聖書を読むのは、詩編からが良いとされている。
神との向き合い方が分かる。
イエスは、律法預言者を廃するためでなく、完成するために来た。
と公言された。
律法は、罪を見せる。イエスは、律法の誠は隣人を愛せにあると言われた。
また、律法の言いたい事は、神を全身全霊で愛せ、隣人を愛せであると。
また、主は、私が求めるのは捧げものでなく、愛である。
ともある。イエスもこの言葉を教えた。
新約の手紙にも、律法より上の次元の生き方があると、教えている。
即ち、肉に生きるのでなく、霊に生きるのだと。
この辺が、聖書の要であると、今は考える。
では、旧約は要らないのか?と聞かれれば、いや、必要だ。と答える。
詩編のように、向き合い方や、神の性について、また生きる神として、
学べることが多い。ただ残念ながら、預言の味は得られない。
預言は、ヨハネまでだからである。次の預言は、イエスの言葉である。
また預言者たちが聞きたがった言葉、見たかった事は、いやしと、律法の要が愛である事である。
この事も書かれている。
律法は罪を見せる。それだけのものなのかと、迷う程である。
だから、律法の要が愛である、と言う言葉は、救いである。
実行は難しいが。
キリスト教は、神の国へ行く、教えだと思う。
またそのための高潔。そして、悪から離れる事であると。
もう一つ、イエスは、神に等しい者である。
出現前からそうだったようである。
それは、新約の弟子たちの手紙にある。
主と共に、世界を造られたと。
世界は造られる前から、予定があった、ともある。
この辺は大変難しい。
あるとしたら、イエスの預言にある事である。
終わりの日か。
ただ、死ねば裁かれるのである。
また裁かれるのではないと思う。
しかし、善と悪ははっきり別けられるのであろう。
どんな形かは、知れない。これが隠されたものかも知れない。
次の啓典のイスラム教も、終わりの日がある。
どうもあるのではないかと思う。
だから、善に努めなければならないだろう。
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