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2020年01月26日11:26

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気儘徒然句鑑賞余録

 筒井祥文句集の鑑賞前半を月刊メランジュに送った。その際に、前文を付けた。以下にそれを記す。

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 現在、とあるSNSにて「気儘徒然句鑑賞」と題する短詩形定型詩の鑑賞文をおりに触れて書いている。
 先日、川柳作家筒井祥文の遺句集「座る祥文・立つ祥文」を送られて以来、取り上げる作品がそこに集中するようになった。句集は、セレクション柳人「筒井祥文集」に収められた既発表句を前半の「座る祥文」とし、それ以降の未発表句を後半の「立つ祥文」としている。セレクション柳人「筒井祥文集」が発刊された当時、なんとか彼の作品を論じようと、試みたことがあった。だが、できなかった。
 今回、遺句集の二三句を取り上げるつもりで、書き出したのだが、気がつくと通読するような勢いで、書き継いでいる。「座る祥文」を通り越して、現在「立つ祥文」の作品を眺める地点まで来ている。なんで、彼が生きている間にできなかったのかと自嘲してはいるが、やはりできなかっただろうなという気も一方ではする。
 処女作「吉原御免状」が直木賞候補となった作家隆慶一郎は還暦を過ぎてから小説を書き始めた。その理由を「かつて師事した小林秀雄が存命の間は、とても怖くて小説は書けないと思っていた」と、ウィキペディアは記す。
 筒井祥文と愚生は同い年であり、師弟関係はなく、怖いわけではない。だが、何を書いても親分肌の彼は笑い飛ばすだろう、その笑い顔を想像した途端、句と正面から向き合うのが難しくなった。この句はこう考えられるのではないか、そらそうでしょうワッハッハ。こうも言えるのではないか、そうでしょうなワッハッハ。そのうち、考えは堂々巡りを始める。本人が目にする前に愚生の脳内で文章は消滅した。
 奇妙な弔い合戦ではあるが、かなり書き溜まったところで、一端まとめておくことにした。前半の「座る祥文」に関する鑑賞文、定型の前置きを省いて以下に記す。
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