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2020年01月29日12:19

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忌憚なく

忌憚なく言う。
悩みやつまずき、そんなこんなで、歩みを止める。
そういうものに、こうすればいいんだ、と、示したかった。
それには、自分も、していなければならない。
その要は、浄心にある。清心でもいい。
その先には、自ずから真理に向かうような。
大法に共に。と。
いろいろな人がいる。その中で、測って、要点を整理する。
そうすれば、どこかで、ヒントを示せると思うからだ。
そこには、寛容と、希望と、勇気の物差しで、整理をする。
善には、寛容と希望と勇気が必要だ。
仏界は知見である。私の教えが、総てそのまま仏界の教えにはならない。
そこは本人の意思が必要だ。
私は、善と浄心清心のみである。
その先は、本人の意思である。
もちろん仏界に入れば一番いい。しかし、そうでなく、例えば遠回りしようと、抜け道を使おうと、本人の意思なのだ。
これ自体、寛容と希望と勇気の物差しだ。
仏教と相性が良いのは、否めない。
そういうものを持って産まれてきた。
そのために見識を整理している。
それぞれ、人は何かを持って産まれてくるのだろう。
私は、仏教と相性の良い、見識の整理だった。
仏教で得るべきは、知見だ。
これは心を起こし、実践することで固まる。
それは、話を聞く事からでもある。
故に、声聞、縁覚、菩薩の別がある。
仏説を受け入れる声聞、心を起こした縁覚、実践する菩薩である。
これは知見を育てる道なのだ。
故に仏陀を胎蔵の主と言う。
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