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2016年09月10日00:55

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9月10日の日記

今日の出来事:1586年−岩屋城の戦い、1600年−関ヶ原の戦い:大聖寺城の戦い、1622年−元和の大殉教:長崎でカトリック教徒55名が処刑、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が山中温泉に到着、1868年−北越戊辰戦争:八丁沖渡河戦、1912年−日本初の映画会社・日本活動写真(現・日活)が設立、1943年−鳥取地震

今日は、岩屋城の戦いです。1584年、島津氏は「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信を敗死させました。大黒柱を失った龍造寺氏を軍門に降らせた事で、その勢いを急速に伸長しました。龍造寺氏からの離反や大友氏への対立などの様々な思惑から肥後の隈部親永・親泰父子、筑前の秋月種実、筑後の筑紫広門らが、島津氏に服属や和睦といった形で帰属しました。翌年に肥後の阿蘇惟光を降すと、島津氏の九州全土掌握を阻む勢力は大友氏のみになりました。島津氏の当主・島津義久は筑前への進撃を命じ、島津忠長・伊集院忠棟を大将とする総勢20000余人が出陣しました。筑前で島津氏に抗い続けたのは、岩屋城の高橋紹運と宝満山城主で紹運の次男・高橋統増(後の立花直次)、立花山城主で紹運の嫡男・立花宗茂といった大友氏の配下でした。岩屋城には高橋紹運以下、763名の城兵が籠っていました。高橋紹運は敢えて島津軍が最初に攻撃するであろう岩屋城に入城しました。高橋紹運がこのような行動を取ったのは、島津軍に迂回されて立花山城を衝かれないためでした。立花山城には高橋紹運の実子、立花宗茂がいました。また宝満城には、高橋紹運の妻や次男・高橋統増、岩屋城から避難した非戦闘員(女・子供)もいました。豊臣軍が来援するまで高橋紹運は自らを囮として、徹底抗戦をしました。1586年、島津軍は降伏勧告を出しましたが高橋紹運はこれに応じず、島津氏による岩屋城攻撃が開始されました。しかし、島津軍の大半は他国衆で、戦意に欠けていました。高橋紹運の采配により、島津軍は撃退され続け、おびただしい数の兵を消耗しました。城攻めで苦戦する島津軍は、高橋紹運の実子を差し出せば講和する旨を伝えましたが、これにも応じませんでした。籠城戦が始まって半月が経過した9月10日、島津軍は島津忠長が自ら指揮をし、総攻撃を仕掛けました。多数の死者を出しながらも城に攻め入り、ついに残るは高橋紹運の籠る詰の丸だけになりました。高橋紹運は高櫓に登って壮絶な割腹をし、果てました。高橋紹運以下763名全員が討死、または自害しました。こうして、高橋紹運以下の徹底抗戦は、最終的には全員玉砕で終結しました。しかし、島津軍も多数の将兵を失って態勢の立て直しに時間を要したため、立花宗茂が籠もる立花山城への攻撃が鈍化しました。立花山城攻略に時間を費やしている間に、豊臣軍20万が九州に上陸しました。島津軍は薩摩本国への撤退を余儀なくされました。高橋紹運の命を引き換えにした抵抗は、結果的に島津軍の九州制覇を阻止する事になりました。

次に、関ヶ原の戦い:大聖寺城の戦いです。前田利長は五大老の一人・前田利家の嫡男でしたが、利家の死後に家康の謀略により生母・芳春院(まつ)を人質として江戸に差し出していた経緯から、東軍に与しました。一方、西軍の大谷吉継は大大名である前田利長の動きを封じるため、越前や加賀南部の諸大名に対して勧誘工作を行ないました。大谷吉継の勧誘工作により、西軍は一戦も交える事なく、越前と加賀南部の諸大名を味方につける事に成功しました。これに対して、前田利長は加賀以南の諸大名が全て敵となった事に危機感を抱き、加賀南部や越前を制圧するため、2万5000人の大軍を率いて、西軍に与した丹羽長重が守る小松城を包囲攻撃しました。小松城の守備兵は丹羽長重以下、およそ3000名ほどでしたが、小松城は「北陸無双ノ城郭」とまで賞賛されるほどの堅城でした。このため、兵力で圧倒的優位にありながら、前田軍は城を落とす事ができませんでした。前田利長はこのため、小松城にわずかな押さえの兵を残して、西軍の山口宗永が守る大聖寺城に向かいました。そして包囲攻撃を開始しました。守る山口軍の兵力はおよそ2000人ほどに過ぎず、2万以上の前田軍の前に遂に敗れて、山口宗永・修弘親子は自害して果てました。

