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2019年01月17日00:12

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1月17日の日記

今日の出来事:1400年−応永の乱、1874年−板垣退助・後藤象二郎らが日本政府に民撰議院設立建白書を提出、1995年−兵庫県南部地震が発生、阪神・淡路大震災となる

今日は、応永の乱です。応永の乱は、1399年に守護大名・大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こし、堺に籠城して滅ぼされた事件です。室町幕府第3代将軍・足利義満は将軍権力を強化するため、「花の御所」を造営して権勢を示し、直轄軍である「奉公衆」を増強しました。足利義満は有力守護大名の弱体化を図り、1379年に細川氏と斯波氏の対立を利用して管領・細川頼之を失脚させました(康暦の政変)。1389年には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、これを下しました(土岐康行の乱)。そして1391年、11カ国の守護となり「六分の一殿」と呼ばれた大勢力・山名氏の分裂をしかけ、山名時熙と氏之の兄弟を一族の氏清と満幸に討たせて没落させました。さらに、時熙と氏之を赦免して氏清と満幸を挑発し、挙兵に追い込み滅ぼしました。これにより、山名氏は3カ国を残すのみとなりました(明徳の乱)。大内氏は、「南北朝の争乱」では南朝に付きましたが、後に北朝に帰順して九州の菊池氏らと戦い、幕府から周防・長門・石見の守護職に任じられました。大内義弘は九州探題・今川了俊に従軍して九州の南朝方と戦い、豊前守護職を加えられました。「明徳の乱」で大内義弘は大いに奮戦して、和泉・紀伊の守護職を与えられました。また「南北朝合一」を斡旋した功績で、足利氏一門の待遇を受けるまでになりました。しかし、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6カ国の守護を兼ね、貿易により財力を有する強大な大内氏の存在は、将軍専制権力の確立を目指す足利義満に警戒されました。1394年、足利義満は将軍職を嫡男・義持に譲り、太政大臣に昇りました。しかし、実権は掌握したままでした。足利義満は「北山第」の造営を始め、諸大名に人数の供出を求めました。しかし、諸大名の中で大内義弘のみは「武士は弓矢をもって奉公するものである」とこれに従わず、足利義満の不興を買いました。大内義弘は少弐氏討伐を命じられて、筑前で戦って弟・満弘が討死しましたが、その子への恩賞の沙汰が無く不満を募らせました。足利義満は度々、大内義弘へ上洛を催促しましたが、「和泉、紀伊の守護職が剥奪される」、「上洛したところを誅殺される」との噂が流れ、大内義弘を不安にさせました。追い込まれた大内義弘は、鎌倉公方・足利満兼と密約を結びました。この密約は足利義満によって一方的に九州探題を解任され、遠江・駿河半国守護に左遷された今川了俊が仲介役になりました。さらに、「土岐康行の乱」で没落した美濃の土岐詮直、「明徳の乱」で滅ぼされた山名氏清の嫡男・宮田時清、近江の京極秀満(出雲守護・京極高詮の弟)や比叡山・興福寺衆徒、楠木氏・菊地氏ら旧南朝方と連絡をとり挙兵を促しました。大内義弘は軍勢を率いて和泉・堺の浦に着き、家臣・平井新左衛門を入洛させました。足利義満の元に大内義弘謀反の噂が伝わり、禅僧・絶海中津を使者として堺へ派遣しました。大内義弘は絶海中津と面談し、今川了俊に従軍しての「九州での戦い」、「明徳の乱」、「南北朝合一」、「少弐氏討伐」での自らの功績を述べ、それにも関わらず将軍家は和泉と紀伊を取り上げようとし、先年の少弐氏との戦いで討ち死にした弟・満弘の子への恩賞がない不満を述べました。大内義弘は政道を諌めるため鎌倉公方・足利満兼と同心し、共に上洛すると言いました。事実上の宣戦布告でした。絶海中津からの報告を受けた足利義満は、大内義弘の討伐を命じました。ただちに細川頼元、京極高詮、赤松義則の先発隊6000余騎が淀から和泉へ向かいました。足利義満は馬廻2000余騎を率いて東寺に陣を構え、八幡まで進みました。管領・畠山基国と前管領・斯波義将が率いる主力3万騎が和泉へ向かいました。大内義弘は評定を開き、作戦を談じました。弟・弘茂は城を構えて和泉、紀伊に割拠して持ち堪える策を提案しました。杉豊後入道は機制を制して舟で尼崎に上陸し、八幡の陣を突いて決戦する事を主張しました。謀反を諌めていた平井備前入道は、出戦は無益であるとして籠城策を説きました。大内義弘は籠城策を採用しました。大内義弘は討死を覚悟して、帰依していた僧を招いて自らの葬儀を執り行いました。また、周防に残した母に形見と遺言を送り、弟・盛見には分国を固く守るよう申し送りました。