藤本照子・当時17歳)がいました。8月19日朝、非常体制が敷かれました。電話・電信業務は、昼夜を通して行われるため、通常3交代制であたっていましたが、この時から非常勤務体制となりました。電話交換手の夜間勤務は上野主事補を班長とする上野班と、高石主事補を班長とする高石班に分けられました。8月19日午後7時過ぎ、電話交換手は夜勤体制になりました。この夜、当直の電話交換手は高石班長以下11名の女性で、この他に電信課には電信主事・平井茂蔵を筆頭に、職員7名の男女(男性5名、女性2名)が勤務していました。8月20日早朝、ソ連軍艦接近の報告が入ると、高石班長は郵便局長・上田豊蔵に緊急連絡をし、局幹部に緊急連絡を行いました。緊急連絡を受けた電話主事・菅原寅次郎は電話交換手・志賀晴代に出勤を求め、電話交換手は12名となりました。非常事態に際して局員たちは郵便局へと向かいましたが、上陸したソ連軍の攻撃は激しく、民間人に対しても無差別攻撃が加えられました。電信受付の折笠雅子は郵便局へ向かう途中に射殺されました。避難先の防空壕に手榴弾を投げ込まれて爆死した局員などもいました。上野班の交換手だった藤本照子も「決死隊の一員として、空襲の時はすぐ郵便局へ行く事になっていたのですが、ソ連兵がどんどん上陸し始め、実弾が飛びかったため、とても無理でした」と後に語っています。上田局長も郵便局へと向かいましたが、栄町二、三丁目の十字街で避難民が背後から撃たれて山膚を転げ落ちるのを目の当たりにしました。十字街には局長の他に5、6名が釘付けにされていましたが、そのうち真岡署・木村巡査部長が弾丸の中を駆け出し、局長の目の前で撃たれて倒れました。局長と由田与三吉は、巡査部長を家の陰に引きずり込もうとして路上に飛び出し、局長は左手に貫通銃創、由田は右足に盲管銃創を負いました。局長は由田らと図り、若い男に棒の先に白布を縛り付けさせ、ソ連兵の目に触れるように振らせました。これにより、局長らは助かりましたが、直ちに海岸の倉庫に連行されました。真岡郵便局には平屋建ての本館と、2階建ての別館がありました。電話交換業務は別館2階で行われていました。ソ連軍艦からの艦砲射撃が開始されると、真岡郵便局内も被弾するようになり、電話交換手12名は別館2階に女性のみが孤立する事となりました。高石班長が青酸カリで服毒自決、続いて代務を務める可香谷が自決しました。この後、1人また1人と合計7名が青酸カリ、或いはモルヒネで自決しました。この間、電話交換手は泊居郵便局、豊原郵便局などに電話連絡していました。この後、伊藤は、既に7名が自決し、自分も続くことを泊居郵便局に連絡しました。更に、蘭泊郵便局へも同様の連絡をしました。この時点では、伊藤のほか境、川島、松橋、岡田の4名が生存していました。伊藤は続いて、内線電話で電信課へ自決を連絡し、服毒しました。この時点で、松橋も自決をしていたので、殉職者9名、生存者3名となりました。急の知らせを受けた電信課男性職員は、2階電話交換室へ急行し、境、川島の2名を救出して本館へ移動させました。自決した電話交換手以外に残留していた局員や、当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵による爆殺、射殺による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼりました。

今日の誕生日:ベンジャミン・ハリソン(第23代アメリカ合衆国大統領)、陸奥宗光、泉重千代、宮路年雄、司葉子、白川英樹、杉井ギサブロー、藤巻直哉(藤岡藤巻)、アグネス・チャン、桐島かれん、金成陽三郎、梅宮アンナ、米田功、森山未來、勝地涼、落合福嗣、佐津川愛美、白石麻衣(乃木坂46)、秋元真夏(乃木坂46)、ピュンマ(サイボーグ008)

今日の記念日:蚊の日、交通信号設置記念日、親父の日、リーブ21・発毛の日、岩城創(ロッキー刑事)殉職

今日の「今日訓」:本日は、1931年に銀座の尾張町交差点や京橋交差点など34ヶ所に、日本初の3色灯の交通信号機が設置された事で「交通信号設置記念日」、1897年、ロナルド・ロスがハマダラ蚊の胃からマラリア原虫を発見した事で「蚊の日」、「0(お)8(や)2(じ)0」の語呂合わせで「親父の日」、創業日(1976年8月20日)と「8(は)2(つ)0(もう)」の語呂合わせで「リーブ21・発毛の日」となりました。
また、高村光太郎の「智恵子抄」が刊行された日です。
「智恵子は東京に空がないと言ふ、ほんとの空が見たいと言ふ。私は驚いて空を見る。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。安達太良山の上に 毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。」  智恵子抄より
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