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2019年02月17日00:17

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2月17日の日記

今日の出来事:1600年−ジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられる、1937年−死のう団事件、1944年−第二次世界大戦:トラック島空襲(海軍丁事件)

今日は、ジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられるです。ジョルダーノ・ブルーノはイタリア出身の哲学者で、ドミニコ会の修道士です。それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、コペルニクスの「地動説」を擁護しました。1548年にナポリ王国のノーラで生まれました。1562年、14歳の時にナポリへ移り、ナポリ大学で学びました。1565年、17歳でドミニコ会に入会、1572年に司祭に叙階され、1575年には神学博士となりました。1576年、異端の嫌疑をかけられたブルーノは、異端審問所の追及を逃れようとナポリを離れ、しばらくのローマ滞在を経て北イタリア一帯を放浪、各地で文法や天文学などを教えながら生活しました。1578年にはアルプス山脈を越えてフランスに入り、翌年にはスイスのジュネーヴに滞在しました。ジュネーヴ大学に在籍するとすぐにカルヴァン派哲学者と論争を巻き起こし、名誉毀損で訴えられて有罪となり、ジュネーヴを離れました。トゥールーズに移ったブルーノは、トゥールーズ大学の正規の講師となり、アリストテレス「魂について」の講読註解を行いました。1581年パリに移住し、優れた記憶力が話題となって、フランス国王アンリ3世とも会見しました。翌年に王立教授団の講師に任命されました。翌年、ブルーノはアンリ3世の推薦書を持ってイギリスに赴き、オックスフォード大学で教授職を得ようとしましたが、受け入れられませんでした。しかし、ロンドンに滞在する2年半の間、ブルーノ前半期の主著とされる6つの対話篇「聖灰日の晩餐」、「原因・原理・一者について」、「無限・宇宙・諸世界について」、「傲れる野獣の追放」、「天馬のカバラ」、「英雄的狂気」を上梓しました。1585年、ブルーノはパリに戻りましたがアリストテレスの自然哲学を批判した「120のテーゼ」が問題とされた上、数学者ファブリツィオ・モルデンテとの裁判に巻き込まれ、ドイツへと去りました。ドイツでは、ヴィッテンベルク大学での教授許可を得てアリストテレスについて2年間講義しました。1588年にヴィッテンベルクを去り、ボヘミアのプラハに現れました。そこでルドルフ2世に300テーラーという年俸を保証されましたが、教授職は得られませんでした。ブルーノはヘルムシュタットに移りましたが、ルター派の権威者たちの反感を買い、ここも立ち去る事になりました。1591年、ブルーノはフランクフルトでブルーノ後半期の主著とされる3部作「三つの最小者について」、「モナド論」、「測り知れざる巨大者について」を刊行しました。ブルーノは、ヴェネツィアのズアン・モチェニゴという貴族から、記憶術の指南を受けたいと招請を受けました。ヴェネツィアに向かう途中、パドヴァに滞在し、空席となっていたパドヴァ大学の数学教授の座を得ようとしましたが、結局ガリレオ・ガリレイに教授職を持っていかれました。ヴェネツィアに来たブルーノは、モチェニゴの家庭教師を2ヶ月つとめました。しかし、そのモチェニゴによって訴えられ、翌年にヴェネツィア官憲によって逮捕されました。さらにブルーノの事を聞きつけた異端審問所が介入し、最終的にローマの異端審問所に引き渡されました。1593年にローマへ移されましたが裁判は実施されず、7年を獄中で過ごしました。告発理由は神への冒瀆、不道徳な行為、教義神学に反する教説で、ブルーノの哲学と宇宙論にみられる幾つかの点も問題とされました。