ホーム > mixiユーザー(id:48382454) > mixiユーザーの日記一覧 > 7月19日の日記

mixiユーザー(id:48382454)

2019年07月19日00:23

17 view

7月19日の日記

今日の出来事:1723年−享保の改革:足高の制制定、1864年−太平天国の乱:曽国藩が天京(南京)を占領し、天京攻防戦が終結、太平天国が清に敗れ、14年に及ぶ太平天国の乱が終結、1864年−平岡円四郎暗殺、1945年−第二次世界大戦:福井空襲、第2回日立空襲、銚子空襲、1946年−渋谷事件、1949年−今井正監督の映画「青い山脈」が封切り、1964年−石ノ森章太郎の漫画「サイボーグ009」が週刊少年キングで連載開始、2000年−二千円紙幣発行

今日は、享保の改革:足高の制制定です。8代将軍・徳川吉宗が施行した法令です。江戸幕府の各役職には各々禄高の基準が設けられていました。そこで、それ以下の禄高の者が就任する際に、在職中のみ不足している役料(石高)を補う制度でした。能力や素質があるが家柄が低いために要職に就けないといった旧来の不都合を解消し、良質の人材を登用する事をその目的としていました。足高の制によって、役職を退任すれば石高は旧来の額に戻るため、幕府の財政的な負担が軽減できるというのが最大の利点でした。しかし、現実には完全施行は難しく、家格以上の役職に就任した者が退任するにあたって世襲家禄を加増される例が多くみられました。この制度の提言は、吉宗政権で政治顧問的待遇を受けた酒井忠挙が、京都所司代の松平信庸が自らの領地収入のみでは任務に支障が生じている事を見て、吉宗に「重職役料下賜」を提言した事によります。儒学者・室鳩巣の建事により実施されました。この政策により要職に登用された人物として、大岡忠相や田中丘隅などがいます。

次に、太平天国の乱が終結です。太平天国は太倉州・無錫・蘇州・杭州と次々失い、天京は孤立しました。侍王・李世賢ら諸王はすでに洪秀全を見捨てていましたが、忠王・李秀成だけは清朝の囲みを破り天京に舞い戻りました。そして洪秀全に天京を破棄する事を勧めましたが、洪秀全は頑として受け入れず、逆に李秀成に防衛にあたるよう命じました。孤立した天京は食糧事情がすでに逼迫しており、雑草を「甜露」と呼んで食べていたほどでした。首都でありながら、防衛に当たるべき兵士が暴徒化し、誰しもその終焉が近い事を悟りました。そしてついに、洪秀全は栄養失調により病死しました。死の直前、「わたしは天国に上り、天父天兄から兵を借りて、天京を守る」と述べ、これが洪秀全最後の詔となりました。そして、湘軍の攻撃により天京が陥落し「太平天国の乱」は終結しました。城外からトンネルを掘り進め兵士を突入させました。この戦術は太平天国の得意技でした。城内にはすでに厭戦ムードが満ちていましたが、蘇州失陥の際、太平天国の兵士8000人が皆殺しにあった事を知っていたため、最後まで投降できず戦い続けました。また占領後、多くの老人や女子供もいましたが20万人が虐殺されました。洪秀全の墓も暴かれ焼かれました。忠王・李秀成は洪秀全の子を伴って天京を脱出しましたが、捕らえられて処刑されました。

その次に、平岡円四郎暗殺です。平岡円四郎は若い頃から聡明だったため、藤田東湖や川路聖謨からその才能を認められました。徳川慶喜が一橋家に入った時、藤田東湖や川路聖謨から一橋家の小姓として推薦され、徳川慶喜に仕える事となりました。徳川家定の将軍継嗣をめぐっての争い(将軍継嗣問題)が起こった時には、平岡円四郎と中根長十郎(一橋家家老)は主君の慶喜を将軍に擁立しようと奔走しましたが、将軍には徳川家茂が擁立されてしまい、失敗しました。直後の「安政の大獄」では、井伊直弼から一橋派の危険人物として処分され小十人組に左遷されました。徳川慶喜が将軍後見職に就任すると江戸に戻り、勘定奉行所留役当分助となり、翌月一橋家用人として復帰しました。この年、徳川慶喜が上洛した際にも随行しました。徳川慶喜からの信任は厚く寵愛を受け、側用人番頭を兼務し一橋家家老並に任命されました。やがて諸太夫となり、近江守に叙任されました。その後、徳川慶喜は上京し公武合体派の諸侯の中心となりましたが、裏で動いているのは平岡円四郎と用人・黒川嘉兵衛で攘夷派には奸臣と見なされました。そして、京都町奉行所与力長屋(千本組屋敷)外で水戸藩士・江幡広光、水戸藩士・林忠五郎に暗殺されました。二人は、その場で一橋家使役過人・川村恵十郎に討ち取られました。徳川慶喜は自分の片腕として活動していた平岡円四郎の死を深く嘆きました。