その次に、元和の大殉教です。長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑されました。徳川幕府は豊臣秀吉の禁教令を引き継いでキリスト教を禁止し、司祭や修道士、同宿(伝道士)を捕らえては牢に入れていました。死亡者のうち33名は大村領鈴田(大村市)、他の者は長崎(長崎市)の牢獄に数年間つながれていましたが、全員の処刑命令が出た事を受け、浦上を経由して西坂に連行され、そこで処刑される事になりました。処刑されたのは神父や修道士、老若男女の信徒でした。女性や幼い子供が多いのは、宣教師をかくまった信徒の一家全員を処刑したからです。その内訳は、火刑にされた者が25名でした。その中にはイエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の司祭9人と修道士数名が含まれていました。イエズス会員カルロ・スピノラ神父もそのうちの1人であり、彼は数学と科学に精通し、長崎で日本初の月食の科学的観察を行って緯度を測定した事で知られています。また、残る30人は斬首となりました。斬首された者の中には、日本人だけでなくスピノラをかくまった事で逮捕・処刑されていたポルトガル人のドミンゴス・ジョルジの夫人・イサベラと彼の忘れ形見である4歳のイグナシオもいました。なお、この処刑の様子を見ていた修道士で、かつてセミナリヨで西洋絵画を学んでいた者が様子をスケッチし、マカオで完成させた油絵がローマに送られました。これは「元和大殉教図」として知られ、イエズス会本部であったローマのジェズ教会に保管され、今に伝えられています。日本のキリシタン迫害の歴史の中で、最も多くの信徒が同時に処刑されました。この事件後、幕府による弾圧はさらに強化されていきます。また、オランダ商館員やイエズス会宣教師によって詳細が海外に伝えられたため、「26聖人の殉教」と並んで日本の歴史の中で最もよく知られた殉教事件の1つとなりました。
以下は、元和の大殉教の主な殉教者です。
火刑:カルロ・スピノラ(イエズス会司祭)、アントニオ(朝鮮人男性)、パウロ永石(日本人男性)、アントニオ三箇(日本人男性)、パウロ田中(日本人男性)、ルシア・デ・フレイタス(日本人女性、ポルトガル人と結婚、80歳)、ほか総勢25名
斬首:マリア村山(日本人女性)、イサベラ・ジョルジ(ポルトガル人女性)、イグナシオ・ジョルジ(イサベラの息子、4歳)、アポロニア(日本人女性)、イグナチア(日本人女性)、マリア棚浦(日本人女性)、マリア秋雲(日本人女性)、マリア(朝鮮人アントニオの夫人)、ペトロ(アントニオの息子、3歳)、カタリナ(日本人女性)、ドミニカ(日本人女性)、テクラ永石(パウロ永石夫人)、クララ山田(日本人女性)、ダミアノ多田(日本人男性)、ミカエル多田(ダミアノ多田の息子、5歳)、クレメント(日本人男性)、アントニオ(クレメントの息子、3歳)、ほか総勢30名

その次の次に、奥の細道:松尾芭蕉が山中温泉に到着です。芭蕉一行は、北陸の名湯で加賀温泉郷の一つ、山中温泉に来ました。これまでの長旅の疲れを癒すとともに、河合曾良の健康を心配した芭蕉の配慮でした。ここで芭蕉は、この句を詠みました。「山中や 菊はたをらぬ 湯の匂」(山中温泉の効能はすばらしい。湯の匂いは、菊を手折る必要もないほど立ちこめている。) しかし、病気になった曾良は、ここで芭蕉と別れる事になりました。曾良は、この句を詠みました。「ゆきゆきて たおれ伏す共 萩の原」(今師に別れて先立っていくが、病身なので歩きに歩いた末に行き倒れになっても、萩の花咲く野原で死にたいものだ。) そして一人になった芭蕉は、この句を詠みました。「今日よりや 書きつけ消さん 笠の露」(今日からは笠に書き付けてきた「同行二人」文字を笠に置く露で消そう)