ようやく異端審問が行われると、異端審問所の責任者ロベルト・ベラルミーノ枢機卿はブルーノに対し、自説の完全な撤回を求めました。ブルーノは断固として拒絶した為、1600年1月8日に異端判決が下りました。24に及ぶ罪状には、上記に加えて魔術・占術の信奉、マリアの処女性の否定、輪廻説の支持などが挙げられました。2月17日、ローマ市内のカンポ・デ・フィオーリ広場に引き出されたブルーノは、火刑に処されて命を落としました。処刑の様子はブレスラウの学生ガスパール・ショップが目撃し、家族へ送った手記により後世に伝えられました。ブルーノは処刑を宣告する執行官に対して「私よりも宣告を申し渡したあなた達の方が真理の前に恐怖に震えているじゃないか」と言い、舌枷をはめられました。さらに、刑の直前に司祭が差し出した十字架へは侮蔑の一瞥をくれただけで顔を背け、死の際には一つも声を発しませんでした。ブルーノの遺灰はテヴェレ川へ投げ捨てられました。

次に、死のう団事件です。日蓮会は、東京府荏原郡蒲田村出身の江川桜堂、本名・江川忠治が1927年に創立した新宗教です。既成宗教の頽廃、そして国家権力に対する日蓮宗の妥協的態度に激しい怒りを覚えていた江川桜堂は、日蓮宗の教義の一切を排し「日蓮上人に直参する」と称して日蓮の遺文そのものを教義とする団体を形成、自らは盟主に就任しました。彼らは、蒲田に建設した「日蓮会館」を拠点として積極的に辻説法を行いました。発足当初は勉強会に近かった日蓮会でしたが、既成宗教を悪し様に罵るその布教活動は大衆の人気を博し、信者に加わる者も現れ始めました。最盛期の1931年頃には、500名ほどの信者を擁していました。ある建設業者の愛人の女が、日蓮会館に入り浸るようになりました。説法には関心を示さず、盟主の江川桜堂を連れ出そうとする彼女を見た信者らは、彼女が江川桜堂を誑し込もうとしていると噂しました。江川桜堂は彼女の家を訪れて諭そうと試みましたが、それを知った建設業者は屈強な部下達を会館に送ると「よくも俺の女に手をつけたな」、「江川桜堂を出せ」などと怒鳴らせるという嫌がらせを執拗に行いました。会員らの中には、これに恐れをなして脱会する者が続出しました。1933年1月、日蓮会の新年会に出席した若者らは、このままではいけないと口々に言い合いました。現状への不満を募らせた彼らの出した結論は、「青年部の結成」でした。江川桜堂に忠実で、かつ先鋭的であった若年層の面々は結成が決まると直ちに結盟書を作成し、これに血判を押しました。彼らが行動の柱に据えた「不惜身命―身命を惜しまず」の理念は、時を経るごとに本義から乖離し、死ぬ事を目的としたものに変質していきました。後の悲劇の前兆でした。宣言「我が祖国の為めに、死なう!!!、我が主義の為めに、死なう!!!、我が宗教の為めに、死なう!!!、我が盟主の為めに、死なう!!!、我が同志の為めに、死なう!!!」、以上のような宣言を立てた江川桜堂と青年会員らは、皆で「死のう、死のう、死のう」と繰り返し叫んで陶酔に浸りました。翌月、青年部は「日蓮会殉教衆青年党」と改称されました。後に「死のう団」として世間の注目を集める事となります。1933年6月、江川桜堂は「殉教千里行」を行うと青年党員に発表しました。鶴岡八幡宮に祈願した後、全国を説法して回るというものでした。決行の日は7月2日、翌3日に鎌倉で江川桜堂と合流し、総勢28名で行脚を行う事が決められました。参加する党員は家族に別れを告げ、会社勤めをしていた者は職を辞してこれに臨みました。江川桜堂によれば、それは「永遠に目的はなく生還も期さない旅」でした。しかし、この旅は永遠どころか、わずか1日で頓挫しました。7月2日午前10時、横浜の杉田梅林に集合した青年党員らは、鎌倉へ向かって行進を始めました。白い羽織に黒い袴、樫棒を持ち鉢巻を頭に巻いた集団が、太鼓を叩いたり口々に「死のう」と叫んだりしながら練り歩きました。その夜、逗子の桜山で野宿をする事にした彼らを警官隊が襲いました。