「海が好き!2019」
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=75431462参加作品。
アイザックとカノンの話です。アイザックが「なぜシードラゴンの正体を知っていたか」は、私なりに考えていたので、この機会に作品化しました。
ニヒルなカノンを書いたのはずいぶん久しぶり…。
去年の参加作はこちら。『あなたとダンスを』
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9870505『感謝の形』
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『クラーケンの覚醒』
アイザックは冷たい海の中を漂っていた。海面を覆う氷は上空から日の光を受けて、残酷なほどに美しく青く輝いていた。氷点下の海水は最初はアイザックの皮膚を鋭く針で突き刺すような痛みに似た冷たさを与えたが、今は何も感じなかった。痛覚の麻痺は、アイザックに己の死が近いことを実感させた。水はあまり飲まなかった。呼吸がほとんど止まっていたからだ。意識が遠のく寸前、彼は
『氷河が助かって、良かった』
と、弟弟子のことを思った。
その時、氷から差し込む陽光が遮られた。大きな黒い影が頭上を覆う。
『あれは…』
北氷洋に住む怪物クラーケンの伝説を思い出すと当時に、アイザックの意識は途切れた。
カノンは寝台に横たわる少年の顔を、すぐ近くで眺めていた。
「カミュ…、氷河…」
少年は、時おりうわ言をそう呟いた。潰れた左目はすでに手当され、左顔面を包帯で覆われている。低体温症に陥っていた少年を、カノンは裸になって同衾し、小宇宙を燃やして自分の体温で温めていた。だが少年の意識が戻る気配はなかった。
「シードラゴン様」
金髪の美しい少女が部屋に入ってきた。マーメイドの海闘士、テティスだ。
「クラーケン様はまだ意識が戻りませんか?」
「ああ。このままだと危ないかもな」
「そんな…。きっとポセイドン様のご加護があります」
悲しそうな顔になったテティスは、布団の中の湯たんぽを新しいものと交換し、ぬるめのお湯を少年に吸い飲みで飲ませた。
その時。
「う…」
少年が、右目を開いた。
「ほう…」
「まあ!」
カノンは息をつき、テティスは安堵と喜びで笑顔になった。
「…ここは…」
幾分かもうろうとした意識のまま、少年は周りを見回した。
「まだ起きるな。もう少し休んでいろ」
少年にそう言うと、カノン自身は寝台から起き上がって、テティスから受け取った上衣に袖を通した。
「あなたは…」
何で裸…?と相手の姿を疑問に思ったが、次には自分も裸なことに気付く。え?え?え?と予期せぬ状況に、アイザックは軽くパニックになった。
「気が付いて良かったです。シードラゴン様が、ずっとあなたを温めてくれてたんですよ」
金髪の少女は笑顔でそう言い、アイザックの顔を温かいタオルで拭いた。
「ここは…いったい?あなた方は…?」
「ここは海界。海皇ポセイドン様の支配される世界です」
「え?」
アテナの仇敵たる海神の名に、アイザックが驚く。
「私はマーメイドのテティス。あの方は海将軍筆頭のシードラゴン様。私たちはポセイドン様にお仕えする海闘士です」
「お前の名前は?」
シードラゴンと呼ばれた青年が服を着て少年の名を尋ねる。
「…アイザック」
「アイザックか。お前は、クラーケンの海将軍に選ばれたのだ」
「え?」
予想もせぬ言葉に、アイザックが呆然とする。地上を守るためアテナの聖闘士を目指していた自分が、よりにもよって、アテナと敵対するポセイドンの戦士に!?
