〜高田文夫&春風亭 昇太のトークショーは面白かった! 〜
今回は、最近亡くなられた方について。
まず、堺屋太一氏、ボイスでも書いたが、
一度、1994年の6月、この人のトークショ―を聞きにいったことがある。
そのトークショーは、渋谷のPARCOで10日間、プロレスの催し物が
開催され、その一環として夜に、週刊プロレスのターザン山本(当時編集長)が、
10日連続で、ゲストを招いて開催したモノだった。
初日からアントニオ猪木を招聘している。
しかし、私はプロレスラーのトークショーは興味がない。
(そのことは2月16日のボイスに書いた)
ただ、ターザンには世話になっていたので、
一日くらい顔を出そうと思っていた。
堺屋氏の日(6月14日)は、「大物作家」としか事前発表されていなかった。
プロレスの試合でも、選手名を明かさず{X}として発表し、
観客の気を引くやり方がある。
プロレス好きな作家といえば、村松友視か、夢枕獏、
あるいは椎名 誠だと大半のファンは思っていただろう。
しかし、登場したのは堺屋太一で、会場には微妙な空気が流れた
。
ただ、私はなぜか知っていたんだよな。
だから、以前、購入した堺屋氏の本を持参して、
ショーの後、本の扉にサインをもらった。
だんだん、思い出してきたが、私は堺屋氏の前日の
「高田文夫」の日も行った。
その時、ターザンに「明日のゲストの作家って誰?」聞いたんだろう。
で「堺屋太一さんだよ」と教えてもらった。
教えてもらったなら行かないわけにも行かない。
でも、村松友視だったら、私は彼の著書は持っていないし
(このこともボイスに書いた)
その「高田文夫」の回、春風亭 昇太が特別出演して、
この二人だけで、物凄く面白かった。ということもあって、
翌日の堺屋さんの日も行ったわけだが、彼はプロレスファン
と言っても、女子プロレス、その中でもマイナー団体のJWP、
その中でもけっしてエース格ではない、ヒールの尾崎魔弓のファン
(左は堺屋氏とのツーショット)。
さらに女子プロレス黎明期、1955年両国国際スタジアムの
女子プロレスオールスター大会のことを話すが、
司会のターザン山本だって分からなかっただろう。
あと大蔵官僚時代の話とか、、話が滑る。滑る
。
そんなことだから、ひとしきり話が終わって、
質問コーナーになっても、誰も挙手しなかった。
困ったターザン、私を見つけて、「蟹座さん(その時は無論、本名)質問ない?」
と振りやがるの!
そして堺屋さんに「彼は会社員でありながら、
週刊プロレスにエッセイを載せている人です」
と紹介。堺屋さん「ほほう!それはユニークな人ですね」と。
仕方がないから、思いついたことを質問した。
次は、ペドロ・モラレス(プロレスラー)2月12日没、享年76。
私は中学に入った1969年からプロレスにハマったのだが、
秋田書店の「プロレス入門」とか
プロレス本を購入して、プロレスラーの名前を覚えた。
モラレスもそういうことで知ったのだが(中央画像)、
とにかく恰好良い!
得意技はドロップキック。経歴を見ると1965年、当時26歳だったが、
22,3歳の若さで、ロスの世界チャピオンになったという。
私は、猪木、ミル・マスカラス、坂口征二、こういう若くてハンサム、
均整の取れた肉体美と、華麗なテクニックを持ったプロレスラーに
ハマったのだ。
それまでのG・馬場とかブラッシーとかブルーザーとか
むさ苦しいオッサンには興味がない!
聞くところによると、明石家さんまも、モラレスのファンだったとか。
1970年頃「少年キング」に連載されていたG・馬場の
自伝的漫画{ジャイアント台風}では、
馬場にドロップキックを教えたナイスガイと描かれていた。
実際のモラレスは、66年に一度来日したが、70年末まで再来日していない。
それは、彼は馬場に比べれば軽量で、ベビーフェイス(善玉)だからだろうね。
馬場のプロレスは基本的に、悪い荒くれ外人を倒すというもの。
モラレスは、71年に元々のホームグランド、ニューヨークに戻り、
今度はそこの(WWWF)世界王者になった。その対I.コロフ戦は、
日本でも放映された。
しかし、大舞台ニューヨーク、マジソン・スクエア・ガーデンで
Bサンマルチノの後を継いで世界王者を貼るには
ちょっと軽量だし、風格がないと感じたけれどね。
身体は、その後太った。(^^:
後年は、猪木と好勝負を演じた。
最後は、板井れんたろう、漫画家、享年81
2017年の12月に亡くなっていたのだが、なぜか今年の
1月31日に公表された。
皆さんは、知っているとしたら、1967年〜68年少年サンデー連載の
「おらぁグズラ」(右画像)の雑誌の作画家としてかな?
その後の「ドカチン」の作画も手掛けたらしい。
この2作は、タツノコプロ制作アニメのコミカライズで、
板井氏のオリジナルではない。
私が最初に読んだ彼の作品は、1963年「月刊・少年」に
載っていた「ポテト大将」だ。
ほのぼのとした毒のないギャグ漫画。
原っぱで遊び、がき大将とケンカしたり、クラスのマドンナに
憧れる’60年代の小学生。
その頃は、小学生がひとりひとり携帯電話を持つなど、
SFの世界でも考えられなかった。
■学校へスマホ持ち込み禁止の指針、文科省が見直しへ
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5504312
板井氏は、1936年生まれで、赤塚 不二夫や藤子不二雄らと同年代。
しかし、1960年代で{少年雑誌から}消えた漫画家だ。
他にも、関谷ひさし、山根赤鬼、青鬼の兄弟がいるが、
70年代の過激な漫画から見ると、もう時代遅れになってしまったんだな。
その後、私の脳裏からも消えた板井氏だったが、
2013年、吾妻ひでおの青春記とも言える「地を這う魚」に登場する!
作中では、「いててどう太郎」という名前で馬の姿で描かれているが、
1968年、北海道の高校を卒業して上京した吾妻や、
彼の友人が、「いてて」こと板井れんたろう氏のアシスタントになる。
美少女を描かせたら右に出るモノはないと思う吾妻だが、その吾妻をして
「可愛い女の子を描けるいてて(板井)先生」と評していた。
板井氏は、吾妻に古着を上げたり、
弟子思いの良い漫画家に
描かれているが、かたや吾妻は、板井氏の机の引き出しから
小銭をパクるは、仕事はサボるは、
後年、「吾妻くんは常識がない」と酷評される
。
友人からもらった板井れんたろうの「ドタマジン太」の単行本、
1969年頃、「まんが王」連載。う〜ん、やはりギャグが薄い。
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