そのまた次に、北越戊辰戦争:八丁沖渡河戦です。新政府軍は、長州藩の山県有朋と前原一誠、薩摩藩の黒田清隆と吉井友実で作戦を立案しました。海軍の艦隊によって列藩同盟軍の後方拠点・新潟近くに上陸して、一気に新潟を突く別働隊を編成し、その別働隊に連動して長岡から本隊が進撃するという作戦でした。一方、列藩同盟軍の河井継之助が決断した作戦は、深夜に八丁沖を突破して直接長岡城を攻めると言う奇襲でした。長岡の北東約8キロには底無し沼が在り、通行不能と言われた八丁沖と呼ばれる広大な湿地が広がっていました。この為、新政府軍と列藩同盟軍は平野部では八丁沖の東部と西部で戦闘を繰り広げていました。河井継之助は長岡藩兵を率いて誰もが通れないと思っていた八丁沖を突破して、長岡城を攻撃しようと言う賭けに出る事にしたのです。このように新政府軍と列藩同盟軍は、ほぼ同時期に攻撃計画を立案し、共に作戦決行の日に向けて準備を開始し始めたのでした。別働隊による海上機動作戦を決めた新政府軍に、それまで風見鶏をしていた新発田藩が新政府軍への恭順を打診してきました。これを受けた新政府軍は、この新発田藩の裏切りを許可して、新発田藩領の太夫浜に上陸させ、上陸後部隊を二つに分け、一方は列藩同盟軍の後方拠点である新潟を攻略して補給を断ち、もう一方は新発田藩の新発田城に向う作戦を立てました。山田顕義が率いる艦隊は柏崎港を出航し、新発田藩領の太夫浜を目指して出撃しました。河井継之助は全長岡藩兵に八丁沖を突破して長岡城を奪回する旨を発表し、長岡藩兵総軍17個小隊は長岡城奪回を目指して八丁沖に進軍を開始しました。八丁沖進軍時の長岡藩兵の編成は、まず鬼頭熊次郎ら八丁沖を知り抜いている10名が道案内として進み、続いて山本帯刀と川島億次郎が率いる第1陣の4個小隊(花輪彦左衛門隊・大川市左衛門隊・槙小太郎隊・千本木林吉隊)、第2陣の三間市之進が率いる4個小隊(稲垣林四朗隊・鬼頭六左衛門隊・篠原伊左衛門隊・小野田伊織隊)、第3陣の花輪求馬が率いる4個小隊(渡辺進隊・小島久馬右衛門隊・望月忠之丞隊・奥山七郎左衛門隊)、この後を河井継之助の本陣が進み、後衛の第4陣が牧野図書と稲垣主税が率いる5個小隊(今泉岡右衛門隊・稲葉又兵衛隊・内藤直記隊・河井平吉隊・横田大助隊)の計17個小隊、約600人でした。八丁沖に潜入した長岡藩兵は一列縦隊となり、一人一人の間隔を約1mに保って行軍しました。長岡藩兵は新政府軍に見つかる事無く、八丁沖南端の富島に全兵士が6時間かけて到着しました。長岡藩兵は長岡城奪回の攻撃を開始しました。新政府軍の竜岡藩兵1個小隊(隊長・大脇晋介)に奇襲をかけました。竜岡藩兵は、突然の奇襲で混乱し、敗走しました。そして、遂に長岡藩兵は長岡城下に突入する事になります。