「詳しい説明は後でしてやる。今はまず体を回復させろ」
シードラゴンはそう言って部屋を出て行ってしまった。彼の顔立ちに、アイザックは既視感を覚えた。
『あのシードラゴンという男…。前に、どこかで、見た…?』
だがどこで見たのか思い出せず、アイザックは記憶を探って悶々と悩んだ。
テティスと名乗った少女は、アイザックの傍らで彼の世話を続けた。
「左目の傷は痛くありませんか、クラーケン様?」
「左目…」
アイザックが包帯で覆われた自分の左顔面に手を当てる。そうだ、海の中で左目に氷に突き刺さって…。
「残念ですが、左目は完全に駄目だとお医者様に言われました。義眼を入れようと思ったら出来るそうですけれど…」
「おれの…目…」
左目を失明したという事実をさすがにすぐには飲み下せず、アイザックは戸惑うと同時に、不安と悲嘆に襲われた。
「何か食べる物を持って来ますね。待ってて下さい」
そう言ってテティスが部屋を去った後、アイザックは声を忍ばせて泣いた。
アイザックが動けるようになると、カノンは彼を連れて海底神殿にと案内した。
それまで過ごしていた建物の外に出た時、アイザックは頭上に空ではなく海が広がっていることに驚き、確かにここが海の底の世界なのだと実感した。
アイザックがそれまでいた世界は、人々が生活するための空間だと言われた。多くの人々が雑多に暮らし、住居も、快適な生活を送るための施設も整えられている。
それからカノンは水と水をつなぐ異空間である水脈を通して、アイザックを神域だという海底神殿に連れて行った。巨大なポセイドン神殿と、天の海を支える高い柱がそびえる世界は、それまでいた世界と違って人の気配がなく、静謐で荘厳な空間だった。神殿に足を踏み入れたアイザックは、それまで感じたことのない雄大で清冽な小宇宙を感じた。
『これが、海皇ポセイドンの小宇宙…』
言い知れぬ感動に包まれたアイザックに、カノンが語りかける。
「ここにお前が倒れていたんだ」
カノンは台座に置かれたクラーケンの鱗衣の前を指差して、そう言った。
中央に置かれたポセイドンの鱗衣を取り囲むように、七つの海将軍の鱗衣が鎮座している。
「あの日、北氷洋の怪物クラーケンの声が、おれの頭に響いた。『我が化身を助けてくれ』とな。そして海底神殿に呼ばれて来てみれば、お前が倒れていたというわけだ」
「あの時…」
溺れた時の光景をアイザックが思い出す。
「おれは海の中で大きな影を見た…。あれが本物のクラーケン?クラーケンが、おれを助けたと…?」
「さあな。あるいはおれが聞いたのはクラーケンの鱗衣の声だったかもしれん。いずれにせよ、クラーケンの鱗衣はお前を主に選んだ。お前は、正真正銘、クラーケンの海将軍だ」
「おれは…アテナの聖闘士だ!」
アイザックはそう叫んだ。
カノンは何かを考えていた。
「…カミュ…」
カノンが呟いた名前に、アイザックがどきりとする。
「気を失っている間、お前はずっとその名を呼んでいた。確か、シベリアにいる水瓶座の黄金聖闘士がその名前だったな。お前はその弟子か」
「…どうして、それを…」
「聖域の情報くらい、集めている。あそこにあったのは、白鳥座の聖衣だったか。お前はそれを目指していた候補生か」
「そうだ…」
カノンの冷たく鋭い視線に隠し通せるとも思えず、アイザックが肯定する。
「残念だが、あきらめろ。お前の運命は、ポセイドン様のもとにある。どのみち白鳥座の聖闘士にはなれん」
「馬鹿な!」
アイザックが叫ぶ。
「おれは今まで必死に白鳥座の聖衣を目指してきた!それを今さら…!」
「青銅聖衣など、さして価値があるとも思えんが。ポセイドン様の海将軍の方が上とは思わんか?」
「おれは…地上を守るアテナの聖闘士だ!地上を滅ぼす邪悪なポセイドンになど、組みせるものか!」
「まあ…」
と、カノンが皮肉な笑みを浮かべて言う。
「急には転向しろと言っても無理だろう。ポセイドン様が目覚めるまでには、まだ時間がある。それまで、海界で過ごしながらゆっくり考えるがいい」
そしてカノンはアイザックを海底神殿に一人にすると、去ってしまった。
「馬鹿な…、おれがクラーケンの海将軍…?」
アイザックは呆然と台座に鎮座したクラーケンの鱗衣を見上げた。
初めて見るはずのその鱗衣に、アイザックはひどく心惹かれた。
『なぜ…こんなに…気になる…?』
どうしてもクラーケンの鱗衣の前を立ち去りがたく、アイザックはその場に立ちすくんでいた。
アイザックは海界に滞在し続けた。