大内義弘に従う者たちも皆、討死を覚悟しました。幕府軍3万余騎は堺を包囲し、海上は四国・淡路の海賊衆100余艘が封鎖しました。大内義弘は森口城で戦っていた杉九郎と鴨山に配備した杉備中守を立退かせて、堺に兵力を集中させました。大内義弘の軍勢は5000余騎でした。12月26日、幕府軍が一斉に鬨の声を挙げて総攻撃を開始しました。大内軍はこれに応じて、矢倉から矢を射まくりました。管領・畠山基国の軍勢2000余騎が北側の一の木戸、二の木戸を打ち破り、三の木戸まで攻め寄せて700人余が死傷する激戦となりました。畠山軍に代って山名時熙の軍勢500余騎が攻め寄せると、城内から杉豊後入道ら500余騎が出撃して戦いました。大内義弘も200余騎を率いて出撃しました。伊勢国司・北畠顕泰の軍勢300余騎が山名軍に加勢、子息・満泰が討死する激戦となりました。細川軍、赤松軍の5000余騎は南側から、六角軍、京極軍は東側から攻め寄せました。戦いは夜まで続き、無数の死傷者が出ました。その頃、大内義弘に同心した土岐詮直が挙兵して尾張へ討ち入り、美濃国へ侵攻しました。美濃守護・土岐頼益は大内攻めの陣にいましたが、直ちに美濃へ引きかえして土岐詮直を打ち破りました。宮田時清も大内義弘に同心して丹波へ討ち入り、京へ侵入して火を放ち、300余騎で八幡の幕府軍本陣を目指して突入しました。宮田時清の軍勢は幕府軍の陣を次々に打ち破りましたが、力尽きて退却しました。京極秀満は近江で挙兵して、京への侵攻を図りました。三井寺の衆徒500人が勢多で橋を焼いてこれを待ち受けました。京極秀満はやむなく森山に陣を構えて対峙しました。大内攻めに加わっていた京極勢1000余騎が引き返して森山へ迫ると、京極秀満は土岐詮直と合流するため美濃へ向かいましたが、途中で土一揆の蜂起に遭って潰走しました。京極秀満は主従2騎で落ちて、行方知れずになりました。鎌倉公方・足利満兼は1万騎余を率いて武蔵府中・高安寺まで進みましたが、関東管領・上杉憲定に諌められて兵を止めました。堺では幕府軍の総攻撃を撃退した大内軍が意気を揚げていました。幕府軍は火攻めを計画して左義長(爆竹)を用意して道を整えた上で、1400年1月17日早朝に総攻撃を開始しました。幕府軍は強風に乗じて城中に火を放ち、矢倉を倒して激しく攻め寄せました。杉備中守は今日が最後の戦いになると覚悟し、山名満氏(氏清の子、宮田時清の弟)の陣に突撃して見事な討死を遂げました。これを見ていた大内義弘は「項羽の討死の故事」を引き、自分も後代に残るような最期を遂げようと決意しました。大内義弘は幕府軍の北側の陣へ斬り込み、大太刀を振るって奮戦しました。管領・畠山基国の嫡子・満家の軍勢200騎がこれに挑みましたが、大内義弘は僅か30騎で戦いました。その時、石見の住人200騎が幕府軍に内応しました。激怒した大内義弘が石見勢に攻めかかると、石見勢は逃げ散りました。大内義弘は畠山満家を討ち取ろうと戦い続け、幕府軍はこれを取り囲んで攻め立てました。大内義弘の手勢は次第に数を減らし、森民部丞のみになりました。森民部丞は大内義弘を守って敵陣に斬り込み、奮戦して討死しました。一人になった大内義弘は畠山満家を目掛けて戦い続けましたが、取り囲まれて遂に力尽きて「天下無双の名将・大内義弘である。討ち取って将軍の御目にかけよ。」と大音声を発して、討ち取られました。南側を固めていた杉豊後守は、大内義弘の死を知らされて敵陣に切り込んで討死しました。東側を固めていた大内弘茂は今川軍、一色軍を相手に戦っていましたが、手勢が討ち減らされて最早これまでと自害しようとしましたが、平井備前入道が押し止めて降伏を勧めたため、これに従いました。その他の大内勢も落ち延びるか自害して、堺は落城しました。鎌倉公方・足利満兼は武蔵府中から下野足利荘(栃木県足利市)まで進軍しましたが、大内義弘敗死の報を聞いて鎌倉へ引き返しました。鎌倉公方・足利満兼は伊豆三島神社に願文を奉献し、「小量をもって」幕府に二心を起こした事を謝罪しました。足利満兼を謀叛に誘った今川了俊は、幕府から討伐の命を受けたために上洛して謝罪し、助命されました。遠江・駿河守護職は取り上げられ、甥の今川泰範に与えられました。以後は政治活動をせず、和歌・連歌に没頭する事になります。足利義満は大内氏の分国、和泉・紀伊・石見・豊前を没収し、周防・長門のみを降参した大内弘茂に与えました。しかし、周防・長門の本拠を守っていた大内盛見は兄・義弘の遺志を継いで、これに従わずに抵抗しました。大内弘茂は幕府の援軍とともに大内盛見を攻めてこれを追いましたが、1401年に九州で大内盛見は再挙し、数度の合戦の後、大内弘茂は佐加利山城(現在の下関市長府)で滅ぼされました。大内盛見は更に安芸、石見まで勢力を伸ばしました。幕府はこれを認めざるを得なくなり、1405年に大内盛見に周防・長門の守護職を与え、更に豊前・筑前の守護まで加えて帰順させました。こうして、いったんは没落しかけた大内氏は再び勢力を盛り返します。

