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2019年12月13日07:24

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小言幸兵衛


 某TV局の演芸番組で看た、当代小さんの「井戸の茶碗」。
 まあ、ニンには合ってそうだし、当代さんにはあまり期待してないけど手堅い芸風みたいだから、気楽に聴き(観)通せるだろうと思ったんだけど。
 だめでした。 細かいところでの、敬語(待遇表現)その他の踏み外しが気になって、すっと聴き通せなかった。

・ 細川家の若侍が屑屋から買おうとしている仏像を評して、「なかなかいいお顔をしておるな」。
・ その若侍が、後日、その仏像からお金が出てきたことを屑屋に語るときの、「(仏像の)中から油紙で包んだものが・・・、なんだろうと思って封を切ってみるってえと、なかから小判」
・ 同じ若侍が、武士の矜持(プライド)を保っている浪人の娘を妻にと屑屋に進められて、「それでは、(浪人の)娘ごをお内儀として迎えるかな」

 重箱の隅といわれるかもしれないけど、こうゆうのが私はダメ。 噺の世界に浸れなくなる。
 一番目の「しておるな」。 これから自分が部屋に置いて朝晩拝もうという仏さまなのだから、「しておられる」「していらっしゃる」等々、少なくとも敬語を使うべきところ。
 二番目の「封を切ってみるってえと」の「てえと」。 これは、武士のではなく職人のことば(少なくとも古典落語の世界の決めごとでは)。
 三番目の「娘ごをお内儀として」。 先方の浪人への敬意から「娘ご」というのはいいんだけど、妻は自分サイドのものだから、「お」をつけてはいけない。 「内儀」でいい。

 これ、単なることばの問題じゃなくて、落語の舞台になっている髷物の時代の、身分や社会関係、神仏観がどれだけわかっているかということなのね。
 文楽・志ん生・圓生らが育った時代は、下半身はまだ江戸だったから、「わかる」云々をいう必要はなかった。 ふつうに身についてたから。
 現代っ子(当代小さんだってそう)の落語家が古典をやるときは、そういうことを意識的に身につけないといけない。 実生活では、オーソドックスな敬語(社会関係の文法)の使用さえ、おぼつかない人も多いわけだからさ。

 この「井戸の茶碗」、思うに、いまでは最後のハッピーエンドの扱い自体が、難しくなっている。
 細川家の若侍と浪人の「娘ご」が見合いさえせず(=会ったことなく)、そして「娘ご」の意志とは無関係に、若侍への輿入れが決まってしまうのだから。
 ましてや、浪人がやせ我慢で保つ「武士の矜持」と若侍の実直さのぶつかりあいという噺の眼目にいたっては、演者にもお客にも荷が重すぎるだろう。
 だから、これを看板芸にした圓菊師匠のように、誇張しマンガ化してやるしかないだろうと、つねづね愚考しておるわけです。

P.S.
 下の動画は、私が観たのとは別ヴァージョン。 まだ観てないので、上と同じように演っているかどうかは未確認です。

 【 6代目 柳家 小さん】「井戸の茶碗」:
 https://www.youtube.com/watch?v=cGmRDv1NQsA&fbclid=IwAR0KfdocXpaULf_Ng7A5qcI7tfHWoWkX2H2QnnNQF1gFa2BWnJ8YGcNTcIc
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