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2019年02月19日22:10

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Xは堺屋太一だった!〜追悼ペドロ・モラレス、板井れんたろう「おらぁグズラ」の作画

〜高田文夫&春風亭 昇太のトークショーは面白かった! 〜

今回は、最近亡くなられた方について。

まず、堺屋太一氏、ボイスでも書いたが、
一度、1994年の6月、この人のトークショ―を聞きにいったことがある。
そのトークショーは、渋谷のPARCOで10日間、プロレスの催し物が
開催され、その一環として夜に、週刊プロレスのターザン山本(当時編集長)が、
10日連続で、ゲストを招いて開催したモノだった。
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初日からアントニオ猪木を招聘している。

しかし、私はプロレスラーのトークショーは興味がない。
(そのことは2月16日のボイスに書いた)
ただ、ターザンには世話になっていたので、
一日くらい顔を出そうと思っていた。

堺屋氏の日(6月14日)は、「大物作家」としか事前発表されていなかった。
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プロレスの試合でも、選手名を明かさず{X}として発表し、
観客の気を引くやり方がある。

プロレス好きな作家といえば、村松友視か、夢枕獏、
あるいは椎名 誠だと大半のファンは思っていただろう。

しかし、登場したのは堺屋太一で、会場には微妙な空気が流れたあせあせ
ただ、私はなぜか知っていたんだよな。
だから、以前、購入した堺屋氏の本を持参して、
ショーの後、本の扉にサインをもらった。
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だんだん、思い出してきたが、私は堺屋氏の前日の
「高田文夫」の日も行った。
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その時、ターザンに「明日のゲストの作家って誰?」聞いたんだろう。
で「堺屋太一さんだよ」と教えてもらった。
教えてもらったなら行かないわけにも行かない。
でも、村松友視だったら、私は彼の著書は持っていないし
(このこともボイスに書いた)

その「高田文夫」の回、春風亭 昇太が特別出演して、
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この二人だけで、物凄く面白かった。ということもあって、
翌日の堺屋さんの日も行ったわけだが、彼はプロレスファン
と言っても、女子プロレス、その中でもマイナー団体のJWP、
その中でもけっしてエース格ではない、ヒールの尾崎魔弓のファン
(左は堺屋氏とのツーショット)。

さらに女子プロレス黎明期、1955年両国国際スタジアムの
女子プロレスオールスター大会のことを話すが、
司会のターザン山本だって分からなかっただろう。
あと大蔵官僚時代の話とか、、話が滑る。滑るがく〜(落胆した顔)

そんなことだから、ひとしきり話が終わって、
質問コーナーになっても、誰も挙手しなかった。
困ったターザン、私を見つけて、「蟹座さん(その時は無論、本名)質問ない?」
と振りやがるの!ふらふら

そして堺屋さんに「彼は会社員でありながら、
週刊プロレスにエッセイを載せている人です」
と紹介。堺屋さん「ほほう!それはユニークな人ですね」と。
仕方がないから、思いついたことを質問した。


手(パー)次は、ペドロ・モラレス(プロレスラー)2月12日没、享年76。
私は中学に入った1969年からプロレスにハマったのだが、
秋田書店の「プロレス入門」とか
プロレス本を購入して、プロレスラーの名前を覚えた。
モラレスもそういうことで知ったのだが(中央画像)、
とにかく恰好良い!
得意技はドロップキック。経歴を見ると1965年、当時26歳だったが、
22,3歳の若さで、ロスの世界チャピオンになったという。

私は、猪木、ミル・マスカラス、坂口征二、こういう若くてハンサム、
均整の取れた肉体美と、華麗なテクニックを持ったプロレスラーに
ハマったのだ。
それまでのG・馬場とかブラッシーとかブルーザーとか
むさ苦しいオッサンには興味がない!
聞くところによると、明石家さんまも、モラレスのファンだったとか。

1970年頃「少年キング」に連載されていたG・馬場の
自伝的漫画{ジャイアント台風}では、
馬場にドロップキックを教えたナイスガイと描かれていた。

実際のモラレスは、66年に一度来日したが、70年末まで再来日していない。
それは、彼は馬場に比べれば軽量で、ベビーフェイス(善玉)だからだろうね。
馬場のプロレスは基本的に、悪い荒くれ外人を倒すというもの。

モラレスは、71年に元々のホームグランド、ニューヨークに戻り、
今度はそこの(WWWF)世界王者になった。その対I.コロフ戦は、
日本でも放映された。

しかし、大舞台ニューヨーク、マジソン・スクエア・ガーデンで
Bサンマルチノの後を継いで世界王者を貼るには
ちょっと軽量だし、風格がないと感じたけれどね。
身体は、その後太った。(^^:
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後年は、猪木と好勝負を演じた。

手(パー)最後は、板井れんたろう、漫画家、享年81
2017年の12月に亡くなっていたのだが、なぜか今年の
1月31日に公表された。

皆さんは、知っているとしたら、1967年〜68年少年サンデー連載の
「おらぁグズラ」(右画像)の雑誌の作画家としてかな?
その後の「ドカチン」の作画も手掛けたらしい。
この2作は、タツノコプロ制作アニメのコミカライズで、
板井氏のオリジナルではない。

私が最初に読んだ彼の作品は、1963年「月刊・少年」に
載っていた「ポテト大将」だ。
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ほのぼのとした毒のないギャグ漫画。
原っぱで遊び、がき大将とケンカしたり、クラスのマドンナに
憧れる’60年代の小学生。

その頃は、小学生がひとりひとり携帯電話を持つなど、
SFの世界でも考えられなかった。
位置情報■学校へスマホ持ち込み禁止の指針、文科省が見直しへ
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5504312

板井氏は、1936年生まれで、赤塚 不二夫や藤子不二雄らと同年代。
しかし、1960年代で{少年雑誌から}消えた漫画家だ。
他にも、関谷ひさし、山根赤鬼、青鬼の兄弟がいるが、
70年代の過激な漫画から見ると、もう時代遅れになってしまったんだな。

その後、私の脳裏からも消えた板井氏だったが、
2013年、吾妻ひでおの青春記とも言える「地を這う魚」に登場する!
作中では、「いててどう太郎」という名前で馬の姿で描かれているが、
1968年、北海道の高校を卒業して上京した吾妻や、
彼の友人が、「いてて」こと板井れんたろう氏のアシスタントになる。
美少女を描かせたら右に出るモノはないと思う吾妻だが、その吾妻をして
「可愛い女の子を描けるいてて(板井)先生」と評していた。
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板井氏は、吾妻に古着を上げたり、
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弟子思いの良い漫画家に
描かれているが、かたや吾妻は、板井氏の机の引き出しから
小銭をパクるは、仕事はサボるは、
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後年、「吾妻くんは常識がない」と酷評されるあせあせ

友人からもらった板井れんたろうの「ドタマジン太」の単行本、
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1969年頃、「まんが王」連載。う〜ん、やはりギャグが薄い。





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