拘束された党員らは2台のバスに乗せられて葉山署に連行されましたが、当初は「何も悪い事はしていないのだから、すぐ釈放される」と考え、深刻には受け止めていませんでした。当時、「血盟団事件」や「五・一五事件」が世間を賑わせていました。葉山署から報告を受けた神奈川県警は、特別高等警察課の全課員に非常呼集をかけ、県内各署の警官を動員して大々的な捜査と非常警戒を行いました。7月3日には、日蓮会館を始めとする20箇所を家宅捜索し、書類やメモを押収しました。翌日、江川桜堂が蒲田署に出頭しました。それは取り調べに答えるというより、不信心者に説法を行うという風情でした。いくら取り調べを行っても党員らは「知らぬ」と繰り返すばかりで、犯罪に繋がる証拠は挙がらなかったため苛烈な拷問が始まりました。殴る蹴るの暴行や、火の点いた煙草を全身に押し当て、あるいは力任せに髪を引っ張っては振り回す。女性は裸にされ、他の警官らの見ている前で胸を揉まれたり、陰部を触られたりといった激しい拷問が行われました。この拷問に耐えかねた3人の党員が、転向を誓約して釈放されました。8月、江川桜堂以下5名は検事局へ身柄を移され、他の者は釈放されました。江川桜堂は、検察の意図が「秘密結社を組織した」として「治安維持法」違反の罪を負わせる事にあると悟りました。9月10日、江川桜堂ら5人は横浜刑務所から出所しました。会館に戻った彼らを待っていたのは、党員数の激減という厳しい現実でした。「たまには顔を出す」と語った者まで含めても、50名程度となっていました。釈放された江川桜堂は10月16日、横浜検事局に赴きました。江川桜堂は特高課長を不法監禁で告訴、彼に同行した女性は娘が受けた拷問の屈辱を晴らすべく、娘の名義で10名余りの警官を人権蹂躙、不法監禁及び傷害で告訴しました。その一人の今井千世は拷問によるPTSDを被っていました。警察側は新聞の取材に対して「事実無根だ」と主張しましたが、裏では江川桜堂らに告訴の取り下げを依頼しました。江川桜堂がこれを拒否すると、会館を怪しい人物が訪れるようになりました。彼らは、告訴取り下げを忠告したり、脅すような口調で迫ったりしました。検事局は、原告の女性の臨床鑑定を行い、他の党員からも状況の聞き取りを行うなど事実関係の解明を進めました。しかし、「近く提出される」とされた鑑定結果が実際に提出されたのは40日後で、しかも公表されませんでした。またこれと前後して、特高課の取り調べを推進する検事が異動となる人事が行われました。事態は江川桜堂らにとって不利な方向に傾いていました。1934年1月、警視庁は蒲田署の巡査を会館に派遣し、連日監視する事を決めました。翌月には、神奈川県警が2人の警部を直接会館に送るようになりました。うち1名は、江川桜堂の義兄でした。彼らは連日、江川桜堂と交渉しましたが、県警の出す条件に不信感を抱き、頑として告訴取り下げを拒み続けました。事態は打開せず、警察部長が交渉に乗り出しました。7月、警察部長が日蓮会に「自筆」の詫び状を提出しましたが、筆跡が異なっていた事から江川桜堂は激怒しました。9月、事件の最初の報告書を書いた川崎署の特高主任が割腹自殺を遂げました。鎌倉の山中で発見された遺体の脇には、事件の責任を取る旨が記された遺書が置かれていました。県警の特高課長は事件との関連性を否定しましたが、世間はそのようには受け止めませんでした。警察側は交渉を急ぎ、示談金として1000円が、断られると2000円が提示されました。しかし、日蓮会側は応じませんでした。3ヶ月後、横浜検事局は特高課員の不起訴処分を決定すると、江川桜堂らは抗告状を提出しました。1935年2月、第67帝国議会で衆議院議員・久山智之が党員に対する特高の拷問について質問しました。国会議員が動いた事により事態を重大視した警視庁は、全ての党員の動向を監視する事を決めました。党員の実家にも警官が繰り返し訪れました。会館に寄り付く者には執拗な職務質問を行いました。同年9月、控訴院が抗告状を棄却し、事件を法廷に持ち込もうとした彼らの望みは断たれました。