その次の次に、第二次世界大戦:福井空襲、第2回日立空襲、銚子空襲です。
福井空襲:1945年7月19日午後11時24分から翌日午前0時45分にかけて、アメリカ軍により行われた福井県福井市に対する空襲です。テニアン島を飛びたった「B−29」127機による81分間の集中爆撃を受け、福井市は壊滅的な被害を受けました。福井市街地の損壊率は84.8%で、人口103049人のうち罹災者85603人、世帯数25691のうち罹災世帯は21992件に上りました。死者1576人、重軽傷者6527人の被害を出しました。
第2回日立空襲:1945年7月19日深夜、アメリカ空軍第73飛行団所属の「B−29」重爆撃機127機が、霞ヶ浦上空を北上して茨城県日立市上空に到達しました。午後11時20分から翌20日0時53分までの1時間18分で13900発の焼夷弾が投下されました。この空襲で死者143人、負傷者2156人、全壊建物は11249棟、日立市内の公共施設など主要な建物の大部分が焼失しました。
銚子空襲:1945年7月19日深夜、「B−29」91機の編隊によって千葉県銚子市が攻撃されました。約3000発の焼夷弾と150発の爆弾が投下されました。死者337名、負傷者844名、焼失家屋4,000戸の被害が出ました。

最後に、渋谷事件です。GHQは、朝鮮人および台湾省民を「できる限り解放国民として処遇する」と声明しました。渋谷警察署署長・土田精(後の警視庁予備隊初代隊長)は、渋谷警察署署員に命じて、華僑総本部が闇市で販売している禁・統制品物資を没収し、不法建築家屋を取り壊しました。この頃、東京新橋の闇市「新生マーケット」では、関東松田組(組長は松田義一)が、在日外国人を締め出そうとして激しく対立していました。松田義一が松田の舎弟に射殺され、妻・松田芳子が関東松田組二代目を継ぎました。土田精は、渋谷警察署の部長刑事・渡辺と渡辺の部下の刑事の2人を、博徒の落合一家・高橋岩太郎総長の恵比寿駅前事務所に遣わしました。渡辺は、高橋岩太郎に「同日に在日外国人が300人以上の人数を集めて、拳銃で武装し渋谷警察署を襲う」との情報が入った事を告げ、渋谷警察署への助太刀を依頼しました。高橋岩太郎は、渡辺に土田精も了解しているのか尋ねました。渡辺は、土田精も了解していると答えました。高橋岩太郎は、渋谷警察署への助太刀を了解しました。土田精は、飯島連合会系のテキヤの武田組・武田一郎組長や愚連隊の首領・万年東一(愚連隊の元祖と呼ばれた)の応援も取り付けました。在日台湾人のジープが先頭に立って渋谷警察署の前を通過しました。2台のトラックが通過し、3台目のトラックが渋谷警察署前にいた土田精の直前に来たとき、突然銃声が響きました。何者かの発砲により芳賀弁蔵巡査部長が胸部を撃たれました。芳賀巡査部長は病院に運ばれる途中で死亡しました。高橋岩太郎らは後続の在日台湾人のトラックに向けて発砲しました。万年東一も発砲しながら飛び出していきました。最後尾のトラックの運転手・范が頭部を撃たれて死亡しました。運転手を撃たれたトラックは、渋谷警察署前の道路の反対側にあった民家に突っ込み横転して炎上しました。他のトラックに乗っていた在日台湾人が、横転したトラックに乗っていた同胞を助けようと荷台から降りました。高橋岩太郎の戦闘部隊や万年東一一派は、トラックから降りてきた在日台湾人に斬り込みました。その後、在日台湾人は逃げました。高橋岩太郎たちは捕まえた在日台湾人を渋谷警察署に引き渡しました。渋谷警察署は在日台湾人28人を逮捕し、拳銃3丁と実弾30発、鉄棒4本、ジャックナイフや棍棒、火炎瓶などを押収しました。土田精は渋谷警察署署員を走らせ、高橋岩太郎にMPが来るのですぐに立ち去るように伝えました。高橋岩太郎たちは、渋谷警察署裏の氷川神社に移動しました。それから、高橋岩太郎たちは恵比寿駅前の事務所に戻りました。万年東一たちは日本刀を氷川神社や國學院の地中に埋めてから、中野の万年の自宅に戻りました。午後11時ごろ、高橋岩太郎たちは事務所に到着しました。警察側の拳銃発砲者は、土田精を始め90人で警察側が発砲した実弾は245発でした。村上義弘目黒警察署巡査が腰に被弾し、重傷を負いました。警察側の死者は、芳賀弁蔵1人でした。在日台湾人の死者は、全部で7人(当日の死者は運転手・范を含めて2人)でした。在日台湾人の重軽傷者は34人でした。その後、GHQ法務局は「占領目的を阻害した」との理由で、渋谷事件などで逮捕した在日台湾人41人を軍事裁判にかけました。在日台湾人の訴えにより、土田精ら3人も渋谷事件に関して軍事裁判にかけられました。軍事裁判において土田精は、全警察官に対しサーベルの所持を禁止した事を証言しました。検事は在日台湾人の1人が刀の刺し傷で死亡した事を根拠に、土田精を追及しました。土田精は「在日台湾人が刀で刺殺された事件は、渋谷事件と同じ時刻に渋谷警察署近くで起こったが、渋谷事件とは別の殺人事件である。刺殺された在日台湾人は渋谷事件で死亡したのではない」と主張しました。土田精は、渋谷警察署がヤクザに応援を頼んだことが発覚するのを恐れました。渋谷警察署・渡辺部長刑事が、渋谷代官山の高橋岩太郎の自宅を訪ねました。渡辺部長刑事は高橋岩太郎に、在日台湾人刺殺犯人として渋谷警察署に自首して、刺殺された在日台湾人が渋谷事件での被害者ではない事を証言してくれるように懇願しました。高橋岩太郎は即答をせず、後日返答すると答えました。数日後、高橋岩太郎は渡辺部長刑事を恵比寿駅前の事務所に呼び、渡辺部長刑事の頼みを了承する事を伝えました。高橋岩太郎と渡辺部長刑事は1週間かけて、供述調書を作成しました。高橋岩太郎は、渋谷警察署からの連絡が入るまで待つ事になりました。その後、渋谷事件の軍事裁判で、土田精は「現在、日本は立法・行政・司法等すべての国政は、占領軍の指揮下にあります。我々もまた占領軍司令官の命令に忠実に従って行動を起こしたまでであります」と答弁しました。そして、渋谷事件の軍事裁判では殺人犯を追及せず、責任者も不問にするとの判決が下されました。その後、渡辺部長刑事が高橋岩太郎の自宅を訪ねてきました。渡辺部長刑事は高橋岩太郎に、渋谷事件の軍事裁判の結果と高橋岩太郎が渋谷警察署に自首する必要がなくなった事を伝えました。後に、土田精は警視庁最高功労章を授与されています。

