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2021年09月14日19:20

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聖書を読んで2

聖書を読むのは、詩編からが良いとされている。
神との向き合い方が分かる。
イエスは、律法預言者を廃するためでなく、完成するために来た。
と公言された。
律法は、罪を見せる。イエスは、律法の誠は隣人を愛せにあると言われた。
また、律法の言いたい事は、神を全身全霊で愛せ、隣人を愛せであると。
また、主は、私が求めるのは捧げものでなく、愛である。
ともある。イエスもこの言葉を教えた。
新約の手紙にも、律法より上の次元の生き方があると、教えている。
即ち、肉に生きるのでなく、霊に生きるのだと。
この辺が、聖書の要であると、今は考える。
では、旧約は要らないのか?と聞かれれば、いや、必要だ。と答える。
詩編のように、向き合い方や、神の性について、また生きる神として、
学べることが多い。ただ残念ながら、預言の味は得られない。
預言は、ヨハネまでだからである。次の預言は、イエスの言葉である。
また預言者たちが聞きたがった言葉、見たかった事は、いやしと、律法の要が愛である事である。
この事も書かれている。
律法は罪を見せる。それだけのものなのかと、迷う程である。
だから、律法の要が愛である、と言う言葉は、救いである。
実行は難しいが。
キリスト教は、神の国へ行く、教えだと思う。
またそのための高潔。そして、悪から離れる事であると。
もう一つ、イエスは、神に等しい者である。
出現前からそうだったようである。
それは、新約の弟子たちの手紙にある。
主と共に、世界を造られたと。
世界は造られる前から、予定があった、ともある。
この辺は大変難しい。
あるとしたら、イエスの預言にある事である。
終わりの日か。
ただ、死ねば裁かれるのである。
また裁かれるのではないと思う。
しかし、善と悪ははっきり別けられるのであろう。
どんな形かは、知れない。これが隠されたものかも知れない。
次の啓典のイスラム教も、終わりの日がある。
どうもあるのではないかと思う。
だから、善に努めなければならないだろう。
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