自分でも半信半疑だったが、クラーケンの海将軍に選ばれたという以上、シベリアに戻るという決断も出来かねず、去就をどうすべきか迷っていたからだ。カノンも、アイザックを積極的に地上に返そうとはしなかった。海底神殿で見たクラーケンの鱗衣に、異常なほど心惹かれている自分がいることにも、アイザックは気付いていた。だが「クラーケンの海将軍になる」とも、決断できなかった。
そしてそんな中途半端な状態で海界で暮らすようになったアイザックだが、毎日の日課として行っていた鍛錬は、当然のように続けた。すると、カノンが鍛錬の相手をしてくれるようになった。
「敵から目をそらすな!」
組み手をしながら、カノンが言う。
「今のお前は左側が死角になっている。そのことに気をつけろ!」
「…くっ!」
「反応が遅い!」
アイザックはカノンに腕を取られて投げ飛ばされた。
「…ぐっ!」
背中が地面に叩きつけられ、アイザックの息が止まる。
「まだ左側に回られると反応が遅れるな。早く克服しろ」
「……」
息を整えながらアイザックが立ち上がる。
「シードラゴン、もう一本!」
「今日はここまでだ。おれも仕事がある。また明日、相手をしてやる」
カノンはそう言って訓練場を後にした。
アイザックも鍛錬を後わりにして柔軟運動をしていると、同じく訓練をしていたバイアンとイオが声をかけてきた。アイザックより年長の二人は、やはり海将軍で、両太平洋の守護者だという。
海界に来たアイザックは海将軍の候補者として他の海将軍たちと知り合う機会を得たが、アイザックが会った彼らは、地上にいたころに想像していたポセイドンの手下たちと違い、残虐な殺人鬼でもなければ、狡猾な悪魔でもなかった。むしろ誠実で、真摯で、正義感が強く、アイザックはその人柄に意外さと同時に敬意すら覚えた。
「お疲れさま。シードラゴンは厳しくて大変だろう?」
「…ああ」
「でもいいなぁ、あの人に直接教えてもらえるなんて」
「?」
イオの言葉にアイザックが首をかしげる。
「忙しい人だから、私たちでもめったに相手はしてもらえないんだよ。君くらいだよ?あの人に毎日、訓練の相手をしてもらっている奴なんて」
「そう…なのか?」
「それだけ君を見込んでいるということだろう。正直、羨ましいよ」
「……」
アイザックは反応に困った。あの他人を寄せ付けない雰囲気のある男が、自分には親身になっている?どうもぴんと来なかった。
「あ、次は数学の授業の時間だ。アイザックも来るだろう?」
「げ〜、私、数学は苦手なんだよな〜」
バイアンがアイザックを誘い、イオがげんなりとした顔になる。アイザックも
「ああ」
と、うなずき、二人と共に講義室に赴いた。
「勉強はきちんとしておけ」
というカノンの言葉に、結局はアイザックも従っていた。
カノンは定期的に地上の情報をアイザックにもたらした。
「地上では、『銀河戦争』という聖闘士同士の戦いを見世物にしたイベントが行われているらしい」
「……」
「お前の弟弟子の、氷河だったか。奴が白鳥座の聖衣を得たそうだ。そして、『銀河戦争』に参加しているのだと」
「馬鹿な…!」
その情報にアイザックは驚き、叫んだ。
「あいつが、そんなふざけた見世物になんか…!」
そもそも氷河は、海底に沈んだ母のために聖闘士を目指していたはず…。アイザックがそういぶかしんでいる間にも、新しい情報が次々に入ってきた。
「暗黒聖闘士が『銀河戦争』に乱入」
「聖域が私闘を繰り広げた青銅聖闘士たちを討伐しようとして失敗」
「城戸沙織がアテナを名乗り、青銅聖闘士たちと共に聖域に乗り込んだ」
そして
「十二宮で黄金聖闘士たちと乗り込んできた青銅聖闘士たちが交戦。水瓶座の黄金聖闘士カミュは、弟子の白鳥座の氷河に討たれた」
という情報も。
カノンの執務室で受けたその知らせに、アイザックは愕然とした。
「どうして…おれにこんな知らせを…?」
震える声でカノンに問う。
「興味があると思ったんだがな」
カノンはつまらなそうに報告書を机の上に投げ出した。
「これで分かったろう?お前が憧れた聖闘士の内実など、こんなものだ」
「……」
「聖域の教皇の正体は、十三年前に行方不明になった双子座の黄金聖闘士サガだったそうだ。教皇を謀殺し、自分が教皇になりすまし、聖域を乗っ取り、同朋の射手座に濡れ衣を着せ、アテナをも殺そうとしたと…。地上の平和と正義を守ると言いながら、最高位の黄金聖闘士すらこの体たらく。そんな地上に守る価値があると思うか?地上は汚れきっている、滅ぼすべしとのポセイドン様の大義の正しさが、これで分かっただろう?」