次に、民撰議院設立建白書を提出です。民撰議院設立建白書は、前参議・板垣退助、後藤象二郎らが、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した建白書です。自由民権運動の端緒となった文書です。1873年末、「明治六年政変」で、「征韓論」に敗れて下野した板垣退助ら前参議は、イギリスに留学して帰朝した古沢滋、小室信夫らの意見を聞き、政党の結成を思い立ちました。1874年1月12日、板垣退助らは「愛国公党」を結成し、反政府運動を始めました。「愛国公党」は、天賦人権論に立ち、専制政府を批判して、天皇と臣民一体(君民一体)の政体を作るべきと主張しました。そのため、士族や豪農・豪商ら平民に参政権を与え、議会を開設せよとも主張しました。「愛国公党」を結成して5日後の1874年1月17日、板垣退助(前参議)、後藤象二郎(前参議)、江藤新平(前参議)、副島種臣(前参議)、由利公正(前東京府知事)、岡本健三郎(前大蔵大丞)、および起草者の古沢滋、小室信夫の8名は、連名で「民撰議院設立建白書」を左院に提出しました。左院とは、当時の立法議政機関です。「民撰議院設立建白書」は、政治権力が天皇にも人民にもなく、ただ有司専制(有司=官僚)にある事を批判しました。そして、この窮地を救う道はただ「天下の公議」を張る事です。「天下の公議」を張るとは「民撰議院」を設立する事であるとしました。「民撰議院」によって有司の専権を抑え、国民は幸福を享受する事になると主張しました。「民撰議院設立建白書」の内容は、イギリス人ジョン・レディー・ブラックによる新聞「日新真事誌」に掲載されて広く国民に知られる事になりました。政府や明六社は時期尚早として反対しましたが以後、同様の建白書が続々と提出される事となります。「民撰議院設立建白書」は、天賦人権論に立脚しているものの、当時の困窮を極めた不平士族の不満が形を変えて噴出したものでした。しかし、国民各層にはその考え方が次第に浸透して行き、「自由民権運動」の気運が高まるきっかけとなりました。

