〜12月3日はランニング・ネックブリーカーの日〜篠山紀信、長州力、壇蜜
今日は、12月3日。
1,2、3の日だ!(1月23日もそうだが(^^:)
ちょうど50年前、1969年12月3日、
私はプロレス初観戦した。
千駄ヶ谷の旧・東京体育館、カードは
ドリーファンクJR対G・馬場のNWA世界選手権試合。
この話はひとまず、置いといて、
今回のテーマは「いち、に、さん」あるいは
「ワン・ツー・スリー」
これはプロレスのフォールカウント。
と言ったら、またプロレスの話に戻ってしまいそう。
「1,2、3」が歌詞に出て来る歌。

「そよ風と私」岡田奈々、
作詞:藤公之介/作曲:森田公一1977年4月
♪1・2の3で はずみをつけて♪
は良いにしても、アイドル歌手が
「セーノで」なんて言うなよ!
オッサンじゃあるまいし(^^:
改めてみると、奈々ちゃん、首が長いね。

英語で「ワン・ツー・スリー」と
掛け声を掛ける歌詞もあるね。

「黄色いサクランボ」
ゴールデン・・ハーフ(4人編成時代)、
作詞:星野哲郎、作曲:浜口庫之
原曲は1959年、スリー・キャッツ
♪つまんでごらんよ ワン
♪しゃぶってごらんよ ツー
♪甘くてしぶいよ スリー
♪ワン・ツー・スリー ウーン 黄色い サクランボ
西城秀樹の「Y.M.C.A」とか
フォーまで行っちゃうこともあるが
♪ワン ツー ワンツースリーフォー すばらしい Y.M.C.A. Y.M.C.A.♪

キャンディーズには「微笑み返し」に
♪ワンツースリー、あの三叉路で ワンツースリー、
軽く手を振り私達 お別れなんですよ♪
という歌詞があるが、この歌は、
過去の同グループのヒット曲のフレーズを
散りばめているんだよね。
「ワンツースリー」は、シングルでリリースされていないが、
TV番組「プロポーズ大作戦」のオープニングに使われた
「ラッキーチャンスを逃がさないで」(アルバム「春一番」)にあった。
作詞:竜真知子、作曲:宮本光雄

あと、おフランス語の「アン・ドゥ・トロワ」1977年9月
作詞:喜多條忠/作曲:吉田拓郎

「いち、に、さん、ダー!」
これを締めのセレモニーとして始まったのは、
1990年2月の新日本プロレス、東京ドーム大会。
メインに勝った猪木が「では、私が勝った時にやる、
気持ちの良い奴、いち、にー、さん、、で【ダー!】です」
と説明した時に勘違いして「ダー!」を飛ばした客がいた(^^:。
構わず、猪木は続けて、「では、御唱和下さい」
この御唱和と言う言葉に失笑が漏れた。

「1、2のアホ」は読んでいなかったが
「1,2の三四郎」は愛読していた。
「1,2の三四郎2」ってまた、数字が減っている。

アメリカ映画(1975年日本公開)の
「サブウェイ・パニック』の原題は(The Taking of Pelham One Two Three)
地下鉄ペラム123号を、TAKE OFは普通に「奪う」で良いんだろうな。
リメイク版(2009年)は、「サブウェイ123 激突」としている(右画像)。
地下鉄を乗っ取る(トレインジャック)話だが、
↓の現実の方がよほどヒドイ!

新幹線殺傷「2人までにして」
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=5888233
映画ではなく実際に起きた日本航空123便墜落事故1985年

1969年12月3日に行われたNWA世界選手権試
に話を戻すと、事前のカード発表では、
前日、2日にドリー対猪木の世界戦が行われ、
その勝者に馬場が挑戦すると言う。
もしかしたら、猪木対馬場の日本人同士による世界戦が
行われるかも知れなかった。
セミ前はダニーホッジ対吉村道明、これが好勝負。
セミは猪木&大木対Bオースチン&Hレイス。
この日、馬場は、ランニング・ネックブリーカードロップ
を初公開(一本先取)。(当時の表記はフライング・ネックブリーカードロップ)
いやあ、、初めて見る大技で驚いた!
1−1のまま60分時間切れ引き分け、ドリーの防衛、、
但し、正味60分やっていなかったと思う。
2、3分、早く時間切れになった。
それに対して怒った観客がモノを投げ入れ、プチ暴動になった。

一二三と書いて「ひふみ」という名前があるね。
柔道の阿部一二三とか
将棋の名人で、この2,3年テレビに出て来る
加藤のオジサンは苦手。
昔、浅田美代子の冠番組で「ひーふー美代ちゃん」とかあったなぁ。