「…双子座の、サガ…」
その時、突然にアイザックは思い出した。シードラゴンの顔に見覚えがあった理由を。
かつてカミュが見せてくれた古い写真。まだ幼いカミュが誇らしそうな笑顔で、銀髪の美しい少年と並んで映っている。
『この方は、私が一番尊敬する黄金聖闘士だ』
カミュはそう言って写真をアイザックに見せてくれた。
『強さもさることながら、誰よりも心の清らな人だった。私も彼のような聖闘士を目指している。今は行方不明だが…いつかきっと帰ってきて、ハーデスとの戦いで我々を導いてくれる』
憧れを込めた声で、師はそう語った。その写真に映っていた顔は…。
「シードラゴン、あなたの顔を…おれは知ってる…」
アイザックの呟きに、カノンの顔が険しくなった。
「双子座のサガ…。カミュが持っていた写真に映っていた顔は、あなたの顔だった。あなたはいったい…?」
「…まさか、この顔を知る者がいるとは、思わなかったな」
カノンが頬に皮肉な笑みを浮かべる。
「あなたが…『双子座のサガ』?死んだはずでは…」
「違う」
カノンがアイザックに即答する。
「サガは、おれの双子の兄だ」
「兄…?双子の…?」
アイザックがカノンを指差す。
「では、あなたも…聖闘士だったのか?おれと同じ…」
だからおれに目をかけていたのか、と、アイザックは納得もした。
「違う」
だが再び、カノンはアイザックの言葉を否定した。
「おれは、いわばサガの影だった。サガが死んで、初めて世の中に出られる存在だった」
「……」
「その点では、おれはお前と同じだった。地上や聖域では必要とされない人間だ。ポセイドン様の世が来て、初めて光の下で生きられる。海底神殿でポセイドン様にかけられたアテナの封印を解いた時…初めて、おれは自分が自分として生きられる、自分だけの人生を始められたのだ」
「…おれは違う!」
「同じさ。言っただろう?お前は、どのみち白鳥座の聖闘士にはなれなかった。お前は、海将軍となる運命にあったのだから」
「……」
「聖域は、聖闘士になれるはずもない奴に、命がけの修行を強いていたわけだ。たかだか最下級の青銅聖衣で釣ってな。…ふん、残酷なことをさせるものだ」
「…おれは…」
「だがアイザック、考えろ。お前は本当にこの世に不要な存在か?価値のない人間なのか?」
「……」
「聖域にとっては、お前やおれは不要で無用な存在だった。だがそれは正しいのか?間違っているのは、聖域か?それともおれたちか?」
「考えろ、アイザック。そして決断しろ。ポセイドン様の覚醒は近いぞ。アテナ軍との戦いの始まりがな」
「……」
カノンは手を振り、アイザックに退室を促した。
カノンの執務室を出た後、アイザックは海底神殿に行き、クラーケンの鱗衣と向き合った。
『地上は守るに値するのか?』
『お前は価値のない人間か?』
『考えろ、そして決断しろ』
カノンの言葉が脳裏に響く。
「おれは…」
師カミュが「最も尊敬する聖闘士だ」と言っていた双子座のサガは、自分の野望に敗れて死んだ。そしてカミュも、彼を愛し尊敬していたはずの弟弟子の氷河に殺された。
「それが…その血塗られた世界が…そんな残酷な世界が、聖域の、地上の真実だというなら…」
アイザックは決断し、叫んだ。
「来い、クラーケン!」
クラーケンの鱗衣が輝き、主人の呼び声に答える。たちまちのうちに輝く鎧がアイザックの身を包んだ。この上なく心が高揚し、身に力がみなぎった。
『そんな地上など、このおれが粛清してやる!世界の過ちを正してやる!クラーケンの海将軍として!』
そしてアイザックは、自分の運命を選び取った。
カノンは受け取った聖域の報告書に火をつけ、そして暖炉の中に放り込んだ。燃えて灰と化していく報告書を暖炉の前で見つめる。
「野望に敗れた末に自害か…。お前らしい無様な最期だったな、サガ」
かつて決別した兄のことを思い出す。
「もうすぐだ。もうすぐ、地上と海はおれのものになる…」
カノンは燃え上がる報告書の炎を見ながら呟いた。
「サガよ、せいぜい、あの世から見ているがいい。このおれが世界を支配するところをな」
そして付け加えた。
「お前を死に追いやった聖域を、おれが滅ぼすところも…」
そうしてカノンは、兄への哀悼を報告書とともに焼き捨てた。
<FIN>
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