1936年6月、江川桜堂らは会館に常駐する警官を排除し、「餓死殉教の行」と称する籠城生活に突入しました。会館に籠って唱題をしたり書写をしたり、党の主張をまとめて製本したりしながら日々を過ごしました。食事はわずかな塩や飴玉でした。外部の者が会館に入って来ようものなら、それが警官のみならず親族であろうとも、即座に集団自殺をする運びとなっており、その順番と手順も決められていました。彼らは、不首尾に終わった場合に備え、8000人分の致死量の青酸カリを用意していました。しかし2ヶ月余り後、江川桜堂の兄(彼らの遺体を引き取る予定であった)が死去した事により、「餓死殉教の行」は中断しました。党員数は10数名にまで減少し、財政的援助もままならず、彼らは次第に窮乏していきました。日々の食事にも事欠く逆境の中、抗議の自殺を声高に主張する者が続出しましたが、江川桜堂は「死んではならない」と諌めました。しかし、闘争手段の一環であった「死」は、今や多くの党員の間では目的と化していました。彼らの意志は固く、江川桜堂は次第に制しきれなくなっていきました。翌年2月のある朝、自室に籠っていた江川桜堂に、党員5名が自決の請願書を提出しました。江川桜堂は悩んだ末、「自決すれば残りの者は自殺幇助に問われ、組織が崩壊する」として、死なない程度に刃先で腹を切るのみに留めるよう言いました。それを聞いた党員らはあからさまに不満気な表情を浮かべましたが、江川桜堂は「今はその時期ではない」と、はやる彼らを説得しました。しかし、このわずか数日後、彼らは自決を決行しました。1937年2月17日正午過ぎ、宮城前広場の前に1人の男が現れました。「死のう」と書かれたビラを大量に撒いた32歳のその男は、突如持っていた短刀で腹を掻き切り、通行人に発見されて日比谷病院に搬送されました。同じ頃、竣工したばかりの新国会議事堂の前にタクシーが停まりました。車から降りた2人の男は二手に別れ、1人は首相官邸に向かいました。もう1人は議事堂の周りを歩き始めましたが、突如警備の目を盗んで鉄柵を乗り越え、正面玄関に向かって走り出しました。男はビラを撒きながら「死のう」と繰り返し絶叫しました。気付いた警官や憲兵が駆け寄ってくると、男は立ち止まり、取り出した短刀を己の腹に突き立てました。首相官邸を目指した男は、目標が見付からず焦りの色を見せましたが、やがて意を決してある屋敷に入り、玄関脇で割腹しました。傷を負いながらも満足気な顔をしていた男は、この屋敷が外務次官邸であった事を病院で聞かされると、無念の表情を浮かべました。また12時45分頃、警視庁正面玄関ホールに現れた22歳の党員が、その場に正座して割腹を図っているところを特別警備隊の巡査に取り押さえられました。2時20分頃には、27歳の党員が内務省3階の便所で腹を切り、発見した守衛によって医務室に運ばれました。5名の男は、こうして都内5ヶ所でそれぞれ腹を切りました。ただし、彼らは江川桜堂に従い、刃先だけしか出ないよう細工を施した短刀で切腹した為、いずれも致命傷は負いませんでした。新聞は、再び大きな騒ぎを起こした「死のう団」を好奇の目で、あるいは気味悪げに報じました。同日21時頃、2人の女が歌舞伎座4階の立見席から「死のう」と叫びながら大量のビラを撒きました。銀座の街頭でも女が、また品川駅に向かう電車の中でも男が、それぞれビラを撒きました。警視庁は、直ちに日蓮会館の捜索に乗り出しました。留守番役をしていた者やビラを撒いた者が身柄を拘束されました。3月3日、代議士の久山に付き添われて江川桜堂が警視庁に出頭し、「申し訳ございません」と頭を下げた江川桜堂に対し、特高部長は正業に勤しむよう諭して釈放しました。病気がちであった江川桜堂は、肋膜炎や中耳炎を悪化させ、さらには結核を併発していました。日に日に衰弱する江川桜堂を、残った党員は東大病院に入院させました。彼らは無理をして治療費を捻出し、江川桜堂の療養生活を支えました。しかし、病状は一向に良くなる気配はなく、医師も見放しました。1938年3月15日、江川桜堂は「日蓮会館で死にたい」と、病の癒えぬまま退院しました。