今日の誕生日:水野忠邦、三波春夫、水野晴郎、田の中勇、ブライアン・メイ(クイーン)、安岡力也、木村和司、中田秀夫、近藤真彦(元たのきんトリオ)、杉本彩、宮藤官九郎、相馬直樹、藤木直人、菊池麻衣子、小嶺麗奈、炭谷銀仁朗、小森美果(元AKB48、元渡り廊下走り隊7)、藤井聡太、加藤憲史郎

今日の記念日:女性大臣の日、戦後民主主義到来の日、北壁の日、サイボーグ009の日、やまなし桃の日、カープ黄金時代の幕開けの日

今日の「今日訓」:本日は新選組一番隊組長・沖田総司が、肺結核のため亡くなった日です。幕府の医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われていました。享年24でした。辞世の句は「動かねば 闇にへだつや 花と水」 、1960年7月19日に、中山マサが第一次池田勇人内閣の厚生大臣として入閣し、日本初の女性大臣となった事で「女性大臣の日」、1949年、日本の新しい民主主義の到来を謳った青春映画「青い山脈」が封切られた事で「戦後民主主義到来の日」、1967年、東京女子医大山岳部の今井通子と若山美子の2人がマッターホルン北壁の登頂に成功、女性だけのパーティーでの北壁登攀は世界初だった事で「北壁の日」、1964年、石ノ森章太郎の漫画「サイボーグ009」が週刊少年キングで連載を開始した事で「サイボーグ009の日」、1975年7月19日に甲子園球場で行われたオールスターゲームで、山本浩二と衣笠祥雄が二打席連続アベックホームランを放ち、これを機に広島東洋カープが初優勝へと突き進んでいった事で「カープ黄金時代の幕開けの日」、「百」を「もも」と読む事から、1年で200日目で、桃の出荷時期になる事で「やまなし桃の日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを投稿する

忍者モード登場!