最後に、兵庫県南部地震が発生、阪神・淡路大震災となるです。兵庫県南部地震は、1995年1月17日5時46分52秒に発生した地震です。「阪神・淡路大震災」を引き起こし、兵庫県南部を中心に大きな被害と当時、戦後最多となる死者を出しました。大都市直下を震源とする日本で初めての大地震で、気象庁震度階級に「震度7」が導入されてから初めて気象庁によって「震度7」が記録された地震です。気象庁は地震が発生したその日のうちに会見を行い、この地震を「兵庫県南部地震」と命名しました。しかし、気象庁による正式名称に先立って毎日新聞が「阪神大震災」と呼び始め、他の報道機関の中にもこれに追随する動きが出始めました。2月14日に政府は、今回の災害の規模が大きい事に加えて今後の復旧に統一的な名称が必要であるという観点から、淡路島地区の被害も大きかった事も考慮し、「関東大震災」に準えて災害名を「阪神・淡路大震災」と呼称する事が閣議で口頭了解されました。2月24日には、5年間の時限立法として「阪神・淡路大震災復興の基本方針及び組織に関する法律」が制定、即日施行されました。この時から広く「阪神・淡路大震災」と呼ばれるようになり、この名称が現在でも使用されています。被害は、死者:6434名、行方不明者:3名、負傷者:43792名、全壊104906棟、半壊144274棟、被害総額は約10兆円に達しました。日本災害史上、2011年3月11日の「東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)」が発生するまでは、戦後最大の死者数でした。道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などの「ライフライン」は寸断されて、広範囲において全く機能しなくなりました。これ以降、都市型災害および、地震対策を語る上で、「ライフライン」の早期の復旧、「活断層」などへの配慮、建築工法上の留意点、「仮設住宅」、「罹災認定」等の行政の対策などが注目されるようになりました。2015年で、20周年を向かえました。

今日の誕生日:ベンジャミン・フランクリン、大杉栄、アル・カポネ、村田英雄、杉山義法、モハメド・アリ、宮史郎(元ぴんからトリオ)、ミック・テイラー(元ローリング・ストーンズ)、坂本龍一(元YMO)、南井克巳、ポール・ヤング、横山秀夫、滝本太郎、山口百恵、日浦孝則(元class)、泰葉、ジム・キャリー、福島敦子、五十嵐公太(元JUDY AND MARY)、小島伸幸、森川ジョージ、横山秀夫、瀬名秀明、工藤夕貴、平井堅、りょう、ダンテ・カーヴァー、金子貴俊、川田亜子、上野雅恵、西谷岳文、前田有紀、長谷部優(元dream)、松村香織(SKE48)、吉田えり、則巻千兵衛

今日の記念日:防災とボランティアの日、おむすびの日、ひょうご安全の日、尾崎紅葉祭

今日の「今日訓」:本日は、1995年に発生した「阪神・淡路大震災」で、国や地方自治体の危機管理体制の不備をはじめとする様々な問題が浮き彫りにされた一方で、ボランティア活動が活発化し「ボランティア元年」と言われた事で「防災とボランティアの日」、「阪神大震災」で、ボランティアの炊き出しで被災者が励まされた事で「おむすびの日」、「阪神大震災」発生で「ひょうご安全の日」となりました。また、1月17日は尾崎紅葉の「金色夜叉」の中で、熱海の海岸で主人公の貫一が恋人のお宮と別れる日なので「尾崎紅葉祭」となりました。
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