5日後の3月20日早朝に死去しました。33歳でした。これと前後して、信者らの「殉死」が相次ぎました。まず、死にゆく江川桜堂を悲嘆した女が青酸カリを飲み自殺、江川桜堂の死去した日の午後、先に警視庁で切腹を企てた男が、江川桜堂の甥の家で青酸カリを飲んだ上、割腹して果てました。その5日後には、女性信者2名が猫要らず(殺鼠剤)を飲み、帝国女子医学薬学専門学校付属病院に運ばれましたが死亡しました。同年6月10日、宮城前広場で腹を切った男が、千葉県竹岡に向かう定期船「湘南丸」に乗り込み、甲板に立った彼は沖合4kmに差し掛かったところで突如「死のう」と叫び、ビラを撒きながら海中に没しました。遺体は遂に発見されませんでした。同年7月に日蓮会館は取り壊され、「死のう団」は完全に壊滅しました。

最後に、第二次世界大戦:トラック島空襲(海軍丁事件)です。トラック島空襲(海軍丁事件)は、1944年2月17日〜18日になされたアメリカ軍機動部隊による日本軍の拠点トラック島への航空攻撃です。マリアナ諸島(サイパン、グアム)に向けて中部太平洋を西に進むアメリカ軍はマーシャル諸島のクェゼリン島を攻略後、続けてエニウェトク環礁に侵攻する事を決定しました。2月15日夜、損傷状態の軽巡洋艦「阿賀野」は、駆逐艦「追風」と第28号駆潜艇の護衛でトラックから日本本土へ出航しました。翌16日、空襲の支援のためトラック沖に潜伏していたアメリカ潜水艦「スケート」がこれを発見し、「阿賀野」を魚雷で撃沈しました。護衛艦2隻は脱出兵員の救助に当たりました。16日夕刻、「阿賀野」を曳航するため軽巡洋艦「那珂」がトラックから出航しましたが、途中で沈没の連絡を受けてトラックに引き返しました。17日未明、第58任務部隊は、トラックの東北東約90海里の位置に到達し、数度にわたる空襲をトラックに対して実施しました。日本軍はレーダーにより午前4時20分頃には最初の大編隊を捉えていましたが、南東方面の基地からマーシャル諸島に向かう米軍大型機の編隊と即断し、内南洋部隊には第一警戒配備を命じたものの、トラック地区は平常配備のままとしました。攻撃隊は計画通り奇襲に成功しました。米軍は計画通り、空襲はまず航空施設に対して実施し、その後に日本軍の基地施設および在泊艦船に対する攻撃を実施しました。制空権を奪ったアメリカ側は、艦船に対する空襲を開始しました。「阿賀野」の救助を断念した軽巡洋艦「那珂」は、南へ迂回して攻撃を避けながら入港しようとしましたが、環礁の外で発見されて午後2時頃に航空機により撃沈されました。駆逐艦「追風」は、「阿賀野」乗員の救助後に脱出船護衛のためトラックに引き返すよう命じられましたが、やはり途中の空襲で撃沈されました。港内にいた工作艦「明石」には、爆弾1発が命中しましたが不発弾でした。測量艦「宗谷」は回避行動中に座礁しました。駆逐艦「松風」は機銃掃射で指揮所が全滅する損害を受けました。その他、「愛国丸」など環礁内の補助艦船は次々と撃沈されました。日本側は、引揚民間人等を乗せた第4215船団「赤城丸」を、練習巡洋艦「香取」と駆逐艦「舞風」および「野分」の護衛で脱出させようとしました。しかし、午前4時30分に出港後、まもなく空襲が始まって「赤城丸」は沈没、残りの護衛艦艇も捕捉されて「香取」と「舞風」を撃沈されました。駆逐艦「時雨」と「春雨」も、午前4時30分頃に脱出を開始しました。空襲で「時雨」が爆弾1発を受けましたが、離脱に成功しました。ちょうどトラック島に北方から近づいていた輸送船「辰羽丸」、「瑞海丸」も空襲を受け、全滅しました。同船団では、これより前の17日未明にも潜水艦により「暁天丸」が撃沈されました。同船団には他に輸送船2隻と駆逐艦「藤波」、特設掃海艇「羽衣丸」以下の護衛艦艇がいましたが、サイパン島へ引き返すなどして沈没を免れました。第3206船団には第52師団の第二次輸送部隊(歩兵第69連隊・歩兵第150連隊など9000名余)が乗船しており、陸軍兵員7000名が死亡しました。