小学生の頃、『死』をおそろしく恐怖していた頃がある。
それより前に、親戚筋の曾祖父母との別れを経験しているので、直接的な理由ではない。
おそらくながら、時期的にレギュラー放送時代の『世にも奇妙な物語』もしくは類似作品だった『if もしも』で「意識があるまま火葬される」シーンがあったのを鮮明に覚えており、そこに日本の伝統的な埋葬に恐怖を感じていたのかもしれない。
同じころに授業の一環で人生年表(未来年表?)を書くことがあり、その中で早世を望む子がいたのも思い出す。もちろん、今も健在だ。確か。
戦争ドラマで描かれる地獄絵図も
アニメーション・実写映画で描かれるきつすぎる表現を極力避けてきた
それくらい『死』というものを恐れていたように思う。
いつからなのだろう…恐れがなくなったのは
むしろ"結果的に『死』となる"ことを、自分の病気を意識しだしてからは常に隣り合わせになったように思う。
ふとした
本当にふとしたつっかかりで
ピタゴラ的装置のように連鎖していき
結果『死』という結果になる
それを意識することが増えた。
一昨年、学生時代以上の底まで落ちた時も、意識しないわけがなかった。
しかし、そのときやってきたのは母方の祖父との今生の別れだった。
自分もボロボロなココロだったものの、なんとか気丈にふるまっていた。
その告別式の最中、火葬場へ向かう最後に顔を合わせたとき、嗚咽まではいかなくとも、何ともいえない悲しみが襲ってきた。
人の『死』を間近で迎えた時、やはり辛いものなのだと思ったのだった。
そんな祖父の二回忌が間もなくである。
あの頃の気丈さもなく、むしろあの頃のように底を近く感じている。
先日の帰省時、何気なく先祖代々の墓にお参りしたかった。できなかったけど。
やっぱりしておくべきだったと思う。こんな恥晒し者ですみませんと…
来週帰るので、その時は必ず行こう。
かならず。きっと…
そう
きっと…
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