そのまた次の次に、日本初の映画会社・日本活動写真が設立です。国家当局の要請を受けた京都横田商会の横田栄之助の尽力により、資本金1000万円をもとに横田商会、吉沢商店、福宝堂、エム・パテー商会の国産活動写真4商社が合併して「日本活動フィルム株式會社」として創立しました。この「日本活動フィルム株式會社」は、株式市場で「活フイ」と略称されたため、「これから発展しようという会社が“フイ”になってはいかん」と縁起を担ぐものがあり、元号を大正と変えた9月10日、社名を「日本活動冩眞株式會社」と改名しました。略称を「日活」としました。以後、時代劇の名門映画会社として、京都の撮影所で尾上松之助を看板スターとしました。現在は、調布市に日活撮影所を有し、撮影所内には日活芸術学院があります。ミニシアターのシネリーブル池袋、シネ・リーブル梅田、シネ・リーブル神戸(三宮)、シネ・リーブル博多駅を所有し、千葉県印西市にシネマコンプレックスのシネリーブル千葉ニュータウンを所有していましたが、東京テアトルとの業務提携により、運営を東京テアトルに委託しています。 また、スカパー!やケーブルテレビ局向けに「チャンネルNECO」、「レインボーチャンネル」を放送しています。かつては東宝・東映・松竹と並び称される映画会社でした。一時は映画館の他、ホテル・ゴルフ場・ボウリング場をもつ総合レジャー企業を志向していた時期もあり、設立当初から経営危機・和議申請・会社更生法申請・様々な企業に買収・転売されるなど苦難の歴史をたどり続けました。そして、経営の苦しい中で日活ロマンポルノの名称で映画製作業務を続け、助監督の採用を続けました。当時採用した助監督は、その後監督に昇進し、今日の日本映画を支えています。

最後に、鳥取地震です。鳥取地震は、1943年9月10日17時36分54秒に発生しました。震源地は鳥取県気高郡豊実村(現・鳥取市)野坂川中流域です。M7.2で震源が極めて浅く、鳥取市で震度6、遠く瀬戸内海沿岸の岡山市でも震度5を記録しました。1945年の敗戦前後にかけて4年連続で1000名を超える死者を出した4大地震(東南海地震、三河地震、南海地震)の一つです。激しい揺れにより、鳥取市の中心部は壊滅し、古い町並みは全て失われてしまいました。木造家屋のほぼ全てが倒壊し、全壊率は80%超え、854人もの死者を出しました。また、地震の影響による液状化現象も見られ、山陰本線や因美線といった鉄道も被害を受けたため、長期間にわたって鉄道が不通になりました。この他にも電話をはじめとする通信や道路も大きな被害を受け、梨などの農産物への被害も甚大でした。岩美郡岩美町荒金の荒金鉱山では、この地震により鉱泥を貯めていた堰堤が決壊して、直下にあった朝鮮人労働者の宿舎や荒金集落を襲い、朝鮮人労働者やその家族・地元住民ら65人が犠牲となりました。総被害は、死者1083人、家屋全壊7485戸、半壊6185戸、焼失251戸、被害総額は1億6000万円(当時)でした。なお、死者の中には歌舞伎役者の6代目・大谷友右衛門がいました。

今日の誕生日:山田康雄、内舘牧子、欧陽菲菲、ジョー・ペリー(エアロスミス)、清水クーコ、綾戸智恵、ランディ・ジョンソン、斉藤由貴、進藤晶子、ミルコ・クロコップ、山田暢久、松田翔太、上木彩矢、内博貴(元NEWS、元関ジャニ∞)、阿井莉沙(元dream)、谷村奈南、徳島えりか、野田恵(のだめ)

今日の記念日:世界自殺防止の日、下水道の日、知的障害者愛護デー、屋外広告の日、牛タンの日、℃-uteの日、ナイトライダーの日、弓道の日

今日の「今日訓」:本日は、2003年にスウェーデンのストックホルムで開催された「世界自殺防止会議」の会議初日9月10日を「第1回世界自殺防止の日」として制定しました。下水道の整備の促進について人々の理解と協力を呼びかけようと、1961年に「建設省」が制定した「下水道の日」、1964年に「精神薄弱者愛護デー」として制定された「知的障害者愛護デー」、1973年に「屋外広告法」が国会を通過した事を記念して「屋外広告の日」、「牛(9)タン(10)」の語呂合わせで「牛タンの日」、「キュー(9)ト(10)」の語呂合わせで「℃-uteの日」、「ナ(9)イ(1)ト(0)」の語呂合わせで「ナイトライダーの日」、「弓(9)道(10)」の語呂合わせで「弓道の日」となりました。
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