日本軍は17日の夜、春島に残存する九七艦攻4機をアメリカ艦隊攻撃の為、出撃させました。また、テニアンからも七五三空の陸攻2機と七五五空の陸攻3機を出撃させました。この内、七五五空の陸攻1機が空母「イントレピッド」に魚雷1本を命中させました。同艦は右舷艦尾を破壊されて舵が停止した為、6隻の護衛をつけられてエニウェトクに後退しました。これは、この作戦におけるアメリカ軍最大の損害でした。一方、アメリカ軍も空母「エンタープライズ」からTBFアベンジャー12機が夜間雷撃(空母搭載機では初)の為に発進し、艦船に夜間攻撃を加えました。この時の使用機は、レーダーを試験的に装備したTBF−1Cでした。翌日の迎撃に備えて二〇四空では機体の修理・整備を実施して零戦6機が使用可能となりましたが、機体の側に落ちていた不発弾が突然爆発した為、全機飛行不能となりました。18日午前中もTP58は空襲を継続し、引き上げました。前日の攻撃で航行不能状態だった駆逐艦「文月」は、午前2時に至近弾を受けて放棄、擱座状態で応戦していた駆逐艦「太刀風」も午前8時に沈没しました。特設潜水母艦「平安丸」も18日に撃沈されました。一方、水上機母艦「秋津洲」は、途中で空襲を受けながらも18日朝に脱出に成功し、19日にメレヨン島へたどり着きました。一連の攻撃で日本側が受けた艦船損害は、戦闘艦艇では軽巡3隻と駆逐艦4隻などが沈没しました。また、各種の特設艦船や陸軍徴用の軍隊輸送船など徴用商船32隻も沈没しました。環礁外に脱出した水上機母艦「秋津洲」と駆逐艦3隻などの他、工作艦「明石」や測量艦「宗谷」、標的艦「波勝」、駆逐艦「秋風」などが生き残りました。病院船「天応丸」も攻撃対象から外されて無事でした。なお、「明石」は、駆逐艦「藤波」、「秋風」と標的艦「波勝」および駆潜艇1隻に護衛されて、19日朝にパラオへ向けて退避しました。その他、日本側航空機は70機が空中で撃墜され、保管機材を含めて200機が地上で破壊されました。この損害は、保管機材を含めた所在機数の3/4に相当する大損害でした。破壊された保管機の内100機は当時の新鋭機の一つである「零戦52型」で、ラバウル再進出のため二〇四空等の為に準備されていたものでした。備蓄燃料もタンク3基分約1.7万トンが焼失し、各種軍需物資も3/4が失われました。陸上での戦死者だけで400人に上り、沈没艦船などの死者を合わせると戦死者は7000人と言われています。アメリカ軍の艦船には、空母1隻が損傷しただけで大きな損害はありませんでした。損失航空機は戦闘機12機、急降下爆撃機6機、雷撃機7機でした。一方的な結果に、アメリカでは「真珠湾攻撃」の復讐を果たしたと言われました。

今日の誕生日:徳川頼職、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト、森鴎外、梶井基次郎、白洲次郎、坂口征二、竹脇無我、田島令子、マイケル・ジョーダン、吹越満、岸谷香「奥居香」(元PRINCESS PRINCESS)、舞の海秀平、YUKI(元JUDY AND MARY)、薫(Dir en grey)、吉瀬美智子、パリス・ヒルトン、片岡易之、佐藤寛子、鈴木紫帆里(元AKB48)、斎藤ちはる(元乃木坂46)、千秋真一

今日の記念日:天使のささやきの日(天使の囁き記念日)、電子書籍の日、千切り大根の日

今日の「今日訓」:本日は、1978年2月17日に、北海道幌加内町母子里の北海道大学演習林で最低気温氷点下41.2度を記録した事で「天使のささやきの日(天使の囁き記念日)」となりました。天使の囁きとは、空気中の水蒸気が凍ってできるダイヤモンドダストの事です。2011年2月17日、株式会社BookLiveが綜合電子書籍ストア「BookLive!」の運営など、電子書籍サービスを開始した事から「電子書籍の日」、「千」の字を「二」と「1」に見立て、「切」の字の「七」とを合わせて「千切り大根の日」となりました。
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