疫病や災害などで、
一度くらい拝んだところで、届きはしない。
この辺を、なぜか自信を持つ場合がある。
しかし、かなわない。
一般的な祈祷は、千遍真言を唱える。それが、三日乃至四日かけるのが、普通で変あり、
それで験があるかどうかである。
しかも、この道の人は多いが、全くオリジナルな祈祷の仕方をしたりする。
よほど怪しい。
普通の祈祷でも験はあるかわからない。
それも、毎日勤め行うような人なら、あるかもしれないくらいだ。
そもそも、疫病や災害は意味や予定があって、という場合もあって、
神の決めたことなら、そうやすやすとは変えられない。
冥界の者が、量って、行われる。
毎日積み重ねるような人は、名簿にあって、避けられる。
そう考えるが、まさかの事もあろうし、名簿が見れない以上、
これ以上は言えない。
しかし、善を積む者は量られるのである。
そこで、罪を滅する、あるいは、解く真言などもあるが、
そうなると、一万遍も唱えなければならなかったりしよう。
それで助かるなら、勤める者もあるだろうが、
普通はできない。
確かなことは、山の偉い人が集まって行う祈祷よりも、
毎日精進する者の祈祷の方が、験があるだろうと、いうこと。
私も、瞑想をする者として、拝みもするが、
便利な験はない。台風を消したり、疫病を終息させたり、できない。
ひょっとしたら守られてるかもしれない、というぐらいである。
それでも、安心のためには、拝みもする。
自分だけでなく、自分の近辺が無事であるように、祈るわけだ。
この辺のことを、一度、よく考えるべきであろう。
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