mixiユーザー(id:4629026)

2019年08月21日20:38

105 view

名前ぐらい、当事者に決めさしてくれ

 学校へは行かなかった。いや、正確にいうと学校へは行った。授業に出なかっただけである。50年も前のことである。
 いや、授業に出なかったというのも誤解がある。今、考えてみると、出られなかったのである。そんなの、誤魔化しじゃないか、うちらかて行きたくなかったのに、仕方なしに行っていたのにと大声で言われそうだが、行きたくなかったから行かなかったのではない。行かねばならないと思っているのに、体が動かないのである。そして、そのことは、世の「不登校」体験者の多くが、そう!と言ってくれることである。
 しかし、世の多くの人達は、そんなバカなことがあるものかと思う。行かねばならないと思っているのなら、無理してでも行けばいいのであって、行かないのは根性なしだと思う。世の人がそう思うのだから、「不登校」体験者の多くもそう思う。だから、行かないのは悪であり、自分は世界で一番悪い人だと思う。そんな存在がいてはいけないと思うから、家出したり、自傷行為に走ったり、場合によっては本当に自殺する。
 しかし、もし、行きたくないと思って、行かないのが「不登校」であるのなら、そのようなことをするだろうか?
 だから、「行かない」と「行けない」には「か」と「け」だけではない、大きな違いがある。「行かない」は自主行動だが、「行けない」は何か他に問題があるということである。
 察しのいい人は、「いじめ」だなと思う。しかし、2019年度に文部科学省が行った調査では、いじめが原因で不登校になったと思われる児童、生徒は、公立の中学校で1.3%、小学校で0.4%でしかない( http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2019/01/10/1412082-2902.pdf )。単にいじめを把握していないだけではないかと言われそうだが、私自身、それが原因で行かなくなったとは思っていない。
 では、何が原因かというと、「恐怖」である。学校が怖いのである。はい?と言われそうだが、教室に入っていくのが怖いのである。今、入っていったら、周りの生徒が私を見つめるであろう。その視線が怖いのである。しかも、先ほども申したように「自分は世界で一番悪い人だと」思っている。それを知られるのも怖いし、知られたら、知られたで、それも怖いのである。
 したがって、アメリカのジョンソンが1941年に学校恐怖症school phobiaと命名したのは、実に適切なことであったと思う。そして、イギリスのブロードウィンが1932年に使い出した怠学school refusalより、実際の生徒の訴えにあっていたから、それが主流になった。
 しかし、それは海外の話である。本邦においては、そのような考えはなく、児童、生徒が恐怖を訴えたとしても、一顧だにすることはなかった。したがって、私がそのような状況に陥った時、ついた名前は登校拒否であったのである。しかし、私自身は登校を拒否していたのではなく、行かなくてはと切実に思っていたのである。
 したがって、いつからかは存じていないが、不登校、つまり、登校していないという状態を表す言葉に変わったのは、多少とも、こちら側のことを理解した結果であろうと思っている。だから、不登校と呼ばれることを私自身はあまり悪く思わないのだが、それで傷つく人がいるというのは理解できる。
 もっとも、「学校に行かないという選択を、否定しない」と書かれると、本当に分かっているのかなと思うし、傷ついているのは当事者ではなく、その周囲ではないのかとも疑っている。
 ただ、そういう問題提起は悪くないと思うので、これはこれで歓迎したい。
 ところで、では、お前はどういう名前で呼ばれたいのかと聞かれると、私は私であって、他の何者でもないので、そういうレッテルはりは遠慮したいのだが、不登校でいいと思う。もしくは学校に「行けなかった」人でもいい。
 実は、学校恐怖症というのも悪くはないと思うが、症という言葉が引っかかる。あれは、病気でもなんでもないと思っているからだが、それはともかくとして、決めるのなら、外野ではなく、当事者に決めてほしいなとだけは強く思っている。
 

■「不登校」と呼ばないで アイドルら、代わりの呼称募る
(朝日新聞デジタル - 08月21日 13:16)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5756155
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する