12月3日生まれの有名人は
篠山紀信、長州力、イルカ、
イルカの方が長州より一つ年上(^^:。
最近、話題になった壇蜜、数年前に話題になった
川谷 絵音(ゲスの極み乙女←これで
分からない人には、ベッキーの不倫相手)
皆、個性が濃いね。
あと、ジャクソン・ファイブの『ABC』も、さびの部分が
"Oh, ABC, It's easy as 123. Ah, simple as do re mi. ABC, 123, Baby, you and me, girl."と。
123と言うとどうしても、1985年の、あの日航ジャンボ機墜落事故を思い出してしまいます。なぜなら、あの東京・大阪線は、123便と言ったから
キャンディーズの「アン・ドゥ・トロワ」は
引退宣言を出した後の曲でしたが、
彼女らのナンバーで一番好きな曲です。
というか、あの1977年秋頃の曲は
太田裕美の「9月雨」、岩崎宏美の「思秋期」
想い出深い曲が多いんですよ。
‘85年の日航機事故は、私も知人を
あの事故で失いました。
「プロポーズ大作戦」は、‘77年頃〜80年まで
よく見ていました(^^:。
オープニングのキャンディーズの歌「ラッキーチャンスを逃がさないで」
は、この番組のために作られたオリジナルかな?と思っていました。
歌詞が、番組の内容にピッタリですからね。
で、キャンディーズが解散(78年4月)以降も、
この曲はオープニングに使われていたんですね。
85年3月までだそうです。
私はその時まで、見ていませんでしたが。
今日は記念日で大騒ぎでした。
キャンディーズは印象に残ってます。
あと、郷ひろみのお嫁サンバも1,2サンバって歌ってますよね。
番組の晩期で高校生でしたか!?
私が見ていた‘77年頃〜80年は
大学時代で、同じ年代の学生が
フィーリングカップルに出ていましたよ。
それから81年以降は、就職して
時間的に見られないし、地方に赴任したので
放映もされていたか分かりません。
いつのまにか終了していました。
健太郎さんの家では
12月3日は、「小太郎くんの日」でしたか!?
そう!
郷ひろみのお嫁サンバもありましたね!
ただ失礼ながら
♪1、2、サンバ、2,2サンバ♪
のフレーズは笑ってしまいました。
また、郷ひろみは、この年26歳でしたが、
同年代の女友達がお嫁に行く年なんだな
と思いましたよ。
ピンクタイフーンですか!?
♪したいことが無くなるまで
遊んじゃおうか
ピンク・レディーもっとメチャクチャに〜
やっちゃいな!やりたくなったらやっちゃいな♪
いやあ、、連続オリコン一位から外れ、
この後、アメリカ進出に出るので、
もう開き直った歌詞ですね(^^:
>ピンク・レディーもっとメチャクチャに〜
のところで、二人が本当にメチャクチャになる
振りつけが好きでした。
一番上のアントニオ猪木のラインスタンプ使ってます(^_-)-☆
キャンディーズも〜スーちゃんが亡くなってしまい、何とも淋しい感じです。
馬場と猪木の人気、実力が
拮抗したのは
この1969年の暮あたりからです。
スーちゃんは、まだ若いのに
惜しいことをしましたね。
「サブウェイ・パニック」吹き替えで見て、ラストシーンが面白かった。その後2度ほど字幕で見ました。
スピニングトゥホールド、懐かしいです。
ただ、ふと思ったんですが、ドリー・ファンクって定番の二つ名がなかったような気がします。
黒い魔神とか鉄の爪とか地獄の料理人とか、特にヒールに秀逸なニックネームが多かった。
ドリー・ファンクのようなベビーフェイス系はそれらに比べるとやや見劣りしましたが、それでも鉄人とか人間発電所とかスターには必ず冠名前があった。
僕の記憶が薄くなってるだけで、ドリーファンクにもなにかそういうのがありましたっけ?
宇宙少年だった僕には忘れられない年です。
ちなみに打ち上げの数字は「・・・3,2,1」のカウントダウンですね。
無理矢理持ってきましたが
馬場対ドリーは、日本プロレス協会では、
この69年と翌70年に実現して両方とも引き分けですが、
この1年でドリーが急成長し、70年に対決は
馬場が危ないところでした。
その後、全日本プロレスで数回、対戦していますね。
トータルで、1勝1敗4引き分け。
馬場の1勝はリングアウト勝ち、ドリーはスピニングトーホールド。
>サブウェイ・パニック
私は公開時(75年春)、劇場で見ました。
最後はパニックモノと言っても、
ふっと笑いが出るようなシーンでしたね。
マッソーの表情が印象に残っています。
1969年頃からプロレスブームが始まりましたね。
それ以前からも、無論プロレスはありましたが、
馬場とディック・ザ・ブルーザーやフレッド・ブラッシーが
という怪物が闘うものではなく、
アントニオ猪木や、ミル・マスカラスのような
華麗でテクニックを重視したプロレスです。
ドリーもそういう流れで世界王者になったと思いますよ。
逆を言って、彼がそのまま来日しても、馬場への
挑戦者にはなりづらいでしょうね。
極め技のスピニングトーホールドも説得力がないし。
だから、決め技を人間風車に変えましたね。
彼のニックネームは「テキサスの若駒」と呼ばれたことも
ありましたが、定着はしませんでしたね。
1969年は時代の転換期で
色々なことがありましたね。
日本は、学生運動がまだ盛んで、
というか、最後の年だったかな?
アポロ月着陸は、大イベントでしたね。
その前からロケット発射に「スリー、ツー、ワン、ゼロ」
とカウントダウンすることを
子供ながらに知っていました。
猪木が1994年に引退を表明して、
その後、大会場で過去の名勝負をした選手と
対戦した「試合をカウントダウン」と称したんですが、
何年に引退するのか、引退までの試合数を明示せず、
ただ「カウントダウン第一戦」「第二戦」と銘打って
続けたんですよ(^^:
あれ、これから10年くらい続けて「カウントダウン第30戦」
くらいやるんじゃないか?と噂したモノです
まぁ4年で最終戦になりましたが。
よくわからない略称表記でDFジュニアと書かれていたのを見たことあります。
それは違うやろう、と思いました。
グレートテキサンとも呼ばれていましたね。
それもあまり日本では定着しなかったような
気がします。
表記もDFジュニア、あるいはジュニアでしたね。
初来日の時は、親父のドリーファンクも
帯同して、ドリーだとどっちか分かりませんからね。
弟のテキサス・ブランコ、テキサスの荒馬の方が脳裏に残るニックネームだと思います。
まあ、ドリー・ファンクJrはかのNWAの世界チャンプを長年保持した男、人気と実力を両面兼ね備えていた証し、それだけですげえのでニックネームなんてなくていいのだ
だったのかもしれないと思います。
一方、1・2の三四郎です。 123のこのテーマなら来るべくして来る、そして来たという感じです。
僕は最初はなんだ、このどうしようもないダジャレみたいなタイトルは、画もやけにダサい
と思ったんですが、すぐに惹きこまれました。 ラグビーから柔道の展開もすごかった。 しかもそこに「死ねるリスト」の岩清水をかますギャグセンスも出来てる。
で、さくら軍団のプロレス篇に至って、ますます惹きこまれました。
しかもあれは真正面からプロレスを真剣勝負として描いていた。 あれがマガジンに載った80年代には僕も60〜70年代前半的な梶原一騎的嘘八百は卒業していたはずなんですが。。
あの前座レスラーたちの激闘には説得力がありました。^^
「1・2の三四郎」は、少年マガジンの
「新人賞」受賞作として、読み切りで
掲載された時から読んでいました。
それが好評で連載になったんですが。
絵柄がストーリー系で、内容が笑わせる学園モノ
というのは、私がよく紹介する「ストップ!にいちゃん」
を彷彿とさせました。
主人公が無鉄砲で抜群な運動能力を持っていることも併せて。
それで「愛と誠」や「翔んだカップル」のパロディも入れて
楽しませてくれましたね。
>真正面からプロレスを真剣勝負として描いていた
いや、作者だって、ハッキリストーリーがあるという
確証は持っていなかったし、それを描いたら、
当時はエライことになりますよ。
まず、私が抗議します(^^:
解散をしらない時点で作詞・作曲された曲で
拓郎が後で、旅立つ女性の決意を歌った「アンドゥトロワ」の歌詞とが見事に一致して胸が熱くなったとか
拓郎のアルバムにも収録されてて、副題に〜ばいばいキャンディーズ〜って
https:/
「アン・ドゥ・トロワ」は
拓郎の作曲でしたね。
なんとなく彼の作る曲は独特な
メロディラインがありました。
解散宣言の後の曲で、キャンディーズも
むしろサッパリして、残された期間、
精一杯アイドルをやろう!という
気構えさえ感じました。
アン・ドゥ・トロワというと、
それ以前、バレーのレッスンの掛け声という